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灰の街、風の欠片

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-21 06:47:56

朝の色は、昨日より薄かった。火皿の赤は戻っているのに、小さく静かに呼吸している。濡れた布を絞る音。薪が肩でこすれる音。隅に置かれた椅子は空のまま、光だけを受けている。

「……火、今日も大丈夫そうですね」

言って、湯を注ぐ。湯気がゆっくり上がっていく。メラは火から視線を外さない。

「ええ。——師匠の手がなくても、火はちゃんと燃えるのね」

トーリが薪を抱えたまま、顔だけこちらに向ける。

「……その言い方、泣かせにくるだろ」

誰も笑わないわけじゃない。息の置き場を探しているだけだ。私は湯飲みを置き、火の縁に手をかざす。まだ、少し借り物の手みたいだ。

「今日の段取り、少し詰めます」

メラがうなずき、帳面を指先で整えた。

——

昼の手前、戸口に硬い靴音が重なった。扉が開く。灰色の外套の男が、短く名乗り、さらに短い用件だけを机に置くみたいに言った。

「香守瓶の納品、遅れてるんだ。代金は——」

メラの指が僅かに止まる。

「師匠が病の報せを受けたあとで、正式な印がまだ……」

使者は眉を動かさない。

「理由は聞いてない。納期は三日後だ」

冷たい風が足元を抜けて、扉が閉まる。火がぱち、と小さく跳ねた。

トーリが顎で外を示す。

「俺、行ってくる。材料、足りてねえし」

メラは即座に顔を上げる。

「危ないって言ったでしょ。外、まだ風が——」

「だからこそ行くんだよ」

気づいたら、私の声がそれに重なっていた。

「私も行きます」

二人が同時に振り向く。短い沈黙。メラが息を吐いて、肩の力を少しだけ落とした。

「……帰ってきたら、あんたの手で火を見てあげて」

「はい」

戸口で靴を履く音が、火の音と重なった。

——

街の色は、前より少しだけ薄く見えた。広場では荷車が途切れず、呼び声が風に千切れていく。市場の匂いは混じり合って、どれかひとつを掴めない。

トーリが歩みを緩める。

「……あの香り、師匠のやつだな」

「え?」

斜向かいの屋台から、似た匂いが立ちのぼる。甘さが先に走って、後ろにざらつきが残る。瓶の栓は固いのに、香りだけが大きい。

「真似されてる」

トーリが苦笑するでもなく言う。胸の底が、少しだけ熱くなる。

「……本物じゃないのに」

「本物を知ってるのは、俺らだけだ」

言葉の温度で、体の芯がまっすぐになる。風が吹き抜け、まだ乾いていない布の匂いがすれ違う。

必要な材料は思ったより手に入りにくかった。値段も、ほんの少し上がっている。手の中の小袋は軽くて、責任だけが重い。

「戻ろう」

トーリが短く言う。私はうなずいて、袋を胸に寄せる。

——

工房に戻ると、メラが帳面を広げていた。墨の線が並んで、足りないところに小さな印が打たれている。

「材料も期限も、どちらも足りない」

現実の声。トーリは額の汗を手首でぬぐい、いつもの表情に戻すのに少し時間がいるみたいだった。

私は火皿に手をかざす。熱は穏やかで、でもはっきりしている。

「……できる分だけ、作ります」

メラは視線を私にだけ向けた。目は強くない。強くしないでいる。

「量じゃなくて、質ね。あの人の香りを、思い出させるくらいの」

「それなら、できます」

言ってから、息が深く入った。誰の真似でもない手の動かし方が、体の中に戻ってくる。

「配合は私が見る。メラ、火の具合を。トーリ、口の小さい瓶を優先で」

「了解」

「任された」

短い掛け声が、部屋の形を少し広げた。

——

夜が落ちるのは、意外と早い。戸口の隙間から入る風は冷たく、火の音はよく通る。瓶の口に小さな布を巻き、結び目を爪で確かめる。香りが逃げないように、息を浅くする。

「ここ、もう少し絞って」

メラが指で示す。私は頷いて、布の重なりを半分だけずらす。火の香りが、ゆっくりと瓶の中に降りていく。

トーリが背後で、乾いた笑いを一粒だけ落とす。

「……師匠、見てるかな」

「見てます。たぶん」

言うと、火が少し静かになった気がした。メラが微かに笑う。

「火ってね、見られてる時ほど静かになるの」

誰も大きな声を出さない。出す必要がない。私は瓶をそっと立てる。光は淡く、でも確かに残る。

もう一本。手が同じリズムを覚え始める。香りは強くしない。深く、遠く、でも近くに置く。

「ミオ」

メラが呼ぶ。返事を待たない間が少しだけあって、続く。

「その配合、好き」

「よかった」

指先の震えが、少しだけ減る。トーリが空になった布袋を丸め、私の方に放ってきた。軽い音。

「もう一歩いけるか?」

「いけます。——ただ、急がないで」

三人の間に、ひとつの光。その瓶の中の赤が、私たちを囲む空気と同じ呼吸をする。私は火の縁に手を置き、目を閉じないで、ただ見ている。

「納期、三日後」

メラが帳面を閉じる。言い切らない吐息。

「間に合わせるというより、届ける、ですね」

トーリが顎を上げる。

「届けよう。師匠の椅子の分まで」

誰も椅子を見ない。見ないまま、そこにあることを知っている。私は最後のひと結びを確かめ、栓の位置を真ん中に寄せた。

火がゆっくりと落ち着く。灰の表面が均され、赤い道が細く通る。

「今日は、ここまで」

メラが小さく言う。水の音。布の音。夜の気配が、工房の壁に寄りかかる。

私は出来上がった瓶を両手で包む。温度は浅いけれど、逃げない。

「……ありがとう」

誰にともなく出た声に、メラが「どういたしまして」と笑って、トーリが「何もしてない」と照れて、火が小さく応えた。

誰かを失っても、手のひらに残るぬくもりが、次の形を選ぶ。

たぶん、それを“生きる”と言うのだろう。

瓶の中の赤は小さい。けれど、三人で見るには、十分だった。

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