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Lahat ng Kabanata ng 龍君の花嫁代わり: Kabanata 11 - Kabanata 20

52 Kabanata

11話 鍬と湯のあわい

 鍬を振り下ろす瑞礼の背に、低い声がかかった。「……お前は、いつも真面目だな」 振り向けば、ちょうど濡れ縁に緋宮の姿があった。灯を宿すような金紅の瞳が瑞礼の姿を映し、その口元にわずかな笑みが浮かぶ。 緋宮は袖をすっとたすきに掛けると、そのまま濡れ縁から土の上へと降り立った。 その動きに畑を耕していた女たちが一瞬だけ顔を上げ、やがて遠慮がちに頭を垂れた。その仕草には、静かな敬意とわずかな畏れが滲んでいた。「花嫁が働いているというのに、俺だけ何もしないわけにはいかぬだろう」 淡々と告げる声は冗談とも本気ともつかず、しかし瑞礼の胸を強く揺さぶった。 緋宮はためらいなく鍬を手に取り、柄を握った。 その姿に、瑞礼は思わず呟いた。「……そんな姿、似合わない」 けれど緋宮は微笑を崩さず、ゆるやかに土を割った。大きな手が振り下ろすたび土は深く耕され、瑞礼よりも整った畝が出来ていく。 緋宮と肩を並べて鍬を振るうふたりの姿に、女たちは目を細めて笑った。「……仲睦まじいこと」 その囁きに瑞礼は思わず顔を赤らめ、土に視線を落とした。 鍬を振り下ろすたびに緋宮の衣の裾が揺れ、土の匂いと共にその気配が近くなる。 その並びは不思議なほど自然に溶け合い、まるで昔からこうして並び立ってきたかのようだった。――なぜ、こんなにも懐かしく感じるのか。 胸裏に残るのは夢の中で見た焚火の光、並んで座したぬくもり。あれはただの夢なのか。それとも、かつて確かにあった記憶なのか。 瑞礼は鍬を握る手に力を込め、土の匂いに意識を縫いとめようとした。だが隣から伝わる気配は、夢と現を重ね合わせるように瑞礼の心を揺さぶり続けていた。 作業を終え、再び湯殿に案内された。 瑞礼は衣を脱ぎながらわずかに声を潜める。「……一人ずつ、入ろう」 その言葉に緋宮は振り
last updateHuling Na-update : 2025-11-05
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12話 記憶の疼き

 湯気の白に包まれた沈黙の中、瑞礼はただ湯面を見つめていた。 緋宮の声が低く落ちる。「……胸の奥に、なにか沈めているな」 瑞礼は唇を噛み、やがて吐息と共に言葉を零した。「……夢を見た。焚火のそばで、お前の肩に寄り添っていた。けれど次の瞬間には、剣を構え、あなたと敵として立っていた」 緋宮の瞳がわずかに揺れた。金紅の光に一瞬、翳りが差す。「……それで、どう感じた?」 瑞礼は言葉を続けようとして、湯面に映る自分の影を見た。唇は震え、音にならなかった。湯の表に己の顔が波紋に崩れていく。「……胸が、どうしようもなく熱くなった」 それが相愛によるものなのか、相克によるものなのか――瑞礼には判じがたかった。ただ熱だけが残り、視線は再び湯面へと沈んだ。「……お前の夢は、魂の残した記憶だ」「記憶……? なら、あれは本当に――」 瑞礼が思わず身を乗り出したとき、緋宮はそっと湯の中でその腕を取った。「ようやく思い出す気になったか。――なら、俺がもう少し、深く思い出させてやろう」 囁きと共に緋宮の顔が目前まで迫る。湯気に滲む金紅の瞳が瑞礼を絡め取り、吐息が頬を撫でるたびに肌が灼けるように熱を帯びていく。 距離は指先ひとつ分しかなかった。瑞礼は思わず背を反らす。だが湯の抵抗が、その身を縫いとめた。 緋宮の髪から滴った雫が、瑞礼の肩を静かに滑り落ちた。水のぬくもりとともに、胸の奥で得体の知れぬ疼きが膨らんでいく。 鼓動が自分のものかどうかも判じがたく、視線を逸らそうとしても絡め取られ、息が詰まる。「……っ。いや、自分で思い出す……!」 震える声は拒絶よりも懇願に近かった。掴まれた手を強く振りほどき、瑞礼は湯殿を飛び出した。滴る水が足跡を濡らし、白い湯気にその背を滑り込ませる。
last updateHuling Na-update : 2025-11-06
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13話 夢現の綻び

 ――白布の帳。 緋宮が瑞礼の手を取り、互いの息を重ねた。焚火の赤が頬を染め、唇へ誓いが静かに落ちた。 ――契りの夜。 そのぬくもりの奥で遠い声がした。『……兄さま』 その声は雪の向こうから届くようにか細く、ひどく懐かしかった。白い闇の中、瑞白が立っている。頬は涙に濡れ、けれど微笑んでいた。 追いすがろうとしても、ただ白布の帳が揺れるばかりで、その手は届かない。 焚き火が一度だけ深く息を吐き、次の瞬きで視界は朱に塗り潰れた。 荒野に立つ瑞礼は怒号を放つ。刀を構えた仲間が荒野を駆けてゆく。甲冑を纏った大軍が、瑞礼たちとぶつかり合う。轟音、血の匂い。 ――断絶の刻。 揺れる光景が交互に現れては消える。寄り添うぬくもりと、刃を交える衝撃。交わした誓いと、突き放す叫び。 愛と憎しみが渦を巻き、胸を強く締めつける。その狭間で聞こえたのは、確かに緋宮の声だった。――「お前を離さぬ」 囁きと同時に左肩へ熱が走る。唇の痕のような、甘い痛みがじわりと滲んだ。 胸に衝撃が落ちる。 ――それは肉を貫いた一振の刀。 瑞礼は飛び起きた。心臓が早鐘を打つ。呼吸が荒い。「瑞礼……思い出したのか? ――俺たちの魂が遙か昔から繋がっていると」 隣に横たわる緋宮が声を掛けてくる。「少し……」 瑞礼は灼け跡のような熱が残る左肩を見やった。そこに刻まれているのは、幼き日、野猪に咬まれたと教えられてきた痕だ。 だが今は、唇に似た熱がそこに重なっている。――真実は違っていたのかもしれない。 緋宮が身を乗り出し、低く囁く。「懐かしい。それは俺の牙が残した。お前が俺のものである徴だ」 緋宮の囁きが静かな部屋の空気をかすかに震わせた。 瑞礼は息を呑む。否定の言葉が喉まで上がりかけたが声にはならなかった。胸の奥で何かがゆっくりと崩れ落ちていく。
last updateHuling Na-update : 2025-11-07
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14話 白絹の息、はじめの鼓

 白絹の帳の奥、ふたつの吐息が薄く重なり、夜の名残が露となって滲んでいた。火の気はすでに絶え、灯の代わりに水晶のほのかな煌めきだけが白布の縁を撫でていた。 長い夜がようやく静まり、瑞礼の胸の鼓動も次第に落ち着きを取り戻してゆく。  緋宮は瑞礼の髪を指で梳きながら、何も言わずにその瞳を見つめていた。肌に残る熱はまだ褪せず、指先の記憶が互いの輪郭を確かめるように漂っている。 「……眠れそうか」  低く落ちた声に、瑞礼は小さく頷いた。  緋宮の肩に額を預け、まぶたを閉じる。 眠りに落ちる寸前、耳の奥で遠い水音のような鼓が鳴った。静寂の底では水底の鼓のような律動がふたりを抱いていた。息づく音が互いの身体を渡り歩き、溶け合うように一つになる。まるでこの世の端にすら、痛みも罪も触れえぬかのように――。  瑞礼はふと、緋宮の指先に頬を寄せた。氷のように冷たいその肌の下で確かに血の音がしている。――この人もまた、生きている。  神であるはずの存在が、人と同じ鼓を打つ。その実感が胸を熱くし、思わず唇が震えた。 「あなたも……こんなふうに、熱を持つのですね」  緋宮は応えず、ただ瞳を細めた。その光は雪より淡く、火より深かった。 けれどその安らぎはほんの一瞬の夢にすぎなかった。 静謐の膜を破るように遠くで太鼓の響きが地を震わせた。壁の水晶が淡く光り、天井からかすかな砂が落ちた。大地そのものが眠りの殻を破り、息を吐くようだった。 ――どん、どん……。  大地の鼓動が目を覚ます。祈りの音にも似て、呪いの律にも似て。雪の下で龍の心臓がゆるやかに息を吹き返すかのようだった。床板が軋み、壁の水晶がわずかに鳴った。  やがて音は二人の胸の鼓動と重なり、まるで地そのものが呼吸を始めたかのように寝殿の柱を震わせた。 灯火がかすかに揺れ、天井の水晶が淡く脈打つ。  瑞礼ははっと息を吸い、隣にいるはずの緋宮の気配がかすかに変わったのを感じた。 緋宮はゆるやかに立ち上がった。裳裾が水のように流れ、金紅の瞳が夜の底を見透
last updateHuling Na-update : 2025-11-08
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15話 雪明りの契

 夜の雪は鎮み、龍ノ淵の雲がひとすじ裂けた。そこから零れた月が氷を蒼白に上塗っていく。 太鼓の音はすでに近く、淵に木霊するたび、氷の下で眠る龍の骨が軋むような響きを立てた。松明が遠くで焦げ、雪は鉄の匂いを孕んでいた。 緋宮が一歩進む。白布の裾が風を含み、ゆらめく。その姿は雪より白く、闇より深く、山の精までもがその出現に息をひそめるようだった。 やがて太鼓の列が視界の端に現れる。板太鼓、幣、僧、弓兵――音と影が寸分違わず進む。松明の炎が揺れ、鎧の金具が赤く光った。 ひとりの男――藤原秀衡が儀式の行列を従えて現れた。威容を誇る鎧に黒金の直垂。額の金の紐が月をはね返す。その目は雪明りの中で獣のように光っていた。「……千年の禁を破り、再びこの地を訪れるとは思わなんだ」 緋宮の声は低く、風より冷たく響いた。 秀衡は馬を下りながら笑みを浮かべる。「千年――いや四百年か。だが、封の長さに違いはない」 緋宮は答えなかった。彼にとって四百年も千年も同じだった。沈黙と孤独が時のすべてを呑み尽くしていた。 秀衡は微笑を浮かべ、一歩前に進み出る。「……それに手出しするつもりは毛頭ござらぬ。――ただ、力を貸してほしいだけにて」 言葉は柔らかい。刃はまだ鞘にある。「……また戦か」 緋宮は目を細めた。雪の光が頬に淡く青を置き、冷えた息が言葉の尾を曇らせた。千年を経ても、均衡は血で測るのか――と。「左様。頼朝の勢いは留まるところを知らぬ。 我ら奥州の地もいずれ蹂躙されよう。さすればお主の平穏も終わりを告げる。 ……だが、もしお主が加護を下さるならば、坂東の地はたやすく崩れ落ちよう。雨も、疫も、戦も――お主ならば造作もないことであろう」 緋宮は静かに目を伏せた。「また人の争いに、龍を用いるか」「争いではない。均衡だ」 秀
last updateHuling Na-update : 2025-11-09
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16話 白景に二影

 雪がふたたび落ちはじめた。世界は白に覆われ、血の色までも忘れさせた。白一色の天が龍ノ淵を塞ぎ、風が谷の骨を細く鳴らしていた。 瑞礼の両脇に武装の兵が並び、無言のまま雪の急斜面を登る。甲冑の擦れる音は風に削がれ、吐息は白くほどけて消えた。足もとで雪が脆く崩れ、底知れぬ闇が口を開けた。――この崖の上に、瑞白がいる。 その確信だけが冷えた血をかろうじて巡らせた。 山の頂に出ると、兵らは一斉に道を開けた。 前方に黒金の直垂を纏う男――藤原秀衡が立っていた。直垂には藤の紋。額の飾り紐が月光を返し、その眼は雪明りのなかで獣の黄を帯びた。 瑞礼にとっては名の知らぬ男だったが、藤の紋に見覚えがある。そして、この行列の主であり、緋宮の弱みを握っていることだけは明白だった。 風の底から緋宮の声を感じた。呼ぶのでも咎めるのでもなく、ただ遠い水の底から。「龍神の情けで、生き延びたな」 その声は嘲りとも興味ともつかず、乾いた氷片のように耳を撫でた。 その背後には祈祷師の僧と、鎖に繫がれた俘囚の列。幣が震え、祈詞が風にちぎれて飛ぶ。 列のなかに白布を肩に掛けた瑞白がいた。雪に晒されてもなお肌は白く、瞳だけが湖の底の青を宿していた。「……瑞白」 名をこぼした途端、胸の結び目が静かに解けていくようだった。 瑞白は凍えた唇にかすかな笑みを浮かべた。「……兄、さま」 駆け寄る身を抱き留める。細い肩の縄痕が手のひらに刺さった。ぬくもりは羽の軽さでありながらも、確かに脈を運んでいた。凍えた髪が頬に触れた瞬間、遠い昔の花の匂いが蘇った。 黒金の男はその光景を退屈げに眺め、口角だけで笑った。「感動の再会よな。――あの男に感謝しておけ」 瑞礼の心臓がひときわ強く打つ。「緋宮……」 胸の底で呼んだ名は雪に吸われて消えた。「お前たちにもう用はない。好きにせよ
last updateHuling Na-update : 2025-11-10
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17話 導きの鈴

 山を裂くような風が吹いていた。雪が絶え間なく降り、夜と白とが溶け合って世界の輪郭が消えていく。風は鉄の匂いを運び、雪は音を奪った。 ――雪が光を孕み、夜の底が乳白にほどけた。それが月のせいか、雪そのものの輝きか、判然としない。 瑞礼は瑞白の手を引き、ただ無我夢中で山を駆け下りていた。 龍ノ淵の方角からまだ太鼓の名残が響いていた。どん……どん……と、雪に吸われながら遠のいていく。 その音が止むたびに胸の奥で緋宮の姿が浮かんでは消えた。――必ず、戻る。 その誓いが風に削られていく。それでも胸の底で小さな鼓が鳴っていた。 瑞白の体はすでに力が抜け、首が彼の肩に傾いていた。唇は紫に染まり、息は白く細い。「兄さま……寒い……」 その声に瑞礼は立ち止まり、彼女を抱き上げ、そのまま雪を蹴って走り続けた。 行く先の当てなど、どこにもない。 生まれ育った村には戻れない。贄として送り出された身が帰れば、今度こそ獣よりも忌まれるだろう。 平泉の方角に救いを求めることもできない。あの男たちは奥州藤原の兵で、平泉へ向かう途中で捕らえられたのだと――瑞白が静かに教えてくれた。 奥州藤原は藤原秀衡を長としている。秀衡が緋宮の敵である以上、俘囚の逃亡者に安息を与えることなどないはずだ。 白に紛れながら、瑞礼は幾度も立ち止まり、刃のような風の隙で辺りを見渡す。追手の姿は見えなかったが、耳を澄ますと風が唸り、木々が軋み、すべてが追手の足音に聞こえた。雪を蹴るたび、息が痛いほど胸に刺さる。 瑞白はいつしか声を失い、ただ兄の背の熱に凭れるだけだった。――このままでは凍えてしまう。 理屈より先に身体がそれを知っていた。瑞礼は雪の坂を滑り降りながら谷を越え、岩肌の間を縫うようにして駆けた。 そして、不意に――風の途切れたその隙間で、遠くから鈴の音がした。 しゃらん……。
last updateHuling Na-update : 2025-11-11
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18話 龍泉寺

 火鉢の炭がわずかに脈打ち、空気をやわらかに歪めていた。その音は遠い水底の鼓に似ていた。老神職が瑞白の肩を覆うように外套を掛けてくれる。 瑞礼は指先を擦り合わせて火にかざした。冷え切った妹の頬がようやくわずかに色を取り戻している。「……助かりました。あなたがいなければ、俺たちは……」 深く頭を下げると、老神職は静かに首を振った。「礼など要りませぬ。雪の山で人を見捨てるような真似は、神前にて最も重き罪でございます」 その声音は穏やかで、しかしどこか遠い。長い年月を山に籠ってきた者の声には土と風の匂いが混じっている。言葉が静寂に吸い込まれ、炭がぱちりと鳴った。外の風が柱を撫で、軋む音だけが時を刻んでいるようだった。 炭の赤が目に映り、そこに一瞬、紅玉のような光を見た気がした。瑞礼は唇を噛んだ。「――けれど……わたしは行かなければなりません」 老神職がわずかに眉を上げた。「どこへ?」「龍ノ淵です。……必ず戻る、と誓ったのです」 火鉢の炭がぱちりと弾け、赤い火の粉が舞った。「この雪の中を行くおつもりか」 老神職の声は驚きではなく、沈む問いのようだった。 瑞礼はうなずく。「わたしは瑞礼と申します。妹をどうかお願いできないでしょうか。落ち着けば必ず、戻ります」「無茶を言われますな」 神職はゆるりと立ち上がり、障子の向こうに耳を澄ました。外では風が唸り、社殿の屋根を雪が叩いている。「もはや外は吹雪です。道も消えておるでしょう。夜もまだ長い」「ですが――」 瑞礼の声がかすかに揺れる。彼の胸の奥では緋宮の名が静かに脈を打っていた。老神職はその気配を感じ取ったかのように目を細める。「……して、あなたは如何にしてここへ辿り着かれたのですか?」 その問いに瑞礼ははっと顔を上げた。「鈴の音を聞いたのです。風の中から、確かに。導かれるようにして&hel
last updateHuling Na-update : 2025-11-12
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19話 雪の夜、龍の香

 やがて襖が開き、老神職が盆を手に戻ってきた。湯気がゆらりと立ち上り、炊きたての木椀からほのかな木香が室内を満たした。炭の残り香がまだ室に漂い、木の息と雪の匂いが静かに混じっていた。「簡素なものですが……お口に合えば」  盆の上には土器の椀に盛られた粟粥と、干した山菜を塩で和えた小皿、それに湯を張った木椀が添えられていた。まるで神饌のように質素でありながら、どこか神を祀る息を纏っていた。「本当に感謝しています」  瑞礼は深く頭を下げ、盆を受け取った。冷え切った指先に木のぬくもりがじんわりと伝わる。 火鉢の明かりの傍らで、瑞白はまだ浅い眠りの中にいた。頬に赤い光を受けながら、唇をかすかに開いている。  瑞礼はしばらくその寝顔を見つめていたが、やがて静かに手を伸ばし、肩をそっと揺すった。「……瑞白。御神職が温かいものを用意してくれた。少しだけでも口にしてくれ」  彼女はまぶたを震わせ、ゆっくりと目を開けた。夢と現の狭間で光を探すように、兄の顔を見上げる。 「……兄さま……」 瑞礼は粥の椀を手にし、匙を掬って息を吹きかけた。湯気の白の奥で、穀の甘香がやわらかく揺れている。 「ほら、少しずつでいい。冷める前に」  瑞白はおずおずと身体を起こし、兄の手から匙を受け取った。一口ふくむと、わずかな塩気と穀の甘みが舌に広がる。冷え切った身に、ゆるやかなぬくもりが戻っていくのがわかった。そのぬくもりが、胸の奥まで沁みる。遠い夜の太鼓の音がようやく鎮まっていった。「……あたたかい……」  その囁きが胸の氷を溶かし、代わりに痛みを残した。  彼は妹の髪をそっと撫で、微笑を作る。 「よかった。もう少し食べて、それから休むんだ」 瑞白がうなずくのを見届けてから、瑞礼は改めて老神職に向き直った。「……この社は、どれほど昔から?」  瑞礼が問うと、老神職はしばらく思案し、それから静かに答えた。「この竜泉神社は、遥か古より龍神様を祀る社でございます。山の水脈そのものが御身の衣と伝わっております。人の世よりも前、この山には『水を統べるもの』が座しておられたと申します。  里の人々はその御方に雨を乞い、豊穣を祈り、この社を建てたのです」 語る声はまるで祝詞のようで、瑞礼は知らぬうちに息を潜めていた。火鉢の炎がぱちりと鳴り、老神職の顔を淡く照らす
last updateHuling Na-update : 2025-11-13
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20話 龍と祈りの記憶

 ――そこは、息を呑むほどの静謐だった。 三方の梁に無数の鈴が吊られ、かすかな風に触れるたび、銀の滴が落ちるように細く鳴った。灯明の光は薄く、香の煙が淡い霞となって漂い、天井の闇へとほどけては戻った。 そして正面の壁に、それはあった。空気がひとすじ香を含んで流れた。龍の息がまだこの場に留まっているようだった。 深い藍と朱を基調に描かれた龍が雲を巻き、天へと昇っている。その鱗は金泥で描かれ、光を受けてかすかに脈打っている。 傍らには白衣の男がひとり。龍の頬に手を添え、息を分け合うように寄り添っている。その眼差しは柔らかく、微笑を湛えながらも、どこか祈りに似ていた。 瑞礼の呼吸が止まる。――夢だ。 金の瞳が緋宮を呼び返す。隣の男の面差しは――確かに瑞礼に寄っていた。 供物台には干し柿、塩、米、そして黒く磨かれた鏡。灯明の炎がその表に映り、波紋のような揺らぎをつくる。 瑞礼は思わずその鏡を見つめ、そこに映った自らの影と、壁画の男の輪郭とがひとつに溶けるのを見た。その瞬間、鏡の奥に朱が閃いた。龍ノ淵の血潮か、己の胸の奥の炎か。「……この絵は?」 声は自然に漏れていた。 老神職は炎に照らされた横顔をわずかに傾けて答えた。「この地に伝わる伝承です。 龍神様はかつて、人の姿を取り、ある者と契りを結ばれたと語り伝えられております。その者が誰であったのか、今となっては定かならず、画工もまた不詳にて。 ただ――龍神様がただひとりを深く愛されたことだけは、古より語り継がれております」「……ひとりを、愛した……」 胸の奥で何かが脈を打った。火でもなく、鼓でもない、生の音。 ――緋宮の言葉はすべて真実だったのだ。そしてそれは、後の世にまで語り継がれるほどのことだった。 老神職は静かに頷き、言葉を継いだ。「龍神様と人は、本来ひとつではありませぬ。 けれど、時としてそ
last updateHuling Na-update : 2025-11-14
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