Home / BL / 龍君の花嫁代わり / Kabanata 21 - Kabanata 30

Lahat ng Kabanata ng 龍君の花嫁代わり: Kabanata 21 - Kabanata 30

52 Kabanata

21話 龍神との邂逅 - 第一世 御影山の裾野

 ――夢の底で、声を聞いた。「必ず、戻る――」 音のない雪の闇で冷たい指がそっと手をかすめ、そのぬくもりを掴もうとした刹那、世界はほどけ、朝の色がまぶたを照らした。 北辺はまだ奥州と呼ばれることもなく、ただ蝦夷の地として息づいていた。* * * ――鈴の音が霧の向こうでかすかに揺れた。風は声を持たず、ただ若草を撫でて過ぎる。朝靄の底では誰かが名を呼んでいた。水の匂いが鼻先をかすめ、遠くで岩肌が光を返す。 世界は灰と翠のあわいに溶け、音という音が夢の名残のように柔らかかった。 目を開けると霧は白金の光を孕み、土の匂いと樹々の吐息が肌に触れる。露を帯びた岩が鈍く光り、若芽の縁にだけ柔らかな陽が落ちていた。 ――瑞礼は霧に濡れた草の上でゆるやかに身を起こした。春の空気は冷たいのに、どこか懐かしい匂いがあった。――いつか、夢の中でこの風を吸った気がする。 衣は麻の粗衣、腕には藁で編んだ守り紐。周囲には祭祀に使われる石柱が円を描き、その中央に彼は横たわっていた。 霧の奥で鹿の声が一度だけ響き、すぐ静寂が戻る。鳥の影はなく、風は息を潜めている。 ここは飛鳥の遙か北方、御影山の麓に拓かれた蝦夷の里。海より吹く冷たい風が雲を巻き、山の稜線は常に白い靄に覆われている。 この地では山の奥に古き異種が棲むと伝えられてきた。里人はそれを「御影の主様」と呼び、飢饉や疫が訪れるたび山へ祈りを捧げる。 だが、その姿を見た者はいない。夜半に風が哭く折、頂で光が蠢く――ただ、それだけが語り継がれてきた。 それは畏れと共に、この地の信仰の核だった。 ――龍神。 その名を口にすることすら、穢れとされる。 胸の奥にはまだ夢の残り香が漂う。雪のように白い帳、冷たい水の匂い、そして――誰かの手のぬくもりと、名を呼ぶ声。 だがそれを掴もうとした瞬間、記憶は霧にほどけて消える。何かを思い出しかけている。けれど、それが
last updateHuling Na-update : 2025-11-15
Magbasa pa

22話 龍の棲む淵

 夕刻の空が山の稜線に溶けてゆく。風は湿りを帯び、遠くの海の塩を含んでいた。 里の中央では篝火が焚かれ、人々の影がその周りでゆらめいている。その輪の中央には、灰の色をした老祭司――トノトが立っていた。 焚かれた香が淡く立ちのぼり、乾いた草の匂いと混ざっていた。誰も言葉を発しない。ただ獣の骨を叩くの音だけが風に乗り、輪の内をめぐる。 ――それは呼びの音。 御影の主を祀るための、古き祈りの合図であった。 瑞礼と瑞白は、その輪の端に並んで座っていた。 瑞白の手のひらには、昼に摘んだ「神迎えの花」が握られている。風に吹かれて花弁がひとつ舞い、炎の上をかすめた。橙の光がそれを包み、すぐに灰へと溶けた。「……近頃、風が騒いでおるな」 隣で呟いた瑞礼の声に、トノトがゆるやかに顔を上げた。皺の刻まれた眼差しが瑞礼を射抜く。その瞳は、過ぎし世を見通すような深さを湛えていた。「瑞礼よ」「はい」「今宵の風は西から来ておる。海を越え、山を渡り、龍ノ淵を撫でてきた風じゃ」「龍の……淵……」「そうだ。あの山の奥よ。御影の主様が、いま目を覚ましつつある。――お主も、風の気配を感じておろう」 瑞礼は息を呑んだ。胸の奥で何かがざわめく。それは恐れではなく、記憶の底をかすめるかすかな疼きだった。「……はい」 声は風に溶け、人々のざわめきが波紋のように広がっていく。 瑞礼の胸の奥で、あの鈴の音が重なった。昼に聞いた響きが、いま再び耳の奥で鳴りはじめていた。 トノトは火の傍らに立ち、手のひらを天に掲げた。古い言葉が唇から零れ落ちる。祈りとも呪ともつかぬその調べを、風が拾って山の闇へ運んでいった。 篝火の炎が揺れ、影が伸び、瑞礼の足元の砂がかすかに震えた。「――この風は前触れにすぎぬ」 老いた声が火の音を裂いた。「三日ののち、再び祭祀を行う。そ
last updateHuling Na-update : 2025-11-16
Magbasa pa

23話 水底の声

 トノトの祈祷から一夜明けた。  御影山の麓は薄曇り、空の色は鉛のように沈んでいる。冷えた風が草を撫で、里の屋根をゆるやかに越えていった。 瑞礼は朝の水汲みに出ていた。  里の端の泉は静まり、澄んだ水面に御影山の影が映っている。手を差し入れると氷のように冷たかった。手のひらをすくって口を潤すと、胸の奥がかすかにざわめく。 そのとき――またあの音がした。 耳を澄ますと遠くから鈴のようなかすかな響きが聞こえる。だが振り返っても、ただ霧と風のざわめきがあるだけだった。「兄さま」  背後から声がして、瑞礼は肩をすくめた。 「このごろ、ぼんやりしておられることが多いですよ。どうかなさいました?」 振り向くと瑞白が小さな桶を抱えて立っていた。麻の裾を風がなびかせ、頬は朝の冷気に赤く染まっている。彼女は泉の縁にしゃがみこみ、桶を傾ける。 「今日は布を晒す日です。山の水で洗うと白くて丈夫になるんですよ。……少し、手伝ってくださいますか?」「いいだろう」  瑞礼は袖をまくり、泉のそばに膝をついた。水に沈んだ布が陽を受けてきらめき、光の粒がふたりの頬を照らす。「ほら、冷たいでしょう?」  瑞白が笑って手を差し出す。  瑞礼はその指先に触れ、ふと息を呑んだ。妹の手がこんなにも冷たかったことを――なぜか今まで知らなかった気がした。 水に沈む布がゆらめき、光を受けて銀の鱗のように光る。その反射を見つめるうち、胸の奥で何かがふと動いた。水底の向こうに、金紅の影が一瞬だけかすめた気がしたのだ。  瑞礼は目を凝らした。だが、次の瞬間にはもう消えていた。「……兄さま?」 「……いや、なんでもない」  静かに首を振る。けれど水面に映る自分の瞳の奥で誰かが覗き返しているような感覚が、いつまでも残っていた。* * * 午後。狩りを終えた男たちが焚き火を囲み、狩った鹿の肉を吊して燻していた。  煙が空へ立ちのぼり、風に流されて山へ消えていく。  瑞礼は手を貸しながらも、つい山の方を見やる。御影山の頂は霧に覆われ、ときおり光が差してはすぐに消える。「兄さま、また山を見ている」  瑞白が笑いながら寄ってきた。 「山が気になるんですか?」 「……なんだか、呼ばれている気がして」  冗談めかして返したが、言葉のあとに静寂が落ちた。瑞白は兄の横顔を
last updateHuling Na-update : 2025-11-17
Magbasa pa

24話 夜の密会

 その夜、瑞礼はふと胸のざわめきを覚えて目を覚ました。 外からかすかな風の音がして、板戸の隙間から白い月明かりが差し込んでいる。 寝返りを打っても眠気は戻らない。瑞礼は衣を羽織り、そっと戸を開けた。 里はすでに寝静まり、囲炉裏の煙の匂いだけが薄く残っていた。風が通り抜けるたび、屋根の茅が小さく鳴り、夜気の中にしんと溶けていく。 夜空には無数の星が瞬き、御影山の稜線を淡く照らしている。その星明かりの下、ひとつだけ橙の灯が揺れていた。 ――トノトの殿。 山の方に建つ、祭司の住まう古き屋。その壁の隙間からかすかな光が漏れていた。 瑞礼は眉をひそめ、足を止める。 こんな夜更けに灯がともるなど、これまでに一度もなかった。風が止まり、里を包む静寂がいっそう濃くなる。 すり足で近づき、柱の陰に身を潜める。息を呑み、耳を澄ますと、奥から男の声が二つ――ひとつはトノト、もうひとつは聞いたことのない声。 語られる言葉ははっきりとは聞き取れない。けれど、いくつかの断片だけが波のように耳に触れる。――「中臣」「龍」「封」。 草の葉が擦れる音すらやけに大きく感じられる。 やがて、戸が軋み、ひとりの影が外へ出た。絹の直衣の裾、黒金具で留められた冠のような頭飾り。1月光がその輪郭を淡く浮かび上がらせる。 ――蝦夷の者ではない。 瑞礼は息を殺した。 その男は短くトノトに頭を下げると、闇に繋いであった馬の手綱を取り、ひとつ息を吐いた。 蹄の音が夜の静けさを裂き、やがて山の方へ遠ざかっていく。 トノトはその場にしばらく立ち尽くしていた。その背に月の光が降り、古い木々の影が長く伸びる。 やがて彼は静かに戸を閉め、灯がふっと消えた。 再び里に夜が戻る。 瑞礼はしばらくその場から動けなかった。胸の奥で先ほどの言葉が何度も反響する――中臣。龍。封。 何かが動きはじめている。――山の奥だけではない。人の世の底でも。 瑞礼は冷たい風を胸いっぱいに吸い込み、家
last updateHuling Na-update : 2025-11-18
Magbasa pa

25話 祭祀の朝

 夜が明けきらぬうちに、瑞礼は目を覚ました。  夢の残り香がまだ胸の奥に張りついている。息を吸うたび、肺の奥で氷の欠片が転がるようだった。 外では鳥が低く鳴き、霧の向こうで水車の音がかすかに響いている。いつもの朝のはずなのに、世界の輪郭がどこか薄く、音も色も遠い。 身を起こすと、左肩に焼けるように痛みが残っていた。布をずらすと虫刺されにも似た紅い痕がひとつ。だが、その形はどこか巨大な蛇の鱗にも似ていた。  指で触れると熱が脈を打ち、鼓動と同じ律でじり、と疼いた。 戸を開けると朝の光が淡く差し込む。霧はまだ谷に留まり、家々の屋根を白く包んでいる。風が頬を撫で、水と土の匂いを運んできた。「兄さま」 振り向くと、瑞白が立っていた。その顔には不安が薄くこびり付いている。手にはまだ乾ききらぬ神迎えの花。露を帯びた花弁がかすかに光っていた。「また……夢を見ていたんですか?」 「……ああ。だが、よくは覚えていないんだ」 瑞礼は言葉を濁した。見たものを語るには、あまりに現実に近すぎた。あの金紅の瞳の記憶を口にするのも、どこか憚られた。 昨夜――トノトの殿に客が来ていた。橙の灯が揺れ、低い声が交わされていた。  それに、闇の底からも誰かが呼んでいた気がする。声の主の顔は思い出せない。ただ「来い」という響きだけが胸に残っていた。  ――あれは祭祀の支度のためか、それともただの夢の続きだったのか。 瑞礼は胸の奥でざらつく不安をゆっくりと押し沈めた。 瑞白はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸った。 「兄さま、今日は……祭祀の日です。  ……トノト様が、支度を始めるようにと仰っていました」 その声には、かすかな震えがあった。* * * 昼を過ぎるころ、御影山の麓の祈祷場には、すでに人々が集まっていた。  白布をかけた供え台には木の実や魚、穀が並び、焚かれた香の煙が風に乗って金紅の陽を滲ませる。 瑞礼と瑞白も列に加わり、黙して立つ。中央にはトノ
last updateHuling Na-update : 2025-11-19
Magbasa pa

26話 清めの泉

 陽はすでに傾きかけていた。御影山の影が長く里を覆い、ひと筋の春風が畦を渡ってゆく。供えの準備を命じられた者たちはそれぞれに手を止めず、静かな手際で作業を進めていた。 女たちは神迎えの花を束ね、男たちは穀を挽き、鹿革の飾り紐を整える。あちらこちらで焚かれた香が薄く漂い、夕空に白い筋を置いていく。鼻先に触れるその香りはどこか懐かしく、瑞礼の胸をきゅうと締めつけた。 ただひとり、瑞礼だけは祭祀の務めを免除されていた。御影の主の地へ入る者は、先ず穢れを祓わねばならぬ。  瑞礼は身を清めるため、里はずれの泉へ向かった。 瑞白も黙ってそのあとに続いた。  草を渡る風が、ふたりの衣の裾を小さく揺らす。山の奥から鹿の声が遠く反響し、間もなく夜が来ることを告げていた。  泉は白い岩に抱かれ、鏡のように御影山を映している。  梢の隙間から落ちる光が水面で砕け、淡い青の輪を幾重にも描いていた。指を浸せば、骨まで冷えるほどの水。「……兄さま」  瑞白の声は、泉の冷たさよりも細く、触れれば壊れてしまいそうだった。 「本当に、行ってしまうのですか……」 瑞礼は頷く。 「……主様のが怒ってしまえば、里が危うくなる」「そんなの、もういや……」  唇を噛んで俯いた肩が震え、手から神迎えの花がひとつ滑り落ちる。白い花弁は水面をすべり、やがて泉の奥へ吸い込まれていく。「……瑞白」  瑞礼は静かに呼びかけた。 「背を、流してくれないか」 瑞白が顔を上げる。 「え……」「清めの作法だ。明日、山へ入る前に穢れを落としておきたい。  おまえの手で――これが最後になるかもしれぬから」 その言葉に、瑞白の瞳が小さく揺れた。唇が震え、けれどゆるやかに頷く。 瑞礼は衣を脱ぎ、白岩に腰を下ろす。肌に、夕の光が薄く滲んだ。  瑞白は両手で水をすくい、兄の肩から背へと静かに流す。水が肌を伝い、音もなく岩に散る。冷たさは痛みに近かったが、同時にどこか懐かしい。胸の奥で、あの鈴の
last updateHuling Na-update : 2025-11-20
Magbasa pa

27話 花を渡す朝

 夜が更け、里はすっかり息をひそめていた。供えの支度を終えた人々は家に戻り、灯を落とした家々のあいだを風の音だけが通り抜けていく。遠くでは川のせせらぎがかすかに響き、霧が地を這うように流れていた。 瑞礼の家の囲炉裏にはまだ火が残っていた。赤い熾がときおり弾け、薄い光が壁の影を揺らしている。その傍らで瑞白が静かに針を動かしていた。明朝の出立に備え、瑞礼の袖口を縫い直しているのだ。布の擦れる音が、夜の静寂に吸い込まれていく。「もう遅い。休みなさい」  瑞礼がそう言うと、瑞白は首を振った。 「眠れません……。兄さまが行ってしまわれるのに」  声がかすかに震えていた。針を持つ指先も小さく揺れている。瑞礼はその手をそっと包み、針を置かせた。 「泣くな。……俺は大丈夫だ」  瑞白は唇を噛み、俯いた。 「だって……兄さまがいなくなったら……」 続く言葉は声にならず、涙がこぼれ、瑞礼の手の甲に落ちた。瑞礼はそのまま妹の頭を抱き寄せる。 「……まったく、子どものころのようだな」  微笑むと、瑞白は嗚咽の合間にかすかに笑った。その笑いは震えていて、それでもどこか安らぎの色を帯びていた。 やがて瑞白の呼吸が穏やかになっていく。涙の跡を残したまま、彼の胸に凭れ、静かに眠りへ落ちた。瑞礼はその体を起こさぬよう、肩に布を掛ける。瑞白の体温がかすかに伝わってくる。それは冬の灯火のように温かく、儚かった。そのぬくもりに包まれながら、瑞礼のまぶたもゆっくりと閉じていった。 ――その夜、瑞礼は夢を見なかった。  けれど、それはむしろ不気味な静けさであった。いつもなら鈴の音が遠くで響いていたのに、この夜だけは何の音もせず、風すら息を潜めていた。  胸の奥で、何かが眠っている。それは嵐の前の静寂のようで、瑞礼は目を閉じたまま、ただ明日の光の訪れを待っていた。 東の空が白みはじめる。霧がほどけ、御影山の稜線がゆっくりと姿を現した。鳥の声がひとつ、またひとつ重なり、世界が目を覚ます。 瑞礼は衣と腰袋を整え、静かに家を出る。戸口には瑞白が立っていた。早くに目を覚ました
last updateHuling Na-update : 2025-11-21
Magbasa pa

28話 山の胎

 山はまだ冬を孕んでいた。谷底には薄雪が残り、陽を受けて水銀のように光っていた。けれど梢には若葉の芽がのぞき、風の匂いは柔らかく変わり始めている。 ――春と冬の、あわい。 耳の奥がじんと詰まり、遠い音が綿の向こうに沈んでいく。山そのものが息をひそめ、まだ生まれぬ産声を待つ胎のように、境目の静けさを抱え込んでいた。 瑞礼たちはその山路を登っていた。土の奥から湧き出る湿り気が足裏に沁み、遠くの沢から雪解けの水音が絶え間なく響いてくる。陽光は薄く木々を透かし、風に溶ける霧が白い帯のように流れていた。 その奥に、龍ノ淵があるという。 人の通う道ではない。獣さえ寄らぬ禁域。それでも、瑞礼の胸は不思議なほど静かだった。初めて訪れるはずのこの山を、どこかで知っている――そんな懐かしさが胸の奥に宿っていた。 鳥の声が途絶え、風がひとすじ抜ける。杉の葉の間で、残雪がぱらりと音を立てて落ちた。それは鈴の音にも似て、思わず瑞礼は足を止めた。――呼ばれている。 理屈ではなく、身体の奥でそう感じた。指先が震え、鳩尾で鼓動がひとつ、深く鳴る。 遠い夢の底から誰かの声が遠くで響いていた。 やがて、木々の切れ間に白い光が広がった。霧の裂け目の先に、ぽっかりと大地の裂けたような断崖が現れる。 崖の縁に立った途端、足元から膝の裏へとひやりとしたものが這い上がり、喉が乾いた。覗き込めば、自分の声などとうてい届かぬほどの深さだと知れる。 足元は深く抉れ、遥か下方に薄氷を抱いた湖が、小さな皿のように沈んで眠っている。人の身など落ちれば、たちまち豆粒ほどの破片と化すだろう。 雪がところどころに残り、崖の縁を白く縁取っている。陽は山の背に遮られ、湖の底まで光は届かない。ただ、凍てた水面の奥から青白い光がゆらりと浮かび上がっていた。 その青白さの底で、ひとすじ、金紅の光が魚のように身を翻した気がした。刹那、その光と目が合った。胸の内側が炙られるように熱くなる。 前にもどこかで、この色を見た――そこまで思いかけて、すぐに霧に紛れて途切れた。 目を凝らしたときに
last updateHuling Na-update : 2025-11-22
Magbasa pa

29話 墜ちる光、胎の底

 白い霧がゆるやかに広がった。音も風もなく、ただ光だけが漂っていた。自分が落ちているのか、浮かび上がっているのかさえ分からない。どこまでも色を失った虚空で、瞼の裏側を見ているような眩しさを感じた。 やがてその白は淡く滲み、水の色へと変わっていく。 ――落ちた。 耳を裂く水音が響き、全身を冷たい衝撃が貫く。肺の奥まで水が押し寄せ、胸が焼けるように痛む。けれど瑞礼は叫ばなかった。氷に打たれたはずの身体が、確かに水の冷たさを感じていたからだ。 目を見開く。周囲は、底まで見通せるほど透き通っていた。光がゆらぎ、藍と金紅が交ざり合いながら静かな揺らめきを織りなしている。まるで天の海を逆さにしたかのような世界。音はなく、ただ瑞礼の鼓動だけが響いている。 腕を動かそうとすると、水は生きもののようにまとわりつき、指先から淡い光が零れた。それは冷たさではなく、ぬくもりに似ていた。湖そのものが彼を拒むのではなく、抱きとめている。 やがて痛みは薄れ、代わりに内側で何かが呼応した。脈が重なる。心臓の拍動と湖の底から響く律動がひとつになる。 見上げると、崖の上から落ちた光が薄く届いている。白い霧が水面を覆い、その遙か向こうには人の世界がまだある。けれど瑞礼にはもう、その光が遠いものに見えた。「ここは、一体……」 しかしその声は水の底に溶けていった。 視線を巡らせると四方のうち三方は切り立った崖に囲まれている。ただ一方だけ、緩やかな上り坂のように岩が連なり、その奥へと続く闇が口を開けていた。 その景色に、瑞礼はかすかな眩暈を覚えた。――夢で見たことがある。 水の彼方で、誰かが彼を呼んでいたあの夜と同じ光景。 瑞礼は胸の奥に残る痛みを押さえながら水をかく。湖水は不思議なほど軽く、冷たさの奥に、母の腹の内を思わせる温さが潜んでいた。肌を撫でるたび、淡い光が散り、水面に金紅の粉が浮かぶように揺らめく。 岸辺に近づくにつれ、底に沈殿した白い砂が見え、岩の間から小さな泡が立ちのぼっている。まるで湖そのものが呼吸しているかのようだった。自らの息すら、その大きな
last updateHuling Na-update : 2025-11-23
Magbasa pa

30話 紅の邂逅

 光の脈動が止み、青白い残光が岩肌に滲んでいた。洞の奥は再び静まり返り、瑞礼は立ち尽くす。 さきほどまで響いていた低い鼓動が、身体の中心にだけ鈍く残っている。風もなく、水音もない。ただ肌に触れる空気が、どこかかすかに温かかった。――何かが、いる。 瑞礼は息を潜めた。闇の奥で、何かが動く気配。その先から、かすかな足音が近づいてくる。濡れた石を踏むような、柔らかい音。 やがて、闇の奥で赤い光が瞬いた。それは炎ではなく、血潮のような赤。水晶の光を反射しながら、ゆるやかに人の形を結んでいく。 白い衣。骨ばった指先まで白く、長い銀髪が湖の光を受けて淡く揺れ、頬を撫でるたびに細かな雫を散らす。瞳だけが、深い水底の紅玉のように燃えている。覗き込めば二度と地上へ戻れぬと直感させる、底無しの色だった。 瑞礼は息を呑んだ。逃げねばならぬと身体のどこかが告げるのに、膝から力が抜けて動けない。喉が渇き、心臓が痛みとも悦びともつかぬ律で打ち始める。 見てはならぬものを覗き込んでしまった子どものように、目だけがその紅から離れなかった。 生きものとも、神ともつかぬ気配。その存在が視線をこちらに向けた瞬間、空気が震え、瑞礼の皮膚の一枚一枚が内側から撫でられたように粟立った。「……誰だ?」 その男の声は低く、湖底の響きのように冷たかった。問いというより、警戒。音が耳に届くより先に、胸骨の内側を撫でていく。言葉の意味よりも、その低さと掠れた調べだけが先に身体を掴み、瑞礼は自分が喉の奥で息を飲む音を聞いた。 瑞礼は言葉を探し、唇を震わせた。「……人だ。――たぶん」 その答えに、男の瞳が細められる。水晶の光が頬を照らし、金紅の瞳がさらに深く揺れた。「人の身ごときが、ここに落とされてなお息をしていようとは」 その声音には怒りではなく、侮蔑が滲んでいる。瑞礼は一歩も動けず、ただ男の輪郭を見つめることしかできなかった。「この先には立ち入るな。それさえ守るなら、俺はお前に手出しはせぬ。 生きるも死ぬも、お前の勝手だ」「し、しかしわたしは御影の主様にお会いするため、ここに来たのです……怒りを鎮めていただこうと……」 瑞礼は縋るように告げる。 しかし、男は嘲るように返す。「怒り? 俺は怒ってなどいない。いつの世もお前ら人間が勝手に騒ぎ立てているだけだ」 その瞳が
last updateHuling Na-update : 2025-11-24
Magbasa pa
PREV
123456
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status