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All Chapters of 龍君の花嫁代わり: Chapter 101 - Chapter 110

117 Chapters

101話 白き災厄

 凍結した地獄の底から、死臭を含んだ冷たい風が吹き荒れた。 崖上で、呆然と立ち尽くしていた蝦夷の兵たちが、悪夢から覚めたように弓を引き絞る。「射かけろっ! あの化け物を生かしておくな!」 恐怖を裏返した怒号と共に、数十本の矢が放たれた。 狙いは正確無比。氷の庭園となった『蛇の窪』の中央に佇む、純白の男――玄明親王の心臓へと殺到する。 だが、鏃が男の皮膚に届くことはなかった。 彼が視線を向けただけで、周囲の大気が不可視の硝子壁となって渦巻いたのだ。 カラン、と乾いた音が虚しく響く。 矢はまるで、見えざる巨人の手で無造作に払い落とされたかのように、男の足元へ無力に転がった。「……ばかな」「矢が、届かない……?」 戦慄する兵たちを見上げ、玄明が口を開いた。 距離は離れている。風も吹き荒れている。それなのに、その声は瑞礼の鼓膜の裏側で囁かれたかのように、冷たく、明瞭に響いた。「……抵抗など無意味だ。俺は、お前たちに興味などない」 淡々とした、平坦な声だった。 戦場に似つかわしくない、感情の欠落した響き。そこには、殺戮者としての愉悦も、敵への憎悪も存在しない。ただの現象としての音があるだけだった。「この地を明け渡せ。そうすれば、これ以上の氷結は止まる」 その言葉に、瑞礼は眉をひそめた。 内容は降伏勧告だ。だが、その響きには、侵略者が持つはずの熱が欠けていた。 土地への渇望も、黄金への執着も、勝利への驕りさえもない。まるで、誰かに書かれた台本を、意味もわからず読み上げているかのような空虚さ。 瑞礼の背筋を、奇妙な悪寒が走る。 この男は、蝦夷を憎んでもいなければ、この地を欲してもいない。ただ「そうしろ」と命じられたから、呼吸をするように圧倒的な力を行使しているだけなのかもしれない。 その事実が、どんな殺意よりも不気味で、恐ろしかった。 だが、血気に
last updateLast Updated : 2026-02-12
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102話 沈黙する軍師

 撤退戦は、錆びた鉄と屈辱の味がした。 生き残った蝦夷の兵たちは、泥に塗れた獣のように這いずり、胆沢の砦へと帰還した。 勝ったはずの戦が、瞬きする間に悪夢へと裏返った衝撃。その恐怖が、喉元に粘つく泥のように張り付き、誰の口からも言葉を奪っていた。 夕焼けに赤黒く染まった砦の奥、軍議の間。 そこには死人の肺腑のような、重苦しい沈黙が充満していた。「……そうか。氷、か」 報告を聞き終えた阿弖流為が、肺の底から重い息を吐き出した。 その顔には、一瞬にして数十年分の老いがのしかかったような、深い亀裂が刻まれている。 瑞礼は泥で汚れた床に片膝をついたまま、拳を握りしめていた。爪が手のひらの皮膚を突き破り、滲んだ血が泥と混じり合う。「申し訳ありませぬ……。戦況は、我らに傾いておりました」 瑞礼の声が、無念に軋んだ。「母禮の策通り、我らが引きつけた敵兵は『蛇の窪』で壊滅させました。それに呼応し、和賀や黒石の援軍も、敵の先遣隊を見事に粉砕したとの報告を受けております」 作戦は完璧だったのだ。 瑞礼たちだけでなく、他の部族も善戦し、今宵は蝦夷軍全体が勝利の美酒に酔いしれるはずの夜だった。「ですが、その直後に現れたあの男が、すべてを無に帰しました」 言葉が続かない。 脳裏に焼き付いているのは、指先一つで戦場を凍結させ、勝利の熱狂を死の静寂へと変えた、あの理不尽なまでの神威。「あれは、人の戦ではありませんでした。……意思を持った、災害です」 その言葉に、地図を広げていた母禮の手が止まった。 次の瞬間。 パキリ、という乾いた音が、静寂な室内に鋭く響く。母禮が手にしていた筆が、無残に叩き折られていた。「……俺の、敗北だ」 常に氷のごとく冷静沈着な知将の声が、かすかに震えていた。「敵の数、地形、天候。すべて計算盤の上に乗せていたつも
last updateLast Updated : 2026-02-13
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103話 戦火の邂逅

 闇は、巨大な生き物の臓腑のように、生暖かく脈動していた。 瑞礼は泥と枯草にまみれ、夜の影と同化しながら、地を這う蛇のごとく進む。 目指すは、朝廷の本陣から孤立した特異点。あの蒼白い燐光を放ち、周囲の空気を凍てつかせている、玄明親王の陣である。 近づくにつれ、肌を刺す大気が変質していく。 戦場特有の鉄と脂の腐臭が消え、肺を満たすのは研ぎ澄まされた刃物のような清冽な冷気と、あの甘く重い白檀の香り。 ふと、頬に冷たいものが触れた。 見上げれば、闇の中からあり得ないものが舞い落ちていた。 雪だ。 春の芽吹く季節だというのに、その陣を中心とした円形の領域だけが、音もなく降り注ぐ細雪によって白く閉ざされている。 まるでそこだけ、季節という理が死滅し、永遠の冬に囚われているかのように。――結界だ。 瑞礼は直感した。ここから先は人の世の理が及ばぬ聖域であり、同時に死地なのだと。 見張りの兵はいなかった。いや、必要ないのだろう。 この領域に踏み込めば、常人なら瘴気に当てられて気を失うか、精神が崩壊して狂死する。 だが瑞礼は、逆に呼吸が楽になるのを感じていた。身体の奥底に眠る何かが水を得た魚のように歓喜し、どくん、と脈動を速めている。 ――そこに、いた。 篝火のない、青ざめた月光だけの静寂の中。天幕の前に、その影は在った。 雪の上に直に置かれた豪奢な椅子。そこに深く腰掛け、虚空を見上げている男。 ――玄明。 純白の狩衣は闇の中で自ら発光しているかのように白く、長く垂らした銀の髪は、月光を吸って冷ややかに輝いている。 瑞礼は息を殺し、茂みの陰からその横顔を凝視した。――美しい。 瑞礼は息を呑んだ。 それは生命の躍動を感じさせる美しさではない。凍てついた滝や、精巧に磨き上げられた水晶細工のような、触れれば指が切れ、血が凍る無機質な美貌だった。 父、阿弖流為
last updateLast Updated : 2026-02-14
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104話 暁闇の残香

 夜が白々と明けようとしていた。 胆沢の森の外れ。瑞礼は泥に汚れた足を引きずり、立ち止まった。 千切れた呼気が白く濁る。視線の先、東の地平がうっすらと、まるで古傷が開いたかのような血の色に滲み始めていた。――殺せなかった。 喉笛を掻き切る、絶好の好機だったというのに。 指先が震えている。 それは武者震いでも、恐怖によるものでもない。身体の芯に焼き付いた、あの冷徹な指先の感触が、呪いのように消えないからだ。 頬に触れられた刹那、脊髄を駆け巡った電流のような懐かしさ。そして、己の喉から勝手に迸った、聞き覚えのない名。 瑞礼は唇を、血が滲むほど強くぬぐった。――誰だ。俺は一体、誰の名を呼んだ? あれは敵だ。蝦夷を根絶やしにする災厄だ。それなのに、なぜ魂が引き裂かれるほどに、あの虚無を恋しいと叫ぶのか。「……くそっ……」 瑞礼は傍らの古木を殴りつけた。指の皮が裂け、鋭い痛みが走る。だが、その痛みさえも、頬に残る冷たい熱を打ち消すには至らない。――分からぬ。己の中に、自分でも知らぬ何者かが棲んでいる。 その事実が、死ぬことよりも恐ろしく、おぞましかった。 砦へと戻る足取りは、死刑台へ向かう罪人のように重かった。 夜が明けきれば、再びあの悪夢のような進撃が始まるだろう。今度こそ、誰もあの白き災厄を止めることはできない。 砦の裏手、人気の絶えた井戸端で、瑞礼は桶の水を頭から被った。 頭蓋を刺すほどに冷たい地下水で、頬に残るあの指の感触を、魂の迷いを、物理的に洗い流したかった。「……兄さま?」 不意に、背後から鈴の鳴るような声がした。 瑞礼は弾かれたように振り返る。 そこには、眠れぬ夜を過ごしたのであろう、やつれた顔の瑞白が立っていた。手には、瑞礼のために用意したのか、清潔な麻布が握られている。「瑞白……。なぜここに。隠し砦へ行ったので
last updateLast Updated : 2026-02-15
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105話 巨星、墜つ

 その朝、東の稜線から昇りかけた太陽は、唐突に食い殺された。 春の光を塗り潰して押し寄せたのは、季節外れの分厚い鉛色の雲と、世界を白く閉ざす猛吹雪の幕。 それは、自然の摂理による天候などではない。あの男が――玄明親王という名の災厄が、春の森に死の冬を持ち込んだのだ。 胆沢の砦に、勇壮な陣太鼓の音は響かなかった。戦意を鼓舞する鬨の声もなかった。 ただ、圧倒的な静寂だけが白い津波となって物理的な質量を伴い、押し寄せていた。 砦の物見櫓にいた兵士が、敵襲を知らせようと口を開く。だが喉から漏れたのは叫びではなく、白い霧であった。 呼気が氷晶へと凝固し、肺胞が凍てつく。瞬く間に、生きた肉体は苦悶の表情を浮かべたまま、白磁の像へと変わり果てた。 戦場にあるまじき、高貴にして甘美な白檀の毒香。それが風に乗って漂った刹那、砦の頑強な外壁は悲鳴のような軋みを上げて氷結し、その防御機能を完全に喪失した。「――逃げろっ! ここは終わりだ!」 阿弖流為の裂帛《れっぱく》の絶叫が、凍てつく空気を震わせた。 もはや戦いなどではなかった。これは駆除だ。 目に見えぬ氷の蔦が地を走り、石を砕き、逃げ遅れた者たちの足を次々と捕らえていく。生けるものすべてを拒絶する絶対零度の侵略。 蝦夷の誇りすら、音も立てずに凍りついてしまうようだった。「父上!」 瑞礼は父の元へ駆け寄ろうとしたが、阿弖流為はそれを手で制した。 差し出されたその太い腕は、すでに肘まで白く凍りつき、皮膚の下で血管までもが蒼く透けて見えている。「来るなっ! 瑞礼、瑞白を連れて逃げろ!」「しかし、父上を置いてなど!」「蝦夷の血を、誇りを決して絶やすな! 生きて……生き延びて、いつかこの雪辱を晴らせ!」 阿弖流為は残った片腕で巨大な蕨手刀を構え、迫りくる氷の波へと仁王立ちになった。 その背後には、まだ逃げ遅れた女子供や老人たちがいる。彼らを裏山へ逃が
last updateLast Updated : 2026-02-16
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106話 雪を染める赤

 御影山の獣道は、白銀の地獄と化していた。 膝まで埋まる季節外れの新雪。吹き荒れる暴風雪が視界を奪い、生きとし生けるものの体温を、鉋で削ぐように容赦なく奪っていく。 瑞礼と瑞白、そして生き残った十数名の兵たちは、獣のように四つん這いになりながら、泥と雪にまみれて裏道を進んでいた。 だが、背後から迫る死神の足音は、確実に鼓膜を揺らし始めていた。雪に残される足跡は消しようがない。彼らは白い紙の上に落とされた墨の滴のように、あまりに目立ちすぎていた。 瑞白の足がもつれ、雪の中に倒れ込む。 喉からは笛のようなか細い音が鳴り、限界を超えた肺が悲鳴を上げている。瑞礼は雪を掻き分けて駆け寄り、抱き起こそうとしたが、自身の手も感覚がなく、震えて力が入らない。「若……。瑞白様をお連れください」 声をかけてきたのは、かつての宴で生まれたばかりの赤子を瑞礼に抱かせてくれた、あの若い戦士だった。 彼の顔色は土気色で、肩には深い矢傷を負い、どす黒い血が雪に滴り落ちて、不吉な花模様を描いている。「伊佐西古、傷が……」「これ以上は、足手まといになります」 伊佐西古は血の気の失せた唇で、弱々しく、けれど誇らしげに笑った。「俺たちがここで、奴らを食い止めます。その隙に、若たちは先へ」「何を言う! お前には子が……家族が待っているであろう!」 瑞礼が叫ぶと、伊佐西古は懐から小さな布切れを取り出した。赤子の涎掛けだ。 彼はそれを愛おしげに握りしめ、鼻を寄せた。そこには、鉄と氷の匂いに満ちたこの戦場には存在しないはずの、甘い乳と日向の匂いが残っている。「ええ。女房と赤ん坊は……先に逃がしました。今ころは、隠し砦の近くまで辿り着いているはずです」 伊佐西古の瞳に、温かな光が宿る。「だからこそ、ここを通すわけにはいかんのです。奴らがここを抜ければ、俺の家族にまで刃が届いてしまう」 彼は涎掛けを懐深く、心
last updateLast Updated : 2026-02-17
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107話 宿命の深淵

 追い詰められた。 雪に覆われた獣道の果て、視界が開けた先には、絶望的な断崖が口を開けていた。 龍ノ淵。 底知れぬ地底へと続く、巨大な奈落だ。吹き上げる風が、地獄からの招きのように二人の髪を煽り、死の匂いを運んでくる。「……ここまでか」 瑞礼は肺を刺すような冷気を吐き出し、妹を背に庇って振り返った。 雪を踏みしめる下卑た足音と共に、追っ手の兵たちが姿を現した。 伊佐西古たちが命を賭して稼いだ時間を食らい尽くし、ここまで辿り着いたのだ。彼らの鎧は返り血で汚れ、その目は功名心と欲望で濁っている。「いたぞ! 阿弖流為の息子だ!」「女もいる。上玉だぞ、生け捕りにしろ!」 兵たちが、獲物を追い詰めた狼のようにじりじりと包囲を狭める。 瑞礼は蕨手刀を構えたが、腕は鉛のように重く、指先は凍傷で感覚がない。 万事休す。瑞白だけでも逃がしたいが、背後は断崖、前は敵。逃げ場など、どこにもない。「観念しろ! その首、帝への手土産にしてやる!」 先頭の男が槍を突き出し、瑞礼へと飛びかかろうとした、その刹那。「――退け」 氷の刃で空気を裂くような、冷徹な声が響いた。 同時に、むせ返るような獣臭と血の匂いが、瞬時にして高貴な白檀の香りに塗り替えられた。 音もなく雪上に舞い降りたのは、純白の影。 ――玄明親王。 泥と血にまみれた兵士たちの中にあって、その姿は異様なほどに潔癖で、神々しいまでの美しさを放っていた。「げ、玄明様……!?」 朝廷の兵士たちがたじろいだ。「こ、これは我らが見つけた獲物で……」「黙れ」 玄明は羽虫を見るような目で兵士たちを一瞥する。「俺の視界を塞ぐな。……それに、その汚らわしい手で俺の獲物に触れるな」 絶対的な拒絶。
last updateLast Updated : 2026-02-18
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108話 魂の半身

 叩きつけられた衝撃で、世界が白く弾けた。 氷のように冷たい水塊が、瑞礼の全身を殴打した。 肺の中の空気が一瞬で搾り出され、代わりに鉛のように重く、死の味のする水が気管を逆流してくる。 深き龍ノ淵の底にある地底湖。 水深は計り知れない。絶対的な重力と水圧が、二人を暗い水底へと引きずり込んでいく。 意識が白濁しかけた瑞礼の腕を、何者かが万力のような力で引いた。 ――玄明だ。 彼は水中でもがきながら、瑞礼の腰を抱き寄せ、水面へと向かって力強く水を蹴った。「はっ、ぁ……っ!」 激しい水音と共に、二つの影が浮上した。 瑞礼は肺を痙攣させながら、岸辺の岩場へと這い上がる。玄明もまた、水を吸って重くなった狩衣を引きずるようにして、濡れた岩盤の上に崩れ落ちた。 そこは、巨大なすり鉢状の空洞だった。 頭上遥か彼方、切り取られたような天井の穴から、雪交じりの蒼白い光が、墓標を照らす月光のように差し込んでいる。 完全なる静寂。岩肌を伝う水滴の音だけが、永遠を刻む時計のように響く場所。「……ここを、知っている」 不意に、玄明が低く唸った。 その声は震えていた。寒さからではない。魂の深淵から湧き上がる、抑えきれない記憶の熱に、器が耐えきれず軋んでいる音だ。 彼はゆっくりと上体を起こし、濡れた白銀の髪を乱暴にかき上げた。その双眸が、暗闇の中で妖しく燐光を放っている。「そうだ……。俺はここで眠っていた。永い、永い時を……泥のように……」 玄明が顔を上げ、瑞礼を射抜く。 その瞳孔は、もはや人のそれではなかった。爬虫類のように縦に裂け、金紅色の輝きが狂気じみた光度を増している。 美しくも空虚だった人形の仮面が内側から砕け、太古の荒ぶる神気が、血飛沫のように溢れ出そうとしていた。 そして、それは瑞礼も同じだった。 龍ノ淵の冷たく
last updateLast Updated : 2026-02-19
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109話 凍りついた翼

「兄さまぁっ!」 悲痛な叫びが、頭上から降り注いだ。 それは、二人が泥と体温の中で作り出していた微睡みの膜を、鋭利な刃物のように切り裂いた。「……っ!」 瑞礼は弾かれたように目を見開いた。 目の前には、魂の奥底が待ち望んでいた緋宮の顔がある。唇に残る痺れるような熱も、身体を重ねた背徳的な感触も鮮明だ。 だが、その泡沫の夢はもう終わりだ。現実が冷たい水音と共に戻ってきた。 瑞礼は緋宮の胸を押し、濡れた岩場の上体を起こした。 見上げれば、遥か彼方の崖の縁に、豆粒のような人影が見える。瑞白だ。 まだあそこに留まっていたのか。「瑞白……っ!」 瑞礼は声を張り上げた。妹を手元にたぐり寄せるように、虚空へ手を伸ばす。しかし、その距離は絶望的だった。「……瑞礼」 緋宮が気遣うように名を呼ぶ。瑞礼は振り返り、必死の形相でその冷たい手に縋り付いた。「緋宮様、お願いします。あなたの力で、ここから出られませんか!」 瑞礼の言葉に、緋宮が怪訝そうに眉を寄せる。「ここから……?」「はい! 緋宮様の力で、瑞白を……いえ、残された民を助けるのを手伝っていただきたいのです。あなたほどの力があれば、ヤマトの兵など一撫ででしょう!」 瑞礼は祈るように緋宮を見つめた。 先ほど、砦を一瞬で氷漬けにしたあの絶大な神威。あれがあれば、戦況など一瞬で覆る。瑞白も、里の仲間も救えるはずだ。 緋宮は災厄などではない。 この御影山の主であり、守護神なのだ。そう、信じたかった。 しかし、緋宮の美貌に浮かんだのは力強い肯定ではなく、苦渋に満ちた陰りだった。「……できぬ」「え……?」 緋宮は自身の手のひらを睨みつけ、ぎり、と歯を食いしばった。「力が……
last updateLast Updated : 2026-02-20
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110話 偽りの仮面

 遙か頭上で揺らめく松明が数を増していく。瑞礼たちの足跡を辿ってきたのであろう。雪道に残された痕跡は、隠しようもなかったのだ。――瑞白が危ない。 瑞礼の胸が万力で締め上げられるように痛む。瑞白は逃げ切れるだろうか。もしや、もう捕らえられてしまったのか。それとも――。 しかし、瑞礼の焦燥とは裏腹に、朝廷兵たちが動き出す気配はなかった。彼らは崖の縁を行き来し、底の様子を窺っているようだ。 やがて数本の松明が投げ込まれ、淵の底を赤く照らし出した。崖上から兵たちのざわめきが降ってくる。「おい、やはり底に誰かいるぞ!」「あの白い狩衣……間違いない、玄明親王殿下だ!」「生きておられたぞ! 坂上将軍にお知らせしろ!」 朝廷兵たちは、まだ事態を正確に把握していないようだ。 彼らにとって玄明は味方であり、丁重に扱うべき高貴な存在だ。まさか正気を取り戻し、その身に龍の魂を宿しているとは夢にも思わないだろう。 緋宮は瑞礼の肩を抱き寄せ、耳元で鋭く囁いた。「……好機だ」「え?」 瑞礼が見上げると、緋宮の瞳には冷徹な計算の光が宿っていた。「奴らは俺が『玄明』のままだと思っている。……このまま芝居を打つ」「芝居、ですか」「ああ。俺が命じれば、奴らは縄梯子か籠を下ろすはずだ。それを使って上へ戻る。……この結界の外へ出さえすれば、こちらのものだ」 緋宮の口元が、獰猛に歪んだ。「地上へ出た瞬間、奴らを皆殺しにする。……一人残らず、氷漬けにしてやる」 それは神の策というよりは、生き残るために手段を選ばぬ獣の狡猾さだった。だが、今の彼らにはそれしか道はない。 瑞礼の胸臆がずきり、と痛む。 緋宮が再びその手を血で染める。その光景を想像するだけで、本能的な恐れと悲しみを感じたからだ。「ですが……」 言いかけた瑞礼の言葉を遮るよ
last updateLast Updated : 2026-02-21
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