All Chapters of そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。: Chapter 61 - Chapter 70

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61.降り続く雨、ほどけない緊張

雨音が、夜を優しく叩いていた。窓の向こうでは、街灯が淡く滲んでいる。薄いカーテンを通してぼんやりと浮かぶオレンジ色の光が、寝室の壁に柔らかな陰を落としていた。時折、風に揺れるカーテンの影が壁を撫で、まるでこの静けさすらも何かを許しているようだった。ベッドの上、岡田と晴臣は毛布の上に並んで座っていた。肩と肩が触れるか触れないかの距離。エアコンの風が肌を撫でていくのに、部屋の空気はどこか緊張に満ちていた。岡田の視線は、まっすぐに晴臣の目を見ていた。けれど、その奥にはまだ残る戸惑いと、逃げ場を探すような色が薄く浮かんでいた。晴臣もまた、息を浅く整えながら、黙って岡田を見つめていた。どちらからも言葉は出なかった。いや、言葉にしてしまえば壊れそうで、互いの気持ちが手のひらから零れ落ちそうで…ただ黙っていることしかできなかった。岡田の喉が、小さく鳴った。そのわずかな音が、雨音の中ではっきりと響いた。晴臣のまぶたが、ほんの少しだけ落ちる。それから、ごく自然な動きで、指先を岡田の前髪に滑らせた。しっとりとしたその髪の感触は、ほんの少し前まで雨の中にいた名残を思わせた。晴臣の指は、前髪をそっとかきあげるだけで、すぐに離れた。触れたのはほんの一瞬だったのに、岡田の肩が小さく揺れた。「…もう逃げへん」岡田が、ぽつりと呟いた。その声は小さかったが、きっぱりとした響きを持っていた。「たぶん、また不安になることもある思う。勝手に塞ぎ込んだり、ややこしいこと考えたり…でも、それでも、逃げへんて決めた」晴臣の喉が、かすかに鳴った。一度目を伏せ、それからそっと笑った。「逃げるなら、今のうちですよ」その言葉に、岡田はかすかに口角を動かした。「遅いな」「…じゃあ、もう手遅れですね」晴臣は、静かに体を傾けた。岡田の胸元に手を伸ばす。ワイシャツの第一ボタン、そのすぐ下に結ばれたままのネクタイの結び目へ
last updateLast Updated : 2025-12-14
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62.ほどいてほしい

指先が震えていたのは、晴臣の方だった。布越しに感じる熱と重み、そしてそれ以上に、いま目の前にある岡田という存在の輪郭が、あまりにも柔らかく、壊れそうで。結び目をほどくだけの動作に、手のひらの温度がじわじわと奪われていくような錯覚があった。岡田の首元に結ばれたままのネクタイは、さっきよりも少しだけ緩んでいる。けれど、まだきちんと結ばれているそれは、まるで最後の砦のように喉元を守っていた。ゆっくりと、慎重に、晴臣はネクタイに指をかけた。岡田は、何も言わなかった。けれど、視線がわずかに伏せられていく。睫毛の影が頬に落ち、唇はきゅっと引き結ばれていた。無意識のこわばりのように、肩に力が入っているのが分かる。ネクタイの布をひと引きすれば、ほどける。それだけのことなのに、晴臣は指先で何度もその滑らかな質感をなぞった。まるで相手の意志を問うように、慎重に、その結び目を緩めていく。カチャリ、と金具がわずかに鳴り、布が擦れる音が寝室の静寂に小さく響いた。それは、まるで封印を解く音のようだった。岡田の喉が、かすかに動いた。伏し目がちのまま、肌の内側の鼓動まで伝わってくるような気がした。シャツの間から覗く鎖骨が、呼吸に合わせて小さく上下している。ネクタイを完全に外し終えると、晴臣はそれをベッドの横にそっと置いた。音を立てないように気をつけながら、まるで何かの儀式を終えたかのような慎重さで。再び岡田の方へ視線を向けると、彼は微かに眉を寄せていた。羞恥とも、戸惑いとも、覚悟ともつかない感情が混じりあったその顔には、もう拒絶の色はなかった。晴臣は、ゆっくりと身を乗り出した。岡田の喉元へ、唇を落とす。すぐに離さず、少しだけ吸い寄せるようにして、その柔らかさと温度を確かめる。唇に触れた肌は熱を持ち、わずかに汗ばんでいた。岡田の身体がふっと揺れる。続けて、唇を鎖骨へ。ワイシャツの隙間に口を滑らせるたびに、岡田の呼吸が浅くなっていくのが分かる。シャツの布を押しのけるようにして、胸元へと唇を這わせる。岡田は何も言わ
last updateLast Updated : 2025-12-15
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63.優しく、深く、確かめ合う

シーツの軋む音が、静まり返った部屋に細く響いた。雨はまだ降っていた。窓を打つ粒のリズムが微かに変化しながら、夜の深さを際立たせる。オレンジの照明は枕元に落ちて、輪郭を滲ませたふたりの身体をやさしく照らしていた。晴臣の指が、岡田の首元に触れる。緩められたシャツの隙間に滑り込む指先は、肌の温度を慎重に探るようだった。ゆっくりと、焦らず、襟を広げ、布を外していくたび、岡田の喉がかすかに震える。岡田のシャツがベッドの端へと押しやられ、素肌が露わになる。肩から鎖骨へ、そこから胸元へと、やわらかに繋がる線を晴臣は目で追った。視線の先で、岡田の肌がほんのりと赤みを帯びている。その赤は、羞恥とも緊張とも言えない、いくつもの感情が染み込んだ温度だった。晴臣は、自分のシャツのボタンにも手をかける。岡田がそれを止めはしないことを確認してから、ゆっくりと脱いでいく。自分の肌も、熱を帯びていた。火照るほどではないが、岡田のぬくもりに引き寄せられるように、芯の方から静かに熱が湧いてくる。肌と肌が触れ合った瞬間、岡田の身体がぴくりと震えた。「…大丈夫ですか」晴臣が囁くと、岡田は黙って頷いた。視線を落としながら、唇を噛むようにして呼吸を整えている。「痛くしない。…怖くなったら、すぐ言ってください」岡田はまた、頷いた。その仕草があまりにも繊細で、晴臣は胸の奥を締めつけられるような気持ちになった。ふたりは、ゆっくりと、互いの身体を確かめるように触れ合っていった。肌に触れる指先は滑らかで、緊張をほぐすように丁寧だった。喉元から胸へ、肋骨に沿って指が這い、指先の腹で何度も肌の感触を確かめていく。岡田の目が潤んでいた。言葉を飲み込むように、まぶたを閉じたまま、唇をかすかに震わせている。吐息は細く、熱い。晴臣の手が腹部を撫でたとき、岡田は声にならない声を喉に詰まらせ、ベッドシーツを握った。晴臣は何度も、岡田の表情を見た。快楽と不安がせめぎ合うその顔を、見逃さぬよ
last updateLast Updated : 2025-12-16
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64.ほどけた夜、ふたりの余韻

シーツの中でふたりの体温が緩やかに重なり合い、静けさだけが部屋を満たしていた。深く深く潜っていったあとの、底に降り立ったような静寂だった。呼吸の乱れはゆっくりと収束し、互いの胸が上下するリズムが似通っていく。窓の外では、変わらず雨が降り続いていた。カーテン越しに伝わる夜の湿度と、遠くで車のタイヤが水たまりをかすめる音が、ときおりふたりの世界に小さな波紋を落としてくる。晴臣は、シーツを引き寄せながら、岡田の髪に指を滑らせた。しっとりと汗を含んだ髪は、熱を帯びたまま額に貼りついている。その一本一本をなぞるように、丁寧に撫でる。触れるたび、岡田の体がわずかに反応を見せた。「…くすぐったいわ」囁くように岡田が言った。けれどその声には、どこか名残惜しさと甘さが含まれていて、晴臣の胸にじんわりと染みた。「寝ちゃいそうですか」「…せやな。ちょっとだけ、もう落ちかけてた」晴臣は笑って、岡田の額に唇を落とした。ふれてみると、岡田の肌はまだ少し火照っていた。熱が残っているのか、それとも照れ隠しの名残か。どちらでもよかった。ただ、こうしていることが、何よりも自然に思えた。岡田は、ゆっくりと身体を寄せてきた。そのまま、晴臣の肩に額を預ける。濡れた髪が頬に触れ、皮膚と皮膚がまた静かに溶け合っていく。距離という言葉を感じさせないほど、ぴたりと寄り添った岡田の体は、さっきまでとは違う重みを持っていた。力が抜けている。けれど、頼るというよりも、受け入れるような重さだった。晴臣はその身体を両腕で包み込んだ。「…晴臣」「はい」「こういうの…夢みたいやな。信じられへんくらい、気ぃ抜けてる」岡田の声は、低く掠れていた。けれどその響きは確かで、言葉の端に漂う微かな震えが、むしろ強さに感じられた。「さっきまで、正直な。どっかで、また心閉じてまうんちゃうかって、自分で怖かった」「うん」「でも今は…こうしてる
last updateLast Updated : 2025-12-17
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65.鈍い朝、眠りの隣

鈍色の空がカーテン越しにぼんやりと滲んでいた。夜の余熱がまだ残る室内はしんと静まり、聞こえるのは外から時折差し込む車の走行音と、珈琲が落ちる機械的な音だけだった。岡田は薄いシーツを片手で払ってから、ゆっくりと体を起こした。背中から肩にかけてじんわりと重さが残っていて、昨夜のことが現実だったのだと、身体の感触が教えてくる。カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、時間が朝なのか昼なのか、一瞬だけ曖昧に思えた。けれど、窓の外を見れば雨は止んでいて、濡れた街路樹が朝の光を吸い込んでいるのが分かる。雨上がりの匂いは窓の隙間から微かに流れ込み、どこか目が覚めきらない感覚の中に、現実味を与えた。岡田は髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかき上げながらベッドを出た。体にまとったままのTシャツが少し汗ばんでいて、それを一度脱ごうと手をかけたが、そのままやめた。気を抜くと、昨夜の情景が頭の中で繰り返されそうだった。リビングの扉を開けると、珈琲の香りが鼻をくすぐった。小さな音で湯が落ちる音。静かすぎるほどの静寂の中で、そこだけが生活の証のように響いている。晴臣はキッチンの前に立っていた。白いシャツにスラックス、首元はまだ開けたままで、袖口をラフに折っている。ベルトも締めていないせいか、まだ完全に“会社の顔”にはなっていない。音に気づいたのか、晴臣がゆっくりと振り向いた。目が合った瞬間、岡田の胸にふっと風が吹いたような感覚が走った。その視線は、どこまでも穏やかで、優しかった。「おはようございます」晴臣がそう言って微笑んだ。どこか照れ隠しのように、けれど迷いのない笑みだった。岡田は瞬間、何か返そうとして、喉がつまった。言葉がうまく出てこなくて、唇を一度噛む。それから、ようやく声を出した。「…なんや、その営業スマイルは」晴臣は笑った。少しだけ肩をすくめてから、カップを持って振り返る。「癖なんです。朝はまず表情から整えるって決めてるんで」「…朝から意識高いな」岡田はそ
last updateLast Updated : 2025-12-18
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66.ネクタイの朝は、ひとりじゃない

クローゼットの前で、株式会社東都商事の営業二課の課長、岡田 佑樹はシャツの袖口を整えながら、ブルーのネクタイを片手に持って立ち尽くしていた。朝の陽光が、窓の向こうから淡く差し込み、ワイシャツの白地を柔らかく照らす。外はまだ曇天で、雨上がりの湿気がほのかに残っている。カーテンの隙間から見える街路樹の葉が、しずくごとゆるやかに揺れていた。深く息を吐き、岡田はネクタイを見下ろした。いつもの朝なら自分で結ぶその作業を、なぜか今日はためらっている。指が結び目のあたりを撫でると、布のひんやりとした冷たさが手のひらに伝わる。明日からまた、取引先との商談、売り上げの数字、部署メンバーのフォロー――そのすべてが待っているはずだ。それなのに、なぜ少し胸が高鳴るのか、自分でもわからなかった。背後で穏やかな足音がして、主任の牧野 晴臣が横から近づいた。晴臣は白いシャツにネクタイ。だがその第一ボタンは少し緩められていて、まだ完全に“職場モード”から切り替わっていないような表情があった。晴臣の目が、そっと岡田に向けられた。「結びますよ」声は静かで控えめだったが、それが逆に岡田の胸に温かく響いた。ネクタイを手にしたまま立っている自分に、誰かが手を差し伸べてくれたような気がした。岡田は視線を伏せたまま、口元をわずかに開いた。「……毎朝これやったら、変にドキドキしてまうな」その言葉には冗談半分、けれどどこか真実の味が含まれていた。心臓が少し、いつもより早く鼓動していることを意識した。晴臣は、そのまま視線を合わせた。明るさの中に、確かな暖かさと決意が混じった瞳があった。「いいじゃないですか、毎朝ちゃんと惚れ直せる」言いながら、晴臣の指先がネクタイに触れた。ふたりの距離が、一歩だけ近づく。その指の腹が布を掴み、結び目を整えるように滑っていった。無音の時間に、布と布の擦れる音だけが微かに混じる。晴臣の手が岡田の指と触れた瞬間、わずかな振動が指先から伝わってきて、岡田は思わず息を吞んだ。ネクタイを結ぶその動作は、実はそんなに特別なものではないことを、岡田は知っていた。けれど今、
last updateLast Updated : 2025-12-19
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67.静かな覚悟を、通勤の雑踏で

昼休みどき、1階にある提携カフェの窓際席に、ふたりは並んで腰を下ろしていた。曇天の空から差す薄い光が、ガラス越しに淡い影を机の上に映している。水滴の名残が外のテラステーブルの表面を光らせていて、雨がすぐに止んだものの、空気はまだ湿気を帯びていた。室内にはコーヒーの香りと、店員が注文を確認する声、そしてカップがトレイに置かれる音が穏やかに混ざっていた。ふたりは“いつも通り”といっていいランチタイムを過ごしていた。仕事の話題が主で、先方の対応、追客の進捗、今週の数字、そして午後のプレゼン準備。課長・受注・資料・見込みといった営業風語が穏やかな昼の明かりのなかで並ぶ。けれど、その「いつも通り」の背後に、変化の気配が静かに広がっていた。晴臣がロングホットを口に運びながら、ふと顔を伏せた。カップの縁に映る自分の顔を視界の端で見たのだろう、眉がわずかに寄っていた。そのまま視線を窓の外へ向け、コーヒーの湯気の合間に浮かぶ自分の呼吸を感じる。手の甲に湯気がふわりと触れ、その熱にほのかな安心を覚えながらも、晴臣は微かに肩を竦めた。「…こういうのって、いつまで続くんですかね」その言葉は軽い冗談に聞こえたかもしれない。けれど、晴臣の声には確かな揺れが含まれていた。視線は外へ出たままで、曇り空を見上げるように唇を薄く開いていた。岡田は、一口コーヒーを飲んで、ゆっくりと湯気を吐き出した。苦味が舌の奥に滲む。社内外を行き来する喧騒を背負った口がその苦味を包み込んで、思考を整えた。「お前が辞めん限りやろ」その返答には、軽い冗談のような響きがあった。だが、目の端に見えた晴臣の顔の変化が、それをただの冗談ではないものにしていた。晴臣の眉が少しだけ上がり、口元が甘く笑った。窓の外を、傘をたたんだ人々が足早に歩いていく。ネオン広告がまだ点灯している時間帯、街には昼の眠気とも夕の始まりともつかない緩やかな移行があった。店内の時計の秒針がひとつ回るたび、ふたりのテーブルの上のコーヒーカップがわずかに揺れ、反射する光が揺らいだ。晴臣はカップを置き、指先で
last updateLast Updated : 2025-12-20
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1.今日も、あの人はネクタイを曲げている

朝のオフィスには、独特の湿気と紙の匂いが立ち込めていた。冬の乾いた空気と暖房が混じり合い、外気との温度差が曇った窓ガラスに白い息を映し出している。コピー機が唸る音、パソコンのタイピング、背後で交わされる会話。そのすべてが一定のリズムで繰り返されている中、牧野晴臣はスーツの袖を整えながら自分のデスクに座った。朝のメールチェックを終えた頃、背後から聞き慣れた足音が近づいてくる。少し重たげで、リズムにムラがある。何度も耳にしてきた、その音の主を確認するまでもない。振り返ると、案の定、岡田がコートを片手に持ったまま現れた。黒髪は寝癖のまま、ワイシャツには細かい皺が刻まれ、ネクタイは今日も歪んでいた。ネクタイピンすらつけていないその首元が、なぜか晴臣の視界にだけ強く映り込む。「おはようございます、課長」晴臣はできるだけ平静を装って声をかけた。「んー……おはよ。さむ……なあ?」岡田は欠伸混じりに返しながら、椅子に腰を下ろす。手元のカップにまだ温もりが残っているはずもない、昨日のコーヒーを口に運ぼうとして顔をしかめた。その仕草を、晴臣は自然な振る舞いで横目に観察する。恋人になってから、こうして日常のなかに岡田の姿を見つけるたび、自分の視線がどれだけ長くそこにとどまってしまうかに驚かされる。昨日の夜、岡田の部屋で、彼はソファの上で眠りこけていた。晴臣が用意した夕食を食べたあと、ふとした沈黙が続き、そのままテレビの音だけが部屋を埋めていた時間。あの静けさは、恋人同士という言葉では説明のつかない、曖昧で、けれど確かな親密さに満ちていた。にもかかわらず、職場では何ひとつ変わらない顔で、こうして目の前にいる。岡田は無意識に、ふたりの関係を他人に悟らせないようにしている。それが晴臣にとってはありがたいと同時に、どこか少し寂しい。「……課長、ネクタイ、また曲がってますよ」自然な口調でそう言いながら、晴臣は岡田の前に立ち、ゆっくりと手を伸ばした。岡田は目をしばたたき、一瞬だけ戸惑ったように見えたが、何も言わずに首をすく
last updateLast Updated : 2025-12-21
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2.隣にいるのに、遠い人

昼休みのチャイムが鳴る少し前から、デスクの周囲がざわつき始めていた。キーボードを叩く音が次第にまばらになり、書類を閉じる音や、椅子を引く金属音が交じり合っている。晴臣はファイルを片づけながら、隣の岡田の動きを視界の隅でとらえていた。岡田は、まだパソコンの画面を睨んでいた。寝癖のついた髪を指で無意識に掻き上げ、肩を一度落としてからようやく椅子を回転させる。「……ちょっと外、行くか? 社食も飽きてきたやろ」「今日は持ってきたんで。課長は?」「俺も。珍しない?」そう言って岡田は、バッグからタッパーを取り出した。適当に詰めただけと言いつつ、白飯に焼鮭と煮物、それに漬物が別容器に入っている。晴臣はふと、それを自分の母親が作ったものと錯覚しそうになって、内心で苦笑する。休憩スペースは、窓辺に向いたカウンターと小さなテーブルが並ぶ簡素な作りだ。晴臣と岡田は、いつものように窓際の席に並んで座った。陽射しが斜めに差し込み、白いテーブルの上に二人の腕の影を落とす。カーテンは半分だけ引かれていて、そのせいか部屋の片側だけがほの暗い。「この煮物、うまいですね」「自分で作ったんやけど、味見せんまま詰めたわ。いける?」「十分です」箸をすすめながら交わされるやりとりは、毎日繰り返されるものと大して変わらない。けれど、晴臣の中には、どこかささくれだった感情が静かに顔を覗かせていた。昼の光が岡田の頬を柔らかく照らしている。髪は相変わらずぼさぼさで、前髪の一部が右側にはねていた。それがずっと気になって、目線がそこに吸い寄せられる。気がつくと、晴臣は箸を置き、指先でそっとその髪に触れていた。「……ここ、跳ねてます。寝癖、ですね」岡田が驚いたように目を見開いたあと、ふっと笑った。「まきちゃん、よう見とるなあ」「毎日見てますから」言葉にしてから、その響きの重さに気づいた。晴臣は慌てて手を引っ込め、少し視線を逸らした。岡田は気にする様子もなく、髪を自分でぐしゃぐしゃとかき混ぜて、再び笑う。
last updateLast Updated : 2025-12-21
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3.“好き”を贈る形にしたい

仕事を終えた夜の銀座は、空気がやけに澄んでいた。ビルの谷間を抜けてくる冷たい風が、マフラーの隙間から首筋をかすめる。吐いた息は白く、すぐに消えた。晴臣は首をすくめながら、街のざわめきの中を歩いていた。年末が近づくこの時期、街はどこもかしこも色を増している。街路樹にはイルミネーションが巻かれ、ウィンドウには赤と緑を基調にした装飾が踊っていた。カップルや家族連れ、買い物袋を提げた人たちが行き交い、賑わいの中にどこか浮足立ったような空気が漂っている。そんな光と音に包まれながら、晴臣は足を止め、百貨店の入口を見上げた。静かな決意が、心の奥に灯っている。エレベーターで上階へ向かいながら、反射するガラスの中の自分と目が合う。スーツの襟はまっすぐで、髪も乱れていない。自分の姿に不満はない。ただ、心のどこかがずっと物足りなかった。それは恋人という関係になってから、余計に増していた感覚だ。岡田との日常は、穏やかで心地よい。朝も昼も夜も、職場でも家でも、一緒に過ごす時間は少しずつ増えている。けれど、それでも不安が消えることはなかった。曖昧な距離。誰にでも見せるような柔らかな笑顔。ふとしたときに、自分が“特別”であることを信じきれなくなる瞬間がある。それを言葉にするには幼く、我儘に過ぎると思う。でも、どうしても何かが欲しかった。確かめるのではなく、渡したい。そう思えることが、晴臣自身にとっても初めての感情だった。店内の照明は柔らかく、絨毯を敷き詰めた床が足音を吸い込んでいく。ネクタイ売り場の一角には、年末限定のギフトフェアが組まれていた。艶やかなシルクタイが並ぶ中央に、小さなケースに収められたネクタイピンたちが整然と並んでいる。晴臣は一歩ずつ、その前に近づいた。どれもシンプルで、控えめなデザイン。けれど、見る角度によって光の反射が変わり、それぞれがわずかに異なる表情を持っている。その中で、ひとつのネクタイピンに視線が吸い寄せられた。マットシルバーの直線的なフォルム。無駄がなく、けれど無機質にも見えない、静かな存在感。
last updateLast Updated : 2025-12-22
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