Mag-log in受領票の裏をもう一度めくる。鉛筆の細い字が指に当たる。「午後二時くらいから始まるみたい」「一人での保証は保留になるって」。息をひとつ飲む。「行こ。座ってるだけでも席は取れるから」メラが上着の裾を整える。「戻ったら火、見ておくね。扉は開けておくよ」トーリは鍵束を確かめて、ポケットに入れた。「続柄の欄は空けておくね。そこは会議で決めよう」私は用紙のその欄に人差し指を置いて、離す。紙の角が、少しだけ指に吸い付く。外の空気は乾いている。庁舎の前、石段に列。昨日の同業の男が、目だけで合図。「今日は荒れそうだよ。……朱が乾く前に決めないと、こっちが不利になる」低い声。言い切らないまま、前を向く。「ありがとう。番号、戻しておくね」私は軽く頷く。メラが肩越しに息を合わせる。トーリは一歩下がって、周りを見る。鐘が二度、小さく鳴る。扉が開き、列が流れる。議場は広くない。椅子の布が冷たい。前方の卓で、議長が紙を整えた。「今期の安全ルールです」議長は短く読む。「見本瓶の提出は必須です。単独保証は基本的に保留。共同保証には“同一生計証明”が必要になります」墨の線が一行ずつ進む気配。若い書記が横で小声を落とす。「……朱が乾くまで、触らないでくださいね」確認官が立つ。「同居の条件は三つあります。住む場所を一緒にすること。お金を一緒に管理すること。緊急時にお互いが連絡できること」板の床が小さくきしむ。呼吸が幾つか重なる。「見本瓶をお願いします」促されて、私は包みを開く。火は弱いまま逃がさない配合。光へ透かす手元を、確認官の目が追う。「火、きれいですね。弱いのにちゃんと安定してる」短い評価。後ろの席で、商人風の男が囁く。「……この香り、最近もう市場に出てるやつに似てるって聞いたけど」メラが一瞬だけ視線で私を見る。私は目を伏せ、瓶の口を支え直す。逃がさない。今はそれだけ。「次の方、どうぞ」議長の声が少しだけ低くなる。レオンが立つ。外の光を背にして、卓に一枚置いた。「保証枠の上限に達しています」レオンは短く続ける。「今日中に共同保証の意思確認が必要です。私は“外側の責任”を半分引き受けます」言葉を置いて、黙る。余白が残る。監視役の男が紙をめくる。「形式としては、親族か婚姻が一番有効です。仮婚
火は細いまま、芯だけが見える。 机の上で、控えの紙を二通そろえる。 封の袋と、小さな手数料の袋を脇に置く。 「手、もう一回あっためよ?」 メラが指を合わせる。 「うん。手が冷えてると紙が滑らないから」 掌を擦って、指先に熱を戻す。 「番号取ってくるね。戻るまでここで待ってて」 トーリが扉に向かう。 外は冷たい。 工房の前から通りに出ると、空気が乾いている。 庁舎の前には、すでに列ができていた。 「二十七番だった」 トーリが番号札を見せる。 「けっこう早いほうだね」 メラが肩をほぐす。 列の少し前に、昨日の同業の男が立っている。 目が合う。 踵がわずかに返る。 砂利がひとつ、鳴った。 扉が開き、列が動く。 中は静かで、紙の匂いが薄い。 「書類一式と手数料をお願いします」 若い書記が顔を上げる。 「はい。……こちらになります」 私は紙を差し出し、袋を添える。 書記が一枚ずつめくる。 保証用紙の「続柄」の欄に、人差し指がそっと触れる。 言葉は出ない。 メラが小さく息を吸って、視線を落とす。 「確認官をお呼びしますね」 奥から年長の確認官が来る。 「すみません、今期から“見本瓶”が必要でして」 確認官が柔らかく言う。 「ひと口ぶんで大丈夫です。最新のラベルでお願いします」 一瞬、胸が固まる。 すぐ、頷く。 「すぐ戻ります。必ず間に合わせます」 声はまっすぐに出た。 「昼まで受け付けていますので」 確認官が時計を見て頷く。 「……午前は混みますから、早い判断が助かります」 列の後ろから、低い声が落ちる。 「番号札、ここに置いとく。戻ったらこの位置に差し込んで」 同業の男が自分の札を少し上にずらす。 「助かります、ありがとうございます」 私は頭を下げる。 男は顎で小さく合図した。 外に出る。 息が白くはならないが、喉が少し締まる。 小走りで工房へ戻る。 「火、すぐつけるね」 トーリが薪を選ぶ。 「皿、先に温めておくね」 メラが指で縁を撫でる。 「外では“香り”を出して、内では“息”を合わせる。……いつもどおりで」 私は小瓶とラベルを出して並べる。 細い薪が一本。 火はすぐ細く立つ。 皿の縁が柔らかくなる。 「ここ、冷やさないようにね」 メラが息を落とす。
火は細くて、落ち着いている。 紙の控えを二通、角をそろえる。 瓶は三本、口を布で拭って並べた。 「手、もう少し温めとこうか」 メラが私の指先を見て言う。 「うん。手が冷えてると、字がガチガチになるから」 息をひとつ置いて、掌をこすり合わせる。 「窓、ちょっと見てくるね。さっきの人、また来るかも」 トーリが短く言って、扉の方へ視線を滑らせる。 「来ても、見るだけでしょ」 メラが声を落とす。 「火の様子、ちゃんと見せよう」 戸口の風が、細く入って止まる。 息がそろう。 扉が二度、静かに叩かれた。 青い腕章が二つ。 無表情の書記が、時刻を一つだけ読み上げる。 「一本、開けずにお願いします」 検査官の声は平らだ。 「はい。……ここでいいですか」 私は未開封の一本を持ち上げ、壁際の影にならない場所に置く。 細い管が瓶口に触れる。 針が揺れて、ゆっくり落ち着く。 音はない。 呼吸だけがある。 「数値は基準の範囲内です」 検査官が短く告げる。 「記録しました」 書記が紙に線を置く。 インクの匂いが、わずかに立つ。 もう一人の検査官が火を見る。 「火、落ち着いてていいですね」 「逃げないくらいの弱火で」 メラが釜の縁に目をやる。 「薪、一本足したほうがいい?」 トーリが薪に触れて止める。 「今は大丈夫。……このままで」 私の声に、火が細いまま続く。 路地の端に、視線がひとつ。 同業の男。 目が合って、踵がわずかに返る。砂利が一度だけ鳴る。 検査官の目が一度だけそちらへ流れ、戻る。 書記が別紙を開く。 保証の欄に指を置き、続柄のところを軽く叩く。 レオンの署名の写しへ視線が落ちる。 空気が浅くなる。 誰も、言葉にしない。 「小規模燃焼を確認します」 検査官が皿を置く。 火皿の縁がひやりとする。 立ち上がりが、少し鈍い。 香りが一度、途切れたみたいに薄くなる。 「メラ、皿を指で少し温めて」 「わかった」 メラの指が円を描く。 「風、止めるね」 トーリが窓の隙間に布を当てる。 待つ。息だけ置く。 火が細く戻る。 木が遅れて乗り、花が薄く追いつく。 検査官が一呼吸だけ待って、頷いた。 「臨時検査、合格です」 書記が最後の線を置く。 「提出は、明日の昼までにお願いしま
火は穏やかに落ち着いていた。 紙の控えと、身分札と、昨夜の香守瓶を机にそろえる。 「書き漏れとか、ないよね?」 メラが帳面に指を置く。 「大丈夫。ちょっと気持ちだけ、落ち着かせるね」 私は瓶の口に指を触れて、すぐ離した。 「鐘があと一回鳴いたら迎えに行くから。無理しないで」 トーリが短く言う。 「うん、すぐ帰るね」 私は布で手汗を拭き、身分札を懐に入れた。 戸口の風は冷たい。深く吸って、吐く。 公爵邸の石はひんやりして、音が吸われる。 通された広間は広くて、声が立つ。 「保証の提出は明日の昼までです。出さなければ、一時的に停止になります」 机の端に座る監視役が、一度だけ紙を整えた。 「わかりました」 私は膝の上で指を重ね、息を止めないようにする。 公爵が正面に座る。 視線は真っ直ぐで、声は低い。 「選択肢は二つある」 レオンが言葉を置く。 「一つは独占契約。もう一つは、私が保証して庇護に入る形でもいい」 私は頷いてから、鞄を開いた。 風の来ない壁際に小皿。 小瓶の栓を、一呼吸だけ開ける。 石の乾きに、柔らかい香りが馴染む。 焦げの手前で止めた木。 遅れて、薄い花。 「これが、私たちの“香り”です」 私は栓を戻す。 「強く出さないで、静かに残るほうです」 監視役は黙ったまま記録に線を引く。 レオンは視線を落とし、すぐ戻した。 「保証を出すなら、責任はお互い半分ずつにしよう」 レオンが続ける。 「配合の権利はあなたたちに残す。人も道具も、こっちが奪うことはない」 「……責任を、半分ずつ持つってことね」 私は机の紙に目を落とす。 「独占されるより、ちゃんと続けられる形のほうがいい」 監視役が咳払いを一つ。 「保証の形式としては、“親族”か“婚姻”が一番有効です」 レオンの視線が一度だけ落ち、空気が浅くなる。 空気が少しだけ動く。 私は息を吸い直す。 レオンは逃げない目で言う。 「理屈だけで話そう。時間はない。工房を守るなら婚姻が一番確実だ。感情は、今は置いておこう」 私は手元のペンを取った。 重さは普通。先だけが冷たい。 「今夜は検査して、明日の朝一で保証を出します」 言い切ってから、もう一度だけ息を足す。 「その前に――紙にしておきたいです。権利と、境界。働く時間と、お金
朝の音が、小さく揃っていた。 湯が細く鳴って、灰は静かに呼吸する。 赤い道は細いけど、まっすぐ。 「……間に合わせようね」 私が言う。 メラは火から目を離さない。 「絶対に、間に合わせるよ」 トーリが薪を肩で直す。 「納期まで……あと二日ってとこか」 「うん。がんばろう」 私はエプロンの紐を結び直す。 胸元の瓶に指を当てて、栓を確かめる。 「組合、行ってくるね」 メラが横目だけ寄せる。 「1人で大丈夫?怖いなら言ってね」 「怖いのは……置いてくわ」 メラはうなずいて、帳面の角をそろえた。 火は、こちらを見ているみたいに静かだった。 職人組合の窓口は、朝の光が白かった。 並ぶ人の息が、同じ高さで揺れる。 「すみません、納品証明をもう一度発行してもらえますか?」 私が紙を差し出す。 窓口の女性は丁寧に目を通して、視線だけ上げた。 「承知しました。印の確認と、保証人の記入が必要になります」 「その印を持っていた工房主が……亡くなってしまって」 言葉が少し止まる。 女性は責めない目で、次を置いた。 「今、ここが空欄ですね。どなたが記入されますか?」 「準備します。どうすればいいか教えてください」 「手続きはいつも通りです。早く通すなら、身分保証を付けるのが一番早いですね」 横でトーリが小さく息を吸う。 私は首だけ振って、止める。 「わかりました。いったん戻って準備します」 女性は頷き、仮の控えを渡してくれる。 紙は薄くて、手の中で少し冷たい。 組合の掲示板の前に、人が小さく溜まっていた。紙が一枚、増えている。 「香品安全の指針が臨時で改定。――登録が仮の工房は、検査に合格して、身分保証も出すこと」 読み上げる声が、途中で息を足す。 「今日中に、だってさ」 廊下の奥から、青い腕章の検査官が二人。 「工房名をお願いします」 「……アマネ工房」 「臨時検査をします。瓶を一本、開けないままで。計測は外で行います」 風の当たらない戸口の影で、検査官が細い管を瓶口に当てる。 針がわずかに震えて、静かに止まった。 「基準内です。――ただし、登録を続けるには保証人が必要です。提出期限は明日の昼まで」 「明日……昼ですね」 「そうです。提出できない場合は、納品資格を一時停止します」 トーリの
朝の色は、昨日より薄かった。 火皿の赤は戻っているのに、小さく静かに呼吸している。 濡れた布を絞る音。薪が肩でこすれる音。 隅に置かれた椅子は空のまま、光だけを受けている。 「……火、今日も大丈夫そうですね」 言って、湯を注ぐ。 湯気がゆっくり上がっていく。 メラは火から視線を外さない。 「ええ。——師匠の手がなくても、火はちゃんと燃えるのね」 トーリが薪を抱えたまま、顔だけこちらに向ける。 「……その言い方、泣かせにきてるだろ」 誰も笑わないわけじゃない。 息の置き場を探しているだけだ。 私は湯飲みを置き、火の縁に手をかざす。 まだ、少し借り物の手みたいだ。 「今日の段取り、少し詰めておきます」 メラがうなずき、帳面を指先で整えた。 昼の手前、戸口に硬い靴音が重なった。 扉が開く。灰色の外套の男が、短く名乗り、さらに短い用件だけを机に置くみたいに言った。 「香守瓶の納品、遅れてるんだ。代金は——」 メラの指が僅かに止まる。 「待ってください。師匠が病に倒れたばかりで、正式な印がまだ……」 使者は眉を動かさない。 「理由は聞いてない。納期は三日後だ」 「こっちでも代替を探してる。間に合わなきゃ“別口”に回す」 冷たい風が足元を抜けて、扉が閉まる。火がぱち、と小さく跳ねた。 トーリが顎で外を示す。 「俺、行ってくるわ。材料、足りてねえし」 メラは即座に顔を上げる。 「危ないって言ったでしょ。外、まだ風が——」 「だからこそ行くんだよ」 気づいたら、私の声がそれに重なっていた。 「私も行きます」 二人が同時に振り向く。短い沈黙。 メラが息を吐いて、肩の力を少しだけ落とした。 「……帰ってきたら、あんたの手で火を見てあげて」 「はい」 戸口で靴を履く音が、火の音と重なった。 街の色は、前より少しだけ薄く見えた。 広場では荷車が途切れず、呼び声が風に千切れていく。 市場の匂いは混じり合って、どれかひとつを掴めない。 トーリが歩みを緩める。 「あの香り……師匠のやつだ」 「え?」 斜向かいの屋台から、似た匂いが立ちのぼる。甘さが先に走って、後ろにざらつきが残る。 瓶の栓は固いのに、香りだけが大きい。 客はそれを‘本物’と指さしていた。 「くそ、真似されてる」 トーリが苦笑するでもな







