朝の白は、紙の上だけ硬い。 窓の外はまだ淡い金色で、鳥の声はここまで届かない。香の煙が薄く立って、光を割る。 机の上には二枚の紙。片方には婚姻の字、もう片方には保全の字が、刻まれた印のように沈んでいる。 向かいの男は、濃紺の礼服に薄い手袋。黒髪は短く、灰青の瞳は余分な影を持たない。 レオン・ヴァルド公爵。その筆先は、私の方ではなく紙の端へ向いたまま動きを止める。 「……この契約は、愛ではなく責任の分配だ。そう理解しているな、ミオ・アマネ」 名を呼ばれても、頷かない。指先を静かに組む。呼吸は浅く、胸の奥だけが重い。 「ええ。……愛を選べるほど、余裕はもうありませんから」 朱が、硝子の小皿で軽く揺れた。公爵の手が印をとり、紙の白に赤が触れる。乾いた音。朱はゆっくりと滲み、輪郭を持って止まる。 「どうして、そこまでして守る」 視線がこちらを探る。硬い問いではない。ただ、真っ直ぐで逃げ道がない。 「——約束をした人が、いるんです」 言ってから、喉の内側に熱が立つ。視界の端、紙の白が一瞬だけ橙に染まった気がした。火の色。あの夜の、奥の方でまだ消えていない灯。 紙の白が、熱ににじむように見えた。朱の輪郭が少し揺れて、私の指先から力が抜ける。音が薄れ、耳の内側で呼吸だけが出入りする。 遠ざかる。光も、紙も、朝の気配も。 指先に紙の乾きが残った。 白い光。今度の白は冷たい質だ。蛍光灯。壁際の時計は動いているのに、ここだけ止まって見える。 社名のロゴが半分剥がれかけたオフィス。机の上に積んだ請求書、試作品の瓶、画面の消えたスマホ。椅子は二つ、片方は空いたまま。 守りたかった人たちの顔が、順番もなく浮かんでは消える。名前を呼んでも、声は出ていない。 私は、社員たちの名を心の中で呼んだ。 全部、私が選んだ人たちだった。 「守りたかったのは……人だったのに」 小さく言うと、言葉は机の縁で消えた。最後に調合した一本を、手のひらで包む。ラベルには黒いペンで「Resurge」とある。再生。笑ってしまう。こういうときの名前は、いつも少しだけ大げさだ。 「……最後くらい、いい匂いに」 ふたを回そうとして、滑った。瓶が机の角を越えて落ちる。その先にあるはずの音が、どこにも届かない。床も空気も、受け止めない。 白いものが、薄く立ちのぼる。湯気に似て、温度
Last Updated : 2025-10-20 Read more