All Chapters of そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。: Chapter 41 - Chapter 50

60 Chapters

41.ネクタイに触れられなかった指

営業フロアの空気は、午後三時を過ぎたあたりからわずかに緩み始める。午前中に詰め込まれた会議と外回りがひと段落し、各々がデスクで事後処理をし始める時間帯。電話の音はまばらで、コピー機の稼働音も断続的に聞こえてくる程度だ。晴臣は書類のファイリングを終えたばかりで、ふう、と息を吐いた。自席に戻る前、ふと視線を上げると、斜め向かいの席に岡田が戻ってくるところだった。その姿を見た瞬間、晴臣の胸の内に、小さな違和感が生まれた。ネクタイの結び目が、わずかに左にずれている。ノットの部分がわずかにゆるく、シャツの第一ボタンの中心から微妙に外れている。たったそれだけのこと。けれど、晴臣には見過ごせなかった。いつもだったら、気づいた瞬間に自然と手が伸びていた。朝の出社時。昼前の休憩明け。会議室から戻ったあと。岡田のネクタイがずれていると、晴臣は迷うことなく、それを整えてきた。無意識だった。彼が無頓着に曲げたままにしているのを見ていられなくて、つい整えてしまう。それは日課のようなものになっていた。だが今、そのわずかなズレに気づきながら、晴臣は手を伸ばせなかった。岡田は目の前で椅子に腰を下ろし、ひとつ大きく肩をまわした。会議疲れが色濃くにじむ動作だったが、どこか気配が遠い。晴臣の方へは一度も視線を向けず、机の端に置いてあったミネラルウォーターのボトルを手に取った。晴臣は、立ったまま岡田の姿を見つめていた。手を伸ばせば届く距離にいる。けれど、動けなかった。理由は分からなかった。ただ、今までと何かが違うことだけははっきり分かった。岡田が、ペンをとるような自然さで、自分のネクタイの結び目に指を添えた。晴臣はその指先の動きを、息を呑むような思いで見つめた。岡田は無言のまま、結び目を持ち上げ、すっと引き締めた。シャツの中心にきちんと揃うように、丁寧に。その手慣れた動作に、晴臣の指先がかすかに震えた。整える仕草。いつもは自分がしていたはずのことを、今、岡田は自分の手でやってのけた。その光景は、たった数秒の出来事だったのに、晴臣にはやけに長く感じら
last updateLast Updated : 2025-11-24
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42.雨が止んでも、濡れていた

オフィスビルの自動ドアが開いた瞬間、外気が足元を這うように入り込んできた。湿った空気と、わずかに残る雨の匂い。午後の雨はすでに止んでいたが、空にはまだ雲が重たく漂っていた。舗道の上には、細かな水たまりが不規則に並び、車道を走る車のタイヤが水飛沫をあげている。晴臣は、ビルのエントランスに立ち尽くしていた。視線の先には、ひとり、傘も差さずに歩いていく日高の背中がある。スーツの肩口はすでにじんわりと濡れており、髪の先が首筋に貼りついていた。それでも彼は気にする様子もなく、歩幅を一定に保ったまま、背筋をまっすぐに伸ばして進んでいく。どこへ向かっているのか、約束があるのか、晴臣には分からない。ただ、背中には一切の迷いがなかった。隣に立つ岡田は、無言だった。傘は持っていた。開こうと思えば、いつでもできたはずだ。だが、岡田は日高を追わなかった。手にした傘をそのまま下げたまま、立ち止まり、ゆっくりとまぶたを閉じた。その動作すら、何かを閉じ込めるような、あるいは受け入れるような静けさをまとっていた。晴臣はその横顔を盗み見る。口元は引き結ばれ、眉間には浅く皺が寄っている。それは苦悩の表情ではなかった。痛みと、そしてどこか決意のような影を落とす顔だった。晴臣は自分の傘を開いた。ひとりきりの傘の下に、わずかな風が吹き込んでくる。濡れてはいないはずの足元に、ぬるく冷たい空気が触れた。コンクリートの地面はまだ濡れていて、光を反射していた。夕暮れの斜光がビルの谷間をすり抜けて落ち、舗道に影をいくつも重ねていく。日高の影はその中に溶けていた。その背中はどこか、前よりも軽く見えた。岡田と対面していたときのような、微笑の奥に揺れるものは、今はもうないように思えた。彼は何かを置いていったのだ。何を、とは言葉にならない。けれど、確かに置いていった。それは岡田の胸の中にも、そして晴臣の心にも、同じように沈殿していた。「……追わなくて
last updateLast Updated : 2025-11-25
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43.雨音とスーツのしわ

午後一時、東京本社ビルのロビーには、ゆっくりと湿気が溜まっていた。外は朝からの小雨が途切れることなく降り続き、ガラス張りの自動扉の向こうに見える街路樹は、雨に濡れて黒ずんでいる。傘の雫が石畳に落ちる音が、妙に耳に残る。空調の効いた室内の静けさが、逆にその外の音を際立たせていた。牧野晴臣は、受付前の来客スペースに立ち、資料の入った黒いバインダーを片手に、エントランスを見つめていた。今朝、部長から「大阪支社からのお客様だから、丁寧にな」と念を押されていた相手が、そろそろ来るはずだった。ふいに、自動扉の開閉音がした。風が少し吹き込み、冷たい雨の匂いがロビーに漂う。傘をたたみながら現れたのは、三十代前半と思しき男だった。細身のグレースーツは肩口がわずかに濡れ、袖先がじわりと色を濃くしている。黒縁の眼鏡の奥にある目は細く、にこりと笑うその顔はどこか人懐っこいが、晴臣には妙に落ち着きすぎて見えた。「お世話になります、大阪支社の森下です」男は傘を傘立てに差し入れながら、すぐに名乗った。「営業二課の牧野です。ようこそ、東京本社へ」晴臣が軽く頭を下げると、森下はわずかに顎を引いて笑った。にじんだような柔らかい関西弁に、張りがある声色。人懐っこい振る舞いの奥に、確かな輪郭がある。握手を交わしたとき、森下の手は乾いていた。さっきまで雨の中にいたとは思えないほど指先が温かく、しっかりと力がこもっていた。無意識のうちに、晴臣はその掌からある種の“整った温度”を感じ取る。「はじめまして、牧野さん。課長さんから噂は聞いてました」「岡田課長から…ですか?」「ええ、ま、ちょこっとだけ」森下の笑みが深くなる。眼鏡の奥の瞳がふっと細まり、その瞬間、晴臣の背中に小さな違和感が走った。優しげな表情のまま、ほんのわずかに言葉に余白を持たせるその話し方が、何かを探っているように感じられる。「今日は会議室、お借りすることになってまして。ちょっと早めに来たんですけど、時間あります? 実はちょっとだけ、お話したいこともありまして」「今でしたら、応接室が空
last updateLast Updated : 2025-11-26
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44.哀れみの代償

信号が赤に変わるのを、晴臣はぼんやりと見つめていた。歩道の縁に立ったまま、左手に持った傘からぽたぽたと雫が落ちる。その音が、やけに耳に残った。周囲には人の気配があるのに、誰の足音も、誰の話し声も、自分の輪郭には届いてこない。まるで、自分だけがこの街に溶けかけているような、そんな錯覚。前の信号が青に変わったことにも気づかないまま、車たちは無遠慮に走り去っていく。濡れたタイヤが水たまりを跳ね上げ、アスファルトにしぶきが広がった。その飛沫の中、晴臣は歩き出した。会社に戻る道のりは、いつもより長く感じられる。傘の下からのぞく景色は、色を失ったモノクローム。濡れた街路樹、舗道に積もる水の筋、遠くで車のクラクション。すべてが他人事のようで、現実に触れていない気がする。森下の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。――あの人、昔は誰とも関わらなかったんですわ。――セクシャリティを会社でバラされたって、噂もあったくらいで…。思い出すたび、心のどこかが痛んだ。でもそれは、同情なのか、怒りなのか、自分でも分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。信号待ちで立ち止まった足元。アスファルトの凹みに溜まった水に、自分の姿が映っている。傘の縁越しに見えるその影は、濡れたスーツの色を滲ませながら、どこか歪んでいた。顔も、輪郭も、はっきりしない。「好きだと思っていた」胸の奥で、言葉が静かに弾けた。「…けど」喉の奥に、何かがせり上がってくる。呼吸が浅くなり、肩が知らぬうちにこわばっていた。「俺は今…あの人を、哀れだと思ってしまった」言葉にしてはいけないものだった。感情の名をつけてしまえば、それはもう、消せない。けれど、心は正直すぎた。晴臣は、岡田の笑顔を思い出した。無防備で、どこか他人事のようで、けれど不思議と惹きつけられるあの表情。――そんな顔、されても困るんですよ。以前、晴臣が言った言葉が、自分自身の胸に突き刺さる。あのときの岡田は、どんな気持
last updateLast Updated : 2025-11-27
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45.距離という言い訳

朝の空気には、まだ夜の名残があった。ビルの谷間に薄曇りの光が沈み込み、東京の街は無音のまま動き出している。秋口の冷たい風が、首元に差し込んでくる。東都商事本社の外壁には、昨日の雨の名残がまだ黒く染みていた。牧野晴臣は、いつもの時間より少し早く出社していた。オフィスフロアの明かりは半分ほどしか灯っておらず、まだ誰の気配もない静寂に包まれている。彼はコートを脱ぎながら、自分のデスクに視線を滑らせた。モニターは真っ暗で、昨夜仕上げた資料の束が置かれている。手にしたタンブラーからは、ミントのようなハーブの香りが微かに立ちのぼる。その香りにさえ、どこか距離を感じてしまうのは、きっと気のせいではない。椅子に腰を下ろし、PCの電源を入れながら、昨夜の記憶がゆるやかに蘇ってくる。雨の中、傘の下で森下が言った言葉。岡田の過去。彼が背負っていたもの。知らなかったこと。知ってしまったこと。そして、自分が抱いた…感情。自分でも目を背けたくなるそれが、じわじわと晴臣の内側に広がっていく。「哀れみ」その言葉の重さが、また喉元にひっかかる。好きだと思っていたはずの人に、そんな感情を抱いてしまった自分が許せない。時計の針が八時半を示す頃には、徐々に人の気配が戻ってきた。足音、笑い声、タイピングの音。誰かが淹れたコーヒーの香りがフロアに広がる。晴臣はファイルを開き、目を走らせながらも、思考はそこから逸れていくばかりだった。そのときだった。「おはようさん」後ろからふわりと、あの声が届いた。反射的に顔を上げると、そこに岡田がいた。手には紙袋と水滴のついたペットボトル。くしゃっとした髪は相変わらず寝癖交じりで、ワイシャツの首元には、いつも通り緩んだネクタイが見えた。「あれ? なんや、顔、寝不足か?」岡田は柔らかく笑っていた。その目尻には小さな皺が寄っていて、声にはいつもの間延びした抑揚があった。晴臣は、とっさに笑ってみせた。「ちょっと、資料の確認してたら遅くなってしまって」「ほんまに真面目やなあ。俺も見
last updateLast Updated : 2025-11-28
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46.雨上がりの道を歩く音

舗道の隅に溜まった水たまりに、街灯の光が滲んでいた。雨は止んでいたが、夜の空気は湿り気を残したまま、首筋をじっとりと撫でてくる。傘を閉じたまま手に持った晴臣は、そのまま足を止めた。視線の先には、見慣れたマンションの入り口。深夜に差しかかろうとする静けさの中で、唯一明かりが灯っている部屋があった。そこから漏れる柔らかい橙色の光を、彼はじっと見つめていた。会いたいわけじゃなかった。ただ、顔を見たかった。それだけ。ほんの、それだけだった――はずだった。ポケットからスマートフォンを取り出し、晴臣は指先で画面をなぞる。文字入力の欄には、途中まで打ち込まれた「今、少しだけ話せますか」の文。それを一度消して、また打ち直す。同じ言葉を、また消す。何度繰り返したか分からないまま、彼はやがて画面を暗くし、ゆっくりと顔を上げた。部屋の光はまだ消えていなかった。カーテンの隙間から、テレビのようなちらつきが見える。きっと、岡田は起きている。今なら…間に合う。躊躇いの余韻を残したまま、晴臣はマンションのエントランスに足を踏み入れた。雨で滑りやすくなったタイルに、革靴の音が小さく響く。オートロックの前に立ち、彼は深く息を吐いた。右手がインターホンのボタンに触れた。小さな「ピンポーン」という音が、ひどく大きく響いた気がした。応答のない時間が、数秒以上にも感じられる。やはり来るべきじゃなかったか――そう思いかけたとき、ガチャリと扉が開いた。「…なんや、牧野くん。びっくりしたわ」ゆるくかすれた声が、湿った空気を切り裂く。開いた扉の奥、岡田は部屋着姿で立っていた。Tシャツの肩が少しだけ濡れていて、髪の先からはまだ水滴が垂れている。素足のままの足元には、バスマットの繊維が絡みついていた。シャワーを浴びたばかりなのか、石鹸と柔軟剤の匂いが混ざった空気が、ふわりと晴臣の鼻先をかすめた。
last updateLast Updated : 2025-11-29
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47.嘘と沈黙のあいだで

玄関の扉が閉まる音は、重たく、鈍かった。閉じたその瞬間から、ふたりだけの空気が部屋の中に立ち上る。岡田は無言で靴を脱ぎながら、背後に立つ晴臣の存在を意識していた。扉の外に置いてきた雨粒の記憶が、どこか体の奥に冷たさを残している。「まあ、上がり」その声は柔らかかった。けれど、どこか“日常”に戻るための言い訳のようにも聞こえた。晴臣は無言で頷くと、足元を見て靴を脱ぎ、揃えてから岡田の後ろをついていく。リビングは驚くほど整っていた。床には一枚の埃もなく、ソファのクッションはきちんと角が揃えられている。空間は清潔で、そこにある物すべてが「触れられずにいた時間」を物語っていた。どこか無機質で、生活の気配が薄い。けれど、完全に人の手が離れた空き家のそれとは違っていた。まるで、“誰かの帰りを待っていた部屋”のように。テーブルの上には、半分飲みかけのコーヒーのカップが置かれていた。その隣に広げられた資料は、数字とグラフで埋め尽くされている。晴臣はそれに目をやりながら、思ったよりもこの部屋が岡田らしいことに気づく。「……きれいにしてるんですね」そう言う声は、場の空気を壊さない程度の音量で、あくまで雑談のように発せられた。岡田はふ、と鼻を鳴らした。「俺、意外とキレイ好きやねん。ズボラやけど、目につくとこは気になる」「そういうところがズレてるんですよ」そう言った直後、自分でも驚くほどすぐに言葉を飲み込んだ。別に、非難したかったわけではない。けれど、そのズレこそが、今のふたりの間に横たわる距離のように思えた。岡田はソファに腰を下ろし、背もたれに肩を預けた。その動作は普段通りのように見えるけれど、足元はやや揃いすぎていて、手のひらは膝の上にぴたりと置かれていた。きっと、どこかで“この空間に自分がいる意味”を探しているのだろう。そんな仕草だった。晴臣も向かい側のソファに座った。岡田との間にはテーブルがあり、そこに置かれたコーヒーカップが二人の視線を遮っていた。沈黙が、流れる。
last updateLast Updated : 2025-11-30
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48.近づく手、離れる息

岡田は、カップをテーブルに戻すと、少しだけ背中を丸めて息を吐いた。部屋の中に流れる静けさが、どこかじんわりと肌にまとわりついてくるようで、空気の温度まで落ちたように思えた。視線を窓の方に向けたまま、ぽつりと呟いた。「寒ないか?」その言葉が、言い訳のようにも、気遣いのようにも聞こえて、晴臣は一瞬返答に迷った。室温は決して低くない。だが、岡田が差し出すブランケットには、単なる温度以上の意味が込められている気がしてならなかった。岡田が立ち上がり、隣のチェアに掛けてあった薄手のブランケットを手に取った。歩み寄って差し出すその腕の動きは、どこかたどたどしく、迷いを帯びていた。「ほら、これ…掛けとき」差し出されたブランケットを受け取ろうと、晴臣が手を伸ばした。その瞬間、指先がわずかに岡田の手の甲に触れた。温かい。…けれど、それ以上に、触れたという事実がすべてを止めた。岡田の身体がわずかに固まった。触れた指先から、空気が凍りついたような静寂が広がる。ふたりの間を隔てていた距離が、たった一点の接触によって、あっけなく溶けていった。岡田が、ほんの微かに息を呑む音が聞こえた。「……あかんな。俺、また期待してまう」その言葉は、吐き出すように低くて、やけに誠実だった。自分の感情を笑いに包むことも、軽口でごまかすこともできずに、真正面から向き合ってしまった岡田の声だった。晴臣は指先を引かずに、そっと岡田の手を包んだ。視線がぶつかる。晴臣の瞳の中に、岡田の姿が揺れていた。瞳孔の奥に焼きつけるように、見つめていた。「……期待、してもいいと思います」小さな声だった。けれど、震えはなく、まっすぐだった。目を逸らさず、ただ岡田だけを見ていた。岡田は何かを言いかけたが、すぐに視線を外して、笑った。「…あかんて、そんなこと言うたら」その笑い声は、最後まで続かなかった。喉の奥で震え、吐息に変わった。強がりの形を保てずに、崩れていった。
last updateLast Updated : 2025-12-01
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49.解けていく境界

岡田の唇が晴臣のそれに重なってから、時間の感覚が曖昧になった。どれほど触れ合っているのか、どれだけ息を交わしているのか、それすら掴めないまま、空間だけがやけに静かだった。鼓動の音がやけに近く、互いの胸の奥を打つそれが、壁に反響するかのように耳に響く。微かな布擦れと呼吸の交差。そのどれもが、指先に触れる体温と共に、現実感の輪郭を揺らしていた。晴臣の指が、そっと岡田の喉元に触れる。くぼみに沿ってなぞるように、呼吸の上がる起伏を指先で確かめた。岡田は、小さく息を呑む。喉仏がわずかに跳ねて、肌の下で鼓動が脈打つのがわかる。驚きと、受け入れる覚悟が、無言のまま肌に現れていた。「ここ、敏感なんですね」囁くような晴臣の声に、岡田の肩が一度だけわずかにすくむ。拒む気配はない。ただ、戸惑いと恥じらいが入り混じったその動きに、晴臣はほんの少し口角をゆるめた。唇が、岡田の耳の裏をなぞる。息を吹きかけるだけで、岡田の体温がまた一段階上がる。そこから、首筋へと降りていく。舌先でじっくりと、ゆっくりと、皮膚の柔らかさを味わうように。岡田の手がシーツを握った。息が浅くなり、時折ひゅっと喉を鳴らす音が交じる。目を閉じて、耐えるように唇を噛んでいた。シャツのボタンが、一つ、また一つと外されていくたびに、岡田の肌が露わになっていく。胸元から覗く火照りが、灯りの下でゆらゆらと色づいていた。晴臣は、ゆっくりと腰へ手を回し、岡田の身体を抱き寄せる。骨張った腰骨のあたりに口づけを落とすと、岡田の背がわずかに跳ねた。「…晴臣くん……っ」掠れた声が、呼吸の合間から漏れる。けれど、それは抗議ではなかった。むしろ、抑えきれない熱が言葉になったような響きだった。「痛くないですか」耳元でそう囁くと、岡田はかすかに首を横に振った。「……怖いけど……いやじゃない&helli
last updateLast Updated : 2025-12-02
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50.夜の残響

外では、小雨がまた静かに降り始めていた。ガラス窓をかすかに叩く雨粒の音が、夜の深さを測るように、規則正しく響いている。それはまるで、夢と現実のあわいを漂うふたりの上に降り注ぐ、静かな証のようだった。ベッドの上、シーツの皺に身を預けながら、岡田は仰向けに横たわっていた。裸の胸がまだうっすらと汗ばんでいて、そこに冷えた空気が触れたとき、わずかに肌が粟立つ。天井を見つめる視線は焦点を結ばず、思考も漂っていた。重なった身体の熱が、いまも皮膚の奥に残っている。触れられた場所、交わった深さ、そのすべてが体のどこかに焼きついていた。晴臣は岡田の隣に横たわっていた。枕を半分ずらして、腕を伸ばし、岡田の額の上にかかる髪をそっと指先で梳いた。濡れた髪が指にまとわりつき、滑らかな手触りがゆっくりとリズムを刻む。ふたりのあいだに言葉はなかった。静けさが支配しているというよりは、言葉が必要ではなかった。呼吸の音と、窓の外の雨音と、指先の動き。それだけで、十分だった。岡田のまぶたが、ほんのわずかに震えた。まつげの根元に残っていた涙の粒が、光を受けてかすかにきらめく。それはまだ乾ききらず、肌の上に塩のようなぬくもりを残していた。晴臣の手がその涙の跡を、そっとなぞった。触れられた瞬間、岡田の目尻がかすかに揺れる。抗うことも、拒むこともなかった。むしろ、受け入れるように、微かに目を閉じた。「…あんたとおったら、ほんま、めんどくさいわ」岡田の声は、掠れていた。けれど、その響きの奥には、やわらかい苦笑が滲んでいた。晴臣は目を細め、岡田の頬にそっと唇を落とした。その距離に迷いはなかった。自分の存在が、岡田に触れる資格を得たのだと、ようやく確信に変わりはじめていた。「それでも、そばにいたいです」返された声は穏やかで、静かに降る雨音に溶け込むようだった。主張でも懇願でもなく、ただ“そう思っている”という事実をその
last updateLast Updated : 2025-12-03
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