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火の底に残る音

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-20 20:08:37

朝の光が、瓶の面で薄く跳ねた。灰は低く静かで、火皿の赤は昨日よりやわらかい。湯の音。木のきしみ。メラが布をしぼり、トーリが薪を肩で揺らす。いつもの朝、みたいな空気。

「今日の火、昨日より明るいですね」

言ってから、指先で瓶の口をなぞる。ルカは火を見たまま、短く息を置いた。

「火は、見てる人の心で変わる」

「じゃあ……私のせいかもしれません」

「それなら、悪くない変化だ」

メラが笑って、棚の上を軽く叩く。

「そういう日は、仕事も進むのよ。トーリ、薪は小さめ」

「はいはい。師匠の火、機嫌よさそうだし」

「火の機嫌じゃない。あんたの手の荒さよ」

小さな言い合いに、火が小さく応える。瓶の列が、呼吸みたいに整う。

――

昼に寄るころ、光の色がほんの少し変わった。灰の表面が詰まり、赤の通り道が狭くなる。ルカは、しばらく黙って火を見ていた。

「師匠、火が……」

メラの声が低く落ちる。

「ああ、風が変わっている」

「風?」

「天気だ。外の。……今日はあまり外に出るな」

言い終えて、ルカは軽く咳をした。手を口元にあて、すぐ下ろす。誰も何も言わない。湯の音だけが戻ってくる。

トーリが、薪を一本だけ差し入れた。

「これで様子見ます」

「いらない。灰を崩す。——ミオ、棒」

渡すと、ルカの指が私の指に一瞬触れた。薄い温度。火は少しだけ通りやすくなる。

「ありがとう」

「礼は、火に言え」

言いながら、目が笑っているようで、笑っていない。胸の奥が、少しきゅっとした。

――

午後、影が長くなる。ルカが棚から小さな瓶をひとつ取って、私に渡した。

「中を覗いてみろ」

「……灰が、光ってる?」

瓶の底に、ごく細い橙が沈んでいた。火ではないのに、あたたかい。

「火はな、死なない。ただ、形を変えるだけだ」

「ルカさんも?」

「俺は人間だ。変わる代わりに、残すものがある」

返事がうまく見つからない。瓶の中の光だけが、落ち着いてそこにいる。

ルカは火皿の灰をならし、棒を置いた。

「あとは任せる」

「……はい」

声がうまく出なくて、小さくなった。

メラが横からエプロンの裾で私の手を拭いた。

「手が震えてる。昼、何か食べた?」

「食べました。少し」

「じゃ、塩舐めな。——トーリ、例の袋」

「はいはい」

いつも通りのやり取りに、胸の波がなだらかになる。けれど、火の奥の深さは午後のままだ。

――

日が落ちて、通りの音が減る。メラとトーリは市場へ走った。工房には、私とルカだけ。火皿の前に並んで座ると、火の音がよく聞こえる場所だった。

「……眠れないんですか」

「火が、眠ってくれないんだ」

「私が代わりに見てます」

「それだと、火が起き続ける」

わずかに笑って、目元に皺。声は、いつもより、少しだけ弱い。

私は瓶をひとつ持って、火のそばに置いた。香守瓶の口が、赤を静かに映す。

「この香り……残していいですか」

「ああ、残していけ」

短い返事。目を閉じたルカの横顔に、火が薄くかかる。

湯気が消えて、部屋の空気が静まる。瓶の口に手を添える。息を浅くして、混ぜ方を思い出す。焦げた木。草の乾いた匂い。ほんの少し、花の残り香。ゆっくり、閉じる。

火がゆっくり小さくなる。灰の中の赤が、ひとつ跳ねて、また沈む。

「ルカさん」

名前だけが喉にかかって、こぼれない。言葉が足りないまま、火の縁が低くなる。灰が静かに寄り合う。

最後の赤が、深く潜った。

――

朝の匂いが、外から薄く入ってきた。扉が開く足音。メラとトーリの息が少し弾んでいる。

「ただいま——って、え」

火皿は冷えて、灰が軽く重なっている。その真ん中に、昨夜の小瓶が置いてあった。中に、橙がひとつ。

「……まさか、師匠」

メラの声があまり揺れない。揺れないようにしている。

「……嘘だろ」

トーリは、言葉の先をどこにも置けないみたいだった。

私は何も言わず、瓶を両手で包む。温度が、皮膚に静かに移る。

「まだ、温かい」

メラが瓶を覗き込む。

「それ、火の守り瓶じゃ……」

「ううん。——ルカさんの声です」

メラのまつげが少しだけ下を向く。トーリは口を開き、閉じる。誰も、次の言葉を持っていない。

瓶の内側の光が、指先に触れる。灰の縁へそっと近づける。灰がわずかにほどけ、底で赤が、ひと筋だけ生まれる。息を合わせるみたいに、火が小さく立ち上がった。

メラが、ためるように息を吐く。

「……戻ってきた」

「うん」

トーリが目をこすり、鼻をすする。

「師匠、怒るかな。勝手に泣くと」

「怒らないよ」

言って、自分の声が落ち着いているのに気づく。びっくりするほど。

ルカの椅子が、隅で静かに立っている。誰も座らない。火だけがゆっくり、形を変える。

「今日の分、やろう」

メラが袖を上げる。トーリがうなずき、薪を肩に担ぐ。

私は瓶を胸に当てる。まだ温かい。棚の定位置に戻し、火皿の前に座る。

「——ミオ」

メラが呼ぶ。

「うん」

「師匠が言ってたやつ。任せるって」

「うん。……任されてます」

火皿の灰を、棒でそっと崩す。赤の通り道が開く。火が息をする音が、はっきりする。

誰かの火は、消えるためじゃなく、次の手を探すために燃えるのかもしれない。

瓶の橙が、朝の光で薄く揺れた。私は火を見る。火も、こちらを見る。息が合う。少し長く、吸って、吐く。メラとトーリの足音が、いつも通りに戻っていく。

「今日の火、昨日より——」

言いかけて、やめた。火は、答えなくても、わかっている気がした。

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