All Chapters of 攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話 力になれているのか

 湯気の立つココアを一口飲み、私は正直に礼を言った。甘い液体が食道を下りていき、強張っていた胃を内側から温めてくれる。  奏くんはブラックコーヒーを口にし、カップをソーサーに戻した。カチャン、と陶器が触れ合う澄んだ音がする。 「礼には及ばない。……俺がしたかっただけだ」  彼は窓の外、灰色に曇った空を見つめながら呟いた。  その横顔は、どこか寂しげで、それでいてひどく優しかった。 「月詠」 「ん?」 「……天王寺とは、うまくいっていないのか?」  核心を突く問いに、ドキリと心臓が跳ねた。  カップを持つ手が空中で止まる。  誤魔化そうとして、でも、彼の真剣な灰色の瞳に見つめられると、嘘がつけなくなる。 「……うまくいってない、わけじゃないよ。輝くんは、すっごく頑張ってるし、優しくしてくれるし」 「なら、なぜあんな顔をしていた」 「それは……」  言葉に詰まる。  自分の惨めさを、口に出して認めるのが怖かった。でも、今日一日、不器用なりに私を励まそうとしてくれた彼に対して、これ以上強がるのは失礼な気がした。  私は、膝の上で拳を握りしめ、ぽつりぽつりと話し始めた。 「……私が、ダメなだけなの」 「君が?」 「うん。……輝くんはね、すごいんだよ。家を出て、何もかも失ったはずなのに、自分の力でどんどん道を切り拓いてる。キラキラしてて、強くて……すごく遠い存在になっちゃったみたいで」  一度口を開くと、身体の奥底に溜め込んでいた澱のような想いが、堰を切ったように溢れ出した。 「それに比べて私は、何一つうまくいかない。第一志望にも落ちて、滑り止めも全滅して……。隣にいるのが、私でいいのかなって」 「……」 「輝くんの足を引っ張ってるだけなんじゃないか、彼にはもっと相応しい人がいるんじゃないかって……そんなことばっかり考えちゃうの。自分が嫌になるよ」  最低だ。  彼氏の成功を素直に喜べず、勝手に卑屈になって、勝手に傷ついている。  そんな醜い本音を晒しても、奏くんは軽蔑の言葉を投げかけたりはしなかった。彼はただ静かに、私の独白を聞いていた。  そして、私が言葉を尽くして俯くと、テーブル越しに手を伸ばしてきた。  私の握りしめた拳の上に、彼の手が重なる。  冷たい指先が、私の熱を奪うように、そして新しい熱を与えるように触
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第122話 いなくならないで

 アパートの前に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。  冷たい風が吹いているけれど、もう寒くはなかった。奏くんのマフラーは返したけれど、彼がくれた言葉の温もりが、まだ胸に残っているからだ。 「……ありがとう、奏くん。本当に、ありがとう」 「礼には及ばない。……風邪を引くなよ」  彼は短くそう言うと、踵を返して去っていった。  一度も振り返らず、闇の中に消えていくその背中に、私は深々と頭を下げた。  深呼吸をして、自分の部屋を見上げる。  明かりはついていない。待っていると言っていたけれど、疲れて眠ってしまったのだろうか。  (……謝らなきゃ)  (そして、伝えなきゃ。大好きだって)  決意を固め、階段を駆け上がる。  鍵を開け、ドアノブに手をかけた。  ガチャリ。  ドアを開けた瞬間、暖かい空気が流れ込んできた。  そして、鼻をくすぐる、愛おしいシトラスの香り。 「……輝くん?」  靴を脱ぎ、壁のスイッチを押してリビングへ入った。  そこには、ベッドの端に座り、膝に顔を埋めるようにして項垂れている、輝くんの姿があった。 「輝くん……!」  私の声に、彼がバッと顔を上げた。  その顔色は青白く、髪は乱れ、瞳には焦燥の色が濃く滲んでいる。 「栞……ッ!」  彼は弾かれたように立ち上がると、私の方へ駆け寄り、勢いよく抱きしめてきた。  勢いに驚いて胸元に手を当てると、彼の腕が少し緩んだ。それでも離れようとはせず、肩に顔を伏せている。その息が落ち着かないのを聞いて、私はようやく電話越しには分からなかった心配の深さを知った。 「電話、来るまで……どうしようかと思った。部屋にいないし、何かあったんじゃないかって……」  耳元で叫ぶ声が震えている。  私を抱きすくめる彼の身体も、小刻みに震えていた。 「ごめん……ごめんなさい、輝くん……!」  私は彼の背中に腕を回し、泣きじゃくりながら謝った。  出る前に一言も残さず、着信にも気づかなかったこと。電話で無事だと伝えてからも、彼はこの部屋で待っていた。彼をこんなに心配させてしまった罪悪感で、胸が押し潰されそうだ。 「もう……消えたかと思った……。俺が構ってやれないから、愛想尽かして出て行ったんじゃないかって……」 「そんなことない! 絶対にないよ!」  私は彼の胸から
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第123話 二つのプリン

 何を話しても、不採用の結果は変わらない。それでも、輝くんが私の話を聞いている間は、ひとりであのメールを読み返していた時のように、自分の何もかもが駄目だとは思わずにいられた。  泣き疲れて黙ると、彼は隣に座ったまま、冷蔵庫の方を見た。  やがて、輝くんが顔を上げ、少しだけ照れくさそうに言った。 「……あ、そういえば。プリン、買ってきたんだ」 「え?」 「コンビニのだけど。栞、好きだろ? ……一緒に食べようと思って」  帰ったら二人で食べるつもりだったのだ。私も彼も、それぞれ相手を待っていたらしい。  愛しさが込み上げてきて、私は涙目になりながら笑った。 「うん……! 食べる! 一緒に食べよう!」  輝くんが冷蔵庫からプリンを取り出し、ローテーブルに並べた。二人で床に座り直すと、いつもの距離に戻れた気がして、また鼻の奥がつんとした。  プラスチックのスプーンですくって口に運ぶたび、とろりとした甘さと冷たさがじんわりと身体に染み渡っていく。 「……ん。うまい」  輝くんが、まるで最高級のデザートでも味わうように目を細めた。  その顔には、数日分の疲労が滲んでいるけれど、瞳だけは穏やかな光を取り戻している。 「これ、前にも一緒に食べたね」 「二つ買うの、すっかり癖になったな」  輝くんが困ったように笑う。私はスプーンを止め、隣に座る彼の肩にそっと頭を預けた。 「……一緒に食べられてよかった」  彼は食べかけのプリンをテーブルに置くと、ずり落ちそうになっていた私の肩のカーディガンを掛け直してくれた。  その指先が首筋に触れ、ドキリとする。 「栞。……話してもいいか?」 「うん?」 「俺がこの数日、何をしていたか」  輝くんの表情が、スッと真面目なものに変わる。  ビジネスモードの「天王寺輝」の顔だ。でも、以前のような孤高の冷たさはない。パートナーである私に向けられた、信頼の眼差し。 「今日……投資家との最終プレゼンがあったんだ」 「えっ……最終?」 「ああ。これまでの交渉の総仕上げだ。……もしこれがダメなら、立ち上げようとしていたプロジェクトは白紙に戻るところだった」  息を呑む。  そんな大事な日だったのか。知らなかったことが、今さら少し寂しい。私も不採用のことを言えずにいたから、責める言葉にはならなかった。 「
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第124話 好きは消えていない

 胸がいっぱいになって、言葉が出てこない。  私が渡したかったのは、雨に濡れずに眠れる場所だった。そのことを彼がこんなふうに覚えてくれていたのが嬉しい。けれど、おめでとうと言った後も、胸の奥に小さな痛みが残っていた。 「……私ね」  さっき不採用の話をした時には、まだ言えなかったことがある。  彼の成功を喜びたい気持ちまで嘘にしたくなくて、私は膝の上で手を組み直した。 「私、怖かったの。……輝くんがどんどん遠くに行っちゃうみたいで」 「栞……」 「輝くんは眩しくて、強くて……それに比べて私は、何者にもなれなくて。……就活も全滅して、自信がなくなって……」  俯いて、膝の上で手を握りしめる。 「あそこに入れなかったら、もう夢に届かない気がして……輝くんのおめでたい話まで、ちゃんと喜べない自分が嫌だった」  口に出すと、改めて胸が痛む。  でも、不思議と涙は出なかった。輝くんの手が、私の震える拳を包み込んでくれているから。 「……うん。今、無理に喜ばなくていいよ」  その返事に顔を上げた。輝くんはプリンの蓋を脇へ寄せ、私の言葉が続くのを待っていた。 「でも、栞」  彼が、私の顎を持ち上げ、視線を合わせた。  蜂蜜色の瞳が、私の奥底まで見透かすように光っている。 「夢は、終わってないよ」 「え……?」 「会社に落ちたからって、栞の中から『物語』が消えたわけじゃないだろ?」  ハッとした。  物語。  私が愛し、救われ、そして生み出したいと願ったもの。 「俺は知ってるよ。栞がどれだけ熱く、物語の尊さを語れるか。……あのプレゼンの熱量は、小手先のテクニックなんかじゃ作れない。本物の『愛』がないと無理だ」  いつぞやの黒歴史(BLプレゼン)を思い出して顔が赤くなるけれど、今の彼の言葉は茶化しているわけじゃなかった。 「場所が変わっても、形が変わっても……栞がその『好き』を持ち続けている限り、夢は終わらない。俺はそう思う」 「……っ」 「それに、俺は栞の最初のファンだから」  彼は悪戯っぽく片目を瞑り、私の額にコツンと自分の額を押し当てた。 「俺に『愛』の尊さを教えてくれたのは、栞だろ? ……その感性は、絶対に誰かの心を動かす武器になる」  返事をしようとしたら、声より先に涙が落ちた。  ボロボロとこぼれ落ちる涙を、彼
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第125話 もう一度の募集

 唇を離しても、輝くんは私をすぐには離さなかった。額を寄せ合ったまま笑うと、少し伸びた髪が私の頬をくすぐる。 「……やっと、ちゃんと顔を見られた気がする」  彼の声には疲れが残っていた。私は頬に触れ、うん、と頷いた。隣に暮らしていても、それだけでは伝わらないことがある。今夜話せたことも、きっと全部ではないのだろう。 「明日も、聞いてね。たぶんまた落ち込むから」 「うん。俺の話も、聞いて」  彼を引き寄せると、今度はさっきより長く唇が触れた。  窓の外は冬の寒空だったけれど、毛布の中は温かかった。私は彼の背中に腕を回し、その重みを受け止める。眠る前にもう一度好きだと伝えたら、すぐ近くで同じ言葉が返ってきた。  翌朝、目が覚めると輝くんはまだ隣で眠っていた。枕元のスマホを確かめても、仕事の通知は来ていない。昨夜閉じたパソコンもそのままだった。私はほっとして、起こさないように毛布を引き上げた。  昨夜の情熱的な彼とは打って変わって、子供のように無防備な寝顔だ。  その頬をつんと指でつつくと、「ん……」と唸って、私を抱き枕のように腕の中に引き寄せた。  (……重いけど、幸せ)  時計を見ると、いつもより少し遅い時間だ。  今日は日曜日。二人とも、久しぶりの完全オフだ。 「……ん、おはよ」  しばらくして、輝くんがもぞもぞと起き出した。  寝癖がついた髪が可愛い。 「おはよう、輝くん。……よく眠れた?」 「ああ。……泥のように眠った。こんなに深く寝たの、いつぶりだろう」  彼は大きく伸びをし、私を見てふにゃりと笑った。 「……栞がいると、やっぱり違うな。充電完了って感じ」 「ふふ、私もだよ」  二人で布団の中でまどろんでいると、不意に私のスマホが鳴った。  メッセージの着信音だ。  画面を見ると、『氷室 奏』の名前。 『おはよう、月詠。  昨日は、話しにくいことまで話させたな。  天王寺とは、ちゃんと話せたか?』  短い文面に込められた、彼らしい気遣い。  そして、追伸があった。 『P.S.  アルカディア・ワークスの件だが。  二次募集があるらしい。企画職の枠で、欠員が出たとかで。  詳細は公式サイトには出ていないが、教授の伝手で聞いた。 募集が出たら、応募条件を自分でも確認してくれ。  ……諦めるなよ』
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第126話 春までの準備

 彼がニカッと笑う。  最強の味方だ。  それに、情報をくれた奏くんも。  まだ、終わってない。  私の物語は、ここで終わりなんかじゃない。 「よし! 起きよう! 輝くん、私、やるよ!」 「おう! その意気だ!」  私たちはベッドから飛び起きた。  窓を開けると、冷たい冬の空気が部屋に流れ込んでくる。その冷たささえ、今は心地よかった。  空は高く、どこまでも青く澄んでいる。  どん底まで落ち込んでいた昨日の私が嘘みたいに、今の私の胸には希望の炎が燃えていた。  彼の手を握る。  大きくて、温かい手。  この手があれば、私は何度だって立ち上がれる。 「……ありがとう、輝くん」 「礼を言うのは早いよ。……さあ、忙しくなるぞ」  私たちは顔を見合わせ、笑い合った。  スランプの長いトンネルを抜けて、新しい光の中へ。  二人三脚の挑戦が、またここから始まる。◇ 季節の移ろいというのは、いつも足音を忍ばせてやってくる。  窓の外で唸り声を上げていた木枯らしは、いつの間にかどこかへ鳴りを潜め、代わりに柔らかな日差しが、冬の間に固く閉ざされていた蕾を、指先で優しく叩くようにノックし始めていた。  三月。  輝くんの卒業が近づき、私たちはときどき、同じ大学へ通う残りの日を数えるようになっていた。私には、まだ一年ある。  別れと出会い、そして何かが始まろうとする気配に満ちた季節だ。 「……よし。これで、理屈は全部通ったかな」  パタン、とノートパソコンを閉じる乾いた音が、静まり返ったワンルームに響く。  ローテーブルを挟んで向かい合っていた天王寺輝くんが、凝り固まった背中をほぐすように大きく伸びをして、天井を仰いだ。  その横顔には、ここ数ヶ月、薄皮のように張り付いていた焦りの色はもうない。あるのは、長い坂道を登り切った後にだけ見せるような、清々しい達成感だった。 「お疲れ様、輝くん……契約書、全部見終わった?」 「ああ。弁護士のチェックも済んだし、あとはハンコを押すだけだよ」  彼は少年のようにニカッと笑うと、テーブルの上に積み上げられた分厚い書類の束を、愛おしそうにポンと手のひらで叩いた。  そこには、彼がゼロから立ち上げた新しい会社の登記書類や、投資家と交わす契約書が収められている。  天王寺家という巨大な後ろ盾
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第127話 企画書を開いて

 (……かっこいいなぁ)  パソコンの画面を見つめるときの鋭い眼差しも、私に向けてくれる甘く崩れた笑顔も。  今の彼は、以前の「守られている王子様」よりもずっと、地に足がついた一人の大人の男性の顔をしている。 「栞の方はどう? 企画書、進んでる?」 「う、うん……! なんとか形になってきた、かも」  私は見透かされたような気がして、慌てて自分の手元の原稿に視線を落とした。  氷室奏くんが教えてくれた、『アルカディア・ワークス』の二次募集。  企画職の欠員補充という、蜘蛛の糸のように細く頼りないチャンス。それに賭けて、私は今、人生で一番脳みそに汗をかいている(当社比)。  告知された応募要項には、前の選考で不採用になった人も再応募できるとあった。同じ企画をそのまま送る勇気はなかった。面接で答えられなかった質問を、ノートの一番上へ書き直した。 「どれ、見せてみなよ」 「えっ、まだ恥ずかしいよ……!」 「何言ってんだ。俺は栞の一番のファンだって言っただろ」  彼は立ち上がると、テーブルを回って私の隣に腰を下ろした。  肩と肩が触れ合う距離。シャツ越しに彼の高い体温が伝わってくる。  彼は私のノートを覗き込み、真剣な目で並んだ文字を追い始めた。 「……なるほど。『ユーザーがキャラに干渉するのではなく、見守ることに特化したシステム』か」 「う、うん……やっぱり、変かな? 乙女ゲームなのに、自分から恋愛しにいかないなんて」 「いや、面白いよ。栞らしい着眼点だ」  彼はまず肯定した上で、胸ポケットから赤ペンを取り出し、さらさらと要点を書き込んでいく。 「ただ、これだとターゲット層が少し狭すぎるかもしれないな……『見守る』ことでキャラがどう成長するか、そのカタルシスをもっと具体的にアピールした方がいい」 「あ……そっか」 「あと、ここの収益モデル……推しへの課金動線を、もっと感情に訴える流れにした方が説得力が増すはずだ」  的確すぎるアドバイスに、思わず唸る。  それもそのはず、彼は今や海千山千の投資家たちを相手に、自分のビジネスプランを売り込んできた「プロ」なのだ。  その彼が、私の拙い企画書を本気でコンサルティングしてくれている。 「……輝くん、スパダリすぎる」 「ん? 何か言ったか」 「ううん! ありがとう、すごく参考にな
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第128話 正式契約の知らせ

 それから数日後。  春一番が吹き荒れた翌日の、空が驚くほど青く晴れ渡った午後だった。 「――はい……はい、ありがとうございます……失礼いたします」  通話を終えた輝くんが、スマホを握りしめたまま、深く、長く息を吐き出した。  アパートの狭いキッチンで、夕食の野菜を切っていた私は、その気配に手を止めて彼を見つめる。  彼の広い背中が、小刻みに震えているように見えた。 「……輝くん?」 「……決まった」  彼がゆっくりと、重い扉を開けるような動作で振り向く。  その顔は、今にも泣き出しそうなほどくしゃくしゃで、それでいて、雲間から差す太陽みたいに眩しい笑顔だった。 「投資契約、正式に決まったよ……来月から、オフィスを借りて事業をスタートできる」 「……っ!」  包丁を置いて、彼のもとへ駆け寄った。  言葉なんていらなかった。私たちはどちらからともなく手を伸ばし、強く抱きしめ合った。 「よかった……! 本当によかったね、輝くん……!」 「ああ……長かった……本当に、長かった」  彼の腕が、私の背中に強く回される。  耳元で聞こえる震える声から、彼がこれまでどれだけのプレッシャーと一人で戦ってきたかが伝わってきて、私も鼻の奥がツンと熱くなる。  天王寺家を出て、全てを失って。  それでも諦めずに、洗い場で指をふやかし、何度も作り直した画面を持って店へ通った。その日々が、ようやく次の場所へ繋がった。 「ありがとう、栞……君がいたから、俺はここまで来れた」 「私は何もしてないよ。輝くんが頑張ったからだよ」 「ううん。君がいなきゃ、俺はとっくに心が折れてた……君のご飯と、笑顔と、『おかえり』の声に、どれだけ救われたか」  彼が顔を上げ、私の瞳をじっと見つめる。  その蜂蜜色をした瞳の奥に、揺るぎない光が灯っていた。  それは、成功を掴んだ自信と、そして――何か重大な決意を秘めた、熱い光。 「……ねえ、栞」 「なに?」 「今度の日曜日、空けといてくれるか」 「え? うん、もちろんだけど……」 「行きたい場所があるんだ……二人で」  彼は私の手を取り、その甲に誓うように口づけを落とした。  触れた唇の熱さが、指先から血管を伝って全身へと広がっていく。 「大事な話があるんだ」  心臓が早鐘を打つ。 「大事な話」。
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第129話 日曜日の行き先

 日曜日。  約束の日は、まるで世界そのものが私たちの門出を祝福してくれているかのような、雲ひとつない快晴だった。 「……よし。変じゃない、よね」  姿見の前で、私は何度目かのチェックをした。  今日のために新調したわけではないけれど、クローゼットの中で一番春らしい、淡いピンク色のワンピース。  乃亜に「これぞ勝負服!」と太鼓判を押されて選んでもらったものだ。  普段のデニムとパーカーという私の戦闘服(オタク装備)とは対極にあるその服に袖を通すと、背筋がしゃんと伸びるような気がする。 「栞、そろそろ行くよ」 「あ、うん! 今出る!」  慌ててバッグを掴み、玄関へ向かう。  そこで待っていた輝くんの姿を見て、私は一瞬、息を呑んだ。 「……どうしたの? 何か変?」 「う、ううん! すごく……かっこいい」  今日の彼は、いつもの少し着崩したラフなスタイルではなく、きちんとジャケットを羽織っていた。  仕立ての良いネイビーのジャケットに、パリッとした白シャツ。  天王寺家にいた頃のような威圧感のある堅苦しいスーツではないけれど、彼が本来持っている清潔感と品の良さが滲み出ている。  前髪を少し上げて額を出したその顔は、精悍で、大人の男性の色気を漂わせていた。 「よかった……栞こそ、すごく綺麗だよ」 「えへへ……ありがとう」  彼が自然な動作で手を差し出し、私がその掌に自分の手を重ねる。  大きくて、温かい手。  この手に引かれて、私たちは狭いアパートを出発した。 「ねえ、輝くん。どこに行くの?」  並んで歩きながら、私は尋ねた。 「大事な話」があると言っていた彼。  高級レストランだろうか。それとも、どこか景色の良い公園?  私の貧困な想像力では、ロマンチックな場所のバリエーションがすぐに底をついてしまう。  輝くんは、私の質問に悪戯っぽく口の端を上げただけで、詳しくは教えてくれなかった。 「着いてからのお楽しみ」  そう言って、ただ私の手をぎゅっと強く握るだけだ。  電車には乗らず、私たちは歩き続けた。  見慣れた街並み。いつも通るコンビニ。  あれ? この道って……。 「……あ」  目の前に現れた景色に、私は小さく声を上げた。  赤煉瓦造りの正門。美しく整えられた並木道。  そこは、私たちが通う大学だ
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第130話 同じベンチで

 そして、私が彼に「好きです」と返した場所。 「座ろうか」  彼に促されて、ベンチに腰を下ろした。  頭上で木漏れ日が揺れ、穏やかな時間が流れる。  隣に座る彼の体温が、触れ合う肩から伝わってくる。 「……覚えているか、栞」  輝くんが、遠くを見るような目で口を開いた。  その横顔は、陽の光を浴びて透き通るように美しく、そしてどこか切なげだった。 「俺が初めて君に声をかけた時のこと」 「うん……講義室で、私の隣に座ろうとした時だよね」 「そう。あの時、君はいきなり椅子から転げ落ちて……『どうぞお二人で!』なんて言って逃げようとした」  クスクスと喉を鳴らす彼に、私は顔を赤くして抗議する。 「だって! あの時は、輝くんが奏くんの隣に座りたいんだって、本気で思ってたんだもん!」 「はは、筋金入りだもんなぁ、栞の勘違いは」  彼は楽しそうに笑い、私の頭をポンポンと優しく撫でた。  その手つきの慈しむような柔らかさに、胸がキュンと音を立てる。 「でも、あの時……君が俺を見てくれていなかったことが、悔しかったんだ」  不意に、彼の手が止まった。  視線が絡み合う。  彼の蜂蜜色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いていた。 「最初は、俺のことなんか見てないんだなって思ってた。氷室と並べて、楽しそうにしてるから」 「……ごめん」 「でも、時々、びっくりするくらい見てた。引き受けすぎて困ってる時とか、笑ってごまかしてる時とか」  彼の指がベンチの古い傷をなぞった。 「気づいてくれると、ほっとした。次に会うのが楽しみになった」  彼の手が、私の頬に触れる。  指先がゆっくりと輪郭をなぞり、私の鼓動が早くなるのを感じる。 「君の見ていた世界に、俺も入りたかった……君の瞳に映る俺が、ただの『推しカプの片割れ』じゃなくて、一人の男であってほしかった」  彼の言葉の一つ一つが、熱を持って私の心に染み込んでいく。  かつて私が、勝手な妄想で彼を型にはめていたこと。  それを彼は、怒ることもなく、ただひたすらに自分を見てほしいと願い続けてくれたこと。 「だから、俺は決めたんだ……君に選ばれる男になろうって」  輝くんが、ベンチから立ち上がった。  そして、私の正面に向き直る。  逆光の中で、彼の姿が黄金色に縁取られて見えた。 「家柄も
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