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Lahat ng Kabanata ng 龍君の花嫁代わり: Kabanata 31 - Kabanata 40

52 Kabanata

31話 灰に遺る祈り

 どれほどの時が経ったのか分からなかった。時間の感覚がほどけ、足だけが勝手に動き始めていた。 瑞礼はふらりと湖の畔に立つ。 龍ノ淵は、深く沈む壺のような地形をしていた。四方の岩は切り立ち、登れそうな道はどこにもない。上を仰げば、遥か頭上にかすかな光が揺れている。だがその光はあまりにも遠かった。 湖の水面は静かだった。薄氷のような膜がまだところどころに残り、そこに映る光が、震えては消えていく。風もなく、音もなく、ただ水の気配だけが生きている。 瑞礼は膝を折り、しばらくその場に膝をついた。足元には冷たい水の音が満ち、洞の空気が胸の奥まで沁みてくる。 生きて帰る道はない。そう思った途端、足首から血の気が引き、指先の感覚が遠のいた。心が静かに凍りついた。 ふと、目を横にやる。岩の陰に、黒ずんだ灰のようなものがあった。 近づいてみると、それは古い焚き火の跡だった。灰の中には、朽ちかけた骨の欠片のようなものが混じっている。瑞礼は息を呑んだ。 ――瑞礼以外にも、かつてここに誰かがいたのだ。炎が灯され、祈りが捧げられ、そして消えた。 その光景を想像しただけで、胸が締めつけられる。指先で灰をつまむと、小さな骨の欠片が爪に触れた。ここで火を起こし、光を頼りに、誰かが夜を凌ごうとしたのだろう。やがて火が絶え、祈りも途切れたのだと、灰の冷たさが物語っていた。 瑞礼は目を閉じた。里の景色が浮かぶ。朝靄に煙る山並み、揺れる稲穂、焚き火の匂い。そして――瑞白の泣き声。濡れた睫を震わせながら、袖を掴んで離さなかった小さな手の感触。 胸の奥が痛んだ。あの声を、二度と聞くことはできないのだろうか。 誰も呼ぶ者のいない場所で、己だけが取り残されている。孤独が冷たい霧のように心の隙間を満たしていく。それでも、自分はまったくの空身でここへ来たわけではなかった、と遅れて思い当たる。 瑞白から手渡された白い花。指先で探ると、まだその形を保ち、かすかに香っていた。冷たい洞の中で、その匂いだけが温かかった。「せめて……この花だけでも」 瑞礼は呟き、ゆっくりと湖から坂を登った。水晶の光が淡く地を照らしている。壁のあちこちから滴る雫が光を吸い、細い糸のように流れ落ちている。その光景はまるで天から落ちる涙のようだった。 その光の下の柔らかな土を見つけ、指先で掘る。
last updateHuling Na-update : 2025-11-25
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32話 飢えの律動

 鈴の音の余韻がまだ耳の奥に残っていた。瑞礼はその響きに導かれるように、しばらく静かに花を見つめた。この龍ノ淵に、あるいはあの男の中に、果たして何が眠っているのか。 耳の内側ではまだ澄んだ音が揺れているのに、腹の底では別の律が生まれつつある。 腹の奥が鳴った。それはこの静寂の中では、あまりに人間的な音。瑞礼ははっとして息を呑む。 男が振り返ることはなかったが、金紅の瞳がかすかに光を反射したように見えた。 瑞礼は俯き、頼りなく揺れる花を見つめながら手のひらを握りしめた。――生きねばならない。もう一度、瑞白に会うためにも。 静かに目を閉じる。生きるために、何が要るのかを指折り数える。水、火、そして腹を満たすもの――。水はある。火は、どうにかして起こせるかもしれない。だが、食べ物は。 瑞礼は立ち上がり、洞の中を見回した。岩肌は湿り、白い水晶が光を孕んでいる。けれど、そのどこにも生きものの気配はない。草もなく、虫の音ひとつもしない。この地では、生きることそのものが禁じられているかのようだった。息を吸うことさえ、何かの掟に触れてしまうのではないかと思えるほどに。 洞の奥へと続く道を見やる。だが、あの男が言っていた。「この先には立ち入るな」と。その言葉が、瑞礼の足を止めさせた。軽々しく逆らえば、命を奪われるかもしれない。 瑞礼は息を吐き、視線を湖の方へ戻した。水面の近く、黒ずんだ円が岩に焼きついている。灰の輪――かつてここで誰かが火を囲み、生きようとした痕。 瑞礼はその場所へ歩み寄り、腰の袋をそっと脇に置いた。それは遠出の折にはいつも携える、馴染みの道具袋だった。 湖の畔に落ちていた枝を拾い集めた。枝は濡れて重かったが、岩の上に並べて風に晒せば、やがて乾くだろう。ひとつひとつ、手の中で感触を確かめながら積み重ねていく。それは小さな作業だったが、不思議と心が落ち着いた。 ふと、視線の端で何かが光った。湖の氷の上、薄く残る氷膜の間に、何かが浮かんでいる。 瑞礼は身を乗り出した。 それは、里の若者たちが投げ落とした供物の一部だった。果実、干した魚、穀の袋――。流れに攫われず、こ
last updateHuling Na-update : 2025-11-26
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33話 鼓動の呼応

 瑞礼は岸に這い上がると、冷たい息を吐きながら身体を震わせた。衣は水を吸い、肌に張りついている。湖面を覆う霧が肩に落ち、白い息と混じって消えていく。 腕の中の供物を岩の上に置き、荒く息を整えた。拾い上げた果実は幾つか潰れていたが、まだ甘い香りを残していた。干した魚の皮は冷たく硬い。だが――これで、少しは命を繋げる。 瑞礼は視線を横に向けた。 岸辺で拾い集め、岩の上に並べておいた枝は霧に濡れたままだった。乾かすには時が足りない。ほとんどの枝がまだ湿っている。 それでも、その中からわずかに乾きを残したものを選び、両手に抱えて焚き火の痕に戻った。指は思うように動かず、息を吐くたび白が視界を曇らせる。冷えきった指が枝に触れた瞬間、胸郭が焼けるように疼いた。――火を、早く。 瑞礼は焚き火痕の脇に置いておいた袋を探った。それは遠出の折にいつも携える道具袋。麻の紐、薄い木片、硬い火打石――里の人々が山で火を起こすときに使うものが入っている。 瑞礼は指先で麻をほぐし、木片の上に乗せた。指はかじかみ、思うように動かない。 火打石を取り出し、荒くなった息を整える。石同士を打ち合わせると、小さな閃光が弾けた。だが湿り気が強く、火はすぐに消える。 時間だけが先に減っていくような焦りを感じて、手が震える。歯の根が鳴る。 もう一度。 火花が散り、灰の上で淡く光る。火種が瑞礼の瞳に映り、その奥にかすかに過去の光景が瞬いた。 瑞礼は息を吹きかけ、麻を包み込むように手を寄せる。呼吸が乱れ、唇がひび割れた。 やがて、ひとすじの煙が立つ。瑞礼は息を止め、さらにそっと息を吹きかけた。赤い光が灰の奥に灯る。――生きている。 その瞬間、内側で何かが弾けた。 瑞礼は震える手で枝を数本重ね、光を移す。湿った木はなかなか燃え上がらなかったが、やがてぱちりと音を立て、小さな炎が岩肌を照らした。 火が息を吸い、吐く。その音が静かな洞に広がる。炎の揺らめきは花弁のように赤く、瑞礼の頬を柔らかく照らしていた。 彼は両の手をかざした。指先にようやく温かさが戻ってくる。
last updateHuling Na-update : 2025-11-27
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34話 火と実の味

 焚き火の炎が細く揺れていた。 瑞礼は傍らに置いていた包みを取り上げる。湖の中から拾い上げた供物だ。 惜しいわけではなかった。腹は減っている上、龍ノ淵には食べ物になりそうなものなど見当たらない。 それでも、里の皆が主様のために選び、託したものを、自分ひとりの腹で終わらせてしまうことが怖かった。それに、一度御影の主に捧げられたものを、みだりに口にするのは憚られた。「……これは、わたしたちの里から主様への供え物です。 すべては回収できませんでしたが……」 男はその手を見た。赤い光が瑞礼の指先を照らし、果実の皮が鈍く光る。だが彼は何も言わず、しばらく炎を見つめていた。 やがて、静かに首を振る。「人の食うものなど、俺には要らぬ。 それはお前が食うといい。人は食わねば死ぬのであろう?」 その声音には拒絶よりも、どこか遠い響きがあった。 瑞礼は戸惑い、指先をわずかに震わせながら問う。「では……一体、何を召し上がるのですか……?」 男は顔を上げ、金紅の瞳を細める。炎がその奥に映り、光がわずかに揺れた。「俺は腹など減らん」 淡々とした声だった。「風を吸い、水を飲み、時の流れを食らって生きる。――それで足りる」 瑞礼は息を呑んだ。骨も肉も持たぬもののような言い草。それがまるで、彼がこの世の理の外にある証であるかのように響いた。火の赤と果実の匂いを胸いっぱいに吸い込む。 風と水、時だけで満たされる生を思い描こうとした。けれど、どうしても色も味もない闇のようにしか想像できない。「……それでは、寂しくありませんか」 ふと、そんな言葉が口をついた。 男の瞳が一瞬だけ揺れた。けれど何も答えず、彼は再び炎へと視線を戻した。 火が、ぱちりと音を立てた。それはふたりの沈黙に息を吹き込むようだった。 瑞礼は包みの中から痛みの少ない果実を
last updateHuling Na-update : 2025-11-28
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35話 洞に生まれる芽

「……他の食い物も、甘いのか?」 男は供物の包みを見やりながら呟いた。その瞳にかすかな好奇の火が灯っていることを、瑞礼は見逃さなかった。「いえ、すべてが甘いわけではありません。けれど我々の里で食べているものの中でも、質の良いものを捧げ物として選んでおります。 きっと美味しいと思ってもらえるかと。――よければ、すべてお受け取りください」 瑞礼はそう言って包みを差し出す。 男は手を伸ばしかけ、ふとその動きを止める。「……だが、お前が食うものはどうする」 瑞礼は小さく笑いながら答えた。「これは主様に捧げるためのものです。わたしは……何か別のものを……」 そう言いながらも、その声が次第に細くなる。自分でも、その言葉に中身がないと分かっている。――この龍ノ淵に、他の食べ物などあるのだろうか。 男はしばらく瑞礼の手元を見つめていた。 やがて、低く呟く。「……これは、増えぬのか?」 唐突な問いに、瑞礼は瞬きをした。「増える……?」 男は包みの中の果実を指先で示す。「これだ。お前たちは、これをどうやって得ている」 瑞礼は少し考え、ゆっくりと答えた。「果実であれば、種を植えれば、また実るかもしれません。 けれど……陽の光のない場所では難しいかと。それに、すぐに成長するわけでもありません」 男はその言葉を聞き、しばし黙り込んだ。炎がぱちりと鳴り、赤い光が彼の頬を照らす。その瞳の奥で何かが静かに揺らめいた。 やがて彼は顔を上げる。「……こっちに来い」 短く言うと、裾を翻して洞の奥へと歩き出した。 瑞礼は一瞬ためらったが、その背を追う。男の歩みに導かれるように、湖から続く坂道を登る。冷たい岩肌が足に触れ、遠くで水の音が響いた。
last updateHuling Na-update : 2025-11-29
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36話 名を問う声

 瑞礼は、瑞白から手渡された白い花を慎重に掘り起こし、果実の芽の傍に植え直した。 太陽はすっかり傾き、光はその場所まで届かない。それでも瑞白の花は凜と咲き、柔らかな光を宿していた。 瑞礼は花の前に跪き、そっと手を合わせる。まるで祈るように。――この花がなければ、今頃どうなっていたか分からない。「……瑞白。お前のおかげで、俺はまだ生きられそうだ……」 言葉は胸の奥から零れるように、自然に口をついた。 先ほど植えた果実の種はすでに脛ほどの高さに伸びていた。枝には艶やかな葉が茂り、瑞々しい香りがわずかに空気を満たしていた。その葉がかすかに揺れ、まるで瑞白の花に応えるように光を返している。 瑞礼はしばらくその光景を見つめていた。 果実の若木と白い花。ふたつの命が、風に揺れながら寄り添っている。その静けさが胸に沁み、瑞礼は思わず小さく息を吐いた。 ――そのとき、背後から声がした。「おい――」 振り返ると、男が岩に凭れたままこちらを見ていた。金紅の瞳がわずかに細められ、炎のような色が光を映している。「名も知らぬままでは、面倒だな」 唐突な言葉に、瑞礼は瞬きをした。「……名を、ですか?」「呼ぶにも呼ばれぬにも、不便だろう?」 その声音はいつもより柔らかかった。 瑞礼は戸惑いながらも、静かに頭を下げる。「わたしは――瑞礼と申します」 男はその名を一度唇で転がすように呟いた。「……瑞礼、か」 その響きが洞の空気に溶け、光の粒がふたりの間に漂った。 男はその名をもう一度、唇の内で転がす。「瑞礼……」 その表情に、わずかな戸惑いと――懐かしむような気配が漂っていた。「瑞礼よ、……どこかで会ったことが……あるわけがないか」
last updateHuling Na-update : 2025-11-30
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37話 焚き火の匂い

 干し魚を受け取った緋宮は、しばらくそれを黙って見つめていた。指先で乾いた皮の表をなぞるたび、焔の赤が薄く移ろい、その揺らぎが金紅の瞳の底で小さな火種のように瞬く。「これが……人の食か」 瑞礼は頷き、焚き火の傍に腰を下ろした。「はい。塩で干してあるので長く持つんです。――こうして炙ると、香りが立つんですよ」 火がぱち、と弾けた。脂が一滴炎に落ちて、短く光る。 その瞬間、緋宮の表情にほのかな驚きが浮かんだ。「……水の底とは、まるで違う匂いだな」「ええ。陸の火は、少しだけ焦げの匂いがするんです。それがまた、舌に残ると不思議と美味しくて」 緋宮はゆるやかに頷き、炙った魚に歯を立てた。皮の焦げ目がほろりと崩れ、塩気と脂が舌の上で溶けていく。 ひと口、ふた口。静かな咀嚼ののち、彼はふと目を見開いた。「……温かい」 その言葉に、瑞礼は思わず笑みを漏らした。「ええ。火で焼くと、こうしてぬくもりが生まれるんです」「不思議なものだな。ただ腹を満たすだけのことが、こんなにも――胸に沁みるとは」 緋宮は魚をもうひと口噛みしめ、視線を焚き火へ落とした。炎の揺らぎが銀の髪に映え、金紅の瞳の奥にかすかな柔らかさが灯る。「千年のあいだ、俺の周りにあったのは、祈りの煙と、血の匂いばかりだった。 だが……この匂いは、それらとは違うのに、なぜか遠いところで嗅いだように懐かしい」 塩と脂と焦げた皮の匂いが瑞礼の鼻先にも絡みつく。里の囲炉裏と、秋の夜の宴を思い出させる匂いだった。 瑞礼は黙って緋宮の横顔を見つめた。焔に照らされた頬がほのかに紅を差したように染まり、唇の端に残った塩気が光る。 里の皆が畏れてきた神が、人と同じようにひと口ずつ味わっている。そのささやかな仕草が、理由もなく胸を温かくした。「もう少し、食べますか」「……ああ。だが、お前も食え」 差し出された手が火の明かりの中で重なる。焚き火の音が静かに弾け、湖の水面がほのかに揺れる。 瑞礼は笑みを返しながら、そっと魚を割って差し出した。「熱いですから、気をつけて」「ふ……お前こそ」 魚を割った欠片を渡すとき、ふたりの指先がかすかに触れ合った。その一瞬だけ、焔よりも細い熱が皮膚の下を走り、夜の冷たさが遠のいていく気がした。 焚き火は赤々と燃え、湖面に映る炎がゆらゆらと踊る。遙か遠くに見
last updateHuling Na-update : 2025-12-01
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38話 地に息づく春

 朝、霧がほどけた。湖の水面は一枚の鏡のごとく息をひそめ、空の白がゆるやかに沈んでいる。氷の裂け目からは細い水の音だけが零れ、遠く、洞には棲まぬ鳥の声だけがかすかに届いていた。 瑞礼はひとり洞の外縁にしゃがみ込み、柔らかな日の差し込む土を撫でていた。霜が退いたばかりの地はまだ冷たく、指先がひりつく。けれど、その下に確かに生の匂いがあった。 昨夜の焚き火のぬくもりは、まだ身体の底でゆっくりと燻っている。それでも今は火ではなく、冷たさの下に潜む地の体温に触れていたかった。「何をしているんだ?」 背後から声が落ちた。緋宮だ。瑞礼は顔を上げ、苦笑を浮かべる。「芽が出やすいように、土を柔らかくしてやろうかと思いまして」「……無駄なことをする」 緋宮は岩の上に腰を下ろし、興味深げに瑞礼の手つきを見つめる。 瑞礼は折れた枝を鍬のように使い、土を軽くほぐす。その脇には、昨夜供物の包みから取り分けた麦の粒がいくつか並んでいる。 捧げ物として差し出したもの――今はそれを土に返すように、指先で撫でていた。「……供え物を、埋めているのか?」 緋宮の声が低く響く。「はい。食べ物としてではなく……根づけば、ここでも実るかと思いまして」 瑞礼は手のひらに数粒の麦を取り、指の間からそっと落とした。淡い光の中で麦粒が転がり、土に沈む。「緋宮様への捧げものですから、この地もきっと受け入れてくれます」 そう言いながら、彼は手のひらで静かに覆いを作った。 指先に湿った泥が絡み、爪の間に赤がじわりと滲み込む。土を掻いた拍子に爪の際が細く裂け、土と混じった血が冷えた空気のなかで、ほの甘い匂いを立ちのぼらせた。その気配に呼応するように、緋宮の金紅の瞳がかすかに揺れる。「……馬鹿な奴だ」 呟きとともに、緋宮の指が瑞礼の手を取った。冷たいはずの指先が驚くほど温かい。ひとすじの光が緋宮の手のひらから滲み、瑞礼の傷口をゆっくりとなぞっていく。 疼きは音もなくほどけ、代わりにかすかな痺れとともに、見えない花が開くときのような香が、傷の内側から立ちのぼった。「これは、癒やしの力……」「この程度なら造作もないことだ。……それに、美味くなるなら、まあ、悪くはない」 言いながらも、緋宮の眼差しはどこか柔らかい。 瑞礼はその手を見つめ、静かに笑った。「ありがとうござ
last updateHuling Na-update : 2025-12-02
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39話 湯気のなかの祈り

 陽の差す日が続いた。洞の空気は少しずつ柔らかさを帯び、湖の氷もすっかり溶けきっている。 瑞礼は水際で衣を洗いながら、額の汗をぬぐう。土をいじり始めてから、日ごとに身体には土の匂いが染みついていった。「人間が、この淵で土をいじり、汗をかく日が来るとはな」 背後から聞こえた笑い声に、瑞礼ははっと振り向いた。緋宮が岩の陰から現れ、腕を組んで立っていた。「……すみません。穢れでもいたしましたか」 瑞礼は慌てて膝をつく。 緋宮は小さく息を吐いた。「違う。ただ……匂うぞ」 声音に棘はない。少し呆れたようでいて、どこか面白がる気配が混じっている。 瑞礼は頬の内側まで熱くなり、視線を落とした。汗と土の匂いまでもが、この神の舌先で言葉にされてしまったようで、肌のどこも自分のものではない気がした。「……生きていると、いろんな匂いがします」「ふむ。人というものは、かくも自己主張の強い生き物なのだな」 緋宮は小さく笑い、瑞礼の傍らにしゃがんだ。 瑞礼は思わず身を捩り、湖面へと手を伸ばす。せめて汗の匂いだけでも洗い落とそうとした、その刹那――足元の石に滑って、湖の水をしたたかに浴びた。「つ、冷た……!」 水が飛び散り、頬を伝う。湖はまだ雪解けの水を湛えており、春とはいえ氷のように冷たかった。 その様子を見て、緋宮の口の端がわずかに上がる。「馬鹿者。そんな水で身を清めるつもりか」「……他に、手立てもなくて」「湯なら、あるぞ」 瑞礼は目を瞬いた。「え……湯、ですか?」「この淵のさらに奥。地の脈が温かい。そこから湧く泉がある」 緋宮は立ち上がり、顎で奥を指した。「なぜ今まで教えてくださらなかったのですか」「問われなかったからだ」 涼しい声音。けれどその奥にどこか楽しげな色が潜んでいる。 瑞礼は苦笑し、濡れた裾を絞る。「……お導き、ありがとうございます。けれど、緋宮様がこのような場所に人を入れてよいのですか」「構わぬ。お前の匂いがこれ以上強くならぬうちに、行け」 淡い笑みを浮かべたまま、緋宮は歩き出した。 瑞礼は小走りにその背を追う。 洞の奥は薄闇に包まれていた。岩の間を流れる水の音が次第に大きくなり、やがてかすかな湯気が漂い始める。 足元には蒸気を含んだ小さな流れ。その先に、鏡のように湯をたたえた泉があった。 熱気が肌に絡みつく
last updateHuling Na-update : 2025-12-03
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40話 秋光の祈り

 風が低く鳴っていた。夜明けの光はまだ地に届かず、洞の天蓋の裂け目から薄く雪が降りてくる。 瑞礼は洞の縁の岩に積もる雪を見つめながら、凍えた息を吐いた。白い吐息が夜気にほどけ、雪片はひとひらごとにかすかな光を帯びて、音も立てずに地へ吸い込まれてゆく。 火床の火はとうに消え、灰が沈んでいた。瑞礼は手を伸ばし、指先で残り火を寄せる。けれども、ぬくもりはもうほとんどなかった。 いつもなら、まだ眠っている時間。けれど――その朝はなぜか胸騒ぎがした。夢の底で太鼓の音を聞いた気がする。遠く、雲の下で鳴っているような、くぐもった響き。 祭祀の記憶を呼び起こすその音が、まだ耳の奥に残っていた。 その時、湖の方で何かが砕ける音が響いた。鈍く、骨の内側まで響くような衝突音。 ――グシャリ。 それは、水音と言うにはあまりに重く、湿った衝突音だった。何かが氷を砕き、その下の水面を叩きつけたのだ。 瑞礼は弾かれたように顔を上げた。 洞の空気が震えている。ただの氷柱が落ちた音ではない。「肉」と「骨」を持った何かが、高みから叩きつけられた音だ。 嫌な予感が背筋を駆け上がる。瑞礼は無我夢中で湖へ駆け出した。足元の雪は深く、踏み出すたびに軋む。息が荒くなり、喉が痛む。 それでも足を止められなかった。胸の奥のざわめきが、理由もなく彼を急かしていた。 湖の中央近く、氷膜が軋み、鈍い音を立てて割れている。白い霧の奥から、暗い影がゆっくりと浮かび上がった。 それは最初、ただの木か獣の影のように見えた。けれど、水面を撫でた風がその形をめくると、淡い布が揺れ、肌の色と広がる赤が覗いた。 瑞礼は足を止め、次の瞬間、氷の方へと身を乗り出した。薄い膜がひびを広げ、きぃ、と乾いた音を立てる。 それでも構わず進んだ。揺れる氷に足を取られながら、裂けた縁に膝をつく。息が白く弾け、肺が焼けるように痛んだ。 それは――若い女だった。手は何も握らず、胸の前で固く組み合わされている。薄衣の裾は水とともに凍りつき、髪は湖水の冷たい指に絡め取られていた。唇は紫に染まり、まつげには細かな氷の粒が雪のように白く積もっている。 あまりに静かな顔だった。祈りの途中で眠りに落ちたのかと錯覚するほどに。 瑞礼は女の袖を掴み、必死で氷の上に引き揚げる。滑る布を何度も掴み損ね、そのたびに指が裂けた。手のひらを染める
last updateHuling Na-update : 2025-12-04
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