Tous les chapitres de : Chapitre 101 - Chapitre 110

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第101話 学食へようこそ

「う、うん。はい……」  机の上で教科書を広げると、彼がグッと体を寄せてくる。  肩が触れ合う。太ももが当たる。  講義中だというのに、彼の左手が机の下で私の右手を弄んでいる。指を絡めたり、掌をくすぐったり。  ちょ、集中できない……!  教授の声が右から左へと抜けていく。  私の全神経は、隣にいる体温の高い生き物に持っていかれていた。  これが「公認カップル」の余裕なのか、それとも「勘当されて吹っ切れた男」の暴走なのか。  どちらにせよ、私の心臓には悪い。 「腹減ったなー。学食行こうぜ、学食!」  昼休みになるや否や、輝くんが私の手を引いて立ち上がった。  その声の弾み方は、高級フレンチに招待された時よりも嬉しそうだ。 「え、学食でいいの? 輝くん、いつもカフェテリアの奥の席で、特注のランチ食べてたじゃん」 「あんな堅苦しい食事、もう御免だよ。俺は栞と同じものが食べたいんだ」  彼は私を連れて、学生でごった返す学食の列に並んだ。  トレーを持って並ぶ天王寺輝。  そのシュールかつレアな光景に、周囲の学生たちがざわめいている。揚げ物の油の匂いと、喧騒。そのすべてが彼には新鮮なアトラクションのようだ。 「おすすめは?」 「えーっと……安くて美味しいのは『B定食』かな。今日は唐揚げだし」 「じゃあそれにする! あと、この『小鉢』ってのも取っていいの?」 「うん、一個五十円だよ」 「安っ! すごいな、学食!」  目をキラキラさせながら冷奴とひじきの煮物をトレーに乗せる元・御曹司。  初めての社会科見学に来た小学生みたいだ。  会計時、私が二人分まとめて支払おうとすると(彼は無一文なので)、レジのおばちゃんが「あらー、彼氏さんイケメンだねぇ! おまけしとくよ!」と唐揚げを一個増やしてくれた。  輝くんのイケメン力は、学食のおばちゃんにも有効らしい。恐るべし。  窓際の席を確保し、向かい合って座る。  プラスチックのコップに入ったお茶と、少し冷めた唐揚げ定食。  天王寺家の食卓とは雲泥の差だろうに、彼は「いただきます」と嬉しそうに手を合わせ、唐揚げを頬張った。 「ん! うまい!」 「ふふ、よかった」 「これ、栞も食べる?」 「あ、いいよ。……あーん、してあげる」  調子に乗って唐揚げを彼の口元に運ぶと、彼はパク
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第102話 変わった彼の隣

 輝くんが余裕たっぷりに手招きする。  奏くんはため息をつきつつも、私たちの隣の席――輝くんの対面ではなく、私の斜め前あたりに腰を下ろした。 「遠慮しておく。食事は済ませた」 「そうか。お前も『B定食』食えばよかったのに。最高だぞ」 「……学食の定食でそこまで感動できるお前の感性が理解できん」  奏くんは呆れたように言いながら、視線を輝くんの首元に向けた。  ノーネクタイで少し着崩したワイシャツ。そして、昨日までの完璧さとは違う、どこかラフな雰囲気。 「……天王寺。お前、何かあったのか?」 「ん? 何が?」 「纏っている空気が違う。……それに、そのスーツ」  奏くんの目が鋭く光る。  さすが、私の元・推し。観察眼が鋭い。 「昨日のパーティーでは、皺一つなかっただろう。今日は、そのシャツも……匂いが違う」 「匂い?」 「……月詠と同じ、柔軟剤の匂いがする」  ドキリとした。  私の心臓が跳ね上がるのと同時に、輝くんがニヤリと口角を上げた。 「へえ。よく気づいたな、変態」 「誰が変態だ。観察力が優れていると言え」 「まあ、正解だよ」  輝くんは箸を置き、身を乗り出して奏くんに告げた。  勝ち誇ったような、そしてどこか清々しい顔で。 「俺、家出したんだ」 「……は?」 「親父と縁を切って、勘当された。今は無一文のホームレス」  衝撃の告白に、奏くんが目を見開く。  しかし、輝くんは続けて、私の肩をグッと引き寄せた。 「で、今は栞の部屋に転がり込んでる。……つまり、同棲中ってわけ」 「ぶっ!!」  奏くんが飲んでいた水(持参したマイボトル)を吹き出しそうになった。  普段冷静な彼が、目を白黒させてむせている。 「ど、同棲だと……!? 貴様、正気か!?」 「大真面目だよ。昨日の夜は、狭いベッドでくっついて寝たし、今朝は栞の手料理食べて、一緒に登校した」 「……月詠、本当か?」  奏くんが縋るような目で私を見てくる。  私は顔を真っ赤にして、小さく頷くしかなかった。 「……う、うん。本当、です……」  奏くんは、ガクリと項垂れた。  その背中には「終わった……」という哀愁が漂っている。  やがて顔を上げた奏くんは、水筒の蓋を閉めた。 「……学費は」 「今期分は払ってある。残りも、自分の口座で何とか
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第103話 初めての買い出し

「……悪かった。連絡すればよかったな」  輝くんが言うと、奏くんは片手を挙げ、先に食堂を出た。  残った唐揚げを前に、輝くんがしばらく箸を止めていた。私は味噌汁を飲み、湯気の向こうで彼を見る。 「心配してくれたね」 「うん。……あいつに、あんな顔させるとは思わなかった」  彼が箸を取り直した。さっきよりゆっくりと、一口ずつ食べた。◇ 放課後。  私たちは大学を後にし、駅前のスーパーマーケットへと向かった。  いよいよ、本日のメインイベント『夕食の買い出し』である。 「ここが、スーパー……!」  自動ドアをくぐった瞬間、輝くんが感嘆の声を上げた。  彼の瞳は、初めて遊園地に来た子供のようにキラキラと輝いている。  整然と並べられた野菜の山、色とりどりのパッケージが積まれたお菓子コーナー、そして店内に響く「ポポーポポポポ♪」という軽快なBGM。  その全てが、彼にとっては未知のエンターテインメントらしい。 「すごいな、栞。野菜がこんなに無造作に置かれてるなんて」 「う、うん。普通だよ?」 「あ、見て! 『お一人様一点限り』だって! これは戦いってことか?」 「そうだよ。主婦たちの聖戦だよ」  彼はカートを押す係を自ら志願し、私の後ろをついて回る。  その姿がスーツ(少しヨレているが)のイケメンなものだから、買い物中の奥様方の視線を独占していた。 「今日は何にする?」 「カレーにしようかなって。簡単だし、作り置きもできるし」 「カレー! いい響きだ。俺、家のカレーって食べたことないかも」 「えっ、そうなの?」 「いつもシェフが作る、スパイスから調合した本格的なやつだったから」  なるほど。ルーを溶かすタイプの「お家のカレー」は未体験ゾーンというわけだ。  それは腕が鳴る。  精肉コーナーへ差し掛かった時、輝くんがピタリと足を止めた。  冷気漂うショーケースの中で、霜降りの特選黒毛和牛に釘付けになっている。 「……美味そうだな」 「だめだよ輝くん。今の私たちの財政状況じゃ、それは高嶺の花」 「え、でも二千円だろ? 安いじゃないか」 「安くない! こっちの豚こま肉を見て! 百グラム九十八円!」  私が特売のパックを掲げると、彼は「きゅ、九十八円……!?」と衝撃を受けていた。  金銭感覚の崩壊音が聞こえる。
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第104話 二人で作るカレー

 彼はサッカー台へカゴを運び、真剣な表情で卵や牛乳を詰め始めた。  重いものを下に、潰れやすいものを上に。  その手つきは意外と器用で、丁寧だ。  何でも器用にこなしてしまうハイスペックぶりを、こんな所でも発揮するなんて。 「できた! どう?」 「完璧! すごいよ輝くん!」 「へへっ、だろ?」  重い買い物袋を両手に持ち、彼は得意げに笑った。  その無邪気な笑顔を見ていると、彼が全てを捨ててここに来たという重い事実さえ、明るい未来への布石のように思えてくる。  アパートに帰り着くと、すぐに夕食の支度に取り掛かった。  狭いキッチンに二人で立つ。  これがまた、心臓に悪いイベントの連続だった。 「俺、何か手伝うことある?」 「じゃあ、野菜洗ってくれる?」 「了解」  彼がシンクの前に立つと、それだけでキッチンがいっぱいになる。私は隣で野菜を切り始めたけれど、彼が身を動かすたびに腕が肩に当たり、その度に手元が止まってしまった。 「あ、ごめん。こっちで待ってる」  洗い終えたじゃがいもを置くと、輝くんはキッチンから一歩出た。少し離れた場所から真剣にまな板を見ているので、かえって緊張する。王子様に包丁さばきを審査されるイベントなんて、攻略本にも載っていなかったはずだ。 「……そんなに見られると、切りにくいんだけど」 「栞が料理してるところ、見たくて」  困る。正直に言えば何でも許されると思わないでほしい。そう言いたいのに、私は笑いを噛み殺しながら最後の玉ねぎを切った。  包丁を置いてから、切った野菜を鍋に移すのを手伝ってもらう。彼が顔を寄せて中を覗くと、肩が触れた。今度は驚かずにいられたので、私から少し寄りかかってみた。 「これくらいなら、大丈夫」  彼が嬉しそうに目を細める。鍋に火をつける前に一度だけ抱きしめられ、私はエプロンのまま、その背中へ腕を回した。  出来上がったカレーは、見た目はごく普通の家庭料理だったけれど、輝くんにとっては三ツ星レストランの料理以上に輝いて見えたらしい。 「……うまい」  一口食べた彼が、目を大きく見開いて呟いた。 「すごいよ栞。こんなに美味しいカレー、初めて食べた」 「ふふ、よかった。おかわりあるからね」 「うん。……幸せだな」  彼はスプーンを置くと、しみじみと言った。 「誰か
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第105話 お風呂の順番

 夕食後、満腹になった私たちはソファ――という名のベッド――でくつろいでいた。  テレビのバラエティ番組をぼんやり眺めながら、肩を寄せ合う。  幸せな時間だ。  しかし、私には一つだけ、避けては通れない重大な懸念事項があった。  お風呂だ。  このアパートはユニットバス。トイレとお風呂が一緒になった、狭い空間である。  昨日は緊急事態だったし、そもそも入浴する余裕なんてなかったけれど、今日はそうはいかない。  一日歩き回って汗もかいているし、何より昨日の雨で濡れた体もちゃんと温めたいはずだ。 「……輝くん」 「ん?」 「お風呂、どうする?」  私が切り出すと、輝くんはパチクリと瞬きをした。 「どうするって……一緒に入る?」 「ブッ!!」  飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。  出た。天然なのか計算なのか分からない爆弾発言。 「む、無理だよ! ここユニットバスだし! 一人でも狭いくらいなのに!」 「えー。じゃあ、俺が先に入る?」 「う、うん。どうぞ」 「……一緒に入りたかったな」  ボソッと呟きながら、彼は立ち上がった。  その背中が少し寂しそうで、思わず心が揺らぎそうになるが、ここで流されてはいけない。  理性の堤防が決壊したら、今夜こそ本当に「寝かせてもらえない」かもしれないのだから。 「じゃあ、お借りします」  彼がバスルームへと消え、シャワーの音が聞こえ始める。  狭いワンルームだ。水の音も、彼が動く気配も、薄い扉一枚隔ててリアルに伝わってくる。  私はテレビの音量を少し上げて、聞こえないふりをした。  けれど、想像力豊かな私の脳内では、狭い浴槽に長い手足を折り畳んで入っている彼の姿が鮮明に再生されてしまい、一人で顔を覆って悶絶することになった。  数十分後。  カチャリとドアが開き、白い湯気を纏った輝くんが出てきた。 「ふぅ……いい湯だった」  バスタオルで髪を拭きながら現れた彼は、上半身裸だった。  湿った肌が照明を弾いて光り、腹筋の陰影がくっきりと浮かび上がっている。  下はスウェットを履いているけれど、そのラフな姿がかえって色気を増幅させていた。 「ッ……! ふ、服! 服着て!」 「え? 暑いからちょっと涼んでるだけだよ」  彼は無防備に私の隣に座り込み、ソーダの缶を開けた。
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第106話 空っぽなんかじゃない

「……風呂上がり、可愛い」 「えっ」 「髪、濡れてる」  彼は手招きをして、私をベッドの縁に座らせた。  そして、ドライヤーを手に取り、私の後ろに回る。 「乾かしてあげる」 「い、いいよ自分でやるから……!」 「ダメ。俺がやりたいの」  彼はスイッチを入れ、温風と共に私の髪を指で梳き始めた。  大きな手が頭皮をマッサージするように動き、温かい風が首筋を撫でる。  気持ちいい。  そして何より、彼の指先が触れるたびに、愛されているという実感が湧いてくる。 「……栞」 「ん……?」 「いい匂い」  ドライヤーの音に紛れて、彼が呟いた。  首筋に、唇が触れた気がした。 「ひゃっ!?」  振り返ると、彼は悪戯っぽく笑っていた。 「……乾いた」  カチッ、と手元のスイッチを落とす。  ドライヤーの唸るような風の音が止むと、耳が痛くなるほどの静けさが急に部屋を満たした。  代わりに聞こえてきたのは、窓の外を叩く雨音だ。しとしと、というよりは、ざあざあとアスファルトを濡らす重たい音が、安アパートの薄い壁を隔てて響いている。  狭いワンルームに湿った空気が澱む。  私はまだ熱の残るドライヤーを置いて、目の前の彼――天王寺輝に向き直った。 「……ねえ、栞」  ふいに伸びてきた大きな手が、私の頬を包み込む。  洗ったばかりの髪の匂いと、彼の指先の微かな震え。  至近距離で覗き込んだその瞳は、昨夜、父親である総帥に啖呵を切った時の強い光を失っていた。どこか遠い場所を見つめるような、頼りない色が揺れている。 「……ん? どうしたの」  努めて明るく小首を傾げてみる。  輝はふっと視線を逸らし、雨に濡れた窓の方を見た。カーテンの隙間から、街灯に照らされた雨粒が流れていくのが見えるだけだ。 「……静かだな」  ぽつりと、独り言のように彼が呟く。 「うん……雨、止まないね」 「ああ。……ここに来るまでは、静けさなんて感じる暇もなかった気がする。朝から晩まで、常に誰かの視線があって、値踏みされて、期待という名の重圧を背負わされて」  彼は力なく笑うと、私の頬を親指の腹で優しくなぞった。  その仕草だけで、私の心臓がぎゅっと掴まれる。 「でも、今は違う。……俺は今、ただの『天王寺輝』だ。家柄も、肩書きも、俺を守ってくれていた
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第107話 温もりから一歩

「輝くん……」  彼の声が微かに震えているのが、肩を通して伝わってくる。  いつも自信満々で、学園の王子様として輝いていた彼。その彼が鎧を脱ぎ捨てて、ただの男の子として不安に震えている。  見えない明日への不安。それは、私だって同じだ。  私なんかが、彼を支えられるのか。重荷になるだけじゃないのか。  部屋の隅に溜まった薄闇が、雨音と一緒に足元から這い上がってくるような気がした。  けれど。  ここで私が不安になってどうする。  私は、彼の広い背中にそっと腕を回した。Tシャツ越しに伝わる体温が、熱いくらいだ。 「……大丈夫だよ」  自分に言い聞かせるように、そして彼にじんわりと染み込むように、言葉を探す。 「輝くんには、何もないなんてことないよ。……だって、ここにあるじゃない」  トントン、とあやすように彼の背中を叩く。 「さっき、私の髪を乾かしてくれたでしょ。今日だって、一緒に買い物して、ご飯を作ってくれた。……何もない人に、あんなに嬉しくしてもらえないよ」  背中を撫でていると、彼の肩が少しずつ下がってきた。お金の心配が消えたわけではない。それでも、私が嬉しかったことくらいは、ちゃんと伝えたかった。  輝が顔を上げる。  潤んだ瞳が、まっすぐに私を捉えた。  やがて、彼はくしゃりと顔を歪めて、どうしようもなく愛おしそうに微笑んだ。 「……そうだな。君がいれば、俺は無敵だったな」  彼の手が、私の腰をぐっと引き寄せる。  抱きしめられる強さに、彼の抱える不安と、それを埋めようとする切実な想いが滲んでいた。 「……今日はもう、寝ようか」 「うん」  輝が手を伸ばして壁のスイッチを切り、部屋の明かりを消す。  一瞬で視界が闇に塗りつぶされ、雨音だけがいっそう大きく耳に届くようになった。  狭いシングルベッドに、二人で身体を寄せ合って潜り込む。  男の人と一緒に寝るにはあまりにも窮屈で、寝返りを打とうとすればお互いの手足がぶつかってしまう。  けれど、今はその不自由さが、隣に彼がいることを嫌でも実感させてくれて、なんだか心地よかった。  背中から抱きしめられると、彼の体温が背骨を通してじんわりと全身に広がっていく。 「おやすみ、栞」  耳元で囁かれる声が、甘く鼓膜を揺らす。 「おやすみ、輝くん」  彼の腕の
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第108話 それぞれの出発

 大学三年生の、冬を迎える頃。  それは、モラトリアムという名のぬるま湯に浸かっていた学生たちが、一斉に社会という冷たい海へ放り出される季節。  そう、就職活動の本格化である。 「大丈夫だよ、栞。似合ってる」  背後から伸びてきた腕が、私の腰をふわりと抱きしめる。  鏡越しに目が合うと、天王寺輝くんが、とろけるような甘い笑顔を向けていた。 「……輝くん」 「スーツ姿も新鮮で可愛いな。……なんだか、禁欲的な色気がある」  彼が私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。  くすぐったいような、それでいて背筋がぞくりと甘く痺れるような感触。  彼の腕は温かく、その体温に触れるだけで、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのがわかった。  あれから、数ヶ月。  私たちは、この狭いワンルームで、貧しくも幸せな同棲生活を続けていた。  秋のうちに大家さんへ二人で頭を下げ、暮らし方の約束を決めた。私の両親にも話した。電話の向こうの沈黙は長かったけれど、輝くんは途中で私に代わらず、学費のことも、卒業までのことも、自分で答えた。  天王寺総帥の放った監視の目は、相変わらずアパートの周囲をうろついている。黒いセダンが路地に停まっていたり、じっとりとした視線を感じたりすることは日常茶飯事だ。  けれど、彼らが強行突破してくることはなかった。  まるで、私たちが生活の重さに音を上げて降参してくるのを、じっと待っているかのように。 「……そんなこと言って、輝くんこそ準備しなくていいの?」  私は少しだけ頬を熱くさせながら、彼の方を振り返った。  今日の彼は、いつもの大学に行く服装とは少し違う。  カジュアルだけれど質の良いジャケットを羽織り、手には分厚いファイルを抱えている。 「俺は大丈夫。……今日は、大事なプレゼンがあるからね」  彼の瞳に、すっと鋭い光が宿る。  それは、私に向ける甘い光ではなく、戦場に向かう戦士のような、研ぎ澄まされた刃のような光だった。  輝くんは、変わった。  天王寺家という強大な後ろ盾を失い、一文無しになったあの日から。  彼は「天王寺グループ」への就職という約束された未来を捨て、自分自身の力で道を切り拓こうともがいている。 「起業、だっけ」 「ああ。……まだ小さな一歩だけど、投資家の人たちに会ってくる」  彼が考
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第109話 面接会場で再会

「ははっ、イチコロって……。栞にそう言われると、本当にそんな気がしてくるな」  彼が声を上げて笑う。  その笑顔を見ると、胸の奥がじんわりと温かくなる。  私が彼を支えているつもりで、本当は、彼のこの強さに私が支えられているのかもしれない。 「栞の方こそ。……今日だろ? 第一志望の面接」  輝くんが、真剣な眼差しで私を見つめる。  私はこくりと頷いた。 「うん。……『Fallen Covenant』の開発会社」  私の人生を狂わせ、そして彩ってくれた、あの神ゲー。  その制作会社である『株式会社アルカディア・ワークス』の選考が、今日から始まるのだ。  単なるファンとしての憧れじゃない。  彼らが作り出す物語の世界に、私も作り手として関わりたい。  誰かの心を救い、誰かの生きる糧になるような、そんな「尊い」物語を生み出したい。  それが、私が悩みに悩んで出した、未来への答えだった。 「栞のその情熱があれば、絶対に伝わるよ。……あのプレゼンの熱量を思い出せばね」 「うっ……そ、それは忘れて……!」  いつぞやの「BLプレゼン」を蒸し返され、顔から火が出るかと思った。  けれど、輝くんは愛おしそうに目を細め、私の頬を両手で包み込んだ。 「行ってらっしゃい、栞。……世界一可愛い俺の彼女」 「……行ってきます、輝くん」  甘いキスを交わし、私たちはそれぞれの戦場へと向かうために、狭い玄関の扉を開けた。  冬の空は高く、突き抜けるように青い。  張り詰めた冷気が、露出した肌をぴりぴりと刺激する。  都心にあるオフィスビルの高層階。 『株式会社アルカディア・ワークス』の会社説明会兼、一次選考会には、数百人の学生が詰めかけていた。  見渡す限りの黒いスーツの群れ。その圧倒的な熱気と緊張感に、気圧されそうになる。  ごくりと唾を飲み込む。  周りを見渡せば、いかにも「クリエイター志望です」といった個性的な空気を放つ学生や、難しそうな専門書を読み込んでいる学生ばかり。  私のような、ただの腐女子上がりの平凡な学生が、こんな場所にいていいのだろうか。  一瞬、弱気な虫が顔を出す。  その時だった。 「……月詠?」  雑踏の中で、凛とした声が私の名前を呼んだ。  聞き間違いようのない、氷のように冷たく、けれど澄んだ声。  
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第110話 仕事でもライバル

「ああ。……知っての通り、俺は物語を書くことしか能がないからな」  彼は謙遜するように肩をすくめたが、その瞳には揺るぎない自信が宿っていた。  そうだった。  彼は大学でも文芸サークルに所属し、その文才は教授からも一目置かれていると聞いたことがある。  そして何より、彼もまた、私と同じ「物語」に救われた一人なのだ。  中学時代、孤独だった彼を支えた万年筆。  そして、彼が密かに紡いできた言葉たち。 「俺は……ゲームのシナリオライターを志望している」 「シナリオライター……! すごい、奏くんにぴったりだね」 「君は?」 「私は……企画職かな。プロデューサーとか、ディレクターとか。……世界観を作る側に回りたいの」  私が答えると、奏くんは少し驚いたように目を見開き、それから納得したように頷いた。 「なるほど。……学園祭の時の、あの執事喫茶の演出。あれを見れば納得だ」 「あ、あれは黒歴史だから掘り返さないで……!」 「ふっ。……だが、悪くなかったぞ。あの時の君の熱意は」  奏くんが、小さく笑った。  その笑顔を見て、私の緊張が少しだけ解けていくのを感じた。  ここに、心強い味方がいる。それだけで、勇気が湧いてくる。 「でも、月詠」  不意に、奏くんの声色が真剣なものに変わった。  彼は一歩、私に近づく。  その灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。 「ここからは、戦いだ」 「え……?」 「倍率は数百倍とも言われている。……俺は、手加減しないぞ」  彼の瞳の奥で、静かな闘志の炎が燃え上がっていた。  それは、恋のライバルとして輝くんと対峙していた時と同じ、いや、それ以上に純粋で鋭利な、クリエイターとしての矜持。 「俺は、必ずこの場所を勝ち取る。……君が相手でも、負けるつもりはない」  宣戦布告。  けれどそれは、敵意によるものではなく、私を対等な「好敵手(ライバル)」として認めてくれているからこその言葉だった。  胸が熱くなる。  そうだ。これは、私たちの未来を懸けた戦いなんだ。  甘えや妥協は許されない。  私は背筋を伸ばし、彼を見つめ返した。 「……うん。望むところだよ、奏くん」  拳を握りしめ、力強く宣言する。 「私も、負けない。……絶対に、ここに入ってみせる!」 「……ああ。その意気だ」  奏
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