All Chapters of 私にワルイコトを教えたのは政略結婚の旦那様でした: Chapter 21 - Chapter 30

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第三章 これからはじめるワルイコト 6

「でも、トイレって女性だけですし……」そんなに嫌がるほど、危険なんてないと思うんだけどな。「バカ。隙を狙って何食わぬ顔で入ってくるヤツもいるし、そのまま隠れているヤツもいる。盗撮カメラが仕掛けられていたりする場合もあるしな」炯さんはどこまでも真剣で、少しも冗談を言っている様子はない。それを聞いて身体がぶるりと震えた。「……怖い」世の女性たちは、そんな恐怖と戦っているんだ。私は誘拐の危険はあったものの、おかげでボディーガードが傍にいることが多く、そういう危険には怯えなくて……というよりも気にすることなく過ごしてきた。いかに自分が、恵まれた環境なのか痛感した。「悪いことしに街に出るのはいいが、誘拐以外にもそういう危険があるんだってよく覚えておけ。まあ、ミドリを付けてるから大丈夫だとは思うけどな」「はい、気をつけます」とはいえ、なにをしていいのかわからないけれど。フラッペを飲み終わり、荷物を持って車に戻る。もっとも、荷物は全部、炯さんが持ってくれたが。だって!私も持つって言っても、ひとりで持てるから大丈夫だって持たせてくれないんだもの!「マンションってここから遠いんですか?」「いや?十分くらいだ」黒のSUVは滑るように夕暮れの街を進んでいく。あの日、車で彼の正体がわかったんじゃないかといわれそうだが、ドイツ製のこのクラスの車なら、ちょっと稼いでる会社の社長くらいなら乗っていてもおかしくない。聞いたとおり十分程度で、見えてきたタワーマンションの地下に炯さんは車を入れた。「ここを借りているんだ」一緒に乗ったエレベーターには、建物の割にボタンが少ない。どうも高層階住人専用のようだ。「ようこそ、俺の別宅へ」「お、お邪魔します……」招かれた部屋の中へ、おそるおそる足を踏み入れる。本宅とは違い、こちらはモデルルームかのように作りものめいていた。まあ、寝るだけのために借りているとか言っていたし、そのせいかもしれない。「寝室、こっちだから着替えろ」「はい」案内された寝室で、先ほど買った服に着替える。本宅に比べれば狭い寝室には、ベッドとライティングデスクが置いてあった。髪型も服にあうように変え、メイクを直してリビングへと行く。「着替えました」「似合ってるな」ソファーに座る炯さんが、ちょいちょいと手招きをするの
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第三章 これからはじめるワルイコト 7

「スマートウォッチなんだ。凛音の身体に異常を感知したとき、俺と使用人たちに居場所とともに通知が行くようになってる」「そうなんですか」じゃあ、今までの携帯とブレスレットの役割が、これになったと思えばいいのかな。「あ、言っておくが、異常を感知したときしか俺たちにはそれで凛音の居場所はわからない。とはいえ、監視しているみたいで申し訳ないが、凛音になにかあったら困るからな」本当に心配しているようで、炯さんの眉間に力が入る。でも、そうだよね。過去に何度か誘拐されそうになっているとか聞かされていたら。それに一般女性でも普通に生活しているだけで危険があるんだって言っていた。だったら、これは必要なものなんだって私にだってわかる。「わかってます。それに二十四時間監視されているわけでもないですし」実家にいた頃は携帯で常に、どこにいるのか監視されていた。でもこれからはなにかあったときだけだ。別に知られてやましいところへ行く気もないが、それだけで気持ちの開放感が違う。「わるいな」本当にすまなそうに彼が、私の頭を軽くぽんぽんと叩く。それが悪くないなって思っていた。着替えも済んだので、再び街へと出る。今度は徒歩だ。「車だと俺が飲めないからな」さりげなく手を繋ぎ、炯さんは歩いていく。ただ手を繋いで歩いているだけなのに、酷くどきどきとした。男の人と手を繋ぐなんて、今までなかった。幼い頃、父とすら繋いで歩いていないのだ。「どうした?」私が黙っているからか、ひょいっと彼が顔をのぞき込む。「ひゃいっ!?」俯き気味に歩いていたところへ突然、目の前に顔が現れ、軽く驚いて焦って返事をしたせいで……噛んだ。おかげで顔が、熱でも出たんじゃないかというくらい熱くなっていく。「どっか具合悪いのか?」などと言いつつも、彼の口端は僅かに持ち上がっている。……ううっ。わかっていてからかっているんだ。炯さんは六つも年上で、しかも私は妹と同じ年。きっと彼にとって、私は妹同然なんだろう。そこまで考えて、ムッとしている自分に気づいた。でもこれは、からかわれたからだ。
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第三章 これからはじめるワルイコト 8

十分ほど歩いて炯さんが連れてきてくれたのは、ごく普通の居酒屋だった。いや、じゃあ普通じゃない居酒屋はどんなのだって聞かれても、私にはわからないが。「まずは飲み物だな」店員に席へ案内され、ついまわりを見渡してしまう。そんな私を彼は見守るように笑って見ていた。「俺はビールにするけど、凛音はどうする?」「あっ、はい!」問われて、慌てて視線を目の前の彼に戻す。とんとん、と軽く彼が指先で叩いたそこには、端末らしきものが置かれていた。「これは?」「メニュー兼注文端末」「へー、そんな便利なものがあるんですね」昨今は人手不足だというし、その解消でもあるのかな。「それで。なににする?」「そうですね……」頭を付き合わせるようにして端末をのぞき込む。そこにはたくさんのお酒が載っていて目移りした。「というか、酒は飲めるのか?」「失礼な。嗜む程度には飲めますよ」子供扱いされた気がして、軽く頬を膨らませる。「わるい、わるい。そう怒るな」口では謝っている癖に、炯さんは私の頬を指先でむにっと潰してきた。「なにするんですか」「んー、凛音は可愛いなと思って」楽しそうに笑ってむにむに頬を押されたら、だんだんと怒る気が失せてくる。「で、決まったか?」少しして気が済んだのか、炯さんは手を離したけれど、今のあいだにどうやって決めろというんだろう?「そうですね……」飲み物のトップページに戻り、メニューを眺める。そこには【当店オススメ! 生搾りレモンサワー!】の文字とともにジョッキの写真が載っていた。「これにします」オススメだったらきっとハズレはないし、それだけ人気なんだろう。それは、気になる。「わかった」炯さんが端末を操作し、注文をしたとの文字が出てくる。「あとは食べ物な。好きなの頼んでいいぞ」「ほんとですか!」うきうきと端末のページを捲っていく。唐揚げとか枝豆とか並んでいるジャンクな料理を見ているだけでわくわくしてしまう。「お待たせしましたー」選んでいるあいだに、頼んでいた飲み物が出てきた。「とりあえず乾杯な。飲みながらゆっくり選べばいい」「そうですね」あれやこれや思案しているところに声をかけられ、ようやく顔を上げる。眼鏡越しに目のあった炯さんは苦笑いしていて、夢中になりすぎていたなと恥ずかしくなった。「じゃ
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第三章 これからはじめるワルイコト 9

「こちらこそ、よろしくお願いします」ジョッキをあげた彼にあわせて、私も少し持ち上げる。そのまま、中のお酒をひとくち飲んだ。「美味しい……!」どこかで飲んだことのある味だと思ったが、甘みの少ないレモンスカッシュだ、これ。ちょっぴりアルコールは感じるが。「よかったな」「はい」他にも気になるお酒はあるけれど、とりあえずこれは私のお気に入りに登録しておこう。改めてメニューを見て、唐揚げと焼きそば、串焼きの盛り合わせとせめてもの良心で豆腐のサラダを頼んだ。「ほんとは見合い、する気がなかったんだ、俺」「え?」ビールを飲みながら炯さんがなにを言っているのかわからなくて、まじまじとその顔を見ていた。「ならなんで、私とお見合いして、結婚まで決めたんですか?」「んー、あの日の凛音に興味を持ったから、かな」困ったように笑い、彼はサラダを口に運んだ。「仕事が忙しいからな、妻を娶ってもかまう暇がない。そんなの言い訳だ、結婚さえすればなんとかなるって父さんに言われたけどな。まあ、父さんの顔を立てるために会うくらいいいかと見合いに行った」忙しくて家にはほとんどいないと、今日聞いた。その理由を覆すほどのなにかが、私にあったんだろうか。「時間があったんで庭を散歩してて、凛音を見つけたんだ。いかにも池に飛び込みそうな顔をしてるのは心配になったし、いや、でも、この池に飛び込んで死のうなんてバカはいないだろってふたつの考えで、どう声かけるべきかは悩んだけどな」思い出しているのか、炯さんが小さくくすりと笑う。「その節はご心配をおかけいたしました」あのときはとにかく、このまま自由を知らないまま新しい籠へと移る自分が、哀れでしょうがなかったのだ。それがこんなに、彼を悩ませるなんて思わない。「いや、いい。あそこで会えてよかったと、今は思っているからな」そう……なんだろうか。まだ私には彼が言いたいことがわからなくて、続く話を待った。「それにもし、あのとき凛音が見合いが嫌だと答えていたら、速攻で見合いもせずに断って、帰っていたと思うしな」「え……」ますますなにが言いたいのかわからない。そんな私を炯さんはおかしそうに笑っている。「断るつもりだった俺がいうのはなんだが、俺たちの結婚にはたくさんの人間の将来がかかっている。なのに親の選んだ人間と結婚す
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第三章 これからはじめるワルイコト 10

「それはわかっています。だってそのために今まで贅沢をさせてもらってきたわけですし」「凛音はほんとにいい子だな」炯さんの手が伸びてきて、私の頭の上にのる。眼鏡の下で目尻を下げ、くしゃくしゃと柔らかく彼は私の頭を撫でた。その幸せそうな顔に、一気に酔いが回ったかのように顔が熱くなった。「凛音の、悪いことがしたかった、ほんの少しでいい、外の世界を楽しんでみたかったって願いが、いじらしくて叶えてやりたくなったんだ」ゆっくりと炯さんの手が離れていく。その手はジョッキを握ったが、空だと気づいたらしくすぐに置き、端末を操作して新しいのを頼んでいた。「目をキラキラさせてなんでも楽しそうにやっている凛音を見て、今までこんな自由すらなかったのかと可哀想になった。俺が見合いを断り、別の男と結婚すれば、こんなささやかな自由すらまた奪われるんだろうかと考えたら、いたたまれなかった。ならせめて、俺が少しでも凛音を自由にしてやりたいと思ったんだ」新しいビールが届き、喉を潤すように彼はごくりとひとくちそれを飲んだ。炯さんが私との結婚を決めたのは、同情からだ。でも、それでもかまわない。「ありがとうございます、私に自由を与えてくれて」今、私はこれから始まる新しい生活に期待で胸がいっぱいだ。それに、最初から愛しあっている人と結婚できるなんて思っていない。少なくとも私は、炯さんを好きになっていく道を二、三歩はもう進んでいると思う。彼も同情から愛情へ、少しずつ道を変えていってくれたらいい。「もしかして迷惑だったんじゃないかと思っていたんだ、そういってくれると嬉しい」ふわりと笑う炯さんが、とても綺麗だと思った。その笑顔に耐えられなくて、まだジョッキに半分くらい残っていたお酒を一気に呷る。「きゅぅぅぅぅっ」飲み干した途端、世界が反転した。「えっ、おい!」炯さんの声が酷く遠い。そこで私の記憶は途絶えている。……身体が、揺れる。それが心地よくて、温かいなにかに抱きついていた。なんだか凄く安心するんだけれど、なんでだろう?「ったく。目が覚めたら、もう外ではひとりで飲まないように厳重注意だな」苦笑交じりの声が聞こえてくる。迷惑をかけているのはわかった。謝りたいけれど、うまく頭が回らない。「……すっごく、幸せですー」結局、今の素直なこの気持ちが出た
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第四章 ワルイコトをはじめます 1

目を開けたら、炯さんの顔が見えた。なにが楽しいのか、眼鏡をかけて肘枕で、私の顔を見下ろしている。「おはよう、凛音」私が目覚めたと気づき、眼鏡越しに目のあった彼はふふっと小さく笑って口付けを落としてきた。「身体、つらくないか?」「えっ、あっ、はい。……大丈夫、です」なんだか彼の顔を見られなくて、もそもそと布団を顔の上まで引き上げる。もう二度目なんだし、恥ずかしがる必要はないのはわかっている。それでも、どんな顔をしていいのかわからなかった。炯さんのもとへと移って一日目は、酔い潰れて寝落ちるという不甲斐ない結果に終わった。『俺と一緒のとき以外は、外で酒を飲まないこと。わかったな』起きたあと、きつーく彼から約束させられたが、仕方ない。私も悪かったし。遅い朝食……というよりもブランチを摂り、本宅へと戻ってきたのがお昼過ぎ。それからシアタールームで一緒に映画を観て、シェフの作り置き料理で夕食を食べた。それで、夜は……。「凛音」ベッドの上、横たわる私を炯さんが見下ろしている。「スケジュールにも入れていたが、明日から一週間、出張なんだ」もう知っていたけれど、昨日今日と楽しかっただけに淋しくなった。「そんな顔をするな。行きたくなくなるだろ」ふふっと困ったように小さく笑い、彼が私の髪を撫でてくる。「……ごめんなさい」自分でもいけないってわかっている。それに、今までは両親が不在でひとりでも、淋しいなどと思ったことはなかった。でも、炯さんがいないと聞くと、淋しくなっちゃうのはなんでなんだろう。「いや、いい。それだけ凛音が、俺がいないのを淋しく思ってくれているのは嬉しいからな」証明するかのように、軽く口付けが落とされた。「それに俺も、しばらく凛音に触れられないのは淋しい。だから」彼の長い指が、私の胸をとん、と突く。「この身体に忘れないように俺を刻み込むし、俺も凛音のぬくもりを刻みつける。いいか?」レンズの向こうから蠱惑的に光る瞳が私を見ている。「……はい」まるでその瞳に操られるかのようにこくんとひとつ、頷いた。――その後。「手を握られてイく癖でもついたのか?」おかしそうにくすくすと笑いながら、まだ荒い息をしている私の髪を撫でてくれる。「だって」彼に手を握られると、全部を任せていいんだって気になれて、安心
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第四章 ワルイコトをはじめます 2

私の前でパンを食べている炯さんを無言で睨む。「わるかった。そう怒るなって」彼は謝ってみせたがニヤニヤ笑っていて、あれは絶対悪いなんて思っていない。「お土産になんでも凛音の好きなもの、買ってきてやるからさ」そんなので私の機嫌が直るなんて思っているんだろうか。だいたい、手早く終わらせるとか言っておいて、三回もスる人間がどこにいる?三回だよ、三回!おかげで、私はまだヘロヘロだ。「なー、凛音って」返事はせずに黙って食事を続ける。反省するまで絶対に、許さないんだから。こういうのは最初が肝心だ。今後もこれだと困るし。「帰ってきたら焼き肉に連れていってやろうと思ってたんだけどなー」眼鏡の奥からちらっと、彼の視線がこちらに向かう。しかし、悪いが焼き肉が特別な食事の一般庶民とは違うのだ。何度も父が連れていってくれたし、それくらいで釣られたりはしない。「七輪で焼く、とっておきの店なんだけどなー」それにぴくっと、耳が反応した。私が行く焼き肉屋とは無煙ローターのお上品なお店で、七輪などでは焼かない。「そうか、いい子でお嬢様の凛音は、行きたくないか」「行きたいに決まってるじゃないですか!」はぁっと物憂げにため息をつかれた瞬間、勢いよく食いついていた。そんな私を見て、炯さんが意地悪く右の口端を持ち上げる。それが視界に入り、いいように彼に弄ばれていたんだと気づいたがもう遅い。「こ、今回はそれで手を打ってあげますが、次からはこんなことのないようにですね」火がついたかのように熱い顔で、しどろもどろになりながらなんとか取り繕う。「はいはい。次からは一回で終わるように努力します」炯さんは軽い調子で本当にわかっているのか疑わしい。しかも、〝努力します〟だし。努力ってことは、確約じゃないんだよね?これからもこんな生活が続くのか……。朝食が終わり、やはり時間はないらしく慌ただしく炯さんは出かける準備をした。「じゃ、いってくる。なにかあったらスミに相談するか、俺に連絡してくれ」「はい」私の頬に触れ、ちゅっ。「なるべく頑張って、早く帰ってくる」「無理はしないでくださいね」「そんな優しいこと言われたら、ますます張り切ってしまいそうだ」また唇がちゅっと触れる。「それに早く帰ってこないと、凛音切れを起こして死ぬからな。速攻で片付け
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第四章 ワルイコトをはじめます 3

炯さんがいないあいだ、私がなにをしていたのかといえば。「履歴書ってなに書いていいのかわかんない……」パソコンを前にして、うんうん唸っていた。炯さんが私に与えてくれた部屋はいまだに簡素なデスクとベッドだけだが、仕方ない。家具を見に行く暇なんてなかったしね。炯さんは俺に気兼ねしないで好きに揃えていいし、あれだったら今度、ヨーロッパ出張へ行くときに一緒に見に行ったらいいとまで提案してくれた。なので今しばらくはこのままで不満はない。それよりもそこにこもって書いている、履歴書が問題なのだ。「はぁーっ、もっと有益な資格とか取っておけばよかった……」などといまさら後悔したって遅い。私が大学と家庭教師で学んだのは、海外セレブ相手でも恥を掻かないように数カ国の外国語とマナー、それに伴う主要国の歴史や文化背景だ。そんな低能な人間を企業が雇うとは思えない。「簿記とか秘書検定とか取っておけばよかったなー」もし、就職口がなければ、今から勉強するのもありかな……?と、悲観しながら履歴書を埋めていたけれど、あとで私は自己評価が低すぎるのだと知ることになる。「んー、こんな感じかな?」とりあえず必要事項を埋めてしまい、大きく伸びをして一息つく。ちなみに、エントリー先が決まったとかいうわけではない。私はとりあえず、形から入るタイプなのだ。それに炯さんが帰ってきたら、チェックしてもらいたいし。集中していたせいか小腹も空いたし、なにか食べたいけれどどうしようかな……。ここでは頼めばすぐに、シェフがなにか作ってくれる。それは、実家にいたときと大差ない。でも、いっそ。「ミドリさん、いますかー?」「はい、ただいまー」すぐにパタパタと走る音がして、ミドリさんが顔を出した。「コンビニ行きたいんですけど、いいですか?」「はい、大丈夫です」彼女が頷いてくれたので、携帯を持って部屋を出る。「スミさーん、コンビニ行ってきますねー」「はーい、いってらっしゃいませ」玄関から家の奥に声をかけると、すぐにスミさんの声が返ってきた。それを確認して、ミドリさんと一緒に家を出る。徒歩十分先のコンビニまで連れ立って歩いた。といってもミドリさんは私より一歩後ろに控えている感じだ。それで、危険はないか周囲に目を配っている。ごく普通のそのへんにいるような女性に見える彼女
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第四章 ワルイコトをはじめます 4

初めてのコンビニはすべてが目新しくて迷ってしまう。……そう。実家暮らしのときはコンビニすら行けなかった。必要なものはすべて、親が買い与えてくれる。たまにひとりでショッピングに行ってもボディーガードという名の監視付きで、好き勝手なんてできなかった。でも、これからは自由!非常識な危ない場所じゃなければ、どこへ行ってもいいって炯さんは約束してくれた。常にミドリさんが着いてくるくらいは仕方ないと割り切れる。お菓子の棚にはいろいろな種類のポテトチップスがたくさん並んでいて驚いた。塩とかのりとかはわかるが、ハンバーガー味とかパクチー味とか謎なのまである。これ全部、買っても怒られないんだよね……?「凛音様、これを」三つほどポテトチップスの袋を抱えたところで手一杯になってどうしようか悩んでいたら、ミドリさんからカゴを差し出された。「あ、ありがとうございます」ありがたくその中に抱えていた袋を入れる。変な人だと思われていないだろうかとその顔をうかがったが、彼女は真顔でなにを考えているのかわからなかった。「飲み物は、と……」冷蔵庫の中にはお茶や、不健康そうな色をしたジュースが並んでいる。全部買ってみたくなるが、これからこれらを試す時間はいくらでもあるのだ。少し悩んで、コーラと桃のソーダをチョイスしてカゴに追加した。もう十分なお菓子がカゴに入っているが、それでも店内を見て回る。今度、おにぎりとかサンドイッチも買ってみたいなー。コンビニスイーツも気になる。でも、たくさん買っても食べきれないからこれくらいにしておこう。それに、いつだって来られるからね。レジで会計をしてもらうのも、初めてだ。「レジ袋はどうしますかー」「レジ袋?」それがなにを指すのかはわかるが、どう答えるのが正解なのかわからない。「大丈夫です」しかし私が悩むより早く、ミドリさんがどこからか取り出した袋を広げた。そうか、お買い物に来るときは袋を持参するのか。ひとつ、賢くなったなー。「えっと。にゃん払いでお願いします」どきどきしながら携帯を操作して画面を見せる。ちなみににゃん払いとは猫のキャラクターが可愛い、バーコード決済だ。「わかりましたー」店員がバーコードを通して決済が完了すると、携帯が可愛らしく「にゃん♪」と鳴いた。これのおかげで若者のあいだで人気急
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第四章 ワルイコトをはじめます 5

「ただいま」「おかえりなさい」一週間が過ぎ、予定通り炯さんが帰ってきた。帰ってきた途端、スミさんたちがいるなんてかまわずにキスしてくる。「あの、その、人前でキスするのはどうかと思うんですけど……」恥ずかしくて頬が熱くなっていく。しかし、炯さんは違うらしい。「挨拶のキスなんだから、関係ないだろ」さらに私にちゅっと落ちる口付け。「それともあれか?挨拶じゃないキスをしてほしい?」彼の手が私の頬に触れ、その親指が唇をなぞる。レンズの向こうからは愉悦を含んだ瞳が私を見ていた。「えっ、いや。……ケッコウデス」消え入りそうな声で呟き、そっとその胸を押して離れる。どきどきと速い心臓の鼓動が落ち着かない。顔どころか全身が燃えるように熱かった。「じゃ、あとでふたりっきりのときにな」また私にちゅっと口付けし、ようやく炯さんは私から離れた。これはもう、こういうものだと割り切って慣れるしかないのかな……。着替えてきた炯さんと一緒に夕食を摂る。「俺がいないあいだ、なにをしてたんだ?」今日は和食だからか炯さんは日本酒を飲んでいる。私もご相伴にあずかっているが、少しだけだと念押しされた。前科があるだけに反論はできない。でもこのお酒、水みたいでするする入っていっちゃうんだよねー。気をつけよう。「履歴書書いて、求人エントリーしてました」「どこかいいところはあったか?」揚げ出し豆腐を口に運びながら、さりげなく炯さんが聞いてくる。「そうですね……」実は、働きたいという気持ちはあるが、どういう業種がいいかだとか漠然としすぎていてよくわからない。とりあえず無難な事務職で、未経験者歓迎のところにいくつかエントリーしたが、結果は芳しくない。「まあ、この仕事がやりたいって就職するヤツのほうが少ないからな」そんな気持ちで就職活動していたのかと呆れられるか、怒られるかかと思っていたのに、炯さんは意外なほどあっさりしていた。「俺だって好きで海運業の社長なんてしているわけじゃないし」「そうなんですか?」彼の思いがけない言葉に驚いてしまう。「そう。父さんがやれっていうからやってるだけ。好きな仕事をしていいなら、……そうだな。ラグビー選手になりたかったかな」ふっと薄く笑った彼はおかしそうだったけれど、同時に淋しそうでもあった。「だからとい
last updateLast Updated : 2025-11-03
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