All Chapters of 攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 父とは違う人に

 自嘲気味に唇が歪む。その表情が、以前露天風呂で見せた切ない顔と重なり、胸が締め付けられた。 「軽蔑はしない。でも、次はやめてほしい」  手を借りていながら言うのは、気が引けた。それでも、黙って受け入れたことにはしたくなかった。彼が私を見て、小さく頷く。 「……分かった。もうしない」  彼は息を吐き、再び歩き出した。足取りはさっきより遅い。私が遅れないか、何度か振り返ってくれた。 「……月詠」 「ん?」 「怖いなら……もっと近くに来ていい」  彼が歩幅を狭めた。並んで歩くと、浴衣から微かに石鹸の香りがした。 「歩きにくければ、止まる」 「ありがとう。もう少しで大丈夫だと思う」  木々の切れ目に、遠くの灯りが見えた。私は足を置くところを確かめてから、手を離した。 「……分かった」  彼も小さく笑った気配がした。森の暗闇は相変わらず深かったけれど、足元を照らしてくれる光のおかげで、震えは止まっていた。  砂利道は徐々に登り坂になり、鬱蒼とした木々の枝がトンネルのように頭上を覆う。懐中電灯の頼りない光だけが、世界を切り取っていた。  静かだ。虫の音さえ、私たちの気配に息を潜めたように止んでしまった。聞こえるのは、砂利を踏む足音と、少しだけ早くなっている私の呼吸音だけ。  さっき借りた手の温かさが、まだ指に残っていた。助けられて嬉しいことと、同じ気持ちを返せないことが、一緒にある。どちらかをなかったことにすれば楽なのに、それはもうできなかった。  奏くんが、道の曲がるところで私を待つ。 「その先、石が浮いてる」 「うん」  並んで歩き直し、しばらくしてから口を開いた。 「奏くん、お父さんとは……その、いつもあんな感じなの?」  口に出してから地雷だと気づいたが、奏くんは怒る様子もなく、ふう、と息を吐いた。 「仲が悪いというより……俺が一方的に反発しているだけだ」 「反発?」 「父は優秀な研究者だが、家庭人としては落第点だ。母や俺のことなど、自分の研究対象の一部くらいにしか思っていない」  淡々とした口調に、深い諦めが滲む。教室で万年筆のことを暴露された時の、傷ついたような表情が脳裏をよぎった。 「俺は……あんな風にはなりたくない。大切な人を蔑ろにして、自分のエゴだけを押し付けるような大人には」 奏くんが足を止め、木々の
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第62話 待っていた人

 鳥居が近づくにつれ、先に着いた学生たちの声が聞こえてきた。奏くんは懐中電灯を消し、鞄の脇へ収めた。鳥居の下に立つ人影を見つけた途端、ほっとして息が漏れる。 「輝くん」 「……遅かったね」  こちらへ歩いてくる彼の視線が、奏くんと私を行き来した。口元は笑っているのに、目が全然笑っていない。お化けの出番が終わったと思ったら、今度は彼氏の機嫌を読む番らしい。難易度の配分がおかしい。 「途中でびっくりして、転びそうになって。奏くんに助けてもらったの」  輝くんの目が、私の足元へ落ちる。 「怪我は?」 「してないよ」 「……そっか」  私の腕へ伸びかけた手が、途中で止まった。あの帰り道でも、彼はこんなふうに手を下ろした。私が怖がっていると、気づいた時だ。  でも今日は、怖いから黙っているわけではない。  私は自分から彼の手を握った。 「帰りは、一緒に歩きたい」  輝くんが目を見開く。後ろで、砂利を踏む音がした。振り返ると、奏くんはゴールの確認をしている学生の方へ歩いていくところだった。  追いかけて何か言うことはしなかった。私は輝くんと並び、来た道を戻った。  懐中電灯の丸い光が、二人の少し前を揺れながら進む。途中、また茂みが鳴った。反射的に握る手へ力を込めると、輝くんが私を見た。 「……俺だったらよかった」 「え?」 「転びそうになった時。そばにいたのが、俺だったらよかったのにって、ずっと考えてる」  言い終えた彼は、前を向いてしまった。あまりに悔しそうで、慰めの言葉が見つからない。 「今は、輝くんがいてくれるよ」  それだけ言うと、繋いだ手が少し持ち上がった。 「うん。……知ってる」  声が、さっきより近かった。  宿の灯りが見えたところで、私は歩く速度を落とした。今ならもう、一人で帰れる。それでも、手を離すには早い気がした。 「あと少しだけ、話しててもいい?」  輝くんが足を止める。男子部屋でも、人気のない山道でもなく、廊下の明かりが届く中庭だった。 「門限までなら」  その真面目な返事が意外で、つい笑ってしまう。 「輝くんが、それを言うんだ」 「……俺だって、少しは学ぶよ」  照れくさそうに目を逸らした横顔が、妙に好きだった。私はまだ、知らない彼の顔を見つけられる。そのことが嬉しくて、もう一度指を絡め直し
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第63話 資料館の雷鳴

 昨日の続き、と言われて、また顔が熱くなった。朝食の席で思い出させないでほしい。 「じゃあ、一緒に。退屈しても知らないよ?」 「栞が何を面白がるのか、見てるのも好きだから」  そういうことを、ウインナーを取りながら言う。私は返事の代わりに、お皿の端へ残していたパンを口に運んだ。  資料調査のつもりだったのに、彼と行くと思うだけで、どんな服で出ようかと考えてしまう。部屋へ戻ってから結局、着慣れた浴衣の帯を結び直した。遠くへ出かけるわけでもないのに、鏡を見る回数が増えている自分がおかしかった。  待ち合わせた廊下で、輝くんが私を見つけて手を上げる。昨日は言えなかった「お待たせ」を、今日はちゃんと言えた。  郷土資料館は、宿から少し離れた古い蔵屋敷を改装した建物だった。展示室の奥には『別館・資料保管庫』という古びた札が掛かり、さらに古い建物へと続く渡り廊下が伸びている。 「あっちにも、何かあるのかな?」 「行ってみるか?」  ギシギシと悲鳴を上げる床を踏みしめ、別館へ向かう。そこは未整理の資料が山積みになった、薄暗く埃っぽい空間だった。 「すごい……宝の山だ」  本館とは打って変わり、郷土資料館の別館はしんと静まり返っていた。  歩を踏み出すたび、頼りない床板が軋み声を上げ、埃っぽい空気が鼻腔をくすぐる。窓の外には鬱蒼とした木々が迫り、真昼だというのに薄暗い。  何かが起きそうな気配が、肌にまとわりつくようだ。 「ここ、すごいね……。何十年前の資料だろう」 「さあね。整理されてないみたいだし、掘り出し物があるかもよ」  スマホのライトが古びた棚をなぞる。闇に浮かび上がる輝くんの横顔は、探検を楽しむ少年のようで、同時に頼りがいのある男の顔も覗かせる。不覚にも、胸の奥が甘く疼いた。 「あ、これとか面白そう! 『月光院に伝わる天女伝説異聞』だって!」 「へえ。栞はそういうの好きだもんね」 「うん! こういう土着の伝承って、実は禁断の恋の隠喩だったりするんだよ。例えば天女が実は男で、村の若者と……」  いつもの妄想を口走りかけた、刹那。  ゴロゴロ……ッ!!  腹の底を直接殴りつけるような重低音が、遠くで響いた。  肩を震わせて窓の外を見る。さっきまで木漏れ日が差し込んでいた空が、いつの間にかどす黒い雲に覆い尽くされている。風が唸り声
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第64話 塞がれた帰り道

 耳元で囁く声。暗闇の中、密着した体温だけが鮮明な輪郭を持って伝わってくる。  早鐘を打つ心臓を片手で押さえ、コクコクと首を縦に振った。声が出ない。 「う、うん。大丈夫……」 「よかった。……とりあえず、本館に戻ろう。あっちなら自家発電があるかもしれない」  スマホの明かりを頼りに、エスコートされて歩き出す。  だが、入り口へ続く渡り廊下の前に立った時、足が止まった。 「……嘘」  ライトが照らし出したのは、無惨にひしゃげた廊下の残骸。そして、それを押し潰すように横たわる巨大な倒木だった。  さっきの落雷だろうか。太い幹が屋根を突き破り、本館への退路を完全に塞いでしまっている。 「……道が、ない」 「マジかよ……」  忌々しげな声と共に倒木が押されるが、ビクともしない。  雨風が吹き込む隙間から、嵐の激しさが肌を刺す。これでは外に出ることも不可能だ。 「……閉じ込められた、ね」  静まり返った館内に声が吸い込まれる。雨音だけがうるさい。  スマホのアンテナを確認すると、無情にも『圏外』の文字。  孤立無援。  密室。  停電。  そして、二人きり。  脳裏に、かつて読み漁った数々のBL同人誌のシチュエーションが走馬灯のように駆け巡った。  これは、間違いなく「何か」が起きるフラグだ。 「……参ったな」  振り返った彼の顔を下からライトが照らす。その陰影の深い表情が、妙に艶めかしく網膜に焼き付いた。  ゴクリ、と喉が鳴る。 「しばらく、ここで雨宿りするしかなさそうだ」  ゆっくりと、彼との距離が縮まる。  暗闇と嵐が、私たち以外のすべてを世界から切り離していく。この別館は今、二人だけの孤島と化していた。 「とりあえず、窓際から離れよう。雷が近いし、風が入ってくる」  輝の声に引かれ、別館のさらに奥、資料棚が迷路のように入り組んだスペースへと足を踏み入れた。  頼りなく揺れるスマホのライトが、積み上げられた古文書や民具の影を不気味に長く引き伸ばしていく。外では絶え間なく雷鳴が轟き、建物全体が風に煽られミシミシと悲鳴を上げていた。 「うぅ……」  生きた心地がしない。  古びた建物特有の湿った空気と、密室という逃げ場のない圧迫感。喉の奥にへばりつくような恐怖が、胃の腑を冷たく締め上げる。 「ここなら少しは
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第65話 毛布の中の距離

「嘘つき。震えてる」  伸びてきた腕が、毛布ごと体を抱き寄せる。  毛布の中の温かさに、思わず息をついた。自分で思っていたより冷えていたらしく、肩の震えがなかなか止まらない。 「あ、輝く……」 「じっとしてて。暖房もないし、こうしてるのが一番暖かいから」  耳元で囁く声は低く、理性的だ。  だが、肋骨越しに響く鼓動は、トクトクと速いリズムを刻んでいる。抱きしめる腕の強さと、裏腹な心臓の音。同調するように、自身の脈も跳ね上がった。  ――バリバリッ!!  直後、すぐ近くに雷が落ちたような衝撃音が鼓膜を打つ。 「きゃあっ!」  反射的に輝のシャツを掴み、胸に顔を埋めていた。本能的な恐怖で筋肉が強張る。 「大丈夫。……俺がいる」  頭上から降ってきたのは、魔法のように優しい声だった。  大きな掌が背中をゆっくりと撫で下ろす。一定のリズムが、パニックになりかけた呼吸を整えていく。 「怖くないよ、栞。……俺が絶対に守るから」  顎を頭頂部に乗せ、彼が独り言のように呟く。  声音に含まれた絶対的な庇護欲に、胸の奥がきゅんと音を立てた。普段は意地悪だったり、独占欲を露わにしたりするくせに、こういう非常時に見せる頼もしさは反則だ。悔しいけれど、完璧な「スパダリ」そのものではないか。  雷鳴が少し遠ざかり、激しい雨音だけが部屋を包むようになる。  天井に向けたスマホのライトが間接照明のように拡散し、狭い空間にほのかな明るさを取り戻した。  薄明かりの中、ふと顔を上げる。  至近距離にある輝の顔。  濡れた前髪が額にかかり、長い睫毛が影を落としている。その瞳が、じっとこちらを射抜いていた。 「……落ち着いた?」 「う、うん。……ありがとう」  少し身じろぎすると、回されていた腕が緩んだ。毛布の端から冷気が入り、私は思わず彼の袖をつかんだ。 「……まだ寒い?」 「え?」 「もう少し、こうしていようか」  頷くだけでいいはずなのに、なぜか声が出ない。  彼の瞳の色が、先ほどまでの「頼れる彼氏」のものから変質していることに気づいてしまったからだ。  暗く、熱く、そしてどこか切なげな色。  獲物を前にした肉食獣の獰猛さと、愛を乞う子供のような無垢さが同居している。 「栞」  名前を呼ばれ、指先で顎を掬い上げられた。  視線が絡
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第66話 怖さがほどけるまで

 ひとしきり笑った後、輝くんが顔を上げた。さっきまで強張っていた口元が緩んでいて、つられて私も笑いそうになる。 「栞って、こんな時までそういうこと考えるんだ」 「ち、違うよ。怖いから、知ってる展開を思い出しただけで……」  言い訳が途中で尻すぼみになった。暗闇で二人きり、しかも身を寄せ合っている。愛読書なら、この先の展開には大いに期待するところだ。だが、いざ自分が毛布の中にいるとなると話は違う。読者席へ戻る通路は、どちらでしょうか。  輝くんの指が頬に触れた。少し冷たい。その手を無意識に包むと、彼が一度、目を伏せる。 「……帰ったら、ちゃんと二人で出かけたいな」 「今も二人だけど」 「こんな、帰れるかどうか心配しなくていいところで」  窓の外で雨が激しく鳴った。冗談にしていい程度の不安ではないと、急に思い出してしまう。  輝くんの手を握る力が強くなった。 「うん。私も」  頷くと、額に唇が触れた。もう少し、と顔を上げたのは私だった。驚いた目と見つめ合い、それから唇が重なる。  肩を抱く腕に体を預けると、毛布の中がさっきより温かくなった。キスの合間に名前を呼ばれ、その声が近いことが嬉しくて、私も彼の名を呼ぼうとした。  大きな雷鳴に、声をさらわれた。  びくりと身を竦めた瞬間、輝くんが離れる。息を詰めていたことに、そこで初めて気づいた。 「……ごめん、びっくりして」 「うん。聞こえた」  彼は私の肩を抱き直し、ずれた毛布を膝へ戻した。続きをせがむことも、怖がりだと笑うこともなかった。  何となく申し訳なくて、袖を引く。 「輝くんのことが、嫌なわけじゃなくて」 「それは、さっき分かった」  口元が緩む。その顔を見て、今さら自分からキスをねだったことを思い出した。忘れていただくことはできないだろうか。たぶん無理だ。この人の記憶力を、こんな時だけ恨みたくなる。  けれど、彼がもう一度顔を近づけることはなかった。私は肩に頬を寄せ、窓から目を逸らした。  しばらく、雨の音だけを聞いていた。外はまだ怖い。誰かが助けに来てくれる保証もない。それでも、怖がっている自分を隠さずにいられるのが、こんなに楽だとは知らなかった。 「帰ったら、どこに行こうか」  彼がぽつりと言う。  洒落た場所をいくつか思い浮かべたけれど、結局、いつもの道を
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第67話 四人で帰るために

「ごめんね……心配かけて」  輝くんの背中から顔を出し、私は二人に近づいた。  動いた拍子に浴衣の襟が緩み、慌てて手で押さえた。奏くんが目を逸らす。陽翔くんも何か言いかけたけれど、そのまま唇を結んだ。  輝くんが後ろから毛布を肩へ戻してくれた。首筋の痕を見られたのかもしれない。けれど、今はそれより先に言うことがある。 「二人とも、来てくれてありがとう。……声、聞こえなくて」 「途中から、叫んでるのか雨の音なのか、自分でも分かんなくなりました」  陽翔くんが笑おうとして、うまく笑えずに顔を伏せた。濡れた髪から落ちた雫が、顎を伝う。  私はタオルを探して室内を見回した。さっきまで二人きりだと思っていた部屋に、足音が増えている。それが今になって嬉しくて、鼻の奥がつんとした。  奏くんは眼鏡を外し、濡れたレンズを持て余していた。輝くんが自分の袖の乾いたところを差し出すと、一瞬迷ってから受け取る。 「……助かった」  どちらが言ったのか、最初は分からなかった。輝くんが扉の方を見て、もう一度、小さく頭を下げた。  目の前の二人は恋のライバルで、そのことは明日になっても変わらない。それでも今、この部屋に来てくれたことには、何の駆け引きもなく感謝していた。  窓に吹きつける雨が、また強くなる。私は毛布を握り、外へ目を向けた。  ここは孤立した別館。外は暴風雨。 「……そうだな。まずはここから脱出するのが先決だ」  ようやく冷静さを取り戻した奏くんが、入り口へと視線を移す。  しかし、そこにあるのはこじ開けられた扉の隙間と、滝のように雨水が流れ込む泥濘んだ斜面だけ。 「……おい、氷室。お前らどうやってここまで来たんだ?」 「裏山の斜面を登ってきた。本館への渡り廊下が潰れていたからな」 「……帰りは?」  輝くんの問いに、奏くんと陽翔くんが顔を見合わせる。気まずい沈黙が落ちた。 「……登るのはなんとかなったが、この雨の中、下るのは……」 「無理っすね。地面グチャグチャだし、滑落します」 「はぁ!?」  素っ頓狂な声が漏れる。輝くんが呆れ果てたように額を押さえた。 「お前ら……後先考えずに突っ込んできたのかよ」 「呼んでも返事がなかった。中で何が起きているのか、分からなかったんだ」 「戻ろうとしたら、来た時より足場が崩れてて……」
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第68話 眠るまでそばに

「俺はいいんだよ、彼氏なんだから」 「はいはい、出た出た彼氏特権」  陽翔くんはどこ吹く風といった様子で、上半身裸のままストーブの前へと移動した。資料館の職員に電話で場所を教わった非常用の灯油缶を使い、輝くんが点火したものだ。周囲の紙束を遠ざけ、換気のために窓を細く開けると、湿った風の中へ赤い火が浮かび上がった。 「……月詠。こっちのソファを使え」  奏くんが、一番状態の良さそうな長椅子を指し示した。彼もまた、濡れたシャツが肌に張り付き、しなやかな身体のラインが透けて見えている。眼鏡のレンズを拭いながら、彼は私と視線を合わせずに告げた。 「俺たちは床でいい。……君は疲れているだろう」 「え、でも……みんなも大変だったでしょ。私だけソファなんて……」 「レディファーストだ。座れ」  短い言葉には、有無を言わせぬ響きがある。輝くんも深く頷き、私をソファへと促した。 「そうしなよ、栞。……今日は色んなことがありすぎて、もう限界でしょ」  慈しむような声と共に、大きな掌がそっと頭を撫でる。  その温もりに触れた途端、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。全身に鉛のような重さがのしかかってくる。恐怖、興奮、そして安堵。感情の荒波に揉まれ続けた体は、自覚していた以上に悲鳴を上げていたらしい。 「……うん。ありがとう」  素直に従ってソファに深く腰掛けると、古びたスプリングが重々しく沈み込んだ。毛布に包まれると、じんわりとした熱が芯まで染み渡っていく。  薄暗い室内。スマートフォンのライトとストーブの火影が、三人の男たちの影を壁に長く映し出していた。 「……さて」  輝くんが私の隣、ソファの肘掛けに腰を下ろす。 「朝までどう過ごすかだけど」 「寝ずの番をする必要があるな。いつ何が起きるか分からない」  奏くんが壁に背を預けて床に胡座をかいた。 「じゃあ、交代制にしますか。俺、最初は起きてますよ」  ストーブの前で体育座りをした陽翔くんが手を挙げる。  三人の間に流れる空気は、決して和やかとは言えない。互いへの警戒と、静かな火花が散っている。けれど、不思議と怖くはなかった。  右斜め前には輝くん。左前方には奏くん。そして正面には陽翔くん。  私を守るように構築された三角形の陣形は、まるで揺るぎない城壁のようだった。敵対し合っているはず
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第69話 眠ったふり

 どれくらい眠っていただろうか。  ふと、意識の端が浮上した。まどろみの中で聴覚だけが鮮明に世界を捉える。  雨音はいつの間にか止み、深い静寂が満ちていた。その静止した世界に、ぽつり、ぽつりと、低い話し声が落ちてくる。 「……寝たか」 「ああ。……穏やかな寝息だ」 「やっと寝ましたね。……さっきまで、ずっと毛布握ってたから」  おどけた調子の中に、隠しきれない熱を含んだ陽翔くんの声。  私は動くタイミングを完全に失ってしまった。私の寝顔を囲んで、男三人の秘密の会話が始まろうとしている。バレないように呼吸を整え、私は全神経を耳に集中させた。 「……少し、声落とそう」  輝くんの声が、囁くほどに小さくなる。 「すみません。……安心したら、つい」 「俺もだ」  奏くんが短く、重みのある同意を返した。 「だが、今は緊急事態だ。彼女にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない」 「分かってますよ。俺だって、先輩が怖がってる姿は見たくないし」  衣擦れの音がして、誰かが私の毛布を整えてくれた。その手つきは、驚くほど繊細で優しい。 「……なあ」  沈黙を破ったのは輝くんだった。いつもより低く、フラットな声。 「お前らさ。……本当はどう思ってんの。栞のこと。……ただの執着なのか、それとも」  深夜の密室。恋のライバル同士が交わす、本音の腹の探り合い。起きるべきか否か葛藤する私の耳に、奏くんの静かな独白が流れ込んできた。 「……俺は、ずっと後悔していた」  奏くんの声は、夜の静寂に溶け込むほど澄んでいた。 「中学のあの日、彼女が声をかけてくれた時……本当は嬉しかった。なのに、素直になれなかった。ただの気まぐれだと思い込んで、自ら距離を置いてしまったんだ」  毛布の下で、心臓が小さく跳ねる。あの万年筆の日。私には些細な出来事でも、彼には一生を左右するような記憶だったなんて。 「だから、再会した時は……今度こそ、と思った。彼女はちゃんと返事をくれたのに、まだ、普通に話せない時がある」 「……重いな、お前。でも、分かるよ。栞には、放っておけない引力があるんだよな」 「そうなんですよ!」  陽翔くんが勢いよく膝を叩く音がした。 「俺なんて、最初はずっと『店長狙いの当て馬』扱いですよ。いくらアピールしても、『頑張れ!』って応援されて……マジで
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第70話 合宿のあとの日常

「……ん、朝か」  奏くんがようやく身を起こした。眼鏡を外した素顔は、心臓に悪いほどに美しい。彼は状況を把握すると、弾かれたように飛び退いた。 「ッ!?」  その衝撃で、陽翔くんが「ふぎゃっ」と変な声を上げ、輝くんもバランスを崩して目を覚ます。 「おい、急に動くなよ……」 「貴様……! なぜ俺の隣にいる!」 「ちげーし、俺は先輩を守ってただけだし!」  狭いソファの周りで始まった、三人の小競り合い。その中心で、私はもはや台風の目のような心地だった。 「あ、あの……みんな、おはよう……?」  おずおずと声をかけると、三人が一斉に私を見た。 「……おはよう、栞」 「……おはよう、月詠」 「おはよーございます、先輩!」  少し照れくさそうに笑う彼らの顔は、朝の光を浴びて眩しいほどに輝いている。昨夜の話し合いを思い出し、胸の奥が熱くなるのを覚えた。  朝、資料館の職員に誘導され、通れるようになった裏手の道から本館へ戻った。待っていた教授は、奏くんの顔を見た瞬間だけ黙り、それから四人まとめて叱った。いつもの皮肉より、ずっと疲れた声だった。  旅館に戻る頃には朝食の時間を過ぎていたが、食堂には温かい味噌汁が残してあった。箸を持つ手が震えたのを見て、女将さんは何も言わず、お茶を置いてくれた。  着替えに向かう三人の背中を見送りながら、私は湯呑みを両手で包んだ。帰ってこられたのだ。恋の騒ぎにするには、まだ昨夜の雨音が近すぎた。  (……青春、してるなあ、私)  乙女ゲームのヒロインみたいな台詞に、自分でおかしくなって吹き出した。  窓の外には、突き抜けるような青空が広がっている。私の大学生活史上、最も長く濃密な合宿が幕を閉じた。予定を一晩延ばしての帰還だ。  隣の輝くんが、窓にもたれてうとうとしている。起こさないように肩を貸した。大学に戻ってからも、昨日聞いた気持ちを、聞かなかったことにはしたくなかった。◇ ゼミ合宿という名の、私の人生史上最大かつ最も高密度な逆ハーレム・イベントから戻って、夏休みの残りが過ぎた。  大学のキャンパスを吹き抜ける風には、秋の匂いが混じり始めていた。合宿の前につけられた首筋の痕は、とっくに消えている。それでも鏡の前で襟を直す時、彼が伸ばしかけた手を止めたことを思い出す。  中庭で別れた夜も、嵐の中で毛布を
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