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All Chapters of 龍君の花嫁代わり: Chapter 91 - Chapter 100

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91話 蝦夷の炉火

 胆沢の里に束の間の、そして硝煙の味のする静寂が降りていた。 戦の昂ぶりは初春の夜風に削り取られ、今はただ掘立柱の家々の隙間から漏れる頼りなげな火光だけが点々と灯っている。 瑞礼は、獣の脂と煙が染み付いた自宅の厚い皮垂れをくぐった。 途端、燻された干し肉の濃厚な香りと、家屋を包む湿った熱気が肺を満たす。それは外の戦場に満ちていた鉄と内臓の生臭さとは対極にある、泥臭くも愛おしい生の臭気だった。「――兄さま!」 奥から、弾かれたように身を乗り出した影があった。 妹の瑞白だ。麻の衣に鹿皮を重ね、夜の色を映した髪を後ろで束ねたその姿は、この北の大地に根ざした野の花のように、逞しくも愛らしい。「無事だったのですね……!」 駆け寄る彼女の瞳に、瑞礼の胸当てにこびりついた乾きかけの黒ずんだ血が映る。瑞白は一瞬吐息を凍らせたが、すぐに兄の瞳の奥に宿る理性を見出し、安堵の震えを漏らした。「ああ……今日はただの小競り合いだ。心配はいらない」 瑞礼は言った。だがその言葉は、自身の喉の奥で重い泥のように停滞した。 朝廷との諍闘はもはや外交という名の均衡を捨て、純粋な殺戮へと変質している。 特に今日の敵は退き際が不気味なほどに整っていた。闇へ消えた彼らの背後には、まるで次なる刃が目に見えぬ糸で手繰り寄せられているような、確信に満ちた死の予感だけが残されていた。 瑞礼はその不吉を心臓の裏側へ押し込み、声音だけを柔らげた。「お前こそ、怖くはなかったか」「怖くなんてありません。だって、兄さまたちが守ってくれているもの」 瑞白は気丈に、あるいは自分に言い聞かせるように微笑った。「それに、今日は特別なご馳走があるんです。熊の脂身と、山菜を丹念に煮込んだ汁物ですよ」 囲炉裏の鍋が低い唸りのような音を立てている。 瑞礼は武具を解いた。鉄の重みから解放された肩が、皮肉にも、より深く沈み込むような倦怠感を覚える。火のそばに座り、凍てついた手足の末端に炉火の熱を招き入れ
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92話 夏氷の森

 雪解けの泥濘が、粘りつく黒土となって足首を絡めとる。 御影山の裾野は、ようやく長い冬の鎖を解き、肺を圧迫していた灰色の空気がわずかに緩み始めている。枯れ木立の根元には、湿った腐葉土を突き破って蕗の薹が顔を出し、死と再生が混ざり合った、生々しく瑞々しい土の臭気が立ち込めていた。 瑞礼は母禮《モレ》と数人の若き戦士と共に、濡れた獣道を深く潜っていた。 踏みしめるたびに、じゅ、じゅ、と地面が湿った呻きを上げる。大地が水分を啜り、吐き出す――その生理的な呼吸は、過酷な冬を生き延びた者たちにのみ許される、泥臭い安堵であった。「……鳥が、鳴かぬな」 先を行く母禮が、不意に歩みを止めた。幾多の戦場を潜り抜けたその背中が、微かに強張っている。 本来ならば、春の訪れを寿ぐ鳥たちのさえずりが、この森の静寂を塗り潰している時節だ。 だが今周囲を満たしているのは、鼓膜を内側から圧迫するような真空に等しい沈黙だけだった。「ええ。……気配が、死んでいます」 瑞礼は腰の蕨手刀に手を添え、薄暗い木立の深淵を射抜いた。 風が止まっているのではない。空気が、何者かの意志によって凍結し、澱んでいる。 春の吐息を運ぶはずの気流が、巨大な捕食者を前にして呼吸を忘れたかのように。「瑞礼よ。我らの策は『潜り』だ」 母禮が再び歩き出し、地を這うような低声で告げる。「数は向こうが勝る。まともにぶつかれば、我らは数で圧し潰されよう。だが、ここは我らの庭だ。深い森へ誘い込み、泥濘に足場を奪い、兵糧を絶つ。……敵が大軍であればあるほど、この黒土は奴らの五体を喰らう沼となる」「承知しております。地の利は、我らに――」 言いかけた瑞礼の言葉が、唐突に断ち切られた。 肌にまとわりついていた春の湿潤な熱気が、鋭利な薄刃で削ぎ落とされたように、一瞬で消え失せたのだ。「……なんだ、これは」 母禮の
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93話 黒き鷲の影

 泥と鉄の腐臭が、春を拒む北の山肌を重く覆っていた。 異常な冷気の源流を辿り、瑞礼たちが山中の物見櫓へ辿り着いたころには、残照は死に絶え、世界は底なしの闇に塗り潰されていた。 眼下に広がる朝廷軍の陣営。そこには数多の篝火が蠢き、大地を焼き尽くさんとする業火の網が、蝦夷の聖域をじわじわと侵食している。 朝廷軍が胆沢の地に巨大な城柵を築きつつあるという絶望的な事実。彼らは略奪者としてではなく、この大地に楔を打ち込もうとしている。「……あれが、坂上田村麻呂の軍」 隣に伏せた若き戦士が、吐く息を白く凍らせて戦慄を漏らした。「我らは、あのような鉄の怪物と戦わねばならぬのですか」「案ずるな」 瑞礼は視線を一点に据えたまま、地を這うような低声で応じた。「数は鈍重さを招く。この山の呼吸、土の脈動を知るのは我らだ。闇に溶け、風に紛れれば、巨象とて蟻の一刺しで泥に沈む」 それは、己の震えをねじ伏せるための呪文でもあった。 瑞礼の網膜は今、本陣の喧騒から隔絶された奇妙な静域へと引き寄せられていた。 そこだけ、色が死んでいる。 周囲の赤黒い松明の熱気とは断絶された、月光よりも蒼白く冷徹な光。風向きが変わるたび、鉄錆と獣脂の臭気に混じり、鼻腔の奥を鋭く刺す異質な香り――白檀。 それは戦場には不釣り合いな、高貴にして不吉な、死者を弔う経帷子の匂いだ。『――玄明親王』 阿弖流為の言葉が、耳底で氷の礫となって反響する。 帝の寵愛を受け、神祇の闇を統べる冥王。「……瑞礼殿、あれを」 夜目の利く斥候が、震える指先で蒼い陣を示した。「雪……でしょうか。あの陣の周りだけ、時が凍っている」 瑞礼は目を凝らす。 泥濘に沈む春の戦野にあって、その一角だけが、降り積もった霜のように白く浮き上がっている。 否、あれは霜
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94話 北天の星、南天の影

 胆沢に構えられた本陣の幕を潜ると、そこには獣の脂と煙、そして死を予感させる重苦しい沈黙が充満していた。 中央の炉端に、巨大な岩礁のごとき影が座している。蝦夷の首長、阿弖流為。 熊の毛皮を纏ったその肩幅は、一族の命運を支える柱そのものだが、爆ぜる炎に照らされた横顔には地割れのような憂色が刻まれていた。「戻ったか、瑞礼」 阿弖流為の声は、地底の暗渠を流れる水脈のように低く響いた。「田村麻呂の軍はどう動いている」 瑞礼は炉の火前に膝をついた。凍てついた肌が熱に触れ、ひび割れるような痛みが走る。「数は夥しいものです。奴らはこの地に根を張る巨木のごとく城柵を築き、北の風を遮断しようとしています。……ですが」 喉の奥で、言葉が鉛となって澱んだ。 脳裏に、あの蒼白い陣の残像が焼き付いている。月光に洗われた骨のように潔癖な白。心臓を直接握り潰されるような、甘美にして苛烈な痛み。「……何か、毒を喰らったか」 阿弖流為の眼光が、瑞礼の動揺を射抜く。「……異質な静域がありました」 瑞礼は、自身の内側で疼く熱を隠すように、慎重に言葉を選んだ。「本陣から離れた場所に、一つだけ。季節外れの霜に覆われ、すべての脈動すら停止した一角が。……そこに立つ男は、生の色を持たぬ、美しい形代のようでした」 阿弖流為は太い眉を寄せ、手元の木杯を握りしめた。木地が悲鳴を上げ、微細な亀裂が瑞礼の耳に届く。「……玄明親王か」「父上、あれは何なのですか。刀で断てる『人』とは思えませぬ」「ヤマトには、我らの知らぬ『理』を操る暗部があるらしい」 阿弖流為は重く首を振った。「『陰陽』――奴らはそう呼ぶそうだ」 聞き慣れぬ響き。瑞礼はその言葉を口の中で転がしてみた。刹那、脳裏にその言葉が氷の牙となって突き刺さった。
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95話 牙の継承

 荒ぶる長たちが去った後の幕屋には、熱狂の残滓と、急速に凍てつく沈黙だけが澱んでいた。 爆ぜる炭の音が、誰かの骨が砕ける音のように乾いて響く。 阿弖流為は、黒ずんだ羊皮紙の地図に太い指を食い込ませたまま、彫像のごとく凝固していた。 熊の毛皮を纏ったその背中は胆沢の山々のように雄大だった。だが瑞礼の目には、その岩肌に無数の見えない亀裂が走り、崩壊の時を静かに待っているように映った。「……瑞礼」 振り返りもせず、父が呼んだ。地底から響く、重い岩擦れのような声。「酒を。……あの連中の相手は、泥の中を泳ぐよりも骨が折れる」 瑞礼は革袋に入った濁酒を器に注ぎ、父の分厚い掌へと手渡した。 阿弖流為はそれを一息に煽る。喉が鳴り、乱暴に手の甲で口元を拭うと、肺の底に溜まった泥を吐き出すように、長く重い息を漏らした。「あの者たちの言い分も、わからぬではない」 阿弖流為は、器の底を見つめながら自嘲気味に口端を歪めた。「恐怖なのだ。見えぬ化け物を笑い飛ばさねば、足がすくんで立てなくなる。だから吠える。……だが、怯えて吠える犬ほど、その喉笛は脆い」「父上は……あの『陰陽』とやらを、どれほどの脅威と見ておられるので?」「脅威などではない。……災厄だ」 阿弖流為は、瑞礼を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、戦士としての冷徹な計算と、決して口には出さぬ絶望が混ざり合っていた。「お前が見たという、凍てついた森。そして、生ける屍のような男。……母禮の言う通りだ。ヤマトは本気でこの地を浄化しに来た。我らを人として降伏させる気はない。穢れとして、この世から削り取るつもりだ」 瑞礼の背筋に、氷柱を脊髄へ直接差し込まれたような悪寒が走る。 ――祓う。それは殲滅よりも救いのない、存在そのものの否定だ。「……私が、行きます」 瑞礼は、熱に浮かされたように口走って
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96話 泥土の誓い

 早朝の鋭利な冷気が、男たちの毛穴から噴き出す熱気で白く濁り、巨大な湯気の柱となって立ち上っていた。 胆沢の里の外れ、河原に設けられた調練場。 雪解け水を含んだ黒い泥は、踏みしめるたびにじゅくじゅくと卑猥な音を立てて足首を呑み込む。数百の素足が大地を揉みしだき、その周囲を取り囲むように、馬の蹄が湿った砂埃を巻き上げていた。 蝦夷の修練場で繰り広げられるものは、洗練された都の武芸ではない。 生きるか死ぬか、食うか食われるか。爪と牙を持たぬ人間が、獣の領域で呼吸を繋ぐために編み出した、純粋な殺傷のための所作だった。 樫の棒が肉を打つ鈍重な音。肺の底から絞り出される咆哮。 裸の上半身からは玉のような汗が噴き出し、泥と混じり合って皮膚の上を滑り落ちる。その光景は、彼らの命そのものが燃焼し、煙を上げているかのように生々しく、圧倒的な雄の臭気に満ちていた。「――っ!」 鋭い呼気と共に、瑞礼の身体が風をまとう。 対峙しているのは、冬眠明けの熊のごとき巨躯を誇る古参の戦士だ。 丸太のような腕が振り下ろす木刀の一撃。風を裂く轟音と共に迫る死の圧力を、瑞礼は真正面から受けない。足元の泥を巧みに捉え、柳の枝のように上体を逸らして、衝撃を虚空へ流す。 豪腕が空を切り、男の体勢がわずかに崩れたその刹那。 瑞礼は泥を蹴り、濡れた獣のように懐へと滑り込んだ。 男の太い喉元へ、寸止めされた木刀の切っ先。 瑞礼の乱れた黒髪から滴る汗が、鎖骨の窪みへと落ちる。あと一寸踏み込めば確実に男の頚動脈を砕き、熱い血の噴水を浴びていたであろう、紙一重の死の距離。「……いやはや、参りました」 巨漢の戦士が、荒い白息を吐きながら両手を挙げた。「若の速さには、どうにも追いつけませぬ。まるで風か、掴みどころのない水のようだ」「力で受ければ、俺の細腕など一撃で折れるさ」 瑞礼は木刀を下ろし、汗で額に張り付いた髪をかき上げた。 激しい運動に、白い肌は上気して薄紅に染まり、首筋を伝う汗が
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97話 泡沫の夢

 調練を終えた男たちの群れは、泥と脂を削ぎ落とすべく、里の奥にある天然の湯泉へと雪崩れ込んでいた。 岩の裂け目から噴き出す硫黄泉が、雪解けの川水と交じり合い、白濁した濃厚な湯煙を谷底に充満させている。 極寒の風が肌を刺す中、男たちは躊躇いなく衣を脱ぎ捨て、裸のまま白濁した湯の中へとその身を沈めた。「くぅ……生き返るわ」「骨の髄まで、熱が喰い込んで来やがる」 屈強な男たちが、母の胎内に戻ったかのような安堵の吐息を漏らす。 そこへ、湯煙の向こうから女たちの高い声が響いてきた。里の女たちが、桶や布を抱えてやってきたのだ。 泥だらけの夫の、あるいは息子の背を流す――それは、この過酷な北辺の地における、ささやかで、けれど最も平和な日常の光景だった。「あんた、また新しい傷を作って!」「うるせぇな、名誉の負傷だ。優しくこすれよ」「はいはい、じっとして」 交わされる憎まれ口と、肌を擦る水音。 立ち込める湯気が、彼らの輪郭を幻のように柔らかく包み込み、この世の苦界から切り離された桃源郷のような錯覚を生み出している。 瑞礼もまた湯に肩まで浸かり、虚ろに空を見上げていた。 凍てついた芯が熱に解かされ、張り詰めていた神経が一時だけ、死に近い微睡みへと沈んでいく。「兄さま」 鈴が鳴るような声と共に、背後に気配が立った。瑞白だ。彼女は袖を襷でくくり、手には目の粗い麻布を持っている。「背中、流しますね」「……ああ。すまない」 瑞礼が背を預けると、瑞白の小さな手が泥に塗れた兄の肌を丁寧に拭い始めた。 布が肌の上を滑るたび、生きている実感が痛覚と共に皮膚に戻ってくる。 瑞礼の背中は、他の戦士たちに比べて白く、華奢だ。だがその筋肉は、鋼の弦のようにしなやかに引き締まり、無駄な肉が一切ない。「兄さま、あまり無茶はしないでくださいね。……兄さまの体は、もう兄さまだけのものではないのですか
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98話 春を待つ灰

 宴の熱狂から剥がれ落ちるように、瑞礼と瑞白は家路についた。 外気が刃物のように鋭利な冷たさで、火照った頬を刺す。遠くから聞こえる宴の喧騒が、かえって二人の間に流れる静寂の密度を高めていた。 家に戻ると、瑞白は慣れた手つきで囲炉裏に埋もれた種火を掘り起こし、黒ずんだ鉄鍋を掛けた。 中身は、昼間のうちに用意しておいた雑穀と、塩漬けにした山菜の粥だ。 ことこと、と粘り気のある音が凍てついた室内の空気を優しく、そして切なく解きほぐしていく。「兄さま、少し飲みすぎです。顔が赤うございますよ」 瑞白が甲斐甲斐しく椀を差し出す。湯気と共に、芹に似た野草の青く鋭い香りが立ち上り、瑞礼の鼻孔をくすぐった。「ああ……面目ない。皆が注いでくるものでな」 瑞礼は苦笑し、両手で椀を包み込んだ。 宴の高揚感は夜風に削ぎ落とされ、今は鉛のような気怠さと、心地よい疲労感だけが沈殿している。「いただきます」 二人で静かに手を合わせる。 口に運ぶと、とろりと煮込まれた雑穀の甘みと、山菜のほろ苦さが舌の根に広がる。 熱い塊が食道を焼きながら胃の腑に落ちる。その感覚は酒の熱とは違う。命を養い、荒ぶる神経を泥に還すような、大地の薬湯のごとき温かさだった。 ずず、と粥を啜る音だけが、静謐に響く。 瑞礼は久しぶりに、ただの人に戻れた気がした。 剣を握る手ではなく、箸を持つ手。敵の喉元を睨む目ではなく、湯気の向こうの妹を見る目。 この何気ない食事こそが、戦士としての鉄仮面を剥がし、兄という柔らかな素顔に戻れる唯一の儀式だった。「……美味しいな」「ふふ、酔い覚ましには一番でしょう? 母様直伝の味付けですから」 瑞白が椀を置いた手で膝をさすりながら、夢見るように言った。その頬は焚き火の余韻と、温かい粥の熱で、死とは無縁の薄紅色に染まっている。「兄さま。この戦が終わったら……何をなさいましょう」 瑞礼の手が、空中で止まる。『
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99話 古き森の咆哮

――どぉん……どぉん……。 地殻の底から響くような陣太鼓の音は、夜の闇に吸い込まれることなく、むしろその重圧を増幅させていた。 それは鼓膜ではなく、肋骨の内側を直接叩く、不吉な死の律動だった。 胆沢の里は、すでに人の営みを捨て、修羅の庭へと姿を変えていた。 女子供や老人は御影山の隠し砦へと消え、瑞白もまた、何度も振り返りながら、気丈に闇の彼方へと吸い込まれていった。 残されたのは、血と鉄の匂いを纏う男たちだけだ。 主屋の前には、天を焼くほどの篝火が焚かれ、千の戦士たちが影を落としている。 皆、顔面を引きつらせ、握りしめた槍の柄が軋むほどに力んでいる。 無理もない。闇の向こうに蟠るのは、数万とも言われる朝廷の正規軍。正面からぶつかれば、巨波に飲まれる小舟のごとく粉砕される未来しか見えない。「……顔を上げろ!」 沈鬱な空気を、落雷のような一喝が切り裂いた。 阿弖流為だ。 燃え盛る篝火を背に、身の丈ほどの蕨手刀を大地に突き立てて仁王立ちしている。揺らめく炎を纏ったその巨影は、荒ぶる山の神そのもののように猛々しい。「奴らの太鼓に腰を抜かしたか? 磨き上げられた鉄の鎧に目が眩んだか?」 阿弖流為の眼光が、戦士たちの肝を射抜く。「見ろ。奴らはこの夜闇を恐れ、松明を焚き、太鼓を叩いて己を鼓舞せねば歩けぬ臆病者だ。……怯えているのは我らではない。奴らの方だ!」 ざわめきが静まり、男たちの目に、獣の火が灯る。「奴らは黄金を欲する、ただの盗人だ。だが、ここは我ら蝦夷の庭だ。泥の深さも、風の冷たさも、森の迷い路も知らぬ。……そんな連中に、この聖なる地を渡してやる道理があるか!」「応っ!!」 男たちの咆哮が夜空を焦がした。恐怖は闘争心へと変質し、熱となって冷たい夜気を震わせる。 そ
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100話 緑の迷宮

 東の空が、生肉じみた茜色に裂けた。 夜明けと共に、大地の悲鳴が始まった。地平の彼方から押し寄せる、数万の鉄靴の響き。朝霧を切り裂いて現れたのは、黄金に目をぎらつかせた朝廷の軍勢だった。 先陣を切るのは、功名心に逸る地方豪族たちの騎馬隊だ。 彼らは森の入り口で足を止めた。不気味に静まり返る原生林の闇、そこから漂う濃密な死の気配に、本能的な躊躇いを覚えたのだろう。 その淀んだ空気を切り裂くように、一騎の影が緑陰から飛び出した。「俺は阿弖流為の子、瑞礼だ! ――こっちだ、ヤマトの田舎侍ども!」 涼やかな挑発と共に現れたのは、栗毛の馬を駆る瑞礼だった。 泥塗れの戦装束。だが、朝日に照らされたその貌は、血と泥の戦場にはあまりに不釣り合いなほど白皙で、魔的な美しさを放っていた。 風に靡く黒髪、挑発的に歪められた赤い唇、そして侮蔑を含んだ流し目。それは泥沼に咲く一輪の彼岸花のように、見る者の視線を強烈に、卑猥なまでに吸い寄せた。「なっ……!?」「あれが、蝦夷の首長の息子だと!?」「なんと美しい……いや、なんと小生意気な!」 十数の豪族たちの目に、劣情と欲の色が走る。その中の一人が、涎を垂らさんばかりに手綱を強く引いた。「逃がすな! 追えっ! あの小僧を捕らえた者が一番槍ぞ! 生け捕って飾り物にしろ!」 瑞礼は馬首を巡らせ、森の奥へと駆け出した。背中で感じる無数の視線が、まるで肌を舐める舌のように貼りつく。 背後から、怒号と蹄の音が雪崩のように追いかけてくる。――朝廷の兵は勝利を求めているのではない。己の欲を満たすための略奪を求めているのだ。 それはまさに、母禮が描いた絵図通りの醜態だった。 瑞礼は馬の腹を蹴り、複雑に曲がりくねった獣道を、風となって疾走する。 枝葉が頬を打ち、泥が跳ねる。瑞礼は時折、唇を舐めて振り返っては矢を放ち、ギリギリの距離で敵を焦らす。 「捕まえられそうだ」と思わせる距離。それが男たちの理性
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