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71話 鎖の風 - 第一世 完

――ここで暴れればいい。 緋宮の中の龍が耳元でそう囁く。都の殿など、ひと息で吹き飛ばせる。石室も井戸も、水も人も、すべてまとめてひっくり返すことなど、造作もない。 瑞礼の血の匂いがまだ温かいうちに、胸を貫いた刃ごと、その手を握っている者ごと、天へ叩き返してやればいい。 緋宮は指先に力を込めた。縁の板がめり、と鈍い音を立てて陥没する。木のささくれが手のひらに深く食い込んだが、痛みなど感じなかった。 だが、風はまだひとつの境から出てこない。 瑞礼と交わした言葉が、緋宮の足を留めている。“守るための理”が、今緋宮自身の喉元に刃を当てている。――ここで暴れれば、どうなる。 御所はまず潰れる。大王も中臣も、僧も陰陽師も、皆ひとしく水と土と血の泥に沈む。都の屋根は剝がれ、街路は水に呑まれ、人々は龍を呪いながら死ぬ。 龍ノ淵も、無事では済まない。 都が龍を呪い返すとき、その呪詛は淵を伝って御山へも届くだろう。里は再び『厄を鎮める地』と見なされ、別の形の贄が求められる。瑞礼のような者が、またどこかから引きずり出される。 それでは結局、“守るために滅ぼす理”が、形を変えて続くだけだ。 瑞礼が自分の足で淵へ向かったのは、その輪を断つためのはずだ。 あの夜、龍ノ淵で、こちらを見て、「あいだに立つ」と言った。あの目の中に宿っていたものを、緋宮は知っている。 ここで自分が暴れれば、その意地を、瑞礼の覚悟を、緋宮自身が踏みにじることになる。 それでも、暴れたかった。胸の奥で龍が牙を剝いている。背骨が軋み、肩甲骨のあたりから、透明な翅が生えてきそうな激痛が走る。池の水面が再びざわりと波立った。「……馬鹿野郎が」 緋宮は低く呟いた。それは瑞礼に向けた罵りであり、同時に、無力な自分自身へのものでもあった。――どうして、呼ばなかった。どうして、「助けてくれ」と一言、言わなかった。――言ってくれさえすれば、理などどうでもよいとばかりに、この都ごと吹き
last updateÚltima atualização : 2026-01-08
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72話 雪と鈴の醒め - 第三世

「――兄さま、ねえ、兄さま……!」 肩を揺さぶる手があった。震えている。  袖越しに伝わるそのかすかな震えで、瑞礼はようやく自分がまだ“身”を持っているのだと知った。 まぶたを重く押し上げる。灯の光が滲み、網膜を刺した。  天井の梁が見える。煤けた木の色と、壁に沿って揺れる灯明の影。鼻先には、雪で湿った板と、炭の残り香と、線香の淡い匂いが混じっている。  ――血と腐った水の匂いではない。「……瑞白……?」  名を呼ぶ声は、まるで水底から吐き出した泡のように掠れていた。  目の前で瑞白の瞳が大きく見開かれる。涙で縁が赤く腫れていた。「兄さま……! よかった……!」  瑞白は今にも崩れ落ちそうな勢いで、瑞礼の胸元に縋りついた。肩口に落ちた涙が夜気より生温く、火傷しそうなほど熱く感じられる。 視線を巡らせる。ここは本殿の板間ではなかった。囲炉裏の火は落とされ、灰の下でわずかに紅が燻っている。さきほど粥を食した座敷だ。畳の上に薄い寝具が敷かれ、その上に自分は横たえられていたらしい。「お目覚めになりましたか」  低い声に振り向くと、柱の影から老神職が立ち上がった。灯明を手に、深い皺の刻まれた顔に安堵の色を浮かべている。「本殿で、突然崩れるように倒れられて……。驚き申した。瑞白殿を呼びに走り、こちらへお運びいたしました」  老神職は深く頭を垂れた。 「頭は痛みませぬか。胸は苦しゅうないか」 胸――その言葉に、瑞礼は指先を震わせ、思わず手を当てた。 白衣を貫いた刃が、瞬きひとつのあいだに鮮烈な感覚として蘇っていた。  井戸の石の縁に立ち、冷たい水の匂いを吸い込んだとき。鋭い熱が肉をこじ開け、心臓を突き刺し、血が落ちていった。土に囲まれた闇の水へと――。 指先が薄い衣越しに、自らの胸骨を確かめる。  眠りの中の出来事だというのに――いや、眠りであるはずなのに、胸の奥がまだ重く、焼けるように疼いていた。そこには確かに、死という名の口づけを受けた痕が刻まれている。 しかし衣をめくっても何の裂け目もない。ただ、自分の鼓動だけが早鐘を打ち、生にしがみついている。「……大丈夫、です」  瑞礼は荒い息を整え、どうにか老神職へ向き直る。 「失礼を……取り乱してしまって」「いえ」  老神職は静かに首を振った。 「神前にて、古きものの息吹に触れ
last updateÚltima atualização : 2026-01-09
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73話 夢醒めの決意

「兄さま?」 呼び声に、瑞礼ははっとして目を瞬いた。 視界が再び龍泉神社の座敷へ戻る。囲炉裏の灰。壁に掛けられた古びた注連縄。雪を含んだ夜気が、隙間風となって頬を撫でた。「……夢を、見ていた」 自分でも驚くほど低い、錆びついた声だった。「とても、長い夢だ」「どんな夢……?」 瑞白は涙を拭いながら問いかける。その瞳は、安堵と得体の知れないものへの怯えとで揺れている。 瑞礼はしばらく言葉を探し、やがて静かに首を振った。「うまく、言えない」 胸の奥で、まだ鈴の音が耳鳴りのように響いている。雪原の淵で聞いたあの音色と、飛鳥の空の下、死にゆく我が身で聞いた鈴とが、ひとつに重なっていた。「ただ……」 言葉の端をつまむように、瑞礼は続ける。「ずっと昔にも、俺は龍ノ淵へ向かったことがある。お前を里に残して、龍神様のところへ行った。都へも行った。龍神様と、約を結んだ」 瑞白は兄の顔を、ぽかんと見つめた。さっと血の気が引いたように、頬の色が蝋のように白くなる。「……ずっと昔って、なに……? 里って、都って……」 自分でも整理のつかない言葉を並べるように呟きながら、瑞白はそろそろと身を寄せ、瑞礼の顔を覗き込んだ。「夢の話、ですよね……? 兄さま、どこか打ったりしてない? 熱とか……」 額にそっと手のひらが触れる。冷えた指先が慎ましく震えているのを、瑞礼はおかしさと愛しさの入り混じった思いで受け止めた。「……大丈夫だ」 瑞礼はその手をそっと押さえ、苦く笑う。「熱でうなされた戯言に聞こえるだろう。夢の話だと思ってくれてかまわない」 そこで一度言葉を切り、胸の奥に残る鋭い痛みの余韻を確かめるように、静かに息を吐いた。 吸い込んだ空気が肺を満た
last updateÚltima atualização : 2026-01-10
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74話 雪の道標

 夜が明けきる前に、瑞礼は目を開けた。 竜泉神社の座敷はまだ青い闇の中に沈んでいる。囲炉裏の灰はすっかり冷え、天井の梁のあたりだけがうっすらと白み始めていた。障子の向こうから、雪明りが蒼白く滲んでいる。 傍らでは、瑞白が神職から借りた麻衣に包まって眠っていた。いつのまにか瑞礼の袖を掴んだまま、指を緩めようとしない。寝息はかすかだが、規則正しい。 瑞礼はしばらく、その寝顔を見つめていた。昨夜、何度も涙で濡れたまぶたが、ようやく静かに閉じられている。頬にはまだ赤みが残っているが、その色の下に、いくばくかの疲れが滲んでいた。 ――必ず、戻る。 自分で口にした約束のことばが、胸の内側で改めて重みを持つ。過去の自分が何者であろうと、それだけはもう違えられない。 慎重に袖をほどき、瑞白の指を寝具の上にそっと置く。指先がかすかに動いたが、目を覚ますことはなかった。瑞礼は掛けていた布の端を整え、立ち上がる。 襖を引き開けると、冷たい空気が一気に入り込んできた。 肺に吸い込んだ瞬間、胸の奥の古傷がちりちりと焼けるように痛む。まるで、あの石室の冷気を身体が覚えているかのように。 廊下の板は、夜のあいだに軋むように冷えきっている。足の裏から、その寒さがじわりと這い上がってきた。 やがて本殿へ続く石段の上から、かすかな足音が聞こえた。老神職が、灯りを手にゆっくりと下りてくる。白い息を吐き、わずかに背を丸めながらも、その歩みは確かだった。「早いお目覚めで」 神職はそう言って軽く会釈した。灯明の火が、深い皺の影を揺らめかせる。「やはり……行かれるおつもりですかな」 問いというより、確かめるような声音だった。瑞礼は一度だけ、静かに頷く。「龍ノ淵までの道を、教えていただけますか」「教えるもなにも」 老神職は小さく笑った。「あなた様は、もう知っておられるように見受けます。雪の中でも、きっと迷いはしますまい」 そう言いながらも、彼は外の闇を指さし、言葉を継いだ。「ただし、雪は昨夜より深い。古い獣道は、
last updateÚltima atualização : 2026-01-11
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75話 空いた座

 崖の縁に立ったまま、瑞礼はしばらく身動きができなかった。 眼下には雪に囲まれた空洞が、巨大な眼窩のように口を開けている。白い断崖の一角だけが、不自然なほど滑らかに削れている。岩を抉り、土を盛り、無理矢理人の足が通えるよう斜面を拵えたものだ。雪に隠れてはいるが、ところどころに打ち込まれた杭の頭が覗き、黒く凍りついた縄が名残のように垂れている。 秀衡の兵に連れられて登った記憶が蘇る。――しかし、夢の中の龍ノ淵にはこんな醜い傷跡はなかった。おそらく、あれ以降に拵えられたものなのだろう。 ここから、降りることができる――。喉がひとつ鳴った。足先から冷えが這い上がる。それでも瑞礼は崖の縁に手をかけ、慎重に斜面へと身を移した。 一歩進むたびに、踏み固められた雪の下から岩のざらつきが靴底に伝わる。身体を斜めに預け、岸壁に指を掛けながら少しずつ下りてゆく。風はないのに、どこからともなく冷気が吹き上げ、袖の内側に入り込んで肌を刺した。 やがて、空が狭まり始めた。崖が迫り、視界の白が岩肌の灰に変わっていく。頭上の出口は楕円形に遠のき、代わりに、底から青白い光がぼんやりと浮かび上がってきた。 斜路の終わりで、瑞礼は慎重に足を下ろした。 そこは大きな鉢の底のようだった。四方を岩に囲まれ、中央にぽっかりと凍りついた湖面が沈んでいる。砕けた氷片がところどころ黒い水を覗かせ、その周囲には、供物台のようなものが輪を描いて並んでいた。 かつては青白い光と紅金の煌めきがここ一帯を満たしていた――はずだ。 飛鳥の夢の中で、龍神が座していたであろうあの井戸の底と、龍ノ淵の底は確かに同じ気配を帯びていた。胸の内で鈴が鳴り、血潮そのものが呼び声に応えるように沸き立っていた。 瑞礼は息を呑む。 洞は暗かった。岩壁がわずかな光を受けて鈍く光ってはいるが、その奥からは何の気配も立ちのぼってこない。 湖の底から漂ってくるはずの、重く湿った呼吸もない。かわりに漂うのは、かすかな油煙と、古い血の、鉄に似た匂いだけだった。 人の触れた痕が、あちこちにあった。 洞の奥には、緋宮と侍女たちが暮らし
last updateÚltima atualização : 2026-01-12
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76話 雪原の灯

 稜線を越えるたび、風の質が変わる。 御影山の背側は常闇のごとき冷気に閉ざされていたが、尾根を回り込むにつれ、空の鉛色がわずかに薄らいでゆく。雲の裂け目から零れ落ちた淡い陽光が、死装束のような雪面を撫で、無数に散らばる氷の粒を鋭利に煌めかせていた。  瑞礼は、脚を止めることなく雪を駆ける。 膝まで埋没する柔らかな死地もあれば、風に削られ、凍土の黒い肌が露出した斜面もある。人の踏み跡など皆無。在るのはときおり、飢えた獣が横切った細い爪痕のみ。  胸元の小鈴が、衣の下で触れ合う。 しゃらん――。  風の咆哮と雪の擦れる音に掻き消えそうな、玻璃細工のごとく響き。だがそれは、鼓動よりも確かに瑞礼の芯を打つ。方向を見失いかけるたび、その音は道標のように、あるいは戒めのように鳴り響くのだ。  龍ノ淵を離れてなお、鈴の音は死に絶えない。否、山の向こう側へ近づくほど、その響きは地の底から湧き上がる呻きにも似た、重たい色を帯び始めていた。  ――緋宮様は、まだこの地に繋がれている。この先で、待っている。  雪の眩さに目を細め、瑞礼は凍りついた唇の裏でその名を反芻する。声にならぬ呼喚。返答はない。ただ、肺腑の奥まで侵入した冷気が、内側から肋を締め上げるばかりである。立ち止まれば即座に雪へと溶け、二度と目覚めぬ眠りにつくであろう静寂。 だが、その死の甘美さよりも、胸の奥で燻る渇望の方が遥かに熱く、痛かった。  どれほどの刻を削ったか。 陽はいつしか背後へと傾き、山の巨大な影と共に沈殿していった。雪面の白は青を経て、底知れぬ黒へと変貌する。天蓋には、刃物のように欠けた月と、凍死したごとき星々が張り付いていた。  夜闇に飲まれても、瑞礼の脚は止まらない。 足許の境界など曖昧だ。雪と岩、虚空と地面の区別すらつかぬ。そのたびに小鈴が胸の奥で一つ鳴き、右か左か、あるい
last updateÚltima atualização : 2026-01-13
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77話 檻の軋み

 藤原の屋敷へと肉薄するにつれ、その輪郭は威圧的な質量を伴って瑞礼の眼前に迫り来る。 城郭のごとく聳える外塀は、雪空を拒絶するように高く、厚い。雪を頂いた瓦の列は、巨大な爬虫類の背骨のようにうねりながら、延々と続いていた。 門前の道には、荷車の車輪が抉った無数の轍。踏み固められた雪は泥と混じり合い、醜い灰色の汚泥と化して訪れる者の足を捕らえる。 門を出入りするのは、屋敷の者だけではない。麻の粗衣を纏い、腕に藁の守り紐を巻いた男たち。瑞礼と同じ、この奥州の土に生きる蝦夷の民だ。 彼らは背丈よりも高く薪を積んだ橇を引き、門番の前で卑屈に頭を垂れ、その巨大な怪物の胃の腑へと、咀嚼されるように飲み込まれていく。 これほどの巨館を目にするのは初めてだ。 だが、胸の奥で疼くのは驚嘆ではない。古傷を無理やり抉られたような、忌まわしき既視感だった。――あの、腐った都の匂いと同じだ。 かつて中臣国子に伴われ、御所の門を潜った朝の記憶が蘇る。 天を遮る高い塀。権力を誇示する長い回廊。瓦の縁で鈍く光る金具。門に掲げられた紋。道の端で泥に塗れ、権力者に怯える者たちの視線。 土と人の体温と、政という名の欲望が澱む場所特有の、あの吐き気を催すような脂ぎった息苦しさ。 今、目の前に広がる屋敷の内にも同じ濁りが充満している。 瑞礼は道の正中を避け、人の目につかぬ雑木林の縁を影のように進んだ。 枝に積もった雪がぱさりと落ち、肩口を冷たく濡らす。その冷たさだけが、辛うじて意識を澄ませてくれた。 屋敷の裏手、土手の上に立つ巨木の欅。その幹の陰に身を隠し、瑞礼は塀の向こうを窺う。 雪化粧をした松や梅の梢。葉を落とした楓の骸。奥には入母屋造りの豪奢な寝殿の屋根が見え、その向こうに低く長い渡殿が、とぐろを巻く蛇のように棟を繋いでいた。――どの棟の、どの闇に、緋宮は繋がれているのか。 問いかけた瞬間、胸の内の小鈴が、一際強く跳ねた。 しゃらん、と。 それは空耳ではない。確かに、屋敷の内側から、呼応する響きがあった。
last updateÚltima atualização : 2026-01-15
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78話 泥の胎児

 屋敷の勝手口の前は昼と夜とが擦れ合い、世界の色が濁る最も逢魔が刻に近しい、湿りを帯びた空気を漂わせていた。 門前の雪道に、薪を山と積んだ橇の一団が姿を現す。 瑞礼は欅の古木の陰から、その淀んだ流れを見定めた。影が重なり、門番の気が緩む一瞬の隙。瑞礼は音もなく雪を蹴り、橇の最後尾に取りついた。 雪に深く沈む橇を押し、労働者たちが発する汗と疲労の熱気に紛れて勝手口をくぐる。門番の視線が背中を滑ったが、咎める声は上がらない。 泥にまみれた有象無象の影が一つ増えたところで、彼らの関心を引くには至らぬようだ。 屋敷の内に入り、隙を見て薪小屋の裏手へ身を滑り込ませる。 背中で扉が閉ざされた瞬間、空気が一変した。 そこは外から見た城郭を思わせる威容とは裏腹に、巨大な生き物の内臓に呑み込まれたような、生暖かく湿った熱気を孕んでいた。 瑞礼は懐の小鈴を押さえ、緋宮の気配を探して奥へ進もうとした。だが、すぐに足を止めざるを得なかった。 広い。広すぎる。 無秩序な増改築を繰り返したのだろうか。渡殿は蛇の腸のようにうねり、黒ずんだ板塀は視界を遮る迷路となって行く手を阻む。 さらに、どこからともなく漂う異臭が、瑞礼の感覚を狂わせた。 溝川の腐った水、獣の脂、そしてそれらを覆い隠そうとする、むせ返るほど甘ったるい白檀の香り。聖と俗、浄と不浄が混ざり合ったその臭気は嗅覚を麻痺させ、平衡感覚すら奪っていく。 胸元の小鈴がしゃら、とかすかに鳴った。 頼みの綱であるその音も、どこか頼りない。磁石が狂う樹海のように、この屋敷全体が歪んだ磁場を放ち、龍神の清浄な気を掻き乱しているようだ。 瑞礼は人の気配を避け、瑞礼は人気のない北側の区画へと足を向けた。 そこは特に空気が淀んでいた。雪かきもなされておらず、踏み固められた雪は汚泥となり、建物の裾を黒く濡らしている。 土蔵群の一番奥。崩れかけた蔵の扉が半開きになり、うっすらと灯りが漏れている。 そのとき、音が聞こえた。
last updateÚltima atualização : 2026-01-16
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79話 龍の血を啜る釜

 迷宮のごとき渡殿を抜け、さらに奥へと進む。 先ほどまでの腐った泥の臭気は薄れたが、代わりに、鼻の粘膜を刺す鋭利な金気の匂いが強くなってきた。 焼けた鉄、煮えたぎる油、焦げた呪符の煙。そして――その不快な悪臭の底に、かすかに、けれど確かに混じる香りがあった。 記憶の奥底にある、懐かしい雨の匂い。雪解けの水が岩肌を伝うような、清冽な気配。 胸の小鈴がとくん、と心臓の鼓動のように跳ねた。――近い。緋宮が、この近くにいる。 だがその気配は、かつて龍ノ淵で感じた雄大なものではなく、切り刻まれ、汚されたような痛みを伴っていた。 瑞礼は、厳重に閉ざされた一角――高い板塀に囲まれた離れのような区画にたどり着いた。 見張りはいない。だが、扉の隙間からは、禍々しい紫色の煙が、毒息のように絶えず漏れ出している。 板塀の節穴に眼を押し当て、中を覗き込む。そこは、巨大な炊事場のようだった。 だが、そこで調理されているのは、生きるための糧ではない。 部屋の中央には、化け物の胃袋のような巨大な竈が据えられ、青白い炎が音を立てて燃え盛っている。その上でぐつぐつと煮えたぎっているのは、どす黒い粘液をたたえた大きな釜だった。 釜の中身は、油膜を張った腐った黄金色をしており、ときおり弾けては冒涜的な甘い香りを放っている。 壁際には、無数のお札がびっしりと貼られた棚があり、そこには大小様々な壺や瓶が、標本のように並べられている。 数人の男たち――狩衣を着た者たちが、手際よく、かつ無機質に作業をしていた。 その一人が、手桶に入った水を大釜に注ぐ。 注がれた水は、釜の熱気に触れた瞬間、青白く発光した。神々しいまでの清冽な神気。だが次の瞬間、釜の中の黒い粘液に飲み込まれ、じゅうっという悲鳴のような音を立てて濁って消えた。「龍神の『浸し水』だ。こぼすなよ、この一滴で泥人形十体分の精気が作れる」「しかし、肝心の本体が弱っておるそうですが。これ以上搾り取っては……」
last updateÚltima atualização : 2026-01-17
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80話 蜘蛛の王の庭

 怒りに身を任せて走り出しそうになる脚を、瑞礼は理性の力で強引に鎮めた。 呼吸を整え、心拍を殺す。――気配を消せ。影になれ。 自分は今、巨大な獣の胃袋の中を進んでいるのだ。一歩踏み外せば、骨ごと噛み砕かれる。 だが、慎重に進むにつれて、奇妙な違和感が首をもたげてきた。 ――人が、いなさすぎる。 屋敷の表側や、先ほどの工房の周りにはあれほど人がいた。兵たちの声、荷を運ぶ足音が絶えなかったはずだ。 だが、最も重要であるはずの、緋宮が幽閉されているであろう最奥部へ近づくにつれて警備の兵の姿が、潮が引くように消えていくのだ。 静かすぎる。雪の吸音性を差し引いても、この静寂は異常だった。 まるで、あらかじめ人払いがなされたかのように、瑞礼の進む道だけが綺麗に開かれている。 それは海を割って現れた救いの道ではない。地獄の底へと誘う、口を開けた食虫植物の喉のようだった。 瑞礼は角を曲がった先で足を止めた。目の前に広がっている光景に息を呑む。 そこには、手入れの行き届いた枯山水の庭があった。 雪化粧をした奇岩と、白砂に描かれた波紋。雲の切れ間から注ぐ月明かりが、その庭を青白く照らし出し、この世ならざる静謐さを演出している。 白砂はまるで、無数の骨を砕いて敷き詰めたかのように白く、冷たい。 その奥に、異様な静けさをたたえた祠が見えた。鈴の音が一度鳴った。――緋宮はあそこだ。 庭を一直線に横切れば目的の場所――冷たく重い神気が漏れ出る祠へは最短距離だ。 だが、あまりにも無防備だ。あまりにも、出来すぎている。――これは、罠だ。 瑞礼は軒下の闇に身を潜め、背中を板壁に押し付けたまま周囲を凝視した。 物音はない。風が松の枝を揺らす音と、雪がときおりぱさりと落ちる音だけ。 ――そして、視線。 肌が粟立つ。どこからか、見られている。 それも、物陰に潜む兵士の監視のような、直接的なものではない。もっと高い場所から――あるいはこの屋敷全体が持つ無数の目によって、盤上の
last updateÚltima atualização : 2026-01-18
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