All Chapters of 攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~: Chapter 81 - Chapter 90

144 Chapters

第81話 黒スーツの視線

「うん!」 「それに……父さんが連れてたあのSPたち。なんか妙な動きをしてたのが気になるしな」  輝くんが鋭い視線を会場の奥へと向ける。  そこには、先ほど私が「主従萌え」を感じ取ったあのSPを含め、数人の黒服たちが無言で配置についているのが見えた。  彼らの視線は、警備というにはあまりにも粘着質に、私たち――特に輝くんを監視しているように見えた。 「(……確かに。あのSPさん、ただのモブキャラじゃない気がする……)」  私のオタク的直感が、新たな波乱の予感を告げていた。  ドレスアップという魔法で掴んだ自信と、深まった絆。  それを武器に、私たちは再び光と視線の渦巻くパーティー会場へと足を踏み入れた。  天王寺家の本邸、大広間。  数百人の招待客がひしめく煌びやかな社交場は、先ほどの総帥による「査定」の余韻を色濃く残していた。表面上は穏やかな談笑と弦楽四重奏の優雅な音色に包まれているものの、私と輝くんの周囲だけは、まるで透明な結界が張られたかのように空気が張り詰めている。  遠巻きに向けられる視線には、好奇心と同情、そして「天王寺家の異端児とその恋人」という、腫れ物を見るような色が混じっていた。 「……大丈夫? 栞」  隣を歩く輝くんが、私の顔を覗き込む。  腰に回された腕は、テラスの入り口で誓い合った時と同じように力強い。けれど、タキシード越しに伝わる指先は、微かに強張っていた。彼もまた、父親という巨大な壁と、この家が持つ特有の重圧と戦っているのだ。 「う、うん。大丈夫……」  私は強がって頷く。  嘘ではない。さっき輝くんと抱き合ってチャージした勇気は、まだ胸の奥で温かく灯っている。しかし、それとは別に――私の本能が、けたたましく警報を鳴らしていた。  視線が、痛い。  社交界の人々が向ける好奇の目ではない。もっと物理的で、粘着質で、こちらの急所を探るような、プロの視線だ。  会場の要所要所に配置された、黒いスーツの男たち。警護スタッフ(SP)。  総帥が去った後も、彼らは微動だにせず、鋭い眼光で会場全体を――とりわけ私たちを、監視し続けている。  怖い。やっぱり、ラスボスの親衛隊だ。隙を見せれば即座に別室へ連行され、『手切れ金だ』と封筒を突きつけられる展開に違いない。BL小説の読みすぎによる偏った知識が、恐怖を加速
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第82話 見すぎました

 眼鏡のリーダーが、顎で私をしゃくりながら囁く。冷たい。まるで無機物を処理するかのような声音だ。  しかし、青年の反応は予想外だった。 「……チッ。分かってますよ」  彼は不機嫌そうに舌打ちをすると、リーダーから視線を外し、乱暴にネクタイを緩めたのだ。  その反抗的な瞳、荒々しい仕草。  それを見たリーダーが、呆れたように、けれどどこか慣れた手つきで、青年の乱れた襟元を直してやった瞬間――。  冷静な上司と、反抗しながらも従う部下。黒スーツにインカムまで揃っている。  (……『冷徹上司×狂犬部下』。いや、今はそれどころじゃないでしょ、私)  緊張が続きすぎて、頭がいつもの逃げ道を探し始めていた。 「……栞? どうしたの、急に立ち止まって」  輝くんが不審そうに声をかけてくる。彼の心配そうな顔が、今の私には少し遠い。全神経は今、柱の陰の二人に注がれていた。  ふと気配に気づいた青年SPが、こちらを見た。  目が合う。  その瞳は、先ほど総帥の背後で見た時と同じように鋭く、私を射抜いてくる。普通なら震え上がる場面だ。けれど今の私には、その視線が全く別の意味を持って映っていた。  青年の視線に、慌ててグラスを持ち直した。つい見すぎてしまった。こんな場所でもいつもの癖が出る自分に、我ながら呆れる。 「……ねえ、栞。君、今、どこを見てるの?」  輝くんの声のトーンが落ちる。  ハッとして隣を見ると、彼は私の視線の先を追い、眉をひそめていた。そこにあるのは、ただ無愛想に立っているだけの、むさ苦しい男たちだ。 「ごめん。ちょっと、いつもの癖が……」  輝くんが私の視線を追い、何かを察した顔になる。 「……あの二人まで?」 「声に出さないで!」  思わず袖を引くと、彼が初めて小さく笑った。私もつられかけたけれど、こちらを見ていた青年が一歩踏み出し、背筋が伸びた。笑っている場合ではなかった。  コツ、コツ、コツ。  硬質な靴音が、不気味なほど正確なリズムで近づいてくる。私の熱視線――という名の不審なガン見――に気づいたSP二人が、ついにこちらへ向かって歩き出したのだ。  (ひっ……! 来た! 本物が来た!)  慌ててシャンパングラスを口に運んだが、中身は空だった。動揺をごまかす手段すら失い、迫り来る「萌えの塊」を直視することしかでき
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第83話 苦しい言い訳

「コラ、言葉を慎め。お客様だぞ」 「チッ……すいませんね」  青年を嗜めたリーダーが、私の顔を見て眉を寄せた。私は空のグラスを胸の前に抱えたまま、何も言えなくなっていた。 「……天王寺様。こちらのお連れ様は、ご気分が優れないのでしょうか?」  リーダーが、助け舟を求めるように輝くんに視線を移す。  輝くんは、額に手を当てて深いため息をついていた。彼の顔には、はっきりと「終わった」と書いてある。 「あー……いや、その……」  彼が必死に言葉を探している、その時だった。 「――何事だ」  場の空気が、一瞬にして凍りついた。  その声は低く、重く、絶対的な響きを持っていた。人垣が割れ、その奥から現れたのは――この屋敷の主、天王寺総帥だった。 「げっ……」  輝くんの口から、小さな悲鳴が漏れる。  SP二人は弾かれたように背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取った。 「報告します。不審な……いえ、お客様が、警備体制に強い関心を示されておりましたので、事情を伺っておりました」  リーダーが淀みなく報告する。  総帥の冷徹な視線が、私に向けられた。爬虫類のような、感情の読めない瞳。先ほどの「いくらで買った?」という侮辱的な言葉が蘇り、背筋が寒くなる。 「……また君か」  総帥は鼻を鳴らし、鬱陶しそうに私を見下ろした。その視線は、道端の石ころを見るよりも冷たい。 「私の警備員たちに色目を使うとは。……輝、お前の選んだ女は、随分と尻が軽いようだな」  ピクリ、と輝くんの肩が震えた。  侮辱されたことへの怒りで、彼の手が握りしめられる。けれど、ここで怒鳴り合えばパーティーは台無しになる。私がこれ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。  何か言い返そうと口を開きかけた時、輝くんが一歩前に出て、私を背に庇った。そして、冷や汗を流しながらも精一杯の「虚勢」を張って、とんでもない言い訳を口にしたのだ。 「ち、違います父さん! 栞は……色目を使っていたわけじゃありません!」 「ほう? では、あのいやらしい目つきは何だと言うんだ」 「あ、あれは……!」  輝くんが、一瞬だけ私を見て、それから覚悟を決めたように総帥を見据えた。 「彼女は……その……芸術的な感性が、人一倍鋭いんです!!」 「……は?」  総帥が初めて呆気にとられた顔をした。SP二
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第84話 思わぬ同類

 シーン。  広い会場に、奇妙な静寂が落ちた。  私は輝くんの背中を見つめながら、心の中で土下座した。 「じろじろ見てしまって、すみませんでした」  私は一歩前に出て頭を下げた。輝くんの苦しい説明に便乗するのは簡単だけれど、彼だけにこの場を背負わせたくなかった。 「でも、輝くんのおっしゃるとおり、そういうつもりではありません」  総帥は私たちを見比べ、胡散臭そうに眉をひそめた。 「……ふん。理解し難いな」  総帥は興味を失ったように吐き捨てると、SPたちに向き直った。 「持ち場に戻れ。……これ以上、客の相手をする必要はない」 「はっ!」  SP二人が敬礼し、素早くその場を離れていく。去り際、青年SPがチラリとこちらを見た。その目は「変な女」という軽蔑を含んでいたけれど、同時にどこか「やれやれ」といった安堵の色も見えた気がした。  総帥もまた、私たちに背を向け、会場の奥へと歩き去っていく。  嵐が過ぎ去った後のような脱力感が、私と輝くんを襲った。 「……はぁぁぁ……」  輝くんが、その場に崩れ落ちそうになるのを堪えて、長いため息をついた。額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。 「し、死ぬかと思った……」 「ご、ごめんね、輝くん……! ナイスフォローだったよ……!」 「もう勘弁してよ、栞……。俺、寿命が十年縮んだ気がする」  輝くんが恨めしそうに私を見る。けれど、その瞳は怒っていなかった。むしろ、「しょうがないなぁ」という諦めと、深い愛情に満ちていた。 「でもまあ……父さんを煙に巻けただけ、マシか」 「ありがとう。……次は、私にもちゃんと言わせて」  まだ少し冷たい彼の指を握ると、輝くんは驚いたようにこちらを見た後、小さく頷いた。  数十分後。  輝くんが知人に挨拶をする間、私は一人、会場の隅にある化粧室へ向かっていた。緊張が解けて、どっと疲れが出たのだ。冷たい水で顔を洗いたかった。  長い廊下を歩いていると、角を曲がった先の通用口付近で人影が見えた。  黒いスーツ。さっきの、青年SPだ。  彼は壁にもたれかかり、大きく息を吐きながら、ネクタイを緩めていた。手にはスマートフォンが握られている。  (あ、休憩中かな……)  見てはいけないものを見た気がして、引き返そうとした時。  彼の独り言が、静かな廊下に響いた
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第85話 敵陣のゲーム仲間

 その瞳には、敵意はなかった。あるのは、隠れキリシタンが仲間を見つけた時のような、奇妙な連帯感だけだった。 「そ、そっち側……?」  オウム返しに呟きながら、目の前の青年SPを凝視する。  黒いスーツにインカム、そして腰には警棒か拳銃のような膨らみ。どう見てもカタギの、しかもエリート警護官だ。そんな彼から、「沼」の住人特有のオーラが漂っているなんて。 「……ここだけの話っすけど」  青年SPは周囲を警戒するようにキョロキョロと見回すと、さらに声を潜めて私の耳元に顔を寄せた。 「俺、実は『Fallen Covenant』のガチ勢なんすよ。特に帝国騎士団の副団長推しで」 「!?」 「あの『忠義と狂気』の狭間で揺れる感じ、たまんなくないっすか?」  ――ガチだ。  この人、本物だ。  脳内でファンファーレが鳴り響いた。まさか、こんな敵陣のど真ん中で、しかもラスボスの親衛隊の中に、同志(ソウルメイト)が潜んでいるなんて! 「わ、わかります! 副団長のあの、主君のためなら汚れ仕事も厭わない献身……! そして時折見せる、報われない切なさ……! 最高ですよね!?」 「ですよね!? いやー、まさかこんなところで話が通じる人に会えるとは。アンタ、さっき俺とリーダーのこと見てた時の目、完全に『解釈一致』の顔してましたもん」  青年SP――名札には『高橋』とある――は、ニカっと人懐っこい笑みを浮かべた。さっきまでの狂犬のような鋭さはどこへやら。今は完全に、イベント会場で意気投合したオタク仲間のような顔をしている。 「さっきは、すみません。お仕事中なのに」 「いえ、俺も愛想なくて。……好きなものの話だと、止まらなくなるの、分かるんで」  高橋さんは少し照れくさそうに笑った。さっきの鋭い目つきが消えると、年の近いゲーム仲間みたいに見えた。 「あ、そうそう。これ、あげるっす」  高橋さんは懐を探ると、一枚の名刺……ではなく、小さなメモ用紙を私に渡してきた。達筆な文字でIDのようなものが書かれている。 「俺の裏垢(SNS)っす。ゲームの感想ばっかですけど、よかったら見てください」 「えっ、いいんですか!?」 「同志は助け合いっすから。……それに」  彼はふと真面目な顔になり、会場の方角――総帥や輝くんがいるであろう場所を見つめた。 「アンタの彼氏…
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第86話 扉の前で繋ぐ手

 低く鋭い声で応答すると、彼は私に向かって、目元だけで小さく敬礼してみせた。 「じゃ、俺はこれで。……また『裏』で」 「はい! ありがとうございます、高橋さん!」  彼は足音を忍ばせ、風のように去っていった。その背中には、もう「オタク」の気配はなく、完璧な警護官の威厳だけが漂っていた。  (……かっこいい。そして尊い。天王寺家、恐るべし……!)  メモ用紙をポーチにしまい、化粧室で手を洗った。冷たい水に触れると、ようやく頭が少しすっきりした。  輝くんは、まだあの会場にいる。私も戻らなくては。鏡の中の自分に頷いて、廊下へ出た。  会場に戻ると、パーティーは終盤に差し掛かっていた。ざわめきは少し落ち着き、招待客たちも三々五々、帰路につき始めている。  人混みを縫って、輝くんの姿を探した。 「……栞」  すぐに、名前を呼ばれた。  振り返ると、柱の陰で待っていた輝くんが、ほっとしたような表情で駆け寄ってくる。 「遅かったね。大丈夫? 気分悪くなったりしてない?」 「ううん、平気だよ。ちょっと……面白いことがあって」 「面白いこと?」 「うん。……天王寺家にも、意外と『話の分かる人』がいるんだなって」  含み笑いを浮かべると、輝くんは不思議そうに首を傾げた。  まさか、彼の父親のSPとBL談義に花を咲かせていたなんて、口が裂けても言えない。これは私と高橋さんだけの秘密だ。 「それより、輝くん。……お父様は?」 「……ああ。奥の応接室にいるみたいだ」  輝くんの表情が、スッと曇る。  先ほどのエリカ様との一件、そして総帥との対立。このまま何事もなく終わるはずがないことは、私たち二人が一番よく分かっていた。 「『後で来い』って言われてたよね。……行くの?」 「……行かなきゃ、終わらないからな」  輝くんは、握りしめた拳を見つめ、静かに、けれど力強く言った。 「俺は、父さんとは違う。家柄や利益のために結婚するなんて、死んでも御免だ。……俺は、俺の人生を生きる。そして、その隣には栞がいてほしい」  彼は顔を上げ、私の瞳をまっすぐに見つめた。その蜂蜜色の瞳には、揺らぐことのない決意の炎が燃えていた。 「栞。……ついてきてくれるか?」 「もちろん」  即答し、彼の手を両手で包み込む。  冷たくなっていた彼の手が、私の体温で少
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第87話 婚約を断る

 重たい金属音が響き、扉がゆっくりと開いていく。中から漂ってくるのは、最高級の葉巻の香りと、肌を刺すような冷たい緊張感。  部屋の中央、革張りのソファに深く腰掛けた総帥が、グラスを片手にこちらを見据えていた。 「……遅かったな、輝」  その声は、地獄の底から響いてくるように重く、冷徹だった。  輝くんは一歩も引かず、部屋の中へと足を踏み入れる。私も、震える足を叱咤して、彼の後ろに続いた。  扉が、背後で重く閉ざされる。  逃げ場のない密室。親子二代にわたる、確執と愛憎の決着をつける時が来たのだ。  輝くんは、総帥の正面に立つと、深く一礼し、そして顔を上げた。  その声は、震えていなかった。 「父さん。……話があります」  その一言が、広々とした応接室の空気を一変させた。張り詰めた糸が今にも切れそうなほどの、極限の緊張感。  総帥はグラスをゆっくりとテーブルに置き、組んだ足の上で指を絡めた。その動作一つ一つが、計算され尽くした威圧感を放っている。 「……話、か。聞こうか」  総帥の視線が、輝くんを、そしてその背後に立つ私を射抜く。まるで、解剖台の上のカエルを見るような、感情のない目。  けれど、今の輝くんは、その視線に怯むことはなかった。 「俺は……西園寺エリカとの婚約を、お受けしません。今後も、この話を進めないでください」  単刀直入な切り出し。総帥の眉が、ピクリと動く。 「……理由は?」 「愛していないからです」 「愛だと? ……くだらん」  総帥は鼻で笑った。輝くんの言葉を、幼子の戯言として切り捨てる嘲笑だ。 「結婚とは、家と家との契約だ。個人の感情など、二の次、三の次だ。……お前も天王寺の人間なら、それくらい理解しているはずだろう」 「理解しています。……だからこそ、俺は拒否するんです」  輝くんが一歩前に出る。その背中から、熱気が立ち上っているように見えた。 「俺は、天王寺家のための道具じゃない。一人の人間です。……誰を愛し、誰と生きるか。それは、俺自身が決めることです」 「……ほう」  総帥の目が、危険な光を帯びて細められる。 「それが、お前の答えか。……その、どこの馬の骨とも知れぬ小娘を選ぶと?」 「彼女は馬の骨なんかじゃない! 栞です! 月詠栞という、かけがえのない女性です!」  輝くんが声を張
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第88話 置いていく家名

 総帥の言葉は、冷酷な宣告だった。  すべてを奪う。王子様から、魔法を解いて、ただの男にする。それは、輝くんにとって死刑宣告にも等しいはずだった。  けれど。  輝くんは、笑った。  ふっ、と。肩の荷が下りたような、憑き物が落ちたような、清々しい笑顔で。 「……構いません」 「何?」 「むしろ、願ったり叶ったりです。……俺はずっと、この家が、この名前が、重荷でした。……栞となら、ゼロからでも、いやマイナスからでもやり直せる気がします」  輝くんは振り返り、私に手を差し伸べた。  その瞳は、キラキラと輝いている。何の憂いもなく、ただ未来への希望だけを映して。 「行こう、栞。……俺たちの、新しい人生を始めよう」  私は、彼の手を強く握り返した。  その手は温かく、力強かった。天王寺というブランドがなくても、お金がなくても、この手さえあれば、私はどこへだって行ける。 「……うん! 行こう、輝くん!」  私たちは、総帥に背を向け、扉へと歩き出した。  背後で、総帥が何かを言おうとして、やめた気配がした。あるいは、その背中に、かつての自分を見たのかもしれない。……なんて、それは私の妄想が過ぎるだろうか。  重い扉を開けると、そこにはSPたちが整列していた。  高橋さんが、ニヤリと笑って小声で囁いた。 「……お幸せに」  眼鏡のリーダーも、微かに口元を緩めて一礼した。  私たちは、彼らの間を通り抜け、光溢れる廊下へと踏み出した。  天王寺輝は、すべてを捨てた。  そして、私というたった一つの「真実」を手に入れた。  ここからが、本当のスタートだ。  王子様と平民の、波乱万丈な同棲生活が、今、幕を開けようとしていた――。  屋敷の重厚な扉が背後で閉ざされると、夜の湿った風が私たちの髪を撫でていった。  門灯の届かない空には、月も星も見えなかった。低い雲の下に、庭の土の匂いが溜まっている。 「輝くん……」  私は彼の方へ向き直り、恐る恐る声をかけた。 「……ん」  彼は足を止め、ゆっくりと私を振り返る。その表情は、憑き物が落ちたように穏やかで、けれどどこか頼りなくも見えた。 「あの、これから……どうしよっか」  口にしてから、事態の深刻さが改めて身に沁みる。  移動するための車もない。帰るべき家もない。財布すら持たず
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第89話 雨の中を二人で

 空模様は、私たちの状況をあざ笑うかのように、瞬く間に機嫌を損ねていった。  最初は遠慮がちだった雨粒は、数分のうちにアスファルトを叩きつけるような激しい本降りへと変わる。  乾いた土と埃が濡れていく独特の匂いが、むっと鼻腔を刺激した。  私たちは屋敷から続く長い坂道を下っていたけれど、生活感を排除した高級住宅街の並木道には、雨宿りできそうな軒先ひとつ見当たらない。 「くそっ、タイミングが悪すぎるな……」  輝くんが悔しげに呟き、天を仰ぐ。  その端正な顔立ちに、無遠慮な雨が容赦なく打ち付けた。濡れた前髪が額に張り付き、水滴が長い睫毛を伝って、顎のラインへと滑り落ちていく。  その様子があまりにも美しくて、私は不謹慎にも息を呑んでしまった。  まるで、傷ついた騎士が戦場の雨に打たれているような、そんな凄みのある美しさ。 「栞、こっちへ」  彼は自分のことなど気にする素振りもなく、ジャケットすら羽織っていないワイシャツ姿のまま、私を庇うように肩を抱き寄せた。  冷たい雨の中で、密着した彼の体温だけが驚くほど熱い。 「輝くん、濡れちゃうよ。上着もないのに」 「俺はいい。お前が風邪を引いたら大変だ」  彼は短くそう言って、私を自分の胸元へ守るように引き寄せて歩調を早める。  逞しい腕に守られている安心感と同時に、申し訳なさで胸がぎゅっと押し潰されそうだった。  彼はさっき、すべてを置いてきたのだ。  雨を凌ぐための車も、支払うためのカードも。上着と一緒に置いてきたスマートフォンへ手を伸ばす癖だけが、まだ残っている。  天王寺家の御曹司としてなら、指一本動かすだけで黒塗りの車が迎えに来ただろうに。今の彼は、ただ雨に打たれる無力な一人の青年でしかない。  (全部、私のせいだ……)  その事実が、水分を含んで重くなった服のように、ずっしりと私にのしかかる。  けれど、輝くんは私の強張った表情を読み取ったのか、雨に濡れた顔で悪戯っぽく笑いかけてきた。 「そんな顔をするなよ。……今の俺には、お前を雨から守るためのビニール傘一本、買ってやれないけどな」 「ううん、そんなこと……」 「情けない男だよ、俺は。愛する女ひとり、まともにエスコートもできないなんて」  自嘲する彼に、私は雨粒を払い飛ばす勢いで首を横に振った。 「情けなくなんて
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第90話 母が去った日

 駅まではまだ距離がある。バス停も見当たらない。視界が白く煙るほどの雨脚に、二人の体温も奪われていく。  輝くんの上質な白いワイシャツは完全に水を吸って透け、肌にぴったりと張り付いていた。そのせいで、鍛え上げられた胸の厚みや、腹筋の起伏が露わになり、背中の筋肉が動くたびに濡れた布地が突っ張るのが見える。  水も滴るいい男、という言葉があるけれど、今の彼はまさにそれだ。  雨に濡れることで、彼の野性的な色気がむき出しになっている。  (だめだめ、こんな時に何考えてるの私)  私はぶんぶんと頭を振り、邪念を追い払った。  今は緊急事態なのだ。彼を早くどこかへ避難させないと、本当に風邪を引いてしまう。 「輝くん、私の家……アパートに行こう」  私は意を決して彼の袖を引いた。 「ここからなら、駅に向かうより私のアパートの方が近いの。狭いし、ボロいけど……でも、雨は凌げるから」  輝くんは一瞬、驚いたように足を止めた。 「……いいのか」 「もちろんだよ。他にどうするの。行く当てなんてないんでしょ」 「そうだけど……お前のテリトリーに、こんな転がり込むような真似をするのは……」  彼は何かを言い淀み、複雑な表情を浮かべた。  プライドだろうか。それとも、私の生活空間に土足で踏み込むことを躊躇っているのだろうか。 「そんなこと言ってる場合じゃないよ。早く行こう」  私は彼の手を強く引っ張った。  躊躇う彼を強引に連れ出すなんて、まるで立場が逆転したみたいだ。  でも、そのことが少しだけくすぐったくて、嬉しかった。  いつも守られてばかりの私が、今は彼の手を引いている。ほんの少しだけ、彼を支えられているような気がして。  私のアパートまでの道のりは、永遠のように長く感じられた。  激しい雨音にかき消されそうになりながらも、私たちは途切れ途切れに言葉を交わした。 「……昔、母さんと別れた日も、こんな雨だったな」  ふと、輝くんが独り言のように呟いた。 「え……」 「俺がまだ幼い頃だ。母さんは父さんのやり方に耐えられなくて、家を出て行った。……俺を置いて」  彼の声は淡々としていたけれど、そこには隠しきれない古傷の痛みが、雨の冷たさと共に滲んでいた。  私は息を呑む。彼のお母様の話を聞くのは初めてだった。 「父さんは言ったよ。『
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