All Chapters of 月光聖女~月の乙女は半身を求める~: Chapter 71 - Chapter 80

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それは、水面に映る月影に似て 5

 あせりに支配された瞳はぎらぎらと殺気立ち、分別という余裕が失われている。 これは異常だ。ルキシュの身を案じているせいだというのはわかるが……。「どっちだと訊いている!!」 あまりに険立った面に言葉をなくしたユイナに対し、レンジュは怒声まで発する。 今までレンジュは女性に対して腹を立てたことなどめったになく、怒鳴りつけたりしたことは一度もなかったのに。「おい、おちつけよ」 完全に常軌を逸しているレンジュをなだめようと肩をとろうとしたハリの手を逆につかんで、レンジュは黙れとばかりに睨みつけた。「レンジュ、彼女は大丈夫よ……彼女は、とてもきれいだから、少しくらい抵抗しても、きっと殺されたりしないわ……」 無事、ではすまないだろう、おそらく。だけど、あれだけの美貌の持ち主なら、殺されることはない。生きてさえいれば、きっと――「そんなんじゃ、ない」 絞り出すような声。苦汁に満ちたその声を聞いて、ユイナははっと口元をおさえた。 そうだ、彼女はひとに触れられただけで火脹れを起こすんだった。 それを知らない盗賊たちが、よってたかって彼女を凌辱しようとしたなら――。「心配なのはわかるが、おまえ一人が行ったところでどうにもなるもんか。みんな、じき戻ってくる。明日にでも討伐隊が組まれるだろうから、そのときまで待て」 一人事情を知らないハリは、そうさとそうとする。だがレンジュにそれを耳に入れている様子はない。鬼相の浮いた顔をして、先に捕まえた男の所へとって返し、胸倉を掴んで揺さぶった。「おいきさま! 他のやつらはどこだ! きさまらの根城はどこにある!!」「……へっ……、ヘへっ、知ら……えよ。おれらの、……は、一つや二つじゃ、……からな……」 男は痛みと出血にすっかり血の毛の失せた顔で
last updateLast Updated : 2025-12-28
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月を恋い、啼くけもの。 1

 ぱちぱちと火のはぜる音を間近に聞いて、マテアは目を覚ました。 頭が痛い。煙を吸いこみすぎたのか、鼻の奥がねじれるように痛み、口の中がざらざらした。目覚めによる筋肉の微妙な動きに反応して、負傷したふくらはぎが激痛を走らせる。 眠気はその瞬間に消滅した。(ここはどこ?) ゆっくりと二度、瞬く。彼女を目覚めにいざなった、火のはぜる音は後ろからしていた。髪の毛と被り布を間にはさんだ下から感じとれるのは、ざらりとした砂の感触である。下にいくつか敷きこんだ小石が痛かったけれど、ひんやりとした地表はじくじくとうずく肌に気持ちいい。すぐ目の前にあるのもごつごつとした岩と砂がくみあわさってできた壁で、人の手が入った様子はなく、自然にできた穴という感じだった。 おそらく洞窟だろう。 横たわった体を、肘を使って立たせようと試みたが、思うようにいかない。どれも軽度だけれどもいたる箇所に火傷を負った両腕は微妙な動きにも引き攣れて、彼女の加えようとした力のことごとくを萎えさせてしまうのだ。 ならば、せめて周りだけでも見て、ここがどういう所なのか知ろうと首を巡らせたとき。『よう。目が覚めたか』 突然この場にいるのは自分だけでないことを知らせる声がして、急ぎそちらを向く。声の主を見たマテアは、その姿に愕然となり、硬直してしまった。 判然としないでいた気を失う前の記憶が、突如鮮明によみがえる。 火のそばであぐらをかいて座っているのは、逃げようとした彼女の鳩尾を殴って気を失わせた男だった。 その炭を塗ったような顔には見覚えがあった。気を失う前に見た、というだけではない。この男は、マテアがはじめて地上界というもののおそろしさを身を持って体験した相手なのだ。それまで十分知っているつもりだったものが、実は無味無臭の知識でしかなかったのだと気付かせた者。この世界における恐怖と危険を、屈辱的に教えこんだ者である。 だがこの男とは別れられたはずだった。どういう方法であったかは気を失っていたので知らないが、レンジュが保護してくれたのだ。 毎日馬車で移動してきたから、あの地からはかなり離れたはず。なの
last updateLast Updated : 2025-12-29
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月を恋い、啼くけもの。 2

 こんなに艶っぽい女だったろうか。 信じがたいほど目鼻立ちの整った女だと、はじめて見たとき思った。まるでおとぎ話に出てくる精霊のように。 それは今見ても変わりない。だがおとぎ話の精霊のような、なよなよとした手弱女ではなかった。 恐怖に震えながらも負けるものかときつく睨み返し、毛を逆立てた猫のように攻撃性をむき出しにして、周囲の者すべてに負けん気を押し出していた。 その気性、潔癖さから処女だと確信し、こりゃ10年に1度の幸運だ、いいモン拾ったとうきうきしながら買い手をあれこれ考えていただけに、アーシェンカの市では目の前が真っ暗になったものだった。 まさか、あんな若造に払えるとは思っていなかったのだ。 くやしくてくやしくて、人目があろうがかまわねえ、ぶっ殺してやりたかった。 この女さえいりゃ、億万長者になるのも夢じゃない。たいしたもうけにもならねえ、つまんねえ奴隷商人なんかやらなくとも、一生金に不自由しない生活ができる。何もかも望み通りだったのに――そう思うにつけ、どうにも諦めきれず、夜になって宿営地までひそんで行ったとき、あの隊を盗賊が狙っているのを偶然盗み聞いた。 最初はやばい話を聞いたと腰が引けたが、すぐにひらめいた。うまくやりゃ、あの女を取り戻せると。 あの盗賊団は皆殺しが信条だ。壊滅した隊から逃げた女を捕まえて、何が悪い? 今までだってそうしてきた。所有印が入っていたら焼きつぶして、剥ぎ取って、売りに出す。よくあることだ。 たとえあとから所有について面倒くさい事が起きても、全部盗賊どものせいにしてしまえばいいだけ。 そしてその通り、自分でも信じられないくらい、うまくいった。 女は再びオレのものになった。(何が帝国軍兵士だ、盗賊団だ。どいつもこいつも間抜け野郎だ。オレのほうがずっと機転が利いてる) そう思うと腹の底から笑えてきた。 しかし、こうしてあらためて女を見ると、案外一度手放してよかったのかもしれない。希少な処女ではなくなったが、たった数日でこれだけ艶を出すとは。『おい! いつまでも前の主人を思ってた
last updateLast Updated : 2025-12-30
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月を恋い、啼くけもの。 3

 自ら思った言葉に、マテアは驚いた。 もう一度見て、それが確かに雪であることを確認する。 よくよく考えてみたなら、洞窟内で炎がこんな近くにあるわりに、周りの空気はそれほど熱くなっていなかった。微風にパチパチとはぜる火を越えたりくぐったりして届く風は熱を帯びてはいるけれども、その他の部分から届く夜風は冷えている。暖かい風と冷たい風が混じりあったここの空気はぬるめで、だからこそ、肺がただれるような思いをせずにすんでいるのだろう。 けれども昼に休憩をとった所に雪はなかった。 北風が吹き、人々は寒そうに白い息を吐いて厚着をし、肌を露出しないようにしていたけれど、雪は降っていなかった。 雪で白くけぶっていたのは、東方に見えていた山稜だ。 ではここは、その山の一つなのだろうか? そこまではわからなかったが、雪があるのなら、隊まで足跡をたどればいいはずだとの妙案が浮かんだ。足跡が消えてしまっていても、おそらく西へ向かえば隊の進んでいた道に出られるはず。 見えた希望に、少し力が戻った。 残りの問題は、どうやってこの洞窟を出るかだ。 火と男。どちらもマテアにはおそろしく、身がすくむ。 なにか手はないかと考えを巡らせるうち、アネサがくれた黒い粒のことを思いだした。 服の内ポケットに入れておいたそれが、落ちずにちゃんと入っているか、心配になって手で探る。ポケットは上の口が開きっぱなしであるため、懸念していたように、担がれて運ばれているうちに半数がこぼれてなくなっていた。 だが、まだ三つある。 アネサは、これを飲ませるとよく眠ると言っていた。それは、三つでも足りるのだろうか? レンジュより二まわりは大きいこの男に、はたしてこんな小さな粒が三つで効くのか……。 わからないけれど、やってみなくては。 男は身じろぎ一つせずに、ずっと焚き火の方を向いている。横顔をうかがいながら、男の荷物へ少しずつ少しずつ移動した。革袋製の水筒に手掛けたところで、このまま水に混ぜても底に沈んでしまうことに気付く。 音がしないよう細心の注意
last updateLast Updated : 2025-12-31
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月を恋い、啼くけもの。 4

 聞き覚えのない、低い声だった。 氷とも刃とも思えるその冷やかな響きの中に感情はなく、この状況下においてはゼクロスに残酷な未来を想像させずにはおれない。 ゼクロスは、すぐ目の横で、恐怖におびえる自身の横顔を映した剣に、ごくりと大きな音をさせて息を飲みこんだ。『た、たす、け……』 カラカラに喉が干からびて、それ以上言葉が続かなかった。体中の毛穴という毛穴が開き、汗がどっと噴き出す。 覆面の男が誰か、彼は気付いていた。 絶望という闇が、今しもゼクロスを飲みこもうとしていた。『おやおや、震えているのか。ひと一倍でかい図体をしながら、剣一本でそのざまとはな。 よくもそれでおれの邪魔をしようなど、思いついたものだ。それとも――』 男は腰を折り、ゼクロスの耳元近くまで唇を近付ける。『気付かれずに逃げおおせると、本気で考えていたとか?』 声はささやきほどに小さなものだったが、洞窟内で反響し、マテアの耳にも届く。直後、ゼクロスは地面に突っ伏した。『たっ、助けてくださいっ! ほんの出来心だったんです! すいませんでした! もう二度としませんから、どうか許してくださいっ!』 じりじりと向きを変え、男の靴先に額をこすりつけて必死にわめく。 マテアは、震えて小さくなっているゼクロスの変わりようにひどく驚き、一体この者の何がそうさせるのかと、覆面の男を見上げる。彼女の前、覆面の男はゼクロスの丸まった背に蹴りを入れるように片足を乗せた。『まさか成功すると思っていたはずはないよなあ。おれが見てなかったと思うか? きさまが部下を切り殺すのを。しかも女に夢中になって無防備だった背後から。 そんな卑怯者を放っておくわけにはいかないというのは、おれじゃなくとも思うことだ。つまりおまえは、そう思われてもいいと考えたってことだな』 とても本気とは思えない、ただただゼクロスをもっと追いつめてやりたいだけとわかる声で、男は楽しげに告げる。 そうしてさんざんいたぶった後、足を下ろし、背後に控えた部下たちに向け、ぴ
last updateLast Updated : 2026-01-01
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月を恋い、啼くけもの。 5

 覆面の男によって新たに移された場所は、先の洞窟よりもっと深さも広さもあり、蟻の巣のようにいくつかの小部屋にわかれている、白い洞窟だった。 マテアはその中で一番広い、おそらくはあの覆面の男の私室であろうと思われる部屋の中に、一人座している。 つるつるとした壁は、熱を受けて溶けて幾筋も垂れた蝋のようで、湿り気を帯びていた。やはり自然にできたいくつかの棚に、それぞれ数本ずつ、色や形が不ぞろいの蝋燭が立てられていて、先程端女と思われる女性が長い柄の松明を持って現れ、一本ずつ火を灯したあと、おじぎをして出ていった。 それは、先の洞窟のときのように暖をとるためのものではなく、あかりのためらしかった。 なぜならこの部屋の天井にはぽっかりと、マテアの頭ほどの大きさの穴があいているからだ。もっとも、今夜のように月が大きく明るい夜は蝋燭など不要の物にも思えたが、白い壁が炎を反射してまろやかな光のひだを作るのを見て、このためなのかもしれないと思い直した。 天井は高いけれど、飛べば届く。穴の周囲を手で崩して広げれば外に出られるのではないかと思案しながら見上げていたら、仕切り布をめくり上げる気配がして、あの覆面の男が入ってきた。「待たせたな」 男は両手に琉珀色の液体が入ったガラスの杯を持っており、片方をマテアに差し出す。おずおずと彼女が受けとると、入り口のそばの壁のでっばりに敷物を敷いた、天然のイスに腰かけた。 言葉や足取りには現れていないが、大分酒が入っているのか、腰に吊ってあった剣をはずして壁に立てかける動きがいささか乱暴だ。「あなたは誰?」 マテアは酒のにおいのする杯を脇にどけ、男を見据えた。「月光界人さ。おまえと同じく」「うそ!」 即座に否定した彼女に、くつくつと男は笑って膝を組む。杯が、男の指の間で今にも落ちそうなほど危なく揺れていた。「なぜそう思う」 男の声はひどく楽しげだ。「だって……あなたの髪は、黒いわ」「染めてあるのさ。この地方であの髪色は目立つ」「こちらの言葉を話すわ」
last updateLast Updated : 2026-01-02
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月を恋い、啼くけもの。 6

 とても端正な顔立ちをしている。 背の中ほどまである髪は黒く染められていたが、銀の瞳はごまかしようがないから布を目深にかぶることで布にひだを作り、影で隠してきたのだろう。 月光界人は地上界人と比べて格段に寿命が長く、中でも月光力に一番共鳴力のある月光聖女とその伴侶となる警備の若者たちは、死して散る瞬間まで外見に変化は起きない。 千年近く生きている者もさほどめずらしくないのだ。 月光聖女の司たる聖女も、外見だけで言うならせいぜいマテアより五つか六つ上に見えるだけだ。 ただし内側では日々浴び続ける月光の純化をくり返していて、その輝かしくも美しい光は内面からその者を変えていく。さながら苔むした岩のように静かながらも重厚な存在感を放ち、マテアのような若輩者とは似ても似つかない存在となる。 リウトと名のった彼もまた、そういう者だった。 若々しい外見とは裏腹に、内側にため込まれた光から相応の歳月を生きてきた者であるのが一目でわかり、マテアは息を飲む。 間違いなく、自分の三倍は生きている。 そう感じると同時に、ああそうかと腑に落ちた。 こちらの者は見た目をとても気にする。この外見では、地上界で生活をする上で都合が悪いのだろう。 ぼんやりとそんなことを考えるマテアの前で、リウトは頭をふるい、前髪を掻き上げて、覆面でつぶれていた髪に空気を含ませる。 わあっ、と入り口の方から一際高い歓声が上がって、一瞬でマテアを正気に返させた。「な、何?」 騒ぎは、実のところマテアがこの部歴に押しこまれた直後からはじまっていた。ただ、この部屋は騒ぎの場所から相当離れているらしく、言葉の片鱗すら届かず、ときおり強まる悲鳴とも歓声ともつかない声を拾うだけで、何がどうなっているのか見当もつかないでいたのだ。 それが、一気に強まった。「ああ」 マテアの関心を引いた声の方を見やり、リウトは頷きながら笑う。 それは、これから口にする事がどれほどの衝撃を彼女に与えるか見越していて、それに愉悦を感じている酷薄な笑みだった。「たぶ
last updateLast Updated : 2026-01-03
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月を恋い、啼くけもの。 7

 これは隊ではじめて目を覚ましたとき、ユイナがはめてくれた物だった。 はずしてはいけないと強調していたので何か意味があるのだろうとは思っていたけれど、今このときに関係してくるとは思っていなかったマテアは、リウトの言っているのは本当にこれのことかと、確認をとるように手首の銅輪に触れる。 表に刻印された文字を不思議そうに指でなぞっている彼女を見て、それが偽りでないことを知ったリウトだが、マテアの外見がこの世界の男たちにどれほど影響を与えるか知りつくしている彼にとって、おいそれと信じられることではなかった。 だがそれも数瞬のこと。 ふつふつと腹の底から笑いがこみあげ、やがて彼は爆笑した。「はーっはっはっ。 じ、じゃあそのレンジュとかいう男は、おまえと同じ天幕で寝起きしながら、おまえに指一本触れなかったというわけだな。すごいな、それは。たいした野郎だ」 そう言う間も、リウトは腹をおさえて笑っている。 どういう意味かは不明だが、レンジュを小馬鹿にしたその口調にかちんときた。「そうよ。それがどうしたというの?」「千人に一人いるかいないかの、奇特なやつってことさ。よっぽど忍耐強いのか、はたまた枯れたジジイか……案外体のどこかに欠陥があるのかもしれないな。さもなかったら――いや、やっぱりただの馬鹿だ」 声を上げるのはやめたものの、くつくつと声を殺して笑っているリウトの姿に、マテアは猿烈に怒りを感じてそっぽを向く。 なぜレンジュが自分に触れようとしなかったからといって、ああも悪し様に言われないといけないのか。 彼の言う『触れる』というのは、昼間の男のようにという意味だろうけれど……だいたいレンジュにまであんなふうに触れられていたら、今ごろ自分の体がどんな有り様になっていたか、想像するだにおそろしい。 ひとが触れる、あの骨の髄まで焼けつくような痛みを思い出して、ぶるっと身を震った。「どうした?」「こちらの人に触れられるのは、きらいだわ。彼らが悪いわけではないけれど……」
last updateLast Updated : 2026-01-04
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月の兵士と地上の兵士 1

 岩棚の蝋燭は穴が広がった瞬間強まった風のせいで、ことごとく消えていた。 闇色を増した暗がりの中に、男に組み敷かれた彼女の姿を見出したレンジュは、周辺を蹴りつけさらに穴を広げるやためらいなく中へ飛びこむ。 剣を佩いた兵士の出現に、リウトはさっと脇へ飛び退き、解放されて自由になったマテアははだけた胸元を直す問も惜しんで、まっすぐレンジュの胸へととびこんだ。「こわ、かった……」 これが夢でないことを確認するように彼の背に腕を回してしがみつく。 簡易な鎧を服の上からまとったレンジュは雄々しく、逞しかった。 強靭な彼の広い胸に触れ、頬を押しつけていると、ずっと身も心も凍らんばかりだった恐怖が溶け、薄らいでいくのがはっきりと感じられて、安堵の涙がこぼれる。『よくここがわかったな。聖女のお導き、ってやつか?』 よもや彼女がこんなふうに自分の元へかけ寄って、その身を預けるとは思ってもいなかったため、驚きのあまり敵の存在を失念していたレンジュの耳に、嘲弄が届く。『おまえがイルクか』 彼女をこんなにもおびえさせた存在を前に、緩みかけていたレンジュの緊張感があらためて引きしまる。そして、真上からの月光を半面に受けた男の姿に、レンジュはひそかに胸の中で眉をひそめた。 盗賊団の頭領・イルクの名がアーシェンカ周辺で広まったのは数年前だが、それ以前からも他の土地でぽつぽつとその名を耳にしていた。数十年前からあちこちで噂になっている名らしく、一番古いものでは、イーリイェンの聖戦の中にも残虐非道な帝国軍将の一人として出てくるらしい。 人間がそんなに長く生きられるわけはない。単なる偶然の一致か、聞きかじった者が悪名を騙ったのだろうと考えるのが妥当だが、どのイルクも布で顔を隠しており、他に類をみないほど残忍なこと、また、『ブタ』と呼ばれる悪趣味極まりない見せしめを好んで使うことなどから、中には彼は同一人物なのではないかとの怪奇めいた推論をたてる者もいる。 レンジュは推論の域を出ない想像と現実を混同する気はなかったが、目の前に存在し、手で触れられるものは、それがた
last updateLast Updated : 2026-01-05
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月の兵士と地上の兵士 2

 リウトは合点がいったと言うように頬を歪ませると、それまで剣にこめていた力をふっと抜いた。『!』 突如失われた力に咄嵯に対応ができず、レンジュがたたらを踏む。視界の隅に飛来する影を感じた刹那、脇腹に燃えた焼きゴテを押しあてられたかの痛みが沸き起こった。『なら、遊びはこの辺でやめておこう』 激痛に片膝ついたレンジュの後頭部目がけ、音もなく剣が振り下ろされる。 剣先すら見えなかったそれを勘のみで横へ転がり、ぎりぎり躾わしたレンジュの胸に、まるで先の剣はフェイントであると言わんばかりのタイミングで蹴りが入った。 鎧をまとっていようと、鎧が衝撃すべてを受けとめてくれるわけではない。 鎧が受けとめてなお強力な力に襲われたレンジュの胸部でぱきりと軽い音がする。 そのまま床を転がったレンジュに、二度三度と続け様に蹴りが入った。『おまえの剣はおもしろくて、もっと続けたいと思っていたが、そうもいかないようだ。こんなやり方では惜しい気もするが、おまえを他の奴に殺させるのはもったいない』『……があっつ!!』 裂けた脇腹を踏み敷かれ、獣のようにレンジュは吠えた。「やめてーーっ!」 リウトが傷口に踵をめりこませ、そのまま押し広げようとしているのを見たマテアが、させまいとその足にすがりつく。 血を、月光聖女は厭う。そこに含まれる怨嵯や慟哭、苦痛を肌で感じとり、本能的に忌避しようとする。 血まみれの自分たちに触れるのは、それだけで堪えがたいだろうに、蒼白し、震えながらも自分の足にしがみついて、これ以上させまいとしている彼女を見下ろして、リウトはつまらなそうに足を引いた。『あきらめろ、イルク……逃げ場は、ない』 剣を支えに身を起こすレンジュを一瞥し、リウトは天井へ視線を移す。『どうかな』 造作もないと言いたげに片頬で笑って、リウトは突然マテアを横抱きに抱えた。「! なにを――」「そろそろだと、おれも考えてはいたんだ。覆面してよ
last updateLast Updated : 2026-01-06
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