All Chapters of 月光聖女~月の乙女は半身を求める~: Chapter 61 - Chapter 70

89 Chapters

雨の夜に見える月のように 2

 レンジュは違う。そりゃ性欲とは無縁そうな、柔和でさわやかな顔立ちをしているし、貴族の子息としての教育を受けているから戦場で生まれ育った輩よりずっと物腰は柔らかで、常に道徳的な思考が基礎としてあるので女ウケがいい。そのくせ腕がたつとあれば、端女たちが騒ぐのも無理ないだろう。布や装飾品をふるまったりしているわけでもないのに、朝見送りにくる女の数も相当なものだ。 だが表面上はどうあれ、激烈な熱情を内に持ったやつだ。 無頓着で、あまり物事に執着しないが、一度執心するといつまでもそれについてこだわっているし、独占欲も激しくて、負けず嫌いで粘着気質という、見かけとは全然似つかない気性の持ち主。 そんな健全な若い男が、好きな女と同じ天幕で寝起きをともにし、愛されていないことを毎日毎日見せつけられながら暮らすなんて、地獄以外の何物でもない。しかもレンジユには彼女をどう扱ってもいい権利がある。買われた女に男を拒む権利などないのは常識で、主の意向に反抗するなどもってのほかだ。彼女を無理矢理我が物としようと、誰も何も言わないし、当然のことと思うだろう。レンジュにはその行為をとることが許されている。 だから、まさかレンジュが彼女の意志を尊重するあまり、今だ手も握っていないなど、思いもよらないだろうし、そうと言われても信じる者など皆無に決まっている。 ハリ自身、その状況を自分に置き替えてみて、手を出さずにいられる自信などなく、どこからその忍耐はきているんだと感心せずにいられない。 誰もレンジュが苦しい片恋をしていることを知らないから、レンジュの行動の異常さがそこにあるなど考えもしない。「冬支度用にと予定していた金がなくなったから」なんて白々しい嘘をそのまま鵜呑みにしているのはよっぽどおめでたい馬鹿だけで、男たちの大半は『しょせん人事』と思っているから何も言わないのだ。だから、レンジュの様子が目に見えておかしかろうと、「替わろう」とは提案しない。「休んだ方がいい」とも。 無性に腹立たしかった。仲間に無関心な彼らも、レンジュの役に立てない自分も。「おまえ、今日は残ったらどうだ?」 言ったところで無駄だろう。そう思いながらも、ハリはつとめて明るい声で提案を
last updateLast Updated : 2025-12-18
Read more

雨の夜に見える月のように 3

 何言ったって聞きやしないなら、おれが目を配って守るしかない。 自分の命だっていうのに、なんだっておれの方が心配してやらなきゃいけないんだか。わがままに腹は立つが、死なれるよりずっとマシだ。 本気だぞと睨むハリに、馬上のレンジュは、まさかそんな手に出るとは思わなかったと目を丸くすると、次の瞬間くすっと鼻を鳴らして大仰に肩をすくめてみせた。「それはこわいな。おまえに見放されたら、おれなんかすぐ死んじまうんだろうから」「ああ、そうとも!」 胸を張って肯定するハリに、ぷっと吹き出す。「ははは。 わかったよ。絶対おまえの前には出ない」「休みもとれ!」「とるよ、とる」 よし、と頷いたハリが手綱から手を放して自分の馬へ戻ろうとしたとき。ふっとレンジュの手綱を持つ手から力が抜けた。それと気付いて見上げたハリの前で、うっすらと笑む。「ハリ。もしおれの暴走を心配してるなら、無用だよ。おれは死ぬ気はこれっぽっちもないから。 すごく苦しいけど、でも、死ぬことの方がもっと辛くてやりきれないって、ちゃんとわかってる。 安易に死を望んだりはしない。誓うよ」 静かな声だった。力みも諦めもない、今日の天気についてでも話すような声。「……ああ、そうだなっ」 申し合わせたように互いの掌を叩きあわせ、ぱんっと軽快な音をたてた後。気がかりが払拭された面でハリは自分の馬に戻った。 そう。死ぬわけにはいかない。 ハリが横に並ぶのを待つ間、レンジュは己が口にした言葉の正しさを確認する。 死んでしまったなら、もう彼女を見つめることさえできなくなる。 愛されなくていい。自分に愛される資格がないことは、最初からわかっていたことだ。一生、触れられなくていい。そばにいてくれさえすれば。彼女を失う以上に辛いことなどありはしない。だから、どんなに辛くとも堪えられないはずがない。 死ぬために戦うんじゃない。ただほんの一時、この苦しさをまぎらわせるために、自分は戦うのだ。 
last updateLast Updated : 2025-12-19
Read more

雨の夜に見える月のように 4

 長い夜がようやく明けた。 男が天幕から姿を消してやっと目を開けることのできたマテアは、額に浮いた汗をぬぐう。 横になっていただけなのに、重い疲労感にめまいがした。起きていることに気付かれたくないと、ずっと同じ体勢で身じろぎもしなかったため、下に敷きこんでいた腕が痺れて感覚がない。両肘に力をこめ、ぐっと上半身を起こしたが、そのまま横倒しになりかけて、あわてて支え手をついた。 なんと長い時間だったか。夜は、こんなにも長かったろうか。 男が帰ってきたのは夜中を回っていたはずだ。そして今は夜明け前。ほんの数時間の出来事というのに、1分1秒を数倍の長さに引き延ばされたかのように、とてつもなく長く感じられた。 月光界の時間にして三百年近くの歳月を生きてきたマテアだったが、こんなにも時間の流れを遅く感じたのははじめてだった。 時間の流れが日によって変化するなどといったことはあり得ないので、それが極度の緊張によるものであったというのは疑うべくもない。意識があることを気付かれたくないと、必死だった。でも、なぜあんなにも知られたくなかったのかについて考えると、よくわからなかった。 ふう、と息をつく。 考えてもしかたない。ともかく、昨夜は失敗したということだ。また今夜挑戦すればいいだけのこと。 膝でたわんだ上掛兼被り布をぱたぱた振って宙になびかせ、おおまかなほこりを払ったところで四つ折りにする。朝起きたらまず何をしなくてはいけないか、それが済んだら次は何をするのか、手順はすっかり身についていた。 手頃な大きさにまとめ終えた布を脇へ置き、次に男のために用意してあった敷物をたたもうと、そちらを向く。そうしてはじめてマテアは自分の枕元に置かれていた数枚の織り布に気付き、軽く目を瞠った。 横になる前にはなかったから、男が置いたのだろうとの見当はつく。問題は、なんのために、ということだった。 膝上に引き寄せ、一枚一枚広げて持ち上げて見た。 格子・無地・柄物……全部で六枚。織り目の密度にばらつきがなく、染めもしっかりとしてムラがないことから、高価な品であろう。
last updateLast Updated : 2025-12-20
Read more

雨の夜に見える月のように 5

 急にマテアが目をきらきらさせてクツの実をぎゅっと握りこみ、強く頷いたのを見て、アネサは口先をへの字にする。 それまではこっちを下に見る目で冷たくにらんで無視しようとしていたくせに、一体どういう気の変わりようか。 本当に自分の言ったことを理解しているのか、はなはだあやしいと、アネサはうさんくさげにマテアを見つめたが、言葉が通じず、どういう育ちをしたかもわからない――北のお貴族さまの娘らしいから、きっと価値観からして下々である自分たちとは違っているに違いない――この娘の考えなどわかるわけもないと、アネサは深々とため息をついた。『……あんたはどっかのお姫さんみたいだから、男の世話ってもんがどんなのか、わからないのも無理はない。けどね、こんな日くらい、あの子に優しくしてやったってばちは当たんないと思うよ、あたしゃ。 それに、ことはあんたにも関係してるんだ。もしもあの子が死んだりしたら、子のないあんたは明日から隊の男たち共有の端女になるんだからね。それがいやならあの子が万全の体調で戦いに出られるように、普段から世話を見とくべきなのに、あんたときたら、あんなにあの子をやつれさせちまって……。 ま、これは今さら言ってもしかたない。けど、無事帰ってきたら、今夜くらいは優しくしておやり。あの子はあんたのことが、本当に大切なようだから』 厄介な娘を好きになったもんだよ。なにもこんな、氷人形のような娘なんかに惚れなくたったって、あの子の専属になりたい、気立てのいい子はごまんといるってのに。 失望の一瞥を向けて去っていく、いつになく元気のないアネサをぼんやりと見送って、マテアはあらためて手のひらの上の粒を見た。 これを飲ませれば眠ると、あの女は言った。でもそれはマテアのためでなく、あの男のためだ。事情を知らないあの女が男を陥れる事に加担するはずがない。 これは、あの男を思いやる彼女の気持ちがこめられた物。 なのに、あのとき自分は何を考えた……?「……っ!」 マテアは津波のように押しよせた
last updateLast Updated : 2025-12-21
Read more

雨の夜に見える月のように 6

「きゃっ」『どうしたの、こんな姿でうろついたりして』 布ごと後ろから抱きすくめられる。耳のすぐ近くで声がして、それがユイナだと知ったマテアは、ほっと詰めていた息を解き、肩から力を抜いた。『陽に弱いんでしょう? 馬車の中でもとろうとしなかった布を忘れるなんて、何かあったの?』 声の調子は軽かったが、目は真剣だ。 マテアはうろたえた。 彼女に訊いてみよう。そう考え、男を捜していることを伝えようとして、はじめて名前も知らなかったことに気付く。「あの……、わたしと、同じ天幕にいるひと。わたしをここに連れてきた……え、っと、背が高くて、短めの髪をしていて――」 ああ、どう表せばわかってもらえるのか。 気ばかりあせって、もどかしい。 胸元でごにょごにょと指を動かすマテアに、ユイナは小首を傾げるだけだ。聞いてくれてはいるが、わかっている様子はない。 そのうち、少し離れた所からユイナを呼ぶ女の声がした。『ユイナー?』『はーい。 先に行っててー。あたしもすぐ行くからー』 手を振り応えた後。ユイナはマテアの腰を引き寄せ、被り布の下を覗きこんで、いつものようににっこり笑った。『ルキシュも一緒に行きましょう』   ユイナに手を引かれて連れて行かれたのは隊の後方、戦馬をつないである場所だった。 馬のそばには大勢の鎧をまとった男たちがいて、男一人に対し女が一~五人の割合で集まっている。 抱きあっている者もいれば、話しこんでいる者もいた。 似た光景を知っている。ここまで騒々しくはなかったが、月光界で、辺境へ旅立つ直前の若者たちと別れを惜しむ聖女たちが、こんなふうに互いを慈しみあっていた。 ではこの者たちも、どこかへ旅立とうとしているのだろうか。にしては、荷物が少ない。べつにいつもと変わらないように見えるが……。 漠然とそんなことを考えながら、
last updateLast Updated : 2025-12-22
Read more

雨の夜に見える月のように 7

「あの……」 何も言葉として組み立てられないまま、とにかく何か言わなくてはとのあせりから口を開いたマテアだったが。『それ、気に入ってくれた?』 男の人差指が、突然マテアの胸元を指した。指を追って見て、ようやく抱きしめたままだった布のことを思い出す。 ああそうだ。これの礼も言わないといけないんだった。 言葉が通じないかわりに、感謝の気持ちが少しでも伝わるように願って、笑顔で男の目を見返した。 男はマテアからのはじめての感情表現にとまどいながら、それでもぎこちなく、笑みを返してくれる。「あの……名前を、教えてもらえないかしら?」『ハリ! レンジュ! さっさとこい!』 遠慮がちに発せられたマテアの言葉に重なって、男の後方から怒声がした。マテアの声はいともたやすくかき消され、男は声に応じてふり返る。『おっと、集合だ。 さあ行くぜ、レンジュ』 首にかかっていたユイナの手をはずして背を正した隣の男が、ぽん、と肩をたたく。 背を向けて彼女のもとから去ろうとする男の姿に、マテアの中で急速に何かが集積し、弾けた。「待って!!」 まだ何も言ってない。ありがとうも、ごめんなさいも。何一つ、伝えてないのに。 お願い、まだ行かないで。 マテアの叫びを耳にして、何事かと男がふり返る。「…………あの……、あの。 気を、つけて。『レンジュ』」 まただ。マテアは、まるで他人からの借り物のように、思うがままを言葉にしてくれない己の口を恨めしく思い、唇を噛みしめる。 けれどもマテアが不安気に発した言葉の中から「レンジュ」との音を聞きとった男は、照れたように口端を歪め、それから、ためらいがちに手を振ってくれた。 きみが伝えたかったことはちゃんと伝わったから、心配しないでとその手は言ってくれているように見えて、マテアも急ぎ手を振り返す。
last updateLast Updated : 2025-12-23
Read more

それは、水面に映る月影に似て 1

 はたして何が起きたのか、起きているのか、マテアには全くわからなかった。 女子どもの悲鳴、そしてけたたましい家畜の鳴き声がいたる所でしており、火の手が生じている。馬車が燃えているのだ。馬車に積んであった甕が割れて、こぼれた獣油を足掛かりに火が走り、新たな供物を得て活性化している。 剣と剣がぶつかりあい、擦れあい、折れる音が方々でしていた。男たちの怒声がそこらじゅうで上がり、同じくらい、苦悶のうめきが炎のあちらこちらでしている。何かが砕けるような巨大音とともに強い熱風が吹いた後、さらに絶望の悲鳴は強まって、たまらず両の耳をふさいだ。 なに? どうしてこんな……。 頭が真白になって、視界がくらくらする。熱をはらんだ煙にやられた目がずきずきして、涙がとまらない。飛んできた木片にやられて傷ついた右のふくらはぎに手をやり、マテアはついにその場へしゃがみこんだ。   地獄のはじまりは、1本の弓矢だった。 いつものように天幕をたたんで馬車に乗りこんだマテアは、さっそく服の型を練った。ユイナや同乗の他の女たちからの提案も参考にして、四枚はすぐに決まった。残る二枚は後回しにすることにして、馬車を降りる。三度目の休憩。揺れる馬車内ではうまく計れないだろうから今のうちに採寸をしようとユイナに伝えられ、馬車から離れて崖のきわの、木陰のある岩場の方へ下っていった。そしてそこでユイナに採寸してもらっていたら、突然悲鳴が上がって……矢に胸を貫かれた見張りの男がすぐそばに落下してきた。「!」 落下した男は仰向けのまま、起き上がろうとはしなかった。赤い血が石を黒く染める。 彼の横をすり抜けて、ここまで降りてきたのだ。ついさっきまで生きていた男が今死んでいるということがすぐには飲み込めないでいるマテアの頭上高くを越えて、二射、三射と飛来した矢が次々と見張りの男たちに突き刺さる。そして、それを目撃した端女たちの金切り声が一斉に上がった。『なんてこと……!』 蒼白したユイナが立ち上がる。強く噛みし
last updateLast Updated : 2025-12-24
Read more

それは、水面に映る月影に似て 2

 突然胸を押しつぶそうとしていた膨らみが弾け、ぎゅうぎゅうにつまっていた光が飛び散るように、その瞬間マテアはこれから何が起きるか理解した。 見覚えのある光景。月光母の顔が浮かぶ。 こちらへきて、いろいろな事が起きすぎて、忘れていた。「いやっ、はなして!!」 自由なもう片方の手で拳を作り、相手の胸らしきところを必死に叩く。金属ではないが、固い鎧の感触が手を伝わる。その手もたやすくとられ、骨がきしむくらい強く握りこまれて、マテアはあっけなく抵抗する力を失った。『すげえ! こんな美女、見たことねえ!』 苦痛に喘ぎながら上を向いたマテアの面を見て、男が喜声を上げる。『やった! 今日からおまえはおれのモンだ。いいか、逆らうなよ、こんな細い腕なんざ、簡単にぽつきり折れちまうんだからなっ』 身をよじるマテアのなまめかしい胸元を覗きこんで、興奮気味に男はまくしたてる。そのままぐっと重心をマテアの方へ移し、のしかかって、マテアを地面に押し倒した。「……っ、ぃやあっ……!」 死に物狂いでマテアは手足を動かす。 月光界の者は皆神月珠より生まれ、<魂>の混合により精神的合一を果たす。心が満たされるので、肉体を用いての結びつきに必要を感じない。そのため性別はあっても肉欲はなく、性交という知識そのものが欠落しているのだが、それでも少女たちがどんな目にあわされているかを目の当たりにしてきたマテアは、この男が何をしようとしているか、わかりすぎるほどわかっていた。 ――レンジュ!!「いやっ! 放して!」 誇りも体裁も、とうにかなぐり捨てていた。盲滅法、真白になった頭でとにかく動く限り手足をばたつかせ、触れるものを押しやる。 熱にひるんでいる間はなかった。ひるめばますます男はその肌を押しつけてくるのだ。 耐えられるわけがない!『くっ、そ。このアマあ、いいかげん観念しやがれっ』 これでもかとばかりに服の上から胸をわしつかまれて、マテアは悲鳴を上げた。握
last updateLast Updated : 2025-12-25
Read more

それは、水面に映る月影に似て 3

 ――レンジュ!! 氷のような汗が、突然レンジュの背を伝った。心臓を杭で貫かれたような痛みが襲う。戦場にあって、熱く燃えていた血が一瞬で冷め、刹那に集中力が霧散した。「……今の声。彼女、か……?」 ルキシュに、なにか、あった。 それは直感でも予感でもない。もしも遠見の力があったなら、今しも躁躍されようとしている彼女の姿が見えているに違いないと思えるほどの確信だった。 彼女が危ない。「レンジュ!?」 戦いのさなか、突如彫像と化したように動きを止めたレンジュに向けて振り下ろされた剣を、寸前でハリが受けとめる。だが自分ならともかく他人に向かってきた力を強引にはね返すには体勢が悪い。敵もそれと読んでいて、剣を引かずこのまま押し切ろうと体重をのせてくる相手に、ハリは一転はね返そうとしていた力を抜いて、そのまま下に擦り流す策に出た。 返す剣で体勢を崩した相手の脇腹から心臓まで切りつけ、からくも危地を脱したハリは、ほうっと息をつく。そして、自分が問に入らなかったら頭を割られるところだったというのに、いまだぼんやりと宙を見ているレンジュに猛烈に腹を立て、肩をつかんで揺さぶった。「おいっ! 敵がいるってーのに、なに気い抜いてんだよ! 死ぬ気か!? その気はないんじゃなかったのか!?」 今にも横面を張り倒しそうな勢いで怒鳴りつける。 レンジュは、強く己を掴んだ手を見、ようやくそこにハリがいることに気付いたように目をしぱたかせると、ぽつりと言った。「戻るぞ」「はあっ!?」「おれは……戻る。彼女が危険だ。……戻らないと」 高熱にうかされたときのような口調だった。 一語一句、淡々と告げる。そして、ここにこうしていること自体が間違っているのだと言いたげに目を細め、はがゆそうな表情をしているレンジュに恐怖を感じながら、ハリは彼を見返した。 まさか、狂ったというのだろうか。 正常だとすれば、これほど馬鹿げた言動はない。軍務規定
last updateLast Updated : 2025-12-26
Read more

それは、水面に映る月影に似て 4

 視界をふさぐ最後の丘陵を登りつめた後、そこに展開した惨状を見下ろして、レンジュは堪えるようにぐっと奥歯を噛みしめた。 くすぶり、黒煙を上げる馬車と散乱した荷物におおいかぶさるようにして倒れた、見知った者たち。血を流し、誰もが絶命している。黒焦げになった者も少なくない。暴行され、切り殺されて、裸のまま無残に転がる端女や世話女も数えきれない。 この中に、もしも彼女がいたならと、ぞっとする考えが浮かんで、血の気の引いた指をさらに握りこむ。「なんてこった……」 追いついたハリが、滝のような汗を流す愛馬をなだめながら横についた。レンジュは乱れた息を整える間も惜しんで馬から降り、中へかけこんで行く。「こら馬鹿っ」 この様子だと襲撃があってまだ間がない。どこに敵がひそんでいるとも限らないのに、とハリがあわててあとを追う。案の定、レンジュが抜けようとした荷馬車の陰から銀光が飛び出し、首の高さで横一文字に走った。「レンジュ!」 間髪レンジュは身を屈ませ、刃の下ぎりぎりをすり抜ける。剣は後ろ髪を少しと背側の鎖帷子をかすめ、いくつか破片を削ぎ落とした後、がつんと硬い音をたてて馬車の木枠にくいこんだ。 不意打ちから両断できるとばかり思って相当の力をこめていたようで、見るからに楽には抜けそうにない。 男は剣を手放した。丸腰で二人の兵士を相手にはできないと、即座に踵を返して逃げに転じる。 男の背に向かい、レンジュの剣が半円を描いて鞘から抜かれた。「馬鹿レンジュ! 殺すなよっっ」 ハリが叫ぶのと同時に、レンジュの一撃が男の腕を切り落とす。「…っ、ぎゃあああああーっっ!」 一瞬前までそこにあった利き腕を求めて宙を凝視した男は、遅れて身を裂き走った激痛に地面を転がり回った。鮮血が吹き出して飛び散る。間断なく襲う痛みに頭の中が真っ赤に染まった。泣き叫び、死んだ方がマシだとの考えにいきつくのを見越したように、レンジュが柄頭で男の前歯を叩き折る。「まだだ」 男のおびえきった目を見据え、傲然と、レンジュ
last updateLast Updated : 2025-12-27
Read more
PREV
1
...
456789
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status