私に〝ワルイコト〟を教えたのは、初対面の知らない男性でした。「……はぁっ」池の鯉を見ながら憂鬱なため息をついてしまい、苦笑いする。今日は私のお見合いで、老舗ホテルに来ていた。「うん。まあ、わかってたし」私の独り言を知らず、鯉はのんきに泳いでいて羨ましくなった。私の父は石油取り引きを生業にしている、『アッシュ』という大企業を経営している。私はいわゆる、ご令嬢というヤツだ。そしてお見合いの相手は旧財閥『三ツ星』のご令息。大財閥だったが故に戦後に解体されてしまったが、それでも現当主は各企業だった『三ツ星造船』の社長をしている。御曹司もグループの海運業会社で社長をしているという話だ。といってもここまでは伝え聞いて知っている情報で、私自身は彼についてなにも知らない。その名前すら、だ。お見合いが決まり、釣書や写真を両親は見せようとしたが、すべて拒否した。だってそうでしょう?要するにこれは政略結婚で、お見合いをする以前にもう結婚は決まっているのだ。もし好みから激しく違う男性だったらお見合いなんて逃げ出したくなっちゃうかもしれないし、だったら相手の顔なんて知らないほうがいい。もっとも、気が重くて時間になるまで、外で空気を吸わせてもらっている状態だが。「おい。その池に飛び込んでも、死ねないと思うぞ」「……は?」唐突に男の声が聞こえ、そちらを見る。そこには上部が太いメタルハーフリム眼鏡の下で眉を寄せた、スーツ姿の若い男性が立っていた。「えっと……。さすがに、この池に飛び込もうなんて思いませんが」戸惑いながら彼に答える。しかし、そう心配されるほど自分が思い悩んだ顔をしていた自覚があった。「そうか。なら、いいが」彼の手がゆっくりと上がり、その行方を追う。それは私の頭を、軽くぽんぽんと叩いた。「あの……」「ああ、すまん」私の声で自分の行為に気づいたのか、彼は確かめるように軽くその手を見たあと、引っ込めた。「俺にはちょうど、君くらいの妹がいてな。それで、つい」「はぁ……」照れくさそうに彼は人差し指でぽりぽりと頬を掻いている。それはよき兄なんだろうなと想像させた。「それで。なにをそんなに、思い詰めてるんだ?俺でよかったら話を聞いてやるぞ」真っ直ぐに彼が私を見下ろす。レンズ
Last Updated : 2025-11-03 Read more