マンションのドアが静かに閉まったあと、晴臣はしばらくその場から動けなかった。背後には岡田の部屋。まだぬくもりの残るソファ、開けかけのチューハイ、乾ききっていない空気が漂っているはずだった。でも、その場に留まるわけにはいかなかった。靴のつま先をわずかに揃えて、階段を一段ずつ下りる。足音は控えめで、まるで誰にも気づかれないようにという無意識の意図が込められていた。外に出ると、雨は上がっていた。アスファルトに残る水たまりが、街灯の光をぼんやりと反射し、風がふと通り抜けるたび、地面の匂いが立ち上がった。冷えていた。さっきまでの湿気は跡形もなく、乾いた夜気がコートの隙間から差し込んでくる。襟を少し立ててみても、首筋にはその冷たさが容赦なく触れた。ポケットに差し込んだ指先が、しんと冷えている。歩くたびに濡れたコートの裾が重たく揺れ、それが身体全体を引きずるような感覚に繋がっていた。街はまだ灯りを保っていた。ビルの窓に反射する光がゆらゆらと揺れ、信号の青が遠くの車のボンネットを淡く染める。晴臣は、足元を見たまま歩いていた。誰ともすれ違わず、誰の声も耳に入らない。ただ自分の呼吸の音だけが、やけに大きく胸の内側に響いていた。さっき、岡田の顔が近づいた瞬間。あの距離、あの目、あの声。「お礼や、ちょっとだけ」その言葉は、冗談に聞こえるように仕組まれていた。そういうふうに“言っている”と、そう思わせるような笑い方、軽さ。けれど、その目が笑っていなかった。声と視線がちぐはぐだった。笑っている口元の奥に、何か抑えきれない本音のような、濁った熱が覗いていた。ほんのわずかだった。ほんの、指先の温度が伝わるほどの一瞬。けれど、それを見た、感じたという感覚が、晴臣の中から拭えなかった。自分はあのとき、拒んだ。拒絶した。それが正しいと思った。けれど、どうしてあんなに動揺したのか、自分でも分からない。「……俺は、なんであんな顔、見てしまったんだろう」小さく、声に出た。吐いた息が白く
Huling Na-update : 2025-11-04 Magbasa pa