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転移女社長、借金工房を救うため公爵と契約結婚します
転移女社長、借金工房を救うため公爵と契約結婚します
Author: 吟色

契約の灯

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-20 11:19:46

朝の白は、紙の上だけ硬い。

窓の外はまだ淡い金色で、鳥の声はここまで届かない。香の煙が薄く立って、光を割る。

机の上には二枚の紙。片方には婚姻の字、もう片方には保全の字が、刻まれた印のように沈んでいる。

向かいの男は、濃紺の礼服に薄い手袋。黒髪は短く、灰青の瞳は余分な影を持たない。

レオン・ヴァルド公爵。その筆先は、私の方ではなく紙の端へ向いたまま動きを止める。

「……この契約は、愛ではなく責任の分配だ。そう理解しているな、ミオ・アマネ」

名を呼ばれても、頷かない。指先を静かに組む。呼吸は浅く、胸の奥だけが重い。

「ええ。……愛を選べるほど、余裕はもうありませんから」

朱が、硝子の小皿で軽く揺れた。公爵の手が印をとり、紙の白に赤が触れる。乾いた音。朱はゆっくりと滲み、輪郭を持って止まる。

「どうして、そこまでして守る」

視線がこちらを探る。硬い問いではない。ただ、真っ直ぐで逃げ道がない。

「——約束をした人が、いるんです」

言ってから、喉の内側に熱が立つ。視界の端、紙の白が一瞬だけ橙に染まった気がした。火の色。あの夜の、奥の方でまだ消えていない灯。

紙の白が、熱ににじむように見えた。朱の輪郭が少し揺れて、私の指先から力が抜ける。音が薄れ、耳の内側で呼吸だけが出入りする。

遠ざかる。光も、紙も、朝の気配も。

指先に紙の乾きが残った。

白い光。今度の白は冷たい質だ。蛍光灯。壁際の時計は動いているのに、ここだけ止まって見える。

社名のロゴが半分剥がれかけたオフィス。机の上に積んだ請求書、試作品の瓶、画面の消えたスマホ。椅子は二つ、片方は空いたまま。

守りたかった人たちの顔が、順番もなく浮かんでは消える。名前を呼んでも、声は出ていない。

私は、社員たちの名を心の中で呼んだ。

全部、私が選んだ人たちだった。

「守りたかったのは……人だったのに」

小さく言うと、言葉は机の縁で消えた。最後に調合した一本を、手のひらで包む。ラベルには黒いペンで「Resurge」とある。再生。笑ってしまう。こういうときの名前は、いつも少しだけ大げさだ。

「……最後くらい、いい匂いに」

ふたを回そうとして、滑った。瓶が机の角を越えて落ちる。その先にあるはずの音が、どこにも届かない。床も空気も、受け止めない。

白いものが、薄く立ちのぼる。湯気に似て、温度がない。瓶の中に閉じ込めていたはずの匂いが、音を持たずに広がる。

「……また、こぼした」

言葉が自分に戻ってくる。肩の力が抜け、視界の端が白に飲まれていく。壁、机、ロゴ、紙。輪郭が少しずつ甘くなって、遠のく。

世界が、少しだけ傾いた。音も、時間も、全部、別の部屋に置いてきた気がした。

机の上に置いた責任だけが、残っていた。

霞の中で、音が遠のく。

呼吸を探しても、もう見つからなかった。

光の奥から、知らない空気が触れた。

額に小さな冷えが降りた。

静けさの底で、布が擦れる音がした。

次に、木が低く鳴る。焦げた樹脂の匂い。空気の温度が違う。白はもう蛍光灯の白じゃない。朝より手前の、柔らかい白だ。

瞼を持ち上げると、窓が一つ。細い光が埃をやさしく拾って、漂わせている。板張りの床。頬には古い綿の感触。額はひんやりして、喉が乾いている。

「……無事か」

低い声。遠慮のない静けさ。反射で身を起こそうとして、膝が頼りない。椅子が音もなく引かれ、背中に手が添う。強くはないけれど、落ちないところを知っている手だ。

「あの……」

声の先が続かない。言葉にすると、何かを失いそうで。

「道端で倒れてたからな。放っておくには冷たすぎた」

その声の間に、火の音がひとつ、割り込んだ。

男は背を向けたまま、火皿の火を細い金の棒でそっと触る。皺の深い手。指の甲の古い火傷。火は怒らず、小さく揺れる。

湯がわく音。器の縁に湯気がかかる。男が差し出す。

「飲め」

両手で受けて、一口。甘さというほどではなく、喉の内側がほどける温度。

「……あたたかい」

「そうだろう」

当たり前のことを当たり前に言う声。視線が冷たくも熱くもないところに落ち着く。

部屋は小さく、壁は厚い。棚には瓶が並び、口の大小が静かに開いたり閉じたりしている。上から逆さに吊られた草束は、乾いて軽い。糸が光に細く引っかかり、風もないのに微かに揺れる。

「ここは……」

「工房だ。人の手で作るものが、残ってるだけの場所だ。」

“だけ”の言い方に、どこか誇らしい音が混じっている。器の底の小さな欠けに光が溜まり、指が影を作る。指先が落ち着く。

立とうとして、床が近づく前に腕が止めた。熱くも冷たくもない手。ちょうど良いところに置かれる。

「……すみません」

男は首を振らない。ただ、支える指が少し緩んで、空気がまた大きくなる。窓の外は昼でも夜でもない色。風の音が縫い目を撫でるみたいに通り過ぎる。

火の横に置かれた皿に、灰が薄く重なっている。男は棒で灰を崩し、火をいじる。赤と黒が、ゆっくり互いを飲み合う。

「火が消えても、また灯せばいい。そうやって続けるだけだ」

ただの習慣みたいに言うのに、胸の奥の固いところへ真っ直ぐ落ちてくる。灰の下で、何かがかすかに灯る。

毛布の端を指でつまむ。生地の重さが体の境界を教えてくれる。息をするたび、火の息が返ってくる気がした。

灯りは、消えても戻せる。戻せるなら、もう一度——

瞼が重くなり、光の白が、朝の色へゆっくり移る。遠くで、誰かが瓶を布で拭く音。小さな生活の音が、眠りの側に並んでいく。

紙の上の朱は、もう乾いていた。窓の外の光は、さっきと同じ角度で差している。香の煙は細くなって、空気に紛れた。

レオン・ヴァルド公爵が、眉をわずかに動かす。

「……何か、笑ったか、ミオ」

指先に残った温度を確かめるみたいに、印の端を見つめる。

「いえ。少し、思い出しただけです」

朱の色が、火の色に見えた。熱はもうないのに、温度だけが残っている。

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  • 転移女社長、借金工房を救うため公爵と契約結婚します   灰の街、風の欠片

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