LOGIN朝の赤は、小さく整っていた。湯の音が細く続き、布がきゅっと絞られる。メラが封蝋のついた書状を、机の真ん中に置く。蝋の色は固くて、触れた指に冷たさが残る。
「……公爵邸。今日」 トーリが薪を片手に、封の刻印をのぞき込む。 「早いな」 「行きます」 気づいたら、口が先に動いていた。メラが目だけこちらに寄せる。 「怖いなら、怖いって言って」 「怖いのと、行くのは……別です」 胸元の香守瓶を一度確かめる。栓はちゃんと閉まっている。中の灯は見えないけれど、指の中に静けさが残る。メラは何も言わず、私のエプロンの紐を結び直した。 ―― 馬車の中は揺れが柔らかく、外は薄い金色だった。トーリが無造作に布袋を渡してくる。 「予備の栓と、小布と、朱」 「ありがとう」 「言うこと、半分でいい」 メラが軽く咳払いして、私と視線を合わせる。 「でも、黙らないで」 「……うん」 門が開く音は、細い金属の声みたいに冷たかった。空気が一段、低くなる。 ―― 執務室は、朝の白が壁で静かに伸びていた。机には二枚の紙——婚姻契約と、工房保全誓約。朱の皿が、端で薄く光る。 「——来たか、ミオ・アマネ」 レオン・ヴァルド公爵は、紙から視線を上げなかった。声だけが、部屋の温度を決める。 「お呼びでしたので」 「時間がない。街が荒れている」 「工房も、です」 一拍。朱の皿が、触れていないのに、かすかに鳴った気がした。 「この契約は、愛ではなく責任の分配だ」 「……知っています」 「なら、署を」 「その前に、条件を」 空気がほんの少し動く。レオンがようやく顔を上げた。灰青の瞳が、私の手も、胸元の瓶も、順番に静かに拾う。 「聞こう」 指先が瓶に触れる。少し深く、息を入れた。 「工房の名は、工房に残してください」 「名義の問題か」 「人の問題です。——メラとトーリの身分保障も」 「二名。職能と住まいの保全、だな」 「はい。あと、偽物の取り締まり……強すぎない形で」 「強すぎない?」 「火は、息が要るので」 書記官のペン先が止まる。レオンの口角が、少しだけ動いて止まる。 「納税軽減は?」 「三か月。代わりに、納品の質は落とさない」 「量は?」 「落とします。——落とさないために、落とします」 言い切らず、視線だけで受け渡す。レオンは短く息を置いた。 私は小さくうなずいて、香守瓶を卓上にそっと置く。 「……証拠は、うまく言えません。嗅いでください」 栓をほんの少しずらす。焦げた木の奥に、乾いた草。遅れて、薄い花の残り香が立つ。音にならない温度が、紙の白をやわらげた。 「……静かだ」 「街の真似は、音が大きいだけです」 「違いは、わかる」 「それを守りたい。だから、結びます」 レオンの瞳に、橙が一瞬だけ落ちた。すぐに消える。 「君は、愛ではなく責任のために来た」 「ええ。……でも、火は、責任だけでは続かないので」 短い沈黙。書記官がまたペンを動かし始める気配。 「……わかった」 レオンは二枚の紙の文面を、いくつか静かに直した。工房名義、弟子二名の保全、模倣の抑制は段階的に、税の軽減は三か月。最後に婚姻契約の項に指を置く。 「式は、公開を要す」 「式は……静かに」 「静かにやろう」 朱の皿が、近づく。レオンが印を取る前に、短い呼吸をひとつ置いた。紙に朱が触れる音は小さく、けれど確かだった。乾いていく赤の輪郭が、目で追えるくらいの速度で止まる。 レオンは瓶の栓をそっと戻し、指先を離さないまま、言葉だけを落とす。 「どうして、そこまでして守る」 「——約束をした人が、いるんです」 言った瞬間、胸の奥に少しだけ熱が走る。レオンの視線は動かないのに、温度だけがわずかに和らいだ。 「なら、分配しよう。責任も、背負いも」 「……お願いします」 印の乾き具合を確かめる書記官の視線が、音を立てずに横へ流れる。レオンは手を離し、紙をこちらへ向けた。 「署名を」 「はい」 ペン先がわずかに震える。けれど、震えは線にはならなかった。 ―― 戻る廊下は細長く、光が床の石に薄く敷かれていた。角を曲がる前に、メラとトーリの気配がわかった。待っていてくれた体温の高さで。 「どう、だった」 メラの声は低いけれど、急いでいない。 「……火、消さずに済みます」 トーリが顎を上げる。 「量は?」 「落とす。だから、届く」 メラの肩が、ほんの少しだけ下がる。 「いい返事」 三人で瓶を確かめる。栓は閉じたままなのに、橙が薄く揺れた気がした。外の風は冷たく、でも刃にならない。 「式は?」 トーリが、声の端だけで尋ねる。 「静かに」 「静かに、ね」 メラがうなずく。私たちは歩き出す。邸の階段を下りるたび、布と革の小さな音が重なる。 ―― 馬車の中、誰も長くは話さない。手の中の紙は硬いけれど、息に合わせれば、重さが変わる。外の金色は少し濃くなって、街の声が片方の窓へ寄ってくる。 「怖かった?」 メラが、不意に。 「少し。……でも」 「でも?」 「火は、静かでした」 トーリが笑うでもなく、鼻から短く息を抜いた。 「師匠、見てたな」 「見てました。たぶん」 それ以上、誰も確かめない。確かめなくて、いい。 ―― 工房の戸を開けると、火皿は息を整えていた。灰の上に赤い道が一本通り、湯の音が細く支えている。メラが帳面を開き、トーリが棚の瓶をひとつ、真ん中に寄せる。 私は机に紙を置く。朱はもう乾いていて、触れても移らない。理の紙が乾く音と、瓶の中の灯が同じ速度で落ち着いていくのが、はっきりわかった。 「分け合える責任なら、火は——」 言いかけて、息を足した。消えないようにではなく、続くように。 「ミオ」 メラが呼ぶ。 「うん」 「晩の仕込み、半分に。質は落とさないで」 「落としません」 トーリが口笛みたいに短い音を出す。 「じゃ、俺は口の小さいやつから洗う」 「お願いします」 瓶の栓を一度だけ確かめ、火の縁に手を置く。橙がこちらを見る。こちらも、見る。息が合う。少し長く吸って、同じだけ吐く。 外はもう夕方の手前で、家々の窓が順番に明るくなる。工房の中は、言葉より先に整っていく音がいくつもあって、どれも大きくならない。 私は胸元の瓶に触れた。栓は確かで、温度は浅いのに、逃げない。 「……行ってきました」 誰にともなく漏らすと、メラが「おかえり」と返し、トーリが「おつかれ」と重ねる。火が小さく応えた。朝の湯気は薄くて、火皿の赤は落ち着いていた。扉が小さく叩かれて、ギルドの使者が封書を置く。蝋はまだ温かい。「公爵邸で、初納品の前に“品質確認”を、だそうです」メラが封を切って、紙を静かに読み上げる。トーリは肩の薪を下ろし、短くうなる。「また直接か。早いな」「……行きます。確かめてもらった方がいい」言うと、メラが私の胸元を見た。香守瓶に触れる。栓は確かだ。「怖いなら、顔に出していいわよ」「大丈夫。少しだけ、緊張はしますけど」「それでいい。——行ってらっしゃい」トーリが小さな布袋を放って寄こす。「予備の栓と、小さな布と、朱。念のため」「ありがとう」馬車の揺れは静かで、窓の外は薄い金色だった。息を整えると、胸の固さが少し抜けた。――執務室は、昨日と同じ白だった。机の上には、紙ではなく瓶が十本。朱の皿は端に寄せてある。「——来たか、ミオ・アマネ」レオン・ヴァルド公爵は座ったまま、視線だけこちらに寄せた。声の温度は変わらない。「ギルドから。品質確認を、と」「契約が乾く前に、瓶が来るのは悪くない」「落としたくないので。……質を」「見せてくれ」一本、差し出す。レオンは栓を半分だけずらし、短く息を吸う。目は瓶に落ちたまま、間だけが少し伸びた。「……静かだ」「街の香りは、音が大きいので」「おとなしいと、少し寂しい」「寂しさがある方が、長く続きます」レオンはわずかにうなずき、もう一本に手を伸ばす。私は説明を足さない。香りが喋ることに任せる。「十本分、同じ質に?」「同じに。量は少ないままです」「最初の納品は十本まで、でいいな」机の端に置かれた書類を指で示す。小さな認可の札が付いている。「はい。反応を見て、次を決めます」「焦らなくていい」「焦ると、残り香が荒れます」レオンの口元が少しだけほどける。「比喩が多いな」「——覚え方は、人それぞれだな。」「抜けません。火で覚えたことなので」……と、短く笑い、すぐ仕事の顔に戻った。「施療院にも届けると聞いた」「この二本を。夜用と、食前用です」「一緒に行こう。現場の匂いを、私も知りたい」「……お願いします」――中庭を抜けて馬車に乗る。護衛はいるが、レオンは隣に座っただけで何も言わない。城門を出ると、街の声が近くなる。「この街を、どう見ている」不意の問い。私は窓
朝の赤は、小さく整っていた。湯の音が細く続き、布がきゅっと絞られる。メラが封蝋のついた書状を、机の真ん中に置く。蝋の色は固くて、触れた指に冷たさが残る。「……公爵邸。今日」トーリが薪を片手に、封の刻印をのぞき込む。「早いな」「行きます」気づいたら、口が先に動いていた。メラが目だけこちらに寄せる。「怖いなら、怖いって言って」「怖いのと、行くのは……別です」胸元の香守瓶を一度確かめる。栓はちゃんと閉まっている。中の灯は見えないけれど、指の中に静けさが残る。メラは何も言わず、私のエプロンの紐を結び直した。――馬車の中は揺れが柔らかく、外は薄い金色だった。トーリが無造作に布袋を渡してくる。「予備の栓と、小布と、朱」「ありがとう」「言うこと、半分でいい」メラが軽く咳払いして、私と視線を合わせる。「でも、黙らないで」「……うん」門が開く音は、細い金属の声みたいに冷たかった。空気が一段、低くなる。――執務室は、朝の白が壁で静かに伸びていた。机には二枚の紙——婚姻契約と、工房保全誓約。朱の皿が、端で薄く光る。「——来たか、ミオ・アマネ」レオン・ヴァルド公爵は、紙から視線を上げなかった。声だけが、部屋の温度を決める。「お呼びでしたので」「時間がない。街が荒れている」「工房も、です」一拍。朱の皿が、触れていないのに、かすかに鳴った気がした。「この契約は、愛ではなく責任の分配だ」「……知っています」「なら、署を」「その前に、条件を」空気がほんの少し動く。レオンがようやく顔を上げた。灰青の瞳が、私の手も、胸元の瓶も、順番に静かに拾う。「聞こう」指先が瓶に触れる。少し深く、息を入れた。「工房の名は、工房に残してください」「名義の問題か」「人の問題です。——メラとトーリの身分保障も」「二名。職能と住まいの保全、だな」「はい。あと、偽物の取り締まり……強すぎない形で」「強すぎない?」「火は、息が要るので」書記官のペン先が止まる。レオンの口角が、少しだけ動いて止まる。「納税軽減は?」「三か月。代わりに、納品の質は落とさない」「量は?」「落とします。——落とさないために、落とします」言い切らず、視線だけで受け渡す。レオンは短く息を置いた。私は小さくうなずいて、香守瓶を卓上にそっと置く。「……証拠は、うまく
朝の色は、昨日より薄かった。火皿の赤は戻っているのに、小さく静かに呼吸している。濡れた布を絞る音。薪が肩でこすれる音。隅に置かれた椅子は空のまま、光だけを受けている。「……火、今日も大丈夫そうですね」言って、湯を注ぐ。湯気がゆっくり上がっていく。メラは火から視線を外さない。「ええ。——師匠の手がなくても、火はちゃんと燃えるのね」トーリが薪を抱えたまま、顔だけこちらに向ける。「……その言い方、泣かせにくるだろ」誰も笑わないわけじゃない。息の置き場を探しているだけだ。私は湯飲みを置き、火の縁に手をかざす。まだ、少し借り物の手みたいだ。「今日の段取り、少し詰めます」メラがうなずき、帳面を指先で整えた。——昼の手前、戸口に硬い靴音が重なった。扉が開く。灰色の外套の男が、短く名乗り、さらに短い用件だけを机に置くみたいに言った。「香守瓶の納品、遅れてるんだ。代金は——」メラの指が僅かに止まる。「師匠が病の報せを受けたあとで、正式な印がまだ……」使者は眉を動かさない。「理由は聞いてない。納期は三日後だ」冷たい風が足元を抜けて、扉が閉まる。火がぱち、と小さく跳ねた。トーリが顎で外を示す。「俺、行ってくる。材料、足りてねえし」メラは即座に顔を上げる。「危ないって言ったでしょ。外、まだ風が——」「だからこそ行くんだよ」気づいたら、私の声がそれに重なっていた。「私も行きます」二人が同時に振り向く。短い沈黙。メラが息を吐いて、肩の力を少しだけ落とした。「……帰ってきたら、あんたの手で火を見てあげて」「はい」戸口で靴を履く音が、火の音と重なった。——街の色は、前より少しだけ薄く見えた。広場では荷車が途切れず、呼び声が風に千切れていく。市場の匂いは混じり合って、どれかひとつを掴めない。トーリが歩みを緩める。「……あの香り、師匠のやつだな」「え?」斜向かいの屋台から、似た匂いが立ちのぼる。甘さが先に走って、後ろにざらつきが残る。瓶の栓は固いのに、香りだけが大きい。「真似されてる」トーリが苦笑するでもなく言う。胸の底が、少しだけ熱くなる。「……本物じゃないのに」「本物を知ってるのは、俺らだけだ」言葉の温度で、体の芯がまっすぐになる。風が吹き抜け、まだ乾いていない布の匂いがすれ違う。必要な材料は思ったより手に入りにくかっ
朝の光が、瓶の面で薄く跳ねた。灰は低く静かで、火皿の赤は昨日よりやわらかい。湯の音。木のきしみ。メラが布をしぼり、トーリが薪を肩で揺らす。いつもの朝、みたいな空気。「今日の火、昨日より明るいですね」言ってから、指先で瓶の口をなぞる。ルカは火を見たまま、短く息を置いた。「火は、見てる人の心で変わる」「じゃあ……私のせいかもしれません」「それなら、悪くない変化だ」メラが笑って、棚の上を軽く叩く。「そういう日は、仕事も進むのよ。トーリ、薪は小さめ」「はいはい。師匠の火、機嫌よさそうだし」「火の機嫌じゃない。あんたの手の荒さよ」小さな言い合いに、火が小さく応える。瓶の列が、呼吸みたいに整う。――昼に寄るころ、光の色がほんの少し変わった。灰の表面が詰まり、赤の通り道が狭くなる。ルカは、しばらく黙って火を見ていた。「師匠、火が……」メラの声が低く落ちる。「ああ、風が変わっている」「風?」「天気だ。外の。……今日はあまり外に出るな」言い終えて、ルカは軽く咳をした。手を口元にあて、すぐ下ろす。誰も何も言わない。湯の音だけが戻ってくる。トーリが、薪を一本だけ差し入れた。「これで様子見ます」「いらない。灰を崩す。——ミオ、棒」渡すと、ルカの指が私の指に一瞬触れた。薄い温度。火は少しだけ通りやすくなる。「ありがとう」「礼は、火に言え」言いながら、目が笑っているようで、笑っていない。胸の奥が、少しきゅっとした。――午後、影が長くなる。ルカが棚から小さな瓶をひとつ取って、私に渡した。「中を覗いてみろ」「……灰が、光ってる?」瓶の底に、ごく細い橙が沈んでいた。火ではないのに、あたたかい。「火はな、死なない。ただ、形を変えるだけだ」「ルカさんも?」「俺は人間だ。変わる代わりに、残すものがある」返事がうまく見つからない。瓶の中の光だけが、落ち着いてそこにいる。ルカは火皿の灰をならし、棒を置いた。「あとは任せる」「……はい」声がうまく出なくて、小さくなった。メラが横からエプロンの裾で私の手を拭いた。「手が震えてる。昼、何か食べた?」「食べました。少し」「じゃ、塩舐めな。——トーリ、例の袋」「はいはい」いつも通りのやり取りに、胸の波がなだらかになる。けれど、火の奥の深さは午後のままだ。――日が落ちて、通りの音
朝より少し手前の色が、部屋の角にたまっていた。火皿の赤は夜より穏やかで、灰は薄く重なる。板が小さくきしみ、布の感触が落ち着かせる。外で荷車の軋む音。扉の隙間から、冷たい風が指先を撫でた。喉の渇きは、昨日よりずっとましだ。「……ここ、夢じゃないですよね」口に出して、少しだけ恥ずかしい。火の向こうで、背の高くない男は眉ひとつ動かさない。「夢なら、火はつかん」灰の上で赤が小さく揺れた。湯の音が続く。少しの間があって、部屋が落ち着く。「昨日……私、道に倒れてたんですよね」「ああ。夜更けの路地で。瓶を抱えてた」「瓶?」「割れてた。香りだけが残ってた」胸が詰まる。毛布の端を探す。ラベルの黒い字が浮かびかけ、湯気が視界をやわらげた。男は、こちらを一度だけ見た。視線は刺さらない。ただ静かに、こちらを見ている。「名前は?」「……ミオ。天音ミオ、です」「長いな。じゃあ、ミオでいい」名前が部屋に残った。火が、少し明るく見えた。扉が軽く揺れて、冷たい空気が細く入る。外の通りで木箱が擦れる。すぐに扉が開き、明るい声。「おはようございます。……あら、新人?」短い髪の女が、腰の紐をきゅっと締め直しながら笑う。続いて肩幅のある若い男が、薪を抱えたまま覗き込む。「拾った」火の向こうの男——ルカが短く言う。「またか。師匠の拾癖、直らないんだな」若い男が肩で笑う。女は、こちらに歩み寄って布のエプロンを差し出した。「手が動くなら、助けてもらおうかしら」「……できること、探してみます」布に触れた瞬間、喉の奥の緊張がほどける。帯を結ぶ手は、思ったより迷わない。腰に重みが乗る。体がここに馴染む。ルカが棚の端を指で叩く。小瓶がいくつか並び、ひとつだけ口が白く曇っている。「これは昨日、お前が抱えてたやつに似てる」「……そう、なんですね」「こっちでは“香守瓶(こうしゅびん)”って言う。火の香りを閉じる道具だ」白い口の縁に指の腹を当てる。冷たくて、なめらかだ。「……私も、香りを作ってました。前の場所で」「前の場所?」「……遠い国です。きっと、もう戻れません」言ってしまう。扉の向こうの空気が、少し広がる。けれど誰も驚かない。ルカは無言でうなずき、瓶の栓を渡す。「じゃあ、また作ればいい」「……簡単に言いますね」「簡単なことしか残らん。生きるっての
朝の白は、紙の上だけ硬い。窓の外はまだ淡い金色で、鳥の声はここまで届かない。香の煙が薄く立って、光を割る。机の上には二枚の紙。片方には婚姻の字、もう片方には保全の字が、刻まれた印のように沈んでいる。向かいの男は、濃紺の礼服に薄い手袋。黒髪は短く、灰青の瞳は余分な影を持たない。レオン・ヴァルド公爵。その筆先は、私の方ではなく紙の端へ向いたまま動きを止める。「……この契約は、愛ではなく責任の分配だ。そう理解しているな、ミオ・アマネ」名を呼ばれても、頷かない。指先を静かに組む。呼吸は浅く、胸の奥だけが重い。「ええ。……愛を選べるほど、余裕はもうありませんから」朱が、硝子の小皿で軽く揺れた。公爵の手が印をとり、紙の白に赤が触れる。乾いた音。朱はゆっくりと滲み、輪郭を持って止まる。「どうして、そこまでして守る」視線がこちらを探る。硬い問いではない。ただ、真っ直ぐで逃げ道がない。「——約束をした人が、いるんです」言ってから、喉の内側に熱が立つ。視界の端、紙の白が一瞬だけ橙に染まった気がした。火の色。あの夜の、奥の方でまだ消えていない灯。光が紙の白を、焦がすみたいににじんだ。朱の輪郭が少し揺れて、私の指先から力が抜ける。音が薄くなって、呼吸だけが耳のそばで上下する。遠ざかる。光が。紙が。朝の気配が。——白い光。今度の白は冷たい。蛍光灯。壁際の時計は動いているのに、ここだけ止まって見える。社名のロゴが半分剥がれかけたオフィス。机の上に積んだ請求書、試作品の瓶、画面の消えたスマホ。椅子は二つ、片方は空いたまま。守りたかった人たちの顔が、順番もなく浮かんでは消える。名前を呼んでも、声は出ていない。社員たちの名を、心の中で呼んだ。全部、私が選んだ人たちだった。「守りたかったのは……人だったのに」小さく言うと、言葉は机の縁で消えた。最後に調合した一本を、手のひらで包む。ラベルには黒いペンで「Resurge」とある。再生。笑ってしまう。こういうときの名前は、いつも少しだけ大げさだ。「……最後くらい、いい匂いに」ふたを回そうとして、滑った。瓶が机の角を越えて落ちる。その先にあるはずの音が、どこにも届かない。床も空気も、受け止めない。白いものが、薄く立ちのぼる。湯気に似て、温度がない。瓶の中に閉じ込めていたはずの匂いが、音を持たずに広がる。「……







