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61話 あいだに立つ者の痛み

 瑞礼と緋宮の沈黙の間を、都特有の脂を含んだ生ぬるい風が吹き抜けていた。  やがて、瑞礼は唇を開く。言葉は乾いた喉に張り付いて、うまく音にならなかった。 「……では、緋宮様は、どうされるおつもりなのですか」 「さあな」  緋宮は縁に背を預け、天井を仰いだ。薄い板の向こうで、風が家の骨組みを揺らすように軋んでいる。「人は、御影山の理を気に入ったのだろう。  龍ノ淵を『国の聖なる縁』と呼ぶなどと言い出したあたりから、嫌な予感はしていた」 瑞礼は、胃の腑に冷たい石が沈むのを感じた。「……昼間、中臣様が仰っていた、『新たな縁』というのは」 「淵の理を、ここへ写そうとしているのかもしれん」  緋宮は静かに、けれど確信を持って言った。「龍が鎮まるための座。それをこの地にこしらえれば、『龍は都に留まった』という欺瞞の物語が完成する」  その底へ沈められるのは、いつだって誰かだ。その現実が、瑞礼の胸を重く圧迫する。 御影山の淵では、幾人もの贄が水の底へ沈んでいった。今度は、この都で。宮中のどこかに、新たな淵をこしらえ、その底へ――。  想像するだけで喉が引きつる。瑞礼は唾を飲み込んだが、乾きは癒えなかった。「そんなこと、させては――」  言いかけたところで、緋宮が首を振った。「暴れれば、止められるかもしれん」  ぽつりと落とされた言葉だった。 「俺が都の空ごと裂き、風と水でこの御所を洗い流せば、そんな儀礼の座など、簡単に壊せるだろう」 瑞礼は思わず息を呑んだ。御影山で見た雷よりも、昨夜の風よりも、今その言葉の方がよほど恐ろしく、そして甘美な誘惑のように聞こえた。「だが」  緋宮はゆっくりと目を閉じた。 「それもまた、『守るために滅ぼす理』だ。  御影山で人がやってきた愚行を、俺が己の手でなぞることになる」 しばしの沈黙。「俺はもう、その役を引き受けたくない」  その告白は、呟きよりも小さかったが、瑞礼
last updateÚltima atualização : 2025-12-26
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62話 縁のかたち

 その夜、内裏の一隅は昼の熱を澱のように引きずったまま、妙に息苦しく沈んでいた。 中臣国子は、灯をひとつだけともした小室に籠もり、几帳の陰で筆を動かしていた。机の上には、星の巡りと風向き、豪族たちの訴えと和睦の経緯を書き留めた札が、墓標のように無数に重ねられている。  その一枚一枚をめくるたび、このひと月で龍の風がどれほど都の揺れを抑えてきたかが、嫌でも分かるのだった。 障子の外を、遠い笑い声と杯の触れあう音がかすめていく。即位から日が浅いゆえか、殿ごとに酒宴が続いているのだろう。国子は耳を閉ざし、筆先を硯の漆黒へ沈めた。墨がひと筋、紙の上へ落ちる。そこに書きつけたのは、『縁』の一字だった。 そのとき、控えの者がそっと戸を叩いた。 「中臣様。蘇我大臣がお見えです」 「通せ」  襖が開き、広い肩幅の男が影を揺らして入ってきた。厚い眉の下で、馬子の目が深淵のように暗く光る。 「夜分に恐れ入る」 「こちらこそ、大臣を呼び立ててしまいましたな」  国子は立ち上がり、深く頭を下げた。馬子はそれを軽く片手で制し、机の向かいへ腰を下ろす。「……昼の御前、御苦労であった」  馬子は低く言った。 「大王様のお言葉は、まことに真っ当であられた。約を守ろうとされる御心は、疑うべくもない」 「ええ」  国子は頷いた。筆を持つ指に、わずかに力が籠もる。 「だが、それだけでは済まされぬところまで、もう来てしまっております」 馬子は黙って、机の上の札へ目を落とした。豪族たちの名が、そこかしこに黒く並んでいる。 「このひと月で、どれだけの訴えが消えたか。どれだけの血が流れずに済んだか」 「龍の風のおかげ、というわけだな」 「左様です」 国子はかすかに、自嘲めいた笑みを浮かべた。 「皆、大王様の御徳と口では申しておりますが、胸の内ではこう囁いている。『龍が天へ押し上げた』と」  馬子の口元にも、薄い氷のような冷笑が浮かんだ。 「そして、『龍がいな
last updateÚltima atualização : 2025-12-27
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63話 言の葉の呪縛

 我らが守るべきは、国の理――。自ら口にしたその言葉は、国子自身に刺す楔のようだった。「このまま龍を返せば、噂は暴れます。『龍に見放された大御門』『龍は皇子の側へ移った』。  それを抑えようとして、また別の神や仏を呼び、人を贄として裂く理が繰り返されるでしょう」 国子は、筆を握り直した。 「ならば、こちらから理のかたちを新たに設けるしかございません。『これ以上、民を犠牲にせぬため』と名を付けて」「……名は、どうする」  蘇我馬子は、現実に引き戻すように問うた。 「『贄』では、大王が承知なさるまい」 「そうですな」  国子は思案するように視線を宙に泳がせる。 「“花嫁”とでも呼びましょうか。龍と人とのあいだに立ち、理を支える者――そう謳えば、耳触りは悪くない」 馬子が、くく、と喉の奥で嗤った。 「言葉は、時に刀より強いな」「言葉で理を縛るのが、我ら中臣の役目ですから」  国子は淡々と返した。 「儀の形は、陰陽師と僧を交えて整えましょう」「大王には、どう申し上げる」  馬子の問いに、国子は短く息を吸った。「まず、『龍を返す』というお心を否定はいたしません」  言葉を慎重に並べる。 「ただ、その前に、『ここに留めてゆけるものをひとつだけ遺していただきたい』と願い出るのです。  御影山の理の一片を、この都の底に留めたいと――蝦夷たちの間では、その役目を『花嫁』と呼ぶと」「……龍神の花嫁、というやつか」  馬子の目が細くなる。 「その『花嫁』という役目を、この都にも置くと?」 「はい」  国子は頷いた。 「御影山と里とのあいだに立った者。いまは御影山とこの都とのあいだに立っている者。  その者を、ここでも『花嫁』と呼び、この都の座の底へ据えるのです」「瑞礼を、その名で呼ぶわけだな」 「はい」  国子は頷いた。 「龍神の風が、この都に吹き続けることが、
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64話 花嫁と呼ばれる男

 翌朝の空は、澄んでも濁ってもいなかった。ただ死に損ないの薄布を一枚かぶせたような、輪郭のぼやけた光が御所の屋根を撫でている。 瑞礼はいつものように井戸へ向かった。桶を抱え、石段を降りる。水を汲み上げるたび、縄の軋む音が誰かの悲鳴じみてやけに耳につく。 都へ来てからひと月を過ぎた。手は井戸の冷たさにも慣れたはずなのに、その朝の水は妙に骨の髄まで沁みて、思わず手のひらを擦り合わせる。指先の感覚が、なかなか戻らなかった。 対屋へ戻ると、緋宮はいつものように縁に腰を下ろしていた。池は薄い雲を映したまま、底の見えない沈黙を保っている。風は弱く、縁の下をくぐるときだけ、かすかに獣のような音を立てる。「……水を、お持ちしました」  瑞礼が桶を置いて頭を下げると、緋宮はわずかに頷いただけだった。その横顔は昨夜よりもさらに影が深く、彫像めいていた。 火を起こし、粥を温める。干した果実を少し千切って器に盛る。いつもと同じ手の動きなのに、ひとつひとつが、どこか他人の仕事のように感じられた。自分の体が、自分のものでなくなっていくような錯覚。 粥を緋宮の前に置こうとしたとき、廊下の方で足音が鳴った。 「御影山の主よ」  控えめな声が戸口の向こうから響いた。若い侍臣だ。昨日、御前へと案内した男と同じ声だった。 「大王様が、御影山の主のお働きに改めて御礼を申したいと仰せです。昼の刻、御前にお出ましくださるよう。刻が定まり次第、あらためてお迎えに参ります」 緋宮は振り返りもせず、「承知した」とだけ答えた。侍臣が頭を下げて去っていく。戸口の影が、静かに元の形に戻った。 瑞礼は緋宮の横顔を盗み見た。 「……御前に、出られるのですね」 「ああ」  緋宮は短く答え、再び池の方へ視線を戻した。 「約のことも、そこで決まるだろう」 瑞礼は何か言いかけて、唇を噛んだ。そのとき、また別の足音が少し急いた調子で廊下の奥から近づいてくる。「蝦夷の瑞礼殿は、おられるか」  さきほどとは違う、少し年嵩の|侍臣《じしん
last updateÚltima atualização : 2025-12-30
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65話 あいだに立つ理

「御影山の……理」  瑞礼の乾いた唇から、うわごとのような声が漏れた。「はい」  国子は静かに頷いた。 「龍ノ淵。神々が龍神を封じるための座。その冷徹な仕組みのことです」  言いながら、瑞礼の顔をじっと見つめる。その視線は品定めをするように冷ややかだった。  氷の湖。白い花。水底へ沈んでいった者たちの影。そして里で花を摘む瑞白の姿が、瞬きのあいだにいくつも重なって、瑞礼の目の裏側を幻覚のように焼いた。 国子はかすかな、能面のような笑みを浮かべて続ける。 「贄を捧げ、龍神の怒りを鎮める。人の理もまた、その淵を軸に回る――そうでしょう」 瑞礼は答えられなかった。違う、と言いたかった。緋宮はそんなものを求めていたわけではないと。けれど、それを言えば、里で沈められていった者たちの死を、無意味なものとして否定することになる気がした。「わたくしたちは、その理を借りたいのです」  国子の声が、鼓膜を撫でるように低くなった。 「御影山と里とのあいだに立った者。今は御影山とこの都とのあいだに立っている者」  言葉を区切るように、一歩、瑞礼に近づく。足音すらしない。 「その者を、この都の座の底へ据える」 瑞礼の喉が、引きつった音を立てた。いま誰のことを指しているのか、分からぬほど愚かではなかった。「……わたしを」  掠れた声で、ようやく絞り出す。 「わたしに、何をしろと……」 国子はためらわず、宣告するように答えた。 「瑞礼殿。そなたは龍ノ淵へと献じられた贄でありながら、喰われることなくあいだに立った者。御影山と里とのあいだを繋ぎ、今は御影山とこの都とのあいだを繋いでいる、唯一の楔です」 大王が、小さく息を呑む音がした。「龍神の座そのものを、無理やりこの都へ引きずり下ろすことはできません。ですが、御山と都とのあいだに、新たな橋を架けることはできる。その橋脚として、そなたを据えるのです。  そなたの身と名を、この都の底に鎮めることで、龍神の風は、これからもこの都に通い続けるでしょう」
last updateÚltima atualização : 2025-12-31
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66話 残り火の歩み

「……わかりました」  その声は、瑞礼自身、自分のものだとは思えないほど沈んだものだった。乾いた何かが喉の奥で割れ、その欠片だけがことりと床に落ちたような響き。 大王がわずかに肩を震わせた。目は瑞礼を見ているようでいて、どこか少しだけ外れている。瑞礼の左肩のあたり、あるいは背後の空気の一点を、必死に見据えようとしているかのようだった。 「……そう、ですか」  しばしの沈黙ののち、大王のかすれた声が落ちた。 「龍よ、どうか……」  その言葉は最後まで形にならず、唇の内側でほどけていった。 横に控えていた中臣国子だけが深く頭を垂れたまま、静かに息を吐いた。 「大王様の御心、しかと承りました」  顔を上げたとき、その目はどこまでも澄んで見える。ただその澄明さが、瑞礼には底の見えない水面のように思えた。映るのは空虚だけだ。「瑞礼殿」  国子がこちらへ向き直る。 「これより、そなたの御身を清めさせていただきます。穢れなき身と名として、龍神と都とのあいだに立っていただくために」  言葉は柔らかいが、その中に抗いようのない鉄の硬さがあった。 背後で襖が開き、女嬬たちが控えめに頭を下げる気配がする。 「浴殿の支度は整っております」  誰かがそう告げた。その声には、人間に対する温かみが欠けていた。 大王は、ようやく瑞礼を真っ直ぐに見た。その目には、決して言葉にならない何かが、薄い痛みのように滲んでいる。 「……すまぬ」  そう口が動いたようにも見えたが、瑞礼の耳には届かなかった。 瑞礼は深く頭を垂れた。 「行ってまいります」  言葉は奇妙に澄んで落ちた。自分の口から出た声音だという実感が、どこか遠い。まるで、操り人形が喋っているようだ。 国子の合図で、女嬬たちがそっと瑞礼の腕のあたりへ寄ってくる。触れそうで触れない距離。それは高貴なものへの配慮か、それとも穢れへの忌避か。 「こちらへ」
last updateÚltima atualização : 2026-01-01
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67話 白衣の枷

 案内された浴殿は御所の端の小さな庭に面していた。石を敷き詰めた地面の向こうに、低い塀と一本だけ植えられた名前も知らぬ樹木。その枝には、朝露の名残なのか透明な滴が、首を吊るようにいくつもぶら下がっている。 女嬬たちが、瑞礼の肩から静かに衣を外した。布の擦れる音がやけに大きく、皮を剝がれる音のように感じられる。 湯は熱すぎず、冷たすぎず、ただ体温を少しだけ奪う不快なぬるさだった。  龍ノ淵に湧いていた温泉を思えば、こんなものは死んだ水に過ぎない。だが湯に触れたところから順に、妙に冷めた現実を取り戻していくようだった。「穢れを洗い流し……」  ひとりの女嬬が、小さく決まり文句を唱えた。 「花嫁の御身を清め奉る」 花嫁――その言葉が瑞礼の濡れた肩の上で、粘液のように跳ねた。 「花嫁……?」 女嬬たちが瑞礼に答えることはない。  瑞礼の肌に触れる手つきこそ慣れているが、その目はどこか瑞礼自身を見ていない。視線は泳ぎ、彼の頭の上か、耳の横の空気を見ている。恐れているのか、距離を取ろうとしているのか、それともただ、こうするしかないと自分に言い聞かせているのか。「髪も、清めさせていただきます」  背中にまわった指先でゆっくりと梳いていく。黒い髪が水を含んで重くなり、藻のように湯の面に薄い影を作る。 瑞礼は目を閉じた。  里の朝の空気を思う。低い家々の屋根。雪解けの泥の匂い。瑞白が泉で背中を流してくれた日。薪を割る音。  あの小さな世界もまた、今は龍ノ淵と都との理の綱に結びつけられ、瑞礼の首を絞めているのだ――そう思うと、胸の奥がひりついた。 緋宮のことを思う。龍ノ淵で冷たい指先を握ってくれた時の感触。風の匂いを確かめるように目を閉じる横顔。昨夜、「俺より先に己の身を守れ」と言ったときの、あの目。  今、自分がここで「助けてくれ」と叫べば、緋宮はきっと気付いてくれる。理などどうでもよいとばかりに、御所の屋根ごと空を裂くかもしれない。 その姿を想像した瞬間、瑞礼はぞっとした。
last updateÚltima atualização : 2026-01-02
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68話 龍の座

 浴殿を出るころには、空の色がわずかに変わりはじめていた。 朝と昼とのあいだの色。澄んだ青からこぼれかけた未練のような光が、御所の屋根の端を静かに撫でていた。 瑞礼は白い装束の裾を踏まぬよう気を張りながら、先を行く侍臣の背を追った。 手首に巻かれた紐が、自分の脈と同じ速さで静かに跳ねている気がする。耳元の小さな輪が歩みのたびに鳴り、聞こえるか聞こえぬかの音で瑞礼自身の行き先を告げていた。 廊の柱影に、ときおり人影が揺れる。陰陽師の白と黒、僧の衣の鈍い色。 誰もが瑞礼を見ると、一瞬だけ動きを止め、深く頭を垂れた。その礼は、神へ捧げる敬意なのか、死に行く者への憐憫なのか、瑞礼には判別がつかなかった。 やがて、小さな裏庭へ出た。そこには低い祠のようなものがひとつ、ひっそりと建っている。屋根は周囲の殿よりも低く、軒下には人の手で積み上げた石が黒々と露出している。戸口の前に据えられた灯だけが、まだ明るい空の下ですでに火をともされている。「こちらに」 侍臣が戸を開けると、冷たい空気が顔を撫でた。 中はすぐに石の階で、下りになっている。灯の匂いより先に立ちのぼってきたのは、湿った土と水の気配だった。 龍ノ淵の前に立ったときとはまったく違う。あちらは雪と氷、そして風。こちらには人の汗と煤、閉じ込められた水の腐臭が混じっている。 瑞礼はひとつ息を呑んでから、石段を降りた。 下りきった先は、思いのほか狭い石室だった。四方の壁は粗く削った石で囲まれ、天井は圧迫するように低い。 石室の中央には円形の水盤が据えられている。大人ひとりが立てるほどの広さの円。縁は背の低い石で囲われ、その内側には暗い水がたたえられていた。 水は深さを見せず、かすかな灯の光だけを歪めて飲み込んでいる。龍ノ淵の湖とは違う。天の色を映さない盲目の水だった。 水盤の手前には、石の座がひとつだけ据えられている。その上に、中臣国子が座していた。 白と浅葱を重ねた装束に冠の黒。左右には、幾人かの陰陽師と僧が控えている。僧たちの読経の声が石室の壁に当たり、低く重なって揺
last updateÚltima atualização : 2026-01-03
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69話 花嫁の血

「瑞礼殿」 国子が再びこちらを向いた。「そなたは、御影山の淵で一度は身を捧げる覚悟をなさった方。今一度、その覚悟をこの都にもお貸しいただきたい」 瑞礼は白い裾を揺らしながら、一歩、前へ出た。 足音が思っていたよりも小さく響く。耳元の輪がしゃら、と鳴った。 御影山の淵では風が背を押した。今ここでは誰も押さない。ただ、自分の足だけが石の上を進む。 水盤の縁まで来ると、国子が手で合図をした。「そのまま、中央の石へお上がりください」 水盤の中には、石を渡した小さな足場がひとつある。そこに立てば、周囲を水に囲まれる形となる。 瑞礼は縁に手を添えて、その石へと足を移した。白い装束の裾が、水の上すれすれに揺れる。水面には自分の姿が薄く歪んで映っていた。 淵を覗き込んだときのように、底は見えない。ただ灯の光が一筋、黒い中に差し込んでいるだけだ。龍ノ淵の深さは星を映していた。それなのに、ここは――。「龍神よ」 国子の声が背後から響いた。「御影山の主よ。どうか、その御怒りを鎮め、この都と御山の淵とを見守り給え」 僧たちの声が重なる。陰陽師の唱える祝詞が、龍ノ淵で聞いた祈りの断片とどこかで似ている。 瑞礼は目を閉じた。意識の端で、どこか遠くの風の気配を探そうとする。――緋宮様。 呼べば、きっと気づいてくれる。 御影山から引かれたこの水を伝ってでも、あの人ならここへ来られるかもしれない。石室の天井を壊し、上の殿を吹き飛ばし、都の空を裂いてでも。 その光景を想像したとき、瑞礼は胸の奥でそっと首を振った。それは緋宮自身の座をも傷つけることになる。御影山も、里も、都も、すべて一度剝ぎ取ってしまうような、激しい風となるだろう。 瑞白の笑い声が、雪の空の下からふと甦った。あの子の命は守らなければならない。里の子らが、新たな贄とされて再び淵へ引かれていく姿を、想像したくなかった。――あいだに立つ、と言ったのは、自分だ。 瑞礼は、目を開けた。 水盤の水がわずかに揺れている。揺
last updateÚltima atualização : 2026-01-04
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70話 断たれた糸

 緋宮は縁に腰を下ろしていた。 池は薄い昼の光を受けて黙っている。朝の雲はすっかりほどけ、空には色の浅い青が広がっているはずなのに、御所の中に座っていると、その青さがどこか作り物めいて遠く感じられた。  瑞礼が国子のもとへ連れて行かれてから、どれほどの刻が経ったのか、緋宮には分からなかった。 都の時刻の数え方には、いまだ慣れていない。ただ、池の水面に落ちる光の角度が少しずつ変わっていくことで、陽が高くなりつつあるのだけは分かった。  風はほとんど吹いていなかった。 龍ノ淵ならば、湖の面を撫でる風のさざめきで、朝と昼との境が分かる。ここでは、風はむしろ、都人が立てる衣擦れと声と煙とに押しやられ、窒息しそうなほど細い隙間から息をしているにすぎない。  縁の柱にもたれ、緋宮は目を閉じた。 耳を澄ませば、かすかなざわめきが、宮中のどこかから届いてくる。僧の声。陰陽師の低い調子。遠くで杯が触れあう音。 そのざわめきのずっと下の方に、一本だけ別の音を感じ取っていた。――瑞礼の気配。  御影山を離れてからも、緋宮の中には、龍ノ淵からこの都まで、細い糸のようなものが張られていた。淵の水、里の息、雪の匂い。それらすべてがひとつに束ねられ、その先端に、瑞礼という名が結ばれている。  このひと月のあいだ、その糸は途切れることなく、緋宮の胸の中を通っていた。 都の風は汚れている。それでも、その底を流れる細い水脈のように、瑞礼の存在だけは鮮やかに感じられた。  瑞礼が中臣の元へと向かったとき、その糸がわずかに引かれた気がした。 都のどこかで、彼が立っているはずの方向へ、糸の先が伸びる。しかし、引きちぎられるほど強くはない。 いずれ戻ってくると、緋宮は半ば当然のように思っていた。  やがて、対屋の戸口に控えめな影が差した。「御影山の主よ」 若
last updateÚltima atualização : 2026-01-06
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