All Chapters of 私にワルイコトを教えたのは政略結婚の旦那様でした: Chapter 31 - Chapter 40

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第四章 ワルイコトをはじめます 6

食後、リビングのソファーに座り、私を膝の上にのせて炯さんはご機嫌だ。ちなみにスミさんとミドリさん、シェフも夕食の片付けが終わったら帰るので、この時間からはふたりきりだ。「履歴書。アドバイスもらえませんか?」「いいよ」緊張しながらプリントアウトしておいた履歴書を彼に見せる。じっと、彼が目を通し終わるのを待った。「俺ならこの履歴書見て、凛音を採用しないな」「……そう、ですか」こんな中身のない履歴書、ダメだって自分でわかっていても、落ち込んだ。「資格が真っ白だが、まったく持ってないのか?」炯さんの長い指が、空欄をとん、と突く。「司書資格くらいで誇れるものは……」「枯れ木も山の賑わいで持ってる資格は全部書いとけ。なにもないよりマシだ」そんなものなんだろうか。でも、相手は採用する側の人間なんだし、間違いはないだろう。「あと、自己PRが〝なんでも頑張ります〟とかダメ。凛音のできることで埋める」「私のできること……?」「そう。採用担当に雇いたいと思わせる」真剣に悩んだが、私のできることなんてなにも思いつかなかった。世間知らずなお嬢様、それが私だもの。「……なにもない、です」ミドリさんみたいに格闘技の達人だったらよかったんだろうか。それとも、スミさんみたいに家事万能とか?取り柄のない自分に気づき、どんよりと暗い気持ちになった。「あるだろ。お義父さんから凛音は五カ国語が話せるから、海外に連れていっても大丈夫だって聞いてるぞ」「でもそれは、基礎教養として当たり前で……」「あのな。大学出てても英会話どころか日本語すら怪しいヤツだっていっぱいいるの。五カ国語も話せるのは誇っていい」炯さんは呆れ気味だが、日本語が怪しいというのはさすがに大袈裟では……?それに父からはこれくらいできて当然、と言われてきた。これが誇れるなんてやはり信じられない。「それにお義父さんは、凛音にはファースレディにもなれるくらいのマナーと教養をつけさせたとも言っていたぞ。そんな人間、海外展開している会社なら、喉から手が出るほどほしい。俺だって贔屓抜きで凛音を秘書にほしいくらいだ」うんうんと力強く、彼が頷く。あれは私としては、ただの基礎教養だと思っていた。それに、こんな価値があるとは思わない。「どんな仕事をしたらいいかわからないって言っ
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第四章 ワルイコトをはじめます 7

「とりあえず、この履歴書は書き直しな」「はい、わかりました」炯さんにアドバイスされたことを頭に書き留めておく。これで採用が決まるといいんだけれど。真面目な話が終わったからか、炯さんは私のつむじにずっと、口付けを落としている。なんだかその甘さが、いいなって思っていた。「土産を買ってきたんだ」傍らに置いてあった大きな紙包みを、炯さんが渡してくれる。「ありがとうございます。開けてもいいですか?」「ああ」丁寧に包みを剥がしていく。中からはらくだのぬいぐるみが出てきた。「えっと……」炯さんは私を妹としてみているんだと思っていたが、もしかしてそれは今現在同じ年の彼女ではなく、幼き頃の妹さんなんだろうか。「いやー、らくだを見る機会があって、なんかに似てるなと思ったんだよな」「はぁ……」今回の出張はサウジアラビア周辺だったらしいので、彼がらくだに遭遇していてもおかしくない。それよりも、なんか嫌な予感がするんだよねー。「それからずっともやもやしたまま過ごしてたんだけど、店に積まれているこれを見てさ」軽く炯さんは、らくだの頭をぽんぽんと叩いた。「凛音にそっくりだって気づいたんだよね」彼は上機嫌だが、私はなんともいえない気持ちでらくだの顔を見ていた。これは喜ぶべき……なのか?「そんなに似てますか……?」笑顔が引き攣らないか気を遣う。しかしそんな私の気持ちを知らないのか。「ああ。この、大きな垂れた目がそっくりだ!」にぱっと実に嬉しそうに炯さんが笑う。その笑顔はとても眩しくて、つい目を細めてしまう。それに、そんなに彼が喜んでいるならいいかという気になっていた。「あとは、これ」私の手を取り、彼が小箱をのせる。「開けても?」「ああ」了解をもらい、蓋に手をかける。箱の形状からだいたいなにが入っているか推測はついたが、それでもどきどきした。「指環?」ケースの中から出てきたのは、ピンクゴールドのリングの中央にダイヤを配した指環だった。リングはダイヤを中心に緩くウェーブしていて、それがいいアクセントになっている。「結納のときって話だったけど、早く凛音に渡したかったんだ」指環を取り出し、彼が私の左手を取る。じっと、彼がなにをするのか見ていた。私の左手薬指に指環を嵌め、持ち上げる。レンズ越しに私の目を見つめたまま、見
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 1

「城坂さん。これ、整理お願いできる?」「はい、わかりました」声をかけてきた、私よりもかなり年上の女性に返事をして席を立つ。そのまま、ワゴンを押して事務所を出た。「えっと……」背表紙に貼られたシールを確認しながら本を棚へと戻していく。単純作業だが、書庫は広いのでそれなりに重労働だ。あれから履歴書を書き直し、炯さんのOKが出てから就職活動を再開した。彼は外資の営業事務なんていいんじゃないかといってくれたが、ふと自分が司書資格を取った理由を思い出したのだ。小学生の頃、どんな読みたい本でも見つかる魔法の図書館シリーズが好きで、何度も何度も読み返した。司書の資格なんて取ってもこれから先の、私の人生には関係ない。それでも唯一、自分の意思でこの資格を取ったのは、やはりあの物語の影響があったからだろう。そんなわけで、今度は職種を図書館勤務に絞って探してみた。いくつかの面接を経て、大学の図書館に就職が決まった。もっともここは司書資格があるから採用されたというよりも――。「終わりましたー」一時間ほどで全部棚に戻し終わり、事務所に戻る。「あ、ちょうどよかった」事務所向こうのカウンターから手招きされてそちらへ向かう。そこには背の高い男性が立っていた。「ハイ、凛音」私に気づいた彼が、気さくに挨拶してくれる。「こんにちは、ベーデガー教授」私もそれに、軽く挨拶を返した。『今日はいかがしましたか』挨拶のあとはドイツ語で用件を聞く。癖のあるブラウンの髪をラフな七三分けにし、黒縁の眼鏡の向こうから碧い目で私を見ている彼は、ドイツから招かれている教授で、三十五歳と教授の中では若いほうだ。『探している資料があるんだ。頼めるかな?』戻ってくる言葉は当然ドイツ語。彼は簡単な日本語はできるが、日常会話はまだ不自由が多い。『わかりました。どのような本をお探しですか?』『そうだな……』彼から聞いた用件を、手近なメモに書き留めていく。『わかりました。いつまでにお持ちすればいいですか?』『今日中にお願いしたいんだが、いいだろうか』『はい、大丈夫です』ちょっとやっかいな案件そうだが、今日中と言われればそれまでにお持ちするのが司書の役目。それに教授に不自由をおかけするわけにはいかないので、やるしかないのだ。『じゃあ、頼んだよ。……あ』
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 2

「お疲れ様でしたー」定時になり、職場を出る。残業がほぼないのがここで働く魅力のひとつだ。「お待たせしました」「いえ。凛音様もお疲れ様です」近くで待っていた迎えの車に乗る。運転はミドリさんだ。本当は公共の交通機関で通勤すると言ったのだ。しかし。『痴漢が出るかもしれないのに、ミドリをつけていても乗せられるわけないだろ』……と、炯さんに速攻で却下された。でも、普通の人はそれで出勤しているんだし、あまりに過保護なのではと思った。けれど炯さんの会社の女性社員で、痴漢被害に遭って電車どころか外に出るのも怖くなり、病んでしまった人の話を聞いたら急に怖くなって、車での送り迎えを承知した。ちなみに出勤中の出来事は業務中と一緒だからと、仕事に復帰できるよう炯さんはいろいろ便宜を図っているらしい。そういうところ、本当に尊敬する。とはいえ、普通は仕事へ行くのに送り迎え付きとかないわけで。職場には姉が通勤ついでに送ってくれるのだと話を通してある。さすがに、お手伝いさんの送り迎えですとは言えない。「ただいまかえりました」「おかえりなさいませ」家に帰るとスミさんが出迎えてくれる。「お疲れになったでしょう、お茶の準備をしてありますからゆっくりなさってください」「ありがとうございます」スミさんも炯さんに負けず劣らず過保護で、笑ってしまう。お茶を飲みながら、ネットバンキングで口座残高を確認した。「入ってる……!」摘要の〝給与〟の文字に興奮した。初めて自分で稼いだお金。額は多くはないが、それでも嬉しい。「そうだ」このお金で日頃の感謝を込めて、炯さんになにかプレゼントを買うのはどうだろう?凄くいいアイディアな気がする。「なにがいいかな……」炯さんが喜んでくれそうなものってなんだろう?お酒とか?しかしいくら考えたところで、まだ二ヶ月足らずの付き合いの私には、彼の好みはよくわからなかった。だったら。「スミさん」「はい、なんでしょう」通りかかった彼女を呼び止めると、すぐにこちらへ来てくれた。「その。炯さんになにかプレゼントをしたいんですが、なにがいいんでしょうか……?」「プレゼントでございますか?」不思議そうに彼女が、何度か瞬きをする。「はい。初めてお給料をもらったので、それでなにか買いたいなと思って」「いい考えでご
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 3

次の日も普通に出勤して、普通に仕事をした。ここでは学歴から私がお嬢様らしいという推測がされているが、実家はちょっとだけ裕福な家だと誤魔化してある。もちろん、もうすぐ結婚する相手が三ツ星造船の御曹司だというのも隠している。「返却済みの本、棚に戻してきますね」「おねがーい」軽い調子で先輩スタッフから返事が来る。私をお嬢様ではなく、ひとりの人間として扱ってくれる職場は、居心地がいい。ワゴンを押して本を棚に戻していく。終わったときにはちょうどお昼休憩になっていた。「城崎さん。お昼行こうー」「はい」戻ってきたところで、島西さんが声をかけてくれた。私よりふたつ年上の彼女とは、なにかと仲良くさせてもらっている。手早く片付けを済ませ、財布と携帯の入ったミニバッグを持つ。「お昼、いってきまーす」「いってらっしゃーい」先輩の声に見送られ、職場を出てカフェテリアへと向かう。図書館スタッフには大学に付属するカフェテリアの使用が許可されていて、私はよくそこで食べていた。「なんにしようかな……」私の休憩時間は十一時からと早いので、カフェテリアにはあまり学生がいない。ちなみに勤務時間は八時半から十五時半までと少し短めだ。今日はAランチがエビフライとハンバーグのセットだったので、それにした。料理を受け取り、窓際の席にふたりで座る。「安くて美味しいなんて、もう神だよね」「そうですね」それでもお給料からすると毎日カフェテリア通いはかなり生活に痛そうだが、彼女は実家住みらしいので大丈夫みたいだ。「そうだ。島西さんに相談したいことがあって」「ん?なになに?仕事の相談はちょっと乗れないぞ。なんていったって城坂さんはもう、うちのエースなんだしさ」からかうように彼女が笑う。上司がなにかと私の仕事ぶりを褒めるので、以前からいるスタッフの一部には私の評価は悪かった。しかし、島西さんは嫌みや妬みではなく、冗談にして笑い飛ばしてくれる。彼女のそういうところに好感を持っていた。「その。炯さんになにかプレゼントしたいんですけど、なにがいいんでしょう……?」別に昨日、スミさんからもらった助言に不満があるわけではない。ただ、こういうのはいろんな方面からアドバイスをもらったほうがいいんじゃないかと思っただけで。「んー、要するに男がも
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 4

「あとは財布とか?」しかし、炯さんは財布を使ってなかったような?マネークリップ派だった気がする。マネークリップはありだよね。「ううっ、難しい……」「まあ、城坂さんからのプレゼントなら、なんでも喜ぶんじゃない?だって、ベタ惚れみたいだし?」「うっ」昨日のスミさんと同じことを言い、島西さんが意地悪く笑う。炯さんの話をするたびに「惚気、ごちそうさま」とか言われているし、そうなるだろう。『なんの話をしているんだい?』話しかけられて見上げると、ベーデガー教授がトレイを手に立っていた。「ここ、いいかい?」にっこりと笑い彼は、私の隣の席を指した。「どうぞ、どうぞ」私はなにも言っていないのに島西さんが許可を出し、彼がそこに座る。さらに。「私、もう食べ終わったし、先行くねー」「あ……」意味深に島西さんは私に片目をつぶってみせ、止める間もなく去っていった。いや、絶対、面白がっていますよね?『それで。なんの話をしていたんだい?』食べながら教授が聞いてくる。これは私も残りをさっさと食べて退散……とかは無理そうだ。『あの。婚約者にちょっとしたプレゼントをしたいけれど、なにがいいかな、って』ことさら、婚約者と強調する。『凛音に婚約者なんていたんだ?』しかし、華麗にすっとぼけられた。確かに彼との会話の中でその話はしていないが、左手薬指に指環が嵌まっている時点で、特定のパートナーがいるのはわかりますよね?『ふーん。それって僕より、いい男?』興味なさそうに言い、彼は食事を続けている。けれどそこはかとなく嫉妬のようなもを感じるのは気のせいだろうか。『いい男ですよ』さらりと返し、残りを食べてしまう。『僕よりいい男なんて、そうそういないと思うんだけどな』気づいたら彼は、頬杖をついて私を見ていた。そんな自信はどこから出てくるんだとは思うが、世間一般的に教授はかなりイケメンの部類なのだ。学生の中には狙っている人もいるって話を聞くし。『私にとって婚約者の彼が世界で一番いい男、です』惚気と取られてもいいので、言い切った。それに、事実だし。『ふーん』教授はどうでもよさそうだが、私も彼の返事などどうでもよかった。『それで。婚約者の彼にプレゼントするのになにがいいかって話だったよね?』話が本題に戻ってきたが、彼の意見を参
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 5

午後からも仕事をこなし、今日も定時で帰る。「お疲れ様でございました」「ミドリさんもお疲れ様です。帰り、街に寄ってもらっていいですか」「かしこまりました」迎えの車に乗り、携帯を確認する。そこには炯さんからメッセージが届いていた。「夜中には帰ってくるんだ」三時くらいには日本に着くから、それから本宅に帰ってくるとある。「そんな無理、しなくていいんだけどな……」本宅よりもマンションのほうが断然空港に近い。その分、ゆっくりできるはずだ。画面に指を滑らせ、その旨、返信した。調べておいた老舗文具店でボールペンを物色する。もちろん、ミドリさんのお供付きだ。よさそうだと思ったら数万円の値がついていて躊躇した。「なんか、ね……」きっと今までだったら、なにも考えずに買っていただろう。しかし、今は自分で稼げるお金はこれくらいだから……とか考えてしまう。でも、炯さんがお仕事で使うものだから、それなりのものがいいはず。そこでは決めず、少し歩いて百貨店に入った。今度は、ネクタイとマネークリップを見る。「うっ」なんの気なしに愛用しているブランドのお店に入って固まった。財布や、ちょっとしたバッグだけで私の一ヶ月分のお給料がほとんど飛んでいく。これまでは値段など知らずにあれが欲しい、これが欲しいで買ってもらっていたが、いかに自分が贅沢をさせてもらっていたか改めて実感した。「もうちょっとお金、大事にしよう……」百貨店でのお買い物は諦めて、文具店に戻る。私の稼ぎとしては、これくらいが相応だ。「ミドリさん。こっちのブルーのと、そっちの黒、どっちがいいと思いますか?」候補は絞ったものの、ふたつで悩んで決められない。どちらも炯さんが持っているところを想像したら、しっくりくるんだもの。「凛音様からの贈り物でしたら、旦那様はどちらでもお喜びになると思いますが」「うっ」……うん。もういいよ。みんな、そんなイメージなんだね……。私もそんな気がするし。しかし、長く使ってもらうためにも、炯さんが気に入るものをプレゼントしたいのだ。「ううっ、悩む……」店員にショーケースから出してもらった二本を並べ、見比べる。黒の本体にシルバーのアクセントが入っているペンはスタイリッシュだし、上部半分が濃紺のペンもお洒落だ。炯さんならどっちを選ぶんだろう?
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 6

「それじゃあ、こちらの黒のほうをください。プレゼント用にラッピングもお願いできますか」「かしこまりました」店員がボールペンののるトレイを下げ、準備を始めようとする。「あ、リフィルも一緒にいいですか」「かしこまりました。純正品と互換品がございますが、いかがいたしましょう?」すぐに彼は、私の前にリフィルのパッケージを並べた。「純正品でお願いします」「かしこまりました。先にお会計をよろしいでしょうか」「はい」ミドリさんが会計をしようと一歩足を踏み出したがそれを止め、自分の手持ちのカードで支払った。引き落とし先はもちろん、私の口座だ。とはいえ、お給料以外にもそれなりにお金が入っているのだが。包んでもらっているあいだに携帯を確認する。炯さんから返信が入っていた。【俺が一刻も早く凛音に会いたいから、本宅に帰る。もう、凛音切れ起こして死にそうなんだ。でも、凛音は気にせずに寝ていていいからな】炯さんはなにかと〝凛音切れ〟なんて言うが、あれはいったいなんなんだろう?私にはまったく理解ができない。とにかくなにがなんでも帰ってきたいのはわかったが、こんな時間に空港から二時間近くかけて帰ってくるのは心配だ。「……そうだ」今日は私がマンションのほうに泊まるというのはどうだろう。それだったら移動時間は半分で済む。明日は私も炯さんも休みだし、そのままゆっくりして夕方にでも本宅に帰ればいい。でも、シェフがもう夕食の準備をしているのだとしたら申し訳ない。「ミドリさん。今日はこのままマンションのほうに泊まるとか、ダメですか……?あ、もう夕食の準備をしているとかだったら、帰ります」「いえ、大丈夫です。そのように手配します」すぐにミドリさんはどこかへ電話をかけはじめた。たぶん、スミさんかな?「シェフ、怒ってませんでしたか?」電話を切った彼女につい、聞いてしまう。「どうして怒るんですか?」なぜか不思議そうに彼女は、何度か瞬きをした。「せっかく準備していたのに、無駄にしてしまったから……」「急な予定変更はよくあることですから、気にしません」ミドリさんはそれが至極当たり前といった感じだが。「でも、やっぱり悪いです。シェフにごめんなさいって謝っておいてください」「あ、はい。わかりました……」私がぺこんと頭を下げると珍しく
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 7

携帯の通知音で目が覚めた。「ん……」まだ眠たい眼を開け、携帯を手に取る。そこには炯さんから空港に着いたとメッセージが入っていた。「起きなきゃ……」起き上がったものの、そのままぽすっと前向きに倒れ込む。いやいや、そんな場合じゃないんだって。「うーっ」根性で今度こそ起き上がった。炯さんをお出迎えするために、通知をONにして寝たのだ。起きなきゃ、意味がない。「顔洗おう……」ふらふらと洗面所へ向かい、顔を洗う。それでようやく、頭がすっきりした。ついでに、浴槽にお湯を張る。帰ってきたらゆっくり、手足を伸ばしてお風呂に浸かりたいかもしれないし。着替えまではしないが、簡単に身支度を調える。まさか、寝起きのままでお出迎えなんてできない。コーヒーを淹れてゆっくりと飲む。飲み終わって簡単に片付けを済ませた頃、ドアの開く音がした。「おかえりなさい」「びっくりした。まさか、寝ないで待っていたのか」私を抱き締め、軽く炯さんがキスしてくる。「ちょっと早めに寝て、起きました」もうすぐ四時半になろうかという頃。少しの早起きだと思えば、さほどつらくない。「もしかして起こしたか?」眼鏡の下で彼の眉間に皺が寄る。たぶん、メッセージを送って起こしたんじゃないかと気にしている。でも、いつもは夜間、通知を切っているのに、ONにして寝たのは私だ。ううんと首を振り、彼を促して一緒にリビングへと行く。「できれば起きて、炯さんをお出迎えしたかったから……」「凛音は可愛いな!」ソファーに座り、炯さんはまた私に抱きついて口付けを落としてきた。それが、くすぐったくて心地いい。「でも、そういう無理はしないでいい」そっと、私の頬に触れる彼は真剣だ。「私も早く、炯さんに会いたかっただけですので」手を伸ばし、彼に抱きついてその胸に顔をうずめる。ひさしぶりに感じる、炯さんの体温。ひさしぶりに嗅ぐ、彼の匂い。それらが、私を満たしていく。……そうか。炯さんの言う〝凛音切れ〟ってこれなんだ。私も、炯さん切れを起こしていたんだな。「そういう可愛いことを言われると、今すぐ抱きたくなるんだけど」私のつむじに口付けを落としながら、彼はシャツの裾から手を侵入させてきた。「あの、お疲れなのでは?」「いや?飛行機の中で寝てたしな。それより、直に繋がっ
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第五章 これはワルイコトですか? 8

次に目が覚めたとき、炯さんは私の隣で携帯を見ていた。「身体、つらくないか」「はい」少しだけ眉を寄せた彼に、笑って答える。無理をさせたという自覚はあるらしい。「起きたんなら、なんか食べに行くか」「そうですね、お腹ペコペコです」差し出された手に自分の手をのせ、ベッドを出た。身支度をしてマンションを出る。炯さんはホテルのアフタヌーンティに連れてきてくれた。「こんな時間にこんなに食べたら、夕食が入らなくなっちゃいそうです……」「そうだな、凛音は小さいから食べる量が少ないからな」物憂げにため息をついた私を、炯さんがおかしそうに笑う。「明日も休みだし、夕食は少し遅めに摂ればいいだろ?それでも入りそうになければ、軽めにすればいいだけだ」「そうですね!」心配が晴れたので、美味しいスイーツを堪能する。そんな私をやっぱり、炯さんはおかしそうに笑って見ていた。「仕事はどうだ?」「楽しいですよ。そうだ!初めてお給料をもらったんです。私でもお金が稼げるんだって感動しました」「そうか」眼鏡の向こうで眩しそうに目を細め、炯さんは紅茶のカップを傾けている。「それでお買い物に行ったんですが、私のお給料で買えるものってけっこう限られていて、今までいかに自分が贅沢をさせてもらっていたのか実感しました」「うん」「それで、これからはもっと、お金を大事にしたいなー、って」「そうか」夢中で話していたが、一段落すると炯さんにはこんな話は退屈だったんじゃないかと気になった。「えっと。……こんな話は面白くないですよね」「いや?俺はそういう凛音が好きだからな。それに」ゆっくりと伸びてきた手が、私の口端に触れる。「夢中になって話している凛音はキラキラしていて、いつまででも見ていられる」離した指先を、炯さんはまるで見せつけるかのようにペロリと舐めた。「クリーム、ついてたぞ」「えっ、あっ、……はい」目尻を下げ、彼がにっこりと微笑みかける。おかげでみるみる顔が熱を持っていった。……炯さん、狡い。こんなに格好いいの、どきどきするなっていうほうが無理じゃない。そのあともいないあいだにあった出来事を話しながら、紅茶を飲みつつスイーツを摘まむ。「そろそろドレスの打ち合わせをしないといけないが、どうする?」「そうですね……」そうか、私、炯さん
last updateLast Updated : 2025-11-03
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