営業フロアの空気は、午後三時を過ぎたあたりからわずかに緩み始める。午前中に詰め込まれた会議と外回りがひと段落し、各々がデスクで事後処理をし始める時間帯。電話の音はまばらで、コピー機の稼働音も断続的に聞こえてくる程度だ。晴臣は書類のファイリングを終えたばかりで、ふう、と息を吐いた。自席に戻る前、ふと視線を上げると、斜め向かいの席に岡田が戻ってくるところだった。その姿を見た瞬間、晴臣の胸の内に、小さな違和感が生まれた。ネクタイの結び目が、わずかに左にずれている。ノットの部分がわずかにゆるく、シャツの第一ボタンの中心から微妙に外れている。たったそれだけのこと。けれど、晴臣には見過ごせなかった。いつもだったら、気づいた瞬間に自然と手が伸びていた。朝の出社時。昼前の休憩明け。会議室から戻ったあと。岡田のネクタイがずれていると、晴臣は迷うことなく、それを整えてきた。無意識だった。彼が無頓着に曲げたままにしているのを見ていられなくて、つい整えてしまう。それは日課のようなものになっていた。だが今、そのわずかなズレに気づきながら、晴臣は手を伸ばせなかった。岡田は目の前で椅子に腰を下ろし、ひとつ大きく肩をまわした。会議疲れが色濃くにじむ動作だったが、どこか気配が遠い。晴臣の方へは一度も視線を向けず、机の端に置いてあったミネラルウォーターのボトルを手に取った。晴臣は、立ったまま岡田の姿を見つめていた。手を伸ばせば届く距離にいる。けれど、動けなかった。理由は分からなかった。ただ、今までと何かが違うことだけははっきり分かった。岡田が、ペンをとるような自然さで、自分のネクタイの結び目に指を添えた。晴臣はその指先の動きを、息を呑むような思いで見つめた。岡田は無言のまま、結び目を持ち上げ、すっと引き締めた。シャツの中心にきちんと揃うように、丁寧に。その手慣れた動作に、晴臣の指先がかすかに震えた。整える仕草。いつもは自分がしていたはずのことを、今、岡田は自分の手でやってのけた。その光景は、たった数秒の出来事だったのに、晴臣にはやけに長く感じら
Last Updated : 2025-11-24 Read more