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白紙の約束

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-23 06:58:07

朝の湯気は薄くて、火皿の赤は落ち着いていた。扉が小さく叩かれて、ギルドの使者が封書を置く。蝋はまだ温かい。

「公爵邸で、初納品の前に“品質確認”を、だそうです」

メラが封を切って、紙を静かに読み上げる。トーリは肩の薪を下ろし、短くうなる。

「また直接か。早いな」

「……行きます。確かめてもらった方がいい」

言うと、メラが私の胸元を見た。香守瓶に触れる。栓は確かだ。

「怖いなら、顔に出していいわよ」

「大丈夫。少しだけ、緊張はしますけど」

「それでいい。——行ってらっしゃい」

トーリが小さな布袋を放って寄こす。

「予備の栓と、小さな布と、朱。念のため」

「ありがとう」

馬車の揺れは静かで、窓の外は薄い金色だった。息を整えると、胸の固さが少し抜けた。

――

執務室は、昨日と同じ白だった。机の上には、紙ではなく瓶が十本。朱の皿は端に寄せてある。

「——来たか、ミオ・アマネ」

レオン・ヴァルド公爵は座ったまま、視線だけこちらに寄せた。声の温度は変わらない。

「ギルドから。品質確認を、と」

「契約が乾く前に、瓶が来るのは悪くない」

「落としたくないので。……質を」

「見せてくれ」

一本、差し出す。レオンは栓を半分だけずらし、短く息を吸う。目は瓶に落ちたまま、間だけが少し伸びた。

「……静かだ」

「街の香りは、音が大きいので」

「おとなしいと、少し寂しい」

「寂しさがある方が、長く続きます」

レオンはわずかにうなずき、もう一本に手を伸ばす。私は説明を足さない。香りが喋ることに任せる。

「十本分、同じ質に?」

「同じに。量は少ないままです」

「最初の納品は十本まで、でいいな」

机の端に置かれた書類を指で示す。小さな認可の札が付いている。

「はい。反応を見て、次を決めます」

「焦らなくていい」

「焦ると、残り香が荒れます」

レオンの口元が少しだけほどける。

「比喩が多いな」

「——覚え方は、人それぞれだな。」

「抜けません。火で覚えたことなので」

……と、短く笑い、すぐ仕事の顔に戻った。

「施療院にも届けると聞いた」

「この二本を。夜用と、食前用です」

「一緒に行こう。現場の匂いを、私も知りたい」

「……お願いします」

――

中庭を抜けて馬車に乗る。護衛はいるが、レオンは隣に座っただけで何も言わない。城門を出ると、街の声が近くなる。

「この街を、どう見ている」

不意の問い。私は窓の外を少しだけ見てから答えた。

「忙しい、というより……息をしてます」

「息?」

「速すぎないし、遅すぎない。火と似ています」

「火に例える時、必ず自分をその中に置くな」

「私も、火の一部なので」

レオンは何か言いかけて、やめた。「そうか」とだけ落とした。馬車の車輪が角でゆっくり鳴った。

――

施療院は街の南側にあった。白い壁。戸口の前で、院長と助手が待っている。

「ギルドから話は聞いています。——まず一本」

「短く、浅く嗅いでください」

院長が頷き、助手が栓を少しだけ上げる。息が静かに行って戻る。

「……胸が軽くなります。強くない」

「次、夜用を」

同じ手順。院長は目を閉じ、数呼吸待ってから開いた。

「もう一度、浅く。——同じ香りの形ですね」

「いいですね。十本、お願いできますか」

背後でレオンが静かに言う。

「決めるのが早い」

「良いものは早く決めます。責任はこちらで持ちます」

二人の視線が軽く交差する。院長は少し笑った。

「では正式に。納品書に——」

「公爵邸で事務を通します。今日のうちに」

レオンの言葉に、院長は素直に頷いた。私は、胸の奥で何かが少しだけ緩むのを感じた。

「ありがとうございます。大切に作ります」

「頼みますよ」

受付の奥で、患者の咳が遠くに混じる。私は瓶を包み直し、栓を確かめた。

入口へ戻る途中、レオンが少し歩みを緩めた。

「明日、城の南で式の準備が始まる」

「見に行っても?」

「来るなら、静かに。人は多いが、音は抑える」

「仕事が片づけば、行きます」

「片づくように動こう。君が決めた質で」

少しだけ、肩の力が抜けた。

――

工房に戻ると、メラとトーリが待っていた。火皿の赤は細く通り、湯の音が続いている。

「終わった?」

「はい。十本、通りました。施療院で」

トーリが親指を立てる。

「公爵は?」

「静かでした。少し……優しかったかも」

メラが口の端を上げた。

「静かな人ほど、温度はあるのよ」

机に瓶を並べ、栓を一つずつ確かめる。ギルドの使者からの札が添えられていた。初回契約成立、と小さく書かれている。

「名前、つけてもいいですか」

「名前?」

「初めて街に出た火だから。“初灯(ういあかり)”。短い方が覚えやすいので」

メラが頷く。

「いいと思う」

「好きだな、それ」

トーリの声が少し明るい。火皿で赤がひとつ跳ねた。

「じゃあ、記録にもそう書きます」

帳面に、ゆっくり書く。手が震えない。

「式の準備、明日からだって」

私が言うと、メラの視線が私の手元に落ちた。

「見に行く?」

「仕事の様子を見てから。……行けそうなら」

「そうしよう」

火の前に座り、瓶の位置を少し整える。栓は全部確かで、香りは逃げない。

「レオンは、何か言ってた?」

トーリが火を見たまま尋ねる。

「急がなくていい、って」

「珍しい」

「最初の十本で反応を見て、って。焦らないで、って」

メラが湯を注ぎ、三つの杯を並べる。

「じゃあ、今夜は“初灯”に乾杯ね」

湯気が静かに立つ。私は杯を両手で受けて、香りを短く吸った。工房の空気と同じ温度だった。

「名前、つけてよかった」

「うん」

「師匠も、好きだったと思う」

誰も大きな声を出さない。出す必要がない。火皿の赤は安定して、灰の上に細い道を通す。

札の端を指で押さえる。硬い。持ち方で重さは変わる。

「明日は、量より順番ね」

メラが帳面に書き込む。

「口の小さい瓶から。匂いが落ち着くまで動かさない」

「了解。俺は洗い物と搬送箱」

「お願いします」

私は最後に、胸元の香守瓶を確かめる。栓は確かで、温度は浅い。

「……ただいま」

誰にともなく言うと、メラが「おかえり」と返し、トーリが「おつかれ」と重ねた。火が小さく応えた。

外は少し暗くなり、窓がひとつずつ明るくなる。瓶の橙が、火皿の赤と重なって、ゆっくり落ち着いていく。まだ約束の途中だけど、いまは十分に確かだった。

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