LOGIN朝より少し手前の色が、部屋の角にたまっていた。火皿の赤は夜より穏やかで、灰は薄く重なる。板が小さくきしみ、布の感触が落ち着かせる。外で荷車の軋む音。扉の隙間から、冷たい風が指先を撫でた。喉の渇きは、昨日よりずっとましだ。
「……ここ、夢じゃないですよね」 口に出して、少しだけ恥ずかしい。火の向こうで、背の高くない男は眉ひとつ動かさない。 「夢なら、火はつかん」 灰の上で赤が小さく揺れた。湯の音が続く。少しの間があって、部屋が落ち着く。 「昨日……私、道に倒れてたんですよね」 「ああ。夜更けの路地で。瓶を抱えてた」 「瓶?」 「割れてた。香りだけが残ってた」 胸が詰まる。毛布の端を探す。ラベルの黒い字が浮かびかけ、湯気が視界をやわらげた。 男は、こちらを一度だけ見た。視線は刺さらない。ただ静かに、こちらを見ている。 「名前は?」 「……ミオ。天音ミオ、です」 「長いな。じゃあ、ミオでいい」 名前が部屋に残った。 火が、少し明るく見えた。 扉が軽く揺れて、冷たい空気が細く入る。外の通りで木箱が擦れる。すぐに扉が開き、明るい声。 「おはようございます。……あら、新人?」 短い髪の女が、腰の紐をきゅっと締め直しながら笑う。続いて肩幅のある若い男が、薪を抱えたまま覗き込む。 「拾った」 火の向こうの男——ルカが短く言う。 「またか。師匠の拾癖、直らないんだな」 若い男が肩で笑う。女は、こちらに歩み寄って布のエプロンを差し出した。 「手が動くなら、助けてもらおうかしら」 「……できること、探してみます」 布に触れた瞬間、喉の奥の緊張がほどける。帯を結ぶ手は、思ったより迷わない。腰に重みが乗る。体がここに馴染む。 ルカが棚の端を指で叩く。小瓶がいくつか並び、ひとつだけ口が白く曇っている。 「これは昨日、お前が抱えてたやつに似てる」 「……そう、なんですね」 「こっちでは“香守瓶(こうしゅびん)”って言う。火の香りを閉じる道具だ」 白い口の縁に指の腹を当てる。冷たくて、なめらかだ。 「……私も、香りを作ってました。前の場所で」 「前の場所?」 「……遠い国です。きっと、もう戻れません」 言ってしまう。扉の向こうの空気が、少し広がる。けれど誰も驚かない。 ルカは無言でうなずき、瓶の栓を渡す。 「じゃあ、また作ればいい」 「……簡単に言いますね」 「簡単なことしか残らん。生きるってのは」 言葉は短いのに、手のひらに残る。栓を回す感触が、指の節を確かにする。瓶の口から、小さな息が漏れた気がした。 薪が置かれる音。若い男がこちらを顎でさして言う。 「で、あんた何ができる人?」 「香りを混ぜるのが得意……でした」 「ここでも混ぜられるよ。灰と風と、手の匂い」 「うるさい、風呂入ってから言いなさい」 短髪の女が笑って、濡らした布を肩に乗せる。冷たさで背中のこわばりがほどける。思わず、笑いがこぼれた。 「ミオ、これ拭ける? 口が小さいから、指で回すみたいに」 「やってみます」 瓶はひとつずつ形が違う。底に光が溜まり、口の縁にうすい影。布を丸め、指で小さく円を描く。粉が舞い、空気が少し甘くなる。焦げた木と花の残り香が、ひとつに混じっていた。拭いたあと、ガラスが澄んだ。 「師匠、火、強める?」 若い男が薪を半分差し入れ、ルカの視線を伺う。 「いらん。風が変わる」 短髪の女が、布の山を抱えた私に笑いかける。 「緊張してる? 大丈夫、うちの人たち、怒鳴り声が出ない身体なの」 「助かります」 「ただし、心の声はうるさいのよ。トーリ」 「うるさいのはメラの口だろ」 どうやら彼らは、メラとトーリらしい。名前を覚える。二人のやりとりで、工房が少し明るくなる。 「……ここにいても、いいんですか」 気づいたら言っていた。メラは肩をすくめる。 「いるなら、いて。ご飯は自分の分ね」 「はい」 昼の手前、窓の外の影が短くなる。パンの匂いがどこかの家から流れてくる。メラが棚から浅い皿を出し、トーリが台に置く。私は拭き終えた瓶を一列に並べ、指で間隔を測る。詰めすぎると暗くなる。少し開けると、部屋が落ち着く。 「……上手いね」 メラが言う。観察の声だ。 「昔の癖です。物の間に空気を置かないと、落ち着かなくて」 「それ、ここでは重宝するわ」 トーリがパンをちぎって、私に放る。受け損ねかけて、胸の上でなんとか掴む。 「で、何で倒れてたの?」 メラが水を注ぎながら、わざと目を合わせない。責める調子ではない。 「……歩いてたら、急に」 言い切らずに、パンをかじる。外は硬く、中は意外と柔らかい。噛む音が近い。 「瓶はしっかり抱えてたぞ。あれだけは落とさなかった」 トーリが笑う。ルカは、火皿の灰を棒でそっと崩すだけ。 「拾われて、よかったね」 メラの声は軽い。 「……はい」 短くても、届く。パンの屑が指先につく。水の縁が唇に触れる。体の中が、少し動き出す。 午後、光の角度が変わる。私は瓶の列をもう一度見直し、棚の布を折り直す。メラは器を洗い、トーリは外で薪を割る。ルカは火の面倒を見続ける。誰の動きも急がない。急がないのに、何かが進む。 「ミオ」 振り向くと、ルカが手招きした。火皿の脇に、欠けた小瓶が伏せてある。 「ここに座れ」 座ると、火の音がよく聞こえる。灰の中に、細い赤が一筋走る。 「拾われてよかった、って思ってもいいんですか」 自分でも、なぜ今なのかわからない。ルカは答えを探さない目で、こちらを見る。 「思うなら、それが火になる」 胸の中が、少し温かくなる。 「じゃあ、消さないようにします」 口に出す。息が少し深くなる。外でトーリがくしゃみ。メラの「ほら」という声が重なる。 「それでいい」 ルカの言葉は短い。けれど、今の私には十分だ。 夜が近づくと、工房はやわらかく暗くなる。通りの靴の音はまばらになり、誰かが遠くで歌い、どこかで鍵が回る。瓶の列が静かに立っている。 今日覚えた手順を、頭の中で逆再生する。布の折り目、瓶の間隔、灰の崩し方、湯の音、パンの硬さ、笑い声の高さ。どれも大事で、難しくない。今日と同じことを、明日も続けられると思うと、胸の中の器が少し広がった。 火の光が、まだ名前を知らない私を、そっと照らした。 ルカは何も言わず、火の形だけを見ていた。朝の湯気は薄くて、火皿の赤は落ち着いていた。扉が小さく叩かれて、ギルドの使者が封書を置く。蝋はまだ温かい。「公爵邸で、初納品の前に“品質確認”を、だそうです」メラが封を切って、紙を静かに読み上げる。トーリは肩の薪を下ろし、短くうなる。「また直接か。早いな」「……行きます。確かめてもらった方がいい」言うと、メラが私の胸元を見た。香守瓶に触れる。栓は確かだ。「怖いなら、顔に出していいわよ」「大丈夫。少しだけ、緊張はしますけど」「それでいい。——行ってらっしゃい」トーリが小さな布袋を放って寄こす。「予備の栓と、小さな布と、朱。念のため」「ありがとう」馬車の揺れは静かで、窓の外は薄い金色だった。息を整えると、胸の固さが少し抜けた。――執務室は、昨日と同じ白だった。机の上には、紙ではなく瓶が十本。朱の皿は端に寄せてある。「——来たか、ミオ・アマネ」レオン・ヴァルド公爵は座ったまま、視線だけこちらに寄せた。声の温度は変わらない。「ギルドから。品質確認を、と」「契約が乾く前に、瓶が来るのは悪くない」「落としたくないので。……質を」「見せてくれ」一本、差し出す。レオンは栓を半分だけずらし、短く息を吸う。目は瓶に落ちたまま、間だけが少し伸びた。「……静かだ」「街の香りは、音が大きいので」「おとなしいと、少し寂しい」「寂しさがある方が、長く続きます」レオンはわずかにうなずき、もう一本に手を伸ばす。私は説明を足さない。香りが喋ることに任せる。「十本分、同じ質に?」「同じに。量は少ないままです」「最初の納品は十本まで、でいいな」机の端に置かれた書類を指で示す。小さな認可の札が付いている。「はい。反応を見て、次を決めます」「焦らなくていい」「焦ると、残り香が荒れます」レオンの口元が少しだけほどける。「比喩が多いな」「——覚え方は、人それぞれだな。」「抜けません。火で覚えたことなので」……と、短く笑い、すぐ仕事の顔に戻った。「施療院にも届けると聞いた」「この二本を。夜用と、食前用です」「一緒に行こう。現場の匂いを、私も知りたい」「……お願いします」――中庭を抜けて馬車に乗る。護衛はいるが、レオンは隣に座っただけで何も言わない。城門を出ると、街の声が近くなる。「この街を、どう見ている」不意の問い。私は窓
朝の赤は、小さく整っていた。湯の音が細く続き、布がきゅっと絞られる。メラが封蝋のついた書状を、机の真ん中に置く。蝋の色は固くて、触れた指に冷たさが残る。「……公爵邸。今日」トーリが薪を片手に、封の刻印をのぞき込む。「早いな」「行きます」気づいたら、口が先に動いていた。メラが目だけこちらに寄せる。「怖いなら、怖いって言って」「怖いのと、行くのは……別です」胸元の香守瓶を一度確かめる。栓はちゃんと閉まっている。中の灯は見えないけれど、指の中に静けさが残る。メラは何も言わず、私のエプロンの紐を結び直した。――馬車の中は揺れが柔らかく、外は薄い金色だった。トーリが無造作に布袋を渡してくる。「予備の栓と、小布と、朱」「ありがとう」「言うこと、半分でいい」メラが軽く咳払いして、私と視線を合わせる。「でも、黙らないで」「……うん」門が開く音は、細い金属の声みたいに冷たかった。空気が一段、低くなる。――執務室は、朝の白が壁で静かに伸びていた。机には二枚の紙——婚姻契約と、工房保全誓約。朱の皿が、端で薄く光る。「——来たか、ミオ・アマネ」レオン・ヴァルド公爵は、紙から視線を上げなかった。声だけが、部屋の温度を決める。「お呼びでしたので」「時間がない。街が荒れている」「工房も、です」一拍。朱の皿が、触れていないのに、かすかに鳴った気がした。「この契約は、愛ではなく責任の分配だ」「……知っています」「なら、署を」「その前に、条件を」空気がほんの少し動く。レオンがようやく顔を上げた。灰青の瞳が、私の手も、胸元の瓶も、順番に静かに拾う。「聞こう」指先が瓶に触れる。少し深く、息を入れた。「工房の名は、工房に残してください」「名義の問題か」「人の問題です。——メラとトーリの身分保障も」「二名。職能と住まいの保全、だな」「はい。あと、偽物の取り締まり……強すぎない形で」「強すぎない?」「火は、息が要るので」書記官のペン先が止まる。レオンの口角が、少しだけ動いて止まる。「納税軽減は?」「三か月。代わりに、納品の質は落とさない」「量は?」「落とします。——落とさないために、落とします」言い切らず、視線だけで受け渡す。レオンは短く息を置いた。私は小さくうなずいて、香守瓶を卓上にそっと置く。「……証拠は、うまく
朝の色は、昨日より薄かった。火皿の赤は戻っているのに、小さく静かに呼吸している。濡れた布を絞る音。薪が肩でこすれる音。隅に置かれた椅子は空のまま、光だけを受けている。「……火、今日も大丈夫そうですね」言って、湯を注ぐ。湯気がゆっくり上がっていく。メラは火から視線を外さない。「ええ。——師匠の手がなくても、火はちゃんと燃えるのね」トーリが薪を抱えたまま、顔だけこちらに向ける。「……その言い方、泣かせにくるだろ」誰も笑わないわけじゃない。息の置き場を探しているだけだ。私は湯飲みを置き、火の縁に手をかざす。まだ、少し借り物の手みたいだ。「今日の段取り、少し詰めます」メラがうなずき、帳面を指先で整えた。——昼の手前、戸口に硬い靴音が重なった。扉が開く。灰色の外套の男が、短く名乗り、さらに短い用件だけを机に置くみたいに言った。「香守瓶の納品、遅れてるんだ。代金は——」メラの指が僅かに止まる。「師匠が病の報せを受けたあとで、正式な印がまだ……」使者は眉を動かさない。「理由は聞いてない。納期は三日後だ」冷たい風が足元を抜けて、扉が閉まる。火がぱち、と小さく跳ねた。トーリが顎で外を示す。「俺、行ってくる。材料、足りてねえし」メラは即座に顔を上げる。「危ないって言ったでしょ。外、まだ風が——」「だからこそ行くんだよ」気づいたら、私の声がそれに重なっていた。「私も行きます」二人が同時に振り向く。短い沈黙。メラが息を吐いて、肩の力を少しだけ落とした。「……帰ってきたら、あんたの手で火を見てあげて」「はい」戸口で靴を履く音が、火の音と重なった。——街の色は、前より少しだけ薄く見えた。広場では荷車が途切れず、呼び声が風に千切れていく。市場の匂いは混じり合って、どれかひとつを掴めない。トーリが歩みを緩める。「……あの香り、師匠のやつだな」「え?」斜向かいの屋台から、似た匂いが立ちのぼる。甘さが先に走って、後ろにざらつきが残る。瓶の栓は固いのに、香りだけが大きい。「真似されてる」トーリが苦笑するでもなく言う。胸の底が、少しだけ熱くなる。「……本物じゃないのに」「本物を知ってるのは、俺らだけだ」言葉の温度で、体の芯がまっすぐになる。風が吹き抜け、まだ乾いていない布の匂いがすれ違う。必要な材料は思ったより手に入りにくかっ
朝の光が、瓶の面で薄く跳ねた。灰は低く静かで、火皿の赤は昨日よりやわらかい。湯の音。木のきしみ。メラが布をしぼり、トーリが薪を肩で揺らす。いつもの朝、みたいな空気。「今日の火、昨日より明るいですね」言ってから、指先で瓶の口をなぞる。ルカは火を見たまま、短く息を置いた。「火は、見てる人の心で変わる」「じゃあ……私のせいかもしれません」「それなら、悪くない変化だ」メラが笑って、棚の上を軽く叩く。「そういう日は、仕事も進むのよ。トーリ、薪は小さめ」「はいはい。師匠の火、機嫌よさそうだし」「火の機嫌じゃない。あんたの手の荒さよ」小さな言い合いに、火が小さく応える。瓶の列が、呼吸みたいに整う。――昼に寄るころ、光の色がほんの少し変わった。灰の表面が詰まり、赤の通り道が狭くなる。ルカは、しばらく黙って火を見ていた。「師匠、火が……」メラの声が低く落ちる。「ああ、風が変わっている」「風?」「天気だ。外の。……今日はあまり外に出るな」言い終えて、ルカは軽く咳をした。手を口元にあて、すぐ下ろす。誰も何も言わない。湯の音だけが戻ってくる。トーリが、薪を一本だけ差し入れた。「これで様子見ます」「いらない。灰を崩す。——ミオ、棒」渡すと、ルカの指が私の指に一瞬触れた。薄い温度。火は少しだけ通りやすくなる。「ありがとう」「礼は、火に言え」言いながら、目が笑っているようで、笑っていない。胸の奥が、少しきゅっとした。――午後、影が長くなる。ルカが棚から小さな瓶をひとつ取って、私に渡した。「中を覗いてみろ」「……灰が、光ってる?」瓶の底に、ごく細い橙が沈んでいた。火ではないのに、あたたかい。「火はな、死なない。ただ、形を変えるだけだ」「ルカさんも?」「俺は人間だ。変わる代わりに、残すものがある」返事がうまく見つからない。瓶の中の光だけが、落ち着いてそこにいる。ルカは火皿の灰をならし、棒を置いた。「あとは任せる」「……はい」声がうまく出なくて、小さくなった。メラが横からエプロンの裾で私の手を拭いた。「手が震えてる。昼、何か食べた?」「食べました。少し」「じゃ、塩舐めな。——トーリ、例の袋」「はいはい」いつも通りのやり取りに、胸の波がなだらかになる。けれど、火の奥の深さは午後のままだ。――日が落ちて、通りの音
朝より少し手前の色が、部屋の角にたまっていた。火皿の赤は夜より穏やかで、灰は薄く重なる。板が小さくきしみ、布の感触が落ち着かせる。外で荷車の軋む音。扉の隙間から、冷たい風が指先を撫でた。喉の渇きは、昨日よりずっとましだ。「……ここ、夢じゃないですよね」口に出して、少しだけ恥ずかしい。火の向こうで、背の高くない男は眉ひとつ動かさない。「夢なら、火はつかん」灰の上で赤が小さく揺れた。湯の音が続く。少しの間があって、部屋が落ち着く。「昨日……私、道に倒れてたんですよね」「ああ。夜更けの路地で。瓶を抱えてた」「瓶?」「割れてた。香りだけが残ってた」胸が詰まる。毛布の端を探す。ラベルの黒い字が浮かびかけ、湯気が視界をやわらげた。男は、こちらを一度だけ見た。視線は刺さらない。ただ静かに、こちらを見ている。「名前は?」「……ミオ。天音ミオ、です」「長いな。じゃあ、ミオでいい」名前が部屋に残った。火が、少し明るく見えた。扉が軽く揺れて、冷たい空気が細く入る。外の通りで木箱が擦れる。すぐに扉が開き、明るい声。「おはようございます。……あら、新人?」短い髪の女が、腰の紐をきゅっと締め直しながら笑う。続いて肩幅のある若い男が、薪を抱えたまま覗き込む。「拾った」火の向こうの男——ルカが短く言う。「またか。師匠の拾癖、直らないんだな」若い男が肩で笑う。女は、こちらに歩み寄って布のエプロンを差し出した。「手が動くなら、助けてもらおうかしら」「……できること、探してみます」布に触れた瞬間、喉の奥の緊張がほどける。帯を結ぶ手は、思ったより迷わない。腰に重みが乗る。体がここに馴染む。ルカが棚の端を指で叩く。小瓶がいくつか並び、ひとつだけ口が白く曇っている。「これは昨日、お前が抱えてたやつに似てる」「……そう、なんですね」「こっちでは“香守瓶(こうしゅびん)”って言う。火の香りを閉じる道具だ」白い口の縁に指の腹を当てる。冷たくて、なめらかだ。「……私も、香りを作ってました。前の場所で」「前の場所?」「……遠い国です。きっと、もう戻れません」言ってしまう。扉の向こうの空気が、少し広がる。けれど誰も驚かない。ルカは無言でうなずき、瓶の栓を渡す。「じゃあ、また作ればいい」「……簡単に言いますね」「簡単なことしか残らん。生きるっての
朝の白は、紙の上だけ硬い。窓の外はまだ淡い金色で、鳥の声はここまで届かない。香の煙が薄く立って、光を割る。机の上には二枚の紙。片方には婚姻の字、もう片方には保全の字が、刻まれた印のように沈んでいる。向かいの男は、濃紺の礼服に薄い手袋。黒髪は短く、灰青の瞳は余分な影を持たない。レオン・ヴァルド公爵。その筆先は、私の方ではなく紙の端へ向いたまま動きを止める。「……この契約は、愛ではなく責任の分配だ。そう理解しているな、ミオ・アマネ」名を呼ばれても、頷かない。指先を静かに組む。呼吸は浅く、胸の奥だけが重い。「ええ。……愛を選べるほど、余裕はもうありませんから」朱が、硝子の小皿で軽く揺れた。公爵の手が印をとり、紙の白に赤が触れる。乾いた音。朱はゆっくりと滲み、輪郭を持って止まる。「どうして、そこまでして守る」視線がこちらを探る。硬い問いではない。ただ、真っ直ぐで逃げ道がない。「——約束をした人が、いるんです」言ってから、喉の内側に熱が立つ。視界の端、紙の白が一瞬だけ橙に染まった気がした。火の色。あの夜の、奥の方でまだ消えていない灯。光が紙の白を、焦がすみたいににじんだ。朱の輪郭が少し揺れて、私の指先から力が抜ける。音が薄くなって、呼吸だけが耳のそばで上下する。遠ざかる。光が。紙が。朝の気配が。——白い光。今度の白は冷たい。蛍光灯。壁際の時計は動いているのに、ここだけ止まって見える。社名のロゴが半分剥がれかけたオフィス。机の上に積んだ請求書、試作品の瓶、画面の消えたスマホ。椅子は二つ、片方は空いたまま。守りたかった人たちの顔が、順番もなく浮かんでは消える。名前を呼んでも、声は出ていない。社員たちの名を、心の中で呼んだ。全部、私が選んだ人たちだった。「守りたかったのは……人だったのに」小さく言うと、言葉は机の縁で消えた。最後に調合した一本を、手のひらで包む。ラベルには黒いペンで「Resurge」とある。再生。笑ってしまう。こういうときの名前は、いつも少しだけ大げさだ。「……最後くらい、いい匂いに」ふたを回そうとして、滑った。瓶が机の角を越えて落ちる。その先にあるはずの音が、どこにも届かない。床も空気も、受け止めない。白いものが、薄く立ちのぼる。湯気に似て、温度がない。瓶の中に閉じ込めていたはずの匂いが、音を持たずに広がる。「……







