All Chapters of そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。: Chapter 51 - Chapter 60

60 Chapters

51.朝の食卓と、あたたかすぎるコーヒー

窓の外は、雨が上がったばかりの鈍い灰色だった。雲の切れ間から朝の光が射す気配もなく、遠くで車のタイヤが濡れたアスファルトを擦る音だけが、規則正しく響いていた。岡田の部屋に射し込む自然光はごくわずかで、リビングの照明は点けられていない。その静けさが、まるで昨夜のことを無かったことにするようで、晴臣の胸にじわりと鈍いものが広がっていた。キッチンからは、豆を挽く音と、お湯を注ぐかすかな音が聞こえてくる。晴臣はソファに腰を下ろしながら、背を向けて立つ岡田の後ろ姿を見つめていた。Tシャツの襟元から覗くうなじには、まだうっすらと昨夜の熱が残っているように見えた。その皮膚の色、肩の丸み、力の抜けた背中のライン――目に焼きつけたはずのそれが、今はやけに遠く感じる。「よー寝とったな」岡田が振り返ることなく、そう言った。軽い口調だった。けれど、その言葉にはどこか、“いつもの朝”を演じるような作為があった。「課長が先に起きるの、珍しいです」そう返した晴臣の声もまた、どこか張り詰めていた。自然に返せたつもりだったのに、言葉の奥に探るような色が混じってしまうのはどうしようもなかった。岡田は笑った。湯気を立てるマグカップを二つ持って、リビングに戻ってくる。その指先に触れる陶器の白が、なんだか冷たく見えた。「今日はちょっと、頭さえてもうてな。なんか、寝つかれへんかった」「…そうなんですか」受け取ったマグカップからは、昨夜と同じ香りが立ちのぼっていた。中煎りのブレンド、まろやかなはずの香り。けれど今朝は、鼻の奥に少し苦く残った。岡田はソファの向かい側に腰を下ろした。いつも通りの姿勢。足を投げ出して、背もたれに寄りかかる。けれどその動きには、何かを避けているような硬さが混じっていた。言葉がなかった。マグを持つ指が、リズムもなく軽く揺れている。晴臣はそれを見ながら、言葉を選びかけては飲み込んだ。自分たちは
last updateLast Updated : 2025-12-04
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52.すれ違う温度と、整えられたシーツ

岡田は白いシャツの袖を肘まで無造作にまくりながら、ベッドのシーツに手を伸ばした。昨夜、ふたりがもつれ合った場所。くしゃくしゃに乱れたままだった布を、彼は何の感情もない手つきで整え始める。手のひらで皺をなぞるたびに、そこに残る微かな湿り気が肌に伝わってくる。乾きかけた汗の跡と、体温が染みついた場所。そのすべてが、たしかにふたりのものであったはずなのに、岡田の仕草はそれを消そうとするように、整然としていた。晴臣はその様子を黙って見ていた。着替えも済ませて、すでに髪も整えていたが、なぜか身体の芯だけがまだ夜の中に残されているような感覚があった。岡田の背中は細く、どこか遠い。昨夜、何度も唇を這わせた肩甲骨、何も言わずに引き寄せた背中、そのすべてがいま、晴臣の目の前で“個”として存在している。もう手を伸ばしてはいけないような、そんな静かな壁が立っていた。岡田はベッドの端に膝をつき、枕を持ち上げて、端を揃える。その指が、ほんの少し震えていることに、本人は気づいていない。落ち着いた動作に見せかけて、内側ではまだ何かが揺れている。けれど、岡田はそれを自覚することもなく、黙々と「片付ける」という行為を続けていた。その姿を見つめながら、晴臣は声をかけるかどうか迷った。言葉を発すれば、何かが変わる気がしていた。でも、それは良い方向とは限らない。だから、言わないという選択肢もあった。それでも、唇が勝手に動いた。「課長」岡田が動きを止め、ゆっくりと振り返る。「…ん?」振り返った顔には、笑顔とも無表情ともとれる曖昧な色が浮かんでいた。「昨日のこと、俺は……恋人になったつもりです」晴臣の声は静かで、けれどまっすぐだった。揺るぎのない意志ではなく、たどたどしくても伝えたい、という気持ちの方が強かった。岡田は一瞬、目を見開いた。何かを返そうとした唇が、わずかに開いたまま止
last updateLast Updated : 2025-12-05
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53.傘が一本、でも並べない歩幅

駅へと続く道はまだ湿っていた。雨は上がっていたが、空気には水気がこびりついていて、肌にじっとりとまとわりつく。アスファルトに残った水たまりには薄曇りの空が歪んで映り込み、踏みしめる靴の底が音を立てては、その反響を静かに響かせていた。岡田と晴臣は一つの傘を共有していた。岡田が持ち手を握り、傘を軽く傾けるようにして歩いている。並んで歩くには、やや狭い道だった。肩を寄せ合えば、充分に二人分の雨を防げるはずだった。それなのに、岡田はいつの間にか、一歩前を歩いていた。ほんの半歩。けれど、その距離は確かに“並んでいる”とは言えなかった。晴臣は歩幅を合わせようとしたが、岡田の背中が微かに先を行く。気づいていないのか、それとも意図してのことかはわからない。傘の布地から滴る水音が、ふたりの無言を埋めていた。時折、街路樹の葉から水滴が落ちて、濡れた地面に小さな跳ねをつくる。そのたびに、視線がそちらへ逃げた。何かに集中しているふりをするために。晴臣の肩が冷たかった。傘がわずかに岡田側へ寄っている。岡田は気づかずに歩いている。いや、気づいていて、あえてそのままなのかもしれない。どちらにせよ、その無意識を装う態度が、晴臣の胸に小さな棘のような痛みを残していた。「肩、濡れてますよ」ふいに声をかけると、岡田が立ち止まった。「ん? ああ」彼は振り返り、晴臣の肩に視線を落とすと、苦笑いのように口元をゆがめた。「気にせんでええって。どうせもう止んでるしな」そう言って、傘をほんの少しだけ戻すように持ち直した。けれどその距離は、完全には埋まらなかった。「風邪、引きます」「そんなん、若いくせに何言うてんねん」岡田は笑っていた。いつものように軽く、冗談のように。けれどその笑いには、どこか壁のような温度があった。晴臣はそれ以上、何も言わなかった。言葉を重ねれば、何かが壊れてしまうような気がしていた。あるいは、もうすでにひびが入っていて、それを見ないふりをしているだけかもしれなかった。足元では、靴の裏が水を吸うような
last updateLast Updated : 2025-12-06
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54.職場の空気、いつもの課長

オフィスの空気は、いつものように少し乾いていた。湿り気を帯びた朝の空とは打って変わって、室内の温度と照明は人工的に整えられている。晴臣が出社したのは、始業の三十分前だった。誰もいないデスクが並ぶ静かなフロアに、彼の革靴の音だけが響いた。自席につき、ノートパソコンを立ち上げる。ログイン音が鳴り、メールが一斉に受信されるその瞬間が、切り替えの合図だといつも思っている。けれど今朝は、電源ボタンを押す手に、わずかに力が入っていた。岡田は少し遅れてやってきた。姿が見えた瞬間、晴臣の心臓がひとつ跳ねた。けれど、それはどうしようもない反応でしかなかった。岡田は昨日と同じように、ネクタイをわずかに曲げたままの姿で現れた。ジャケットの肩には鞄の跡がくっきりと残っている。いつもどおりの「だらしない課長」の出勤風景だ。「おはようございます」晴臣が声をかけると、岡田は片手を軽くあげて応じた。「おー、おはようさん。なんか暑ない?このフロア、空調壊れてへん?」冗談まじりに首元を指で掻きながら、岡田は席に着く。モニターの電源を入れて、コーヒーの紙カップをデスクに置いた。まるで、何もなかったかのように。そう感じたのは晴臣の方で、岡田はきっと、意識して“いつもどおり”を演じているわけではないのだろう。けれど、その無意識が残酷だった。昨夜、確かに触れ合った。岡田の震える声も、目の端ににじんだ涙も、何ひとつ幻ではなかった。なのに今、その全てが、ビジネスメールの山と、紙カップのコーヒーの下に塗りつぶされていく。キーボードに向かう晴臣の指が、ほんの一瞬、止まった。画面の端に、自分の映った姿がある。黒いディスプレイに反射した、目元の影。寝不足のせいだろうか、頬の下がり方に、どこか疲れた色が見えた。「岡田課長、週末、また例の飲み会、ありますけど。行きます?」不意に、斜め向かいの田島の声が上がった。岡田は椅子を回して、身体ごとそちらを向く。「
last updateLast Updated : 2025-12-07
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55.ぶつかる声と、逸らされる瞳

残業時間が終わっても、オフィスの空気はまだ動いていた。プリンターの熱と、蛍光灯の白が、夜の帳を忘れさせている。人の気配はまばらで、カーペットの上を歩く音さえ、やけに響いた。晴臣は、自分の机の前で立ち尽くしていた。モニターには、保存を促すポップアップが点滅している。指先がマウスに触れたまま動かない。視線の先、少し離れたデスクで岡田が書類を鞄にしまっているのが見えた。その仕草はいつも通りだった。無造作にまとめた資料、緩んだネクタイ。けれど晴臣には、それが別人のように感じられた。同じ空間にいても、手を伸ばしても届かない場所に立っているようだった。岡田が出口の方へ歩き出す。晴臣は、その背に声をかけた。「…課長、ちょっといいですか」岡田が振り向く。少し驚いたように目を細め、笑みを浮かべた。「なんや、真面目な顔して。説教か?」「そうじゃないです。…話がしたくて」「話?」「はい。少しだけでいいので」岡田は一瞬、逡巡した。けれど晴臣の表情に冗談の余地がないことを悟ったのか、小さく息を吐いて頷いた。「わかった。…給湯室でええか。ここやと人の目あるしな」二人は並んで給湯室へ向かった。夜のオフィスは広すぎるほど静かで、廊下の先にある蛍光灯の明かりが遠く見えた。足音が重なり、すぐにずれていく。そのわずかなずれが、晴臣の胸に痛く響いた。給湯室のドアを閉めると、世界の音が消えた。代わりに、給湯器のモーターが低く唸る音が、一定のリズムで流れ続けている。二人の息遣いだけが、その音に交ざっていた。岡田が壁際にもたれた。腕を組み、いつもの軽い調子で言う。「で、話って?」晴臣は少し唇を噛んだ。言葉を選ぶ時間を稼ごうとしたが、選べるほど冷静ではなかった。「課長、俺…
last updateLast Updated : 2025-12-08
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56.夜のコンビニ前、ポケットの中の片想い

夜風が吹き抜けるたびに、街の色が少しずつ滲んで見えた。電車を降りた晴臣は、駅前の歩道を歩きながら、ポケットの中の指先を握りしめていた。スーツの上着では風を防ぎきれず、肌の奥にまで冷たさが染みてくる。ひと駅分、ふたりで並んで帰るはずだった道。あの給湯室の会話のあと、岡田は何も言わず背を向けて歩き出し、晴臣も追うことはできなかった。黙ったままエレベーターに乗った岡田の背中を、遠くから見ているしかなかった自分が、今も胸の奥で引っかかっていた。足は自然に、職場近くの小さなコンビニへ向かっていた。理由はなかった。何かが欲しかったわけでもない。ただ、何かをするふりをしていたかっただけだった。自動ドアが開くと、店内の暖かさが一瞬で頬を撫でた。明るすぎる蛍光灯と、静かに流れる店内音楽。誰もいない時間帯のせいか、店員はレジ奥で何かを仕分けていた。晴臣はコーヒーの冷蔵棚の前に立ち、手を伸ばす。指先が缶の金属に触れる。ひんやりとした冷たさが、今の気持ちと重なった。棚から取り出した缶をそのまま持ってレジに向かい、無言で会計を済ませる。外に出ると、風が一層冷たくなっていた。自販機の横にある木のベンチは、雨の名残を吸い込んで、どこか暗く沈んでいる。その脇に立ち、缶を開けた。プルタブの開く音が、思ったよりも乾いて響いた。ひと口飲むと、甘さが喉に絡んだ。いつもなら仕事の合間に飲んでいる味のはずなのに、今夜はただ、胸の奥を鈍く刺激するだけだった。ポケットに入れていたもう一方の手が、無意識に傘の取っ手を探して空振りする。そうだ、と小さく思う。傘は岡田に預けたままだった。それがなんだ、と自分に言い聞かせる。返してもらう必要はない。そんなもの、ただの荷物だ。けれど、岡田がその傘を今、どこに置いているのか。ちゃんと家まで持って帰ったのか。そんなことばかりが頭に浮かんで、捨てられていたらどうしよう、なんてくだらない想像すらしてしまう。缶を持つ指先に、じわりと冷たさが滲む。ひと口、またひ
last updateLast Updated : 2025-12-09
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57.雨の夜、待ち続ける背中

街灯の明かりが滲むほどの、濡れた空気だった。午後十時を回ったばかりの夜、会社帰りの人々が通り過ぎていく中で、晴臣はただひとり、動かずに立っていた。スーツの肩には水滴がいくつも浮かび、髪は額に張りついている。雨は容赦なく降り続き、背広の生地を重く染めていたが、彼は傘を持たなかった。ポケットに手を入れるでもなく、スマートフォンを取り出すこともせず、ただマンションの入り口に身じろぎもせず立ち尽くしていた。湿ったアスファルトから立ち上る匂いが鼻を刺す。遠くで車のクラクションが鳴ったが、晴臣の目は、ただエントランスの奥をまっすぐに見据えていた。ようやく足音が聞こえたのは、日付が変わる少し前のことだった。マンションの角を曲がったその人影を、晴臣はすぐに見分けた。岡田だった。駅からの帰り道、肩を少しすぼめて歩いてくるその姿は、いつもと同じようにスーツのジャケットがよれていた。ネクタイは緩められ、革靴の音はどこか疲れた調子で、急ぐ様子もないまま雨に濡れながら近づいてくる。だが、玄関前に立つ晴臣に気づいた瞬間、岡田の足が止まった。「…は?」声にならないつぶやきが、唇から零れた。傘も差さず、ずぶ濡れのまま彼を見上げる晴臣の姿に、岡田は明らかに面食らった表情を浮かべた。慌てたように鞄から折りたたみ傘を取り出しかけて、けれど途中でその動きを止める。「おま…なんで、こんなとこで…」声が、どこか揺れていた。晴臣は、なにも言わなかった。ただ視線を逸らさず、じっと岡田を見ていた。額に張りついた前髪の下、睫毛には雨粒がいくつも残っている。その瞳は冷たくもなく、ただ静かで、どこまでも真っ直ぐだった。岡田は眉をひそめ、困ったように笑う。「何してんねん…風邪ひくで。アホちゃうか」近づいてきた彼は、自分の傘を差し出そうとするが、そこで指がわずかに震えているのに気づいた。晴臣の前に立った瞬間、その震えは少し大きくなった。「傘くらい…持って来いや…」
last updateLast Updated : 2025-12-10
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58.ぶつかる声、こぼれる真実

給湯器の低い唸りが、沈黙の部屋にぼんやりと響いていた。窓の外では、まだ雨が細く降り続いている。空気はぬるく湿って、梅雨の夜特有の重たさを含んでいた。リビングのソファには岡田が、対するようにダイニングテーブルの椅子に晴臣が腰を下ろしている。互いの距離は、まるで踏み込めない境界線のように、不自然にあいたままだった。岡田は煙草を咥えようとして、けれど途中で思い直したのか、ライターを握ったまま手を膝に置いた。その拳がわずかに震えていた。「…だからな」沈黙を破った岡田の声は低く、掠れていた。「俺は、お前を幸せにする資格なんてあらへんのや」「資格?」晴臣の声が、それにすぐ返る。「そんなもの、誰が決めるんですか」「決まってる。俺自身や」晴臣は顔を上げた。湿った空気に息を吸い込み、少しの間、言葉を選ぶように唇を閉じる。「またそれですか。逃げる言い訳に、自分を下げるのは」「ちゃう、逃げてへん。俺はただ…分かってんねん。俺と一緒におっても、お前は損するだけやって」「損得で人を好きになるわけじゃないです」岡田の顔がぴくりと動いた。「…お前は若い。まだなんぼでも可能性ある。もっとええ男も、ええ人生もある。こんな冴えへん課長の隣で止まるな」「止まってるのは課長の方です」返ってきたその言葉は、刃物のように鋭く静かだった。岡田は口を開きかけたが、何も言えずに俯いた。こめかみを押さえるように片手を額にやり、もう片方の手の拳は膝の上で震え続けていた。膝に力が入り、テーブルの上にぽたりと一滴、水が落ちる。さっきまで髪に残っていた雨のしずく。それが晴臣には、岡田の涙のように見えた。「…なんで、そんなに俺に食らいついてくんねん」岡田がぽつりとこぼした。「傷つくのが怖ないんか。俺はお前に痛い思いさせるかもしれんのに」「それでもいいと思えるほど、好きなんです」その言葉に岡
last updateLast Updated : 2025-12-11
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59.沈黙のあとに残るもの

岡田はソファに沈むように身を投げ出し、背もたれに頭を預けていた。吐く息は浅く、胸の奥に残る熱が抜けきらずにいる。言葉をぶつけ合ったあとの空白が、部屋の空気にじっとりと沈殿していた。さっきまでの雨は弱まり、窓の向こうでは水の粒が静かにガラスを滑り落ちていく。けれど、外の世界が静かになればなるほど、室内の音がいやに耳に残った。時計の秒針が一秒ごとに空気を割って、はっきりと響く。岡田は手のひらで顔を覆い、そのまましばらく動かなかった。肩はほんのわずかに揺れていたが、それが呼吸の乱れなのか、感情の波なのかは分からなかった。ただ、その姿には、男の弱さと脆さが凝縮されていた。晴臣は何も言わず、そっと岡田の隣に腰を下ろした。ソファのクッションがわずかに沈む。距離は触れられそうで触れない、けれど逃げられないほどには近い。そのまま、何秒か、あるいは何分か、ふたりは何も言わなかった。沈黙が会話の続きを催促するように、部屋にじんわりと広がっていた。「…俺」晴臣の声が、深く低く、部屋の空気に溶けた。「課長の過去ごと、好きです」岡田の肩がわずかに揺れた。顔を覆っていた手がゆっくりと降りていき、岡田は無言のまま視線を前に落とした。涙の跡が頬に一筋残っている。けれどその表情には、もう拒絶の色はなかった。「お前、ほんまにアホやな…」そう呟いた岡田の声は、掠れていた。喉が乾いているような、かすかに震える響きだった。「なんでそんな、丸ごと好きになんねん」「好きになった人の一部だけ好きなんて、俺にはできません」晴臣は横を向いた。「だって、それじゃ“人”じゃなくて、理想しか愛せないじゃないですか」岡田は、言葉の意味を噛みしめるように目を伏せた。「俺、前にも言いましたけど…あんたを抱いた責任を取りたいだけじゃないんです」晴臣の声は、決して強くはなかった。けれど、それはまっすぐに岡田の胸の奥へ届いた。「俺があ
last updateLast Updated : 2025-12-12
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60.答えは、同じ場所にあった

雨の音は、途切れることなく窓を叩いていた。細かく規則的なその音は、まるで遠い記憶の断片を呼び起こすように、静かに部屋の隅々へと染み渡っていく。時計の針は深夜を越えていたが、岡田の部屋には眠気の気配すらなかった。ただ、沈黙だけが、長く、深く、そこにあった。晴臣は、まだ岡田の隣に座っていた。ソファの端と端を使っていたはずの距離は、気づけばぴたりと寄り添っていた。互いの肩がわずかに触れ合うその距離。体温が交差するたび、息の仕方さえも静かに変わっていく。岡田はずっと黙っていた。晴臣の手を握ったまま、ゆっくりと、言葉を選んでいた。小さな呼吸の合間に、肩が少しだけ動く。やがて岡田は、晴臣の肩へとそっと手を伸ばした。躊躇いがちに触れたその手は、ほんのわずかに震えていたが、それでも確かに触れていた。「…俺も、好きなんや」岡田の声は低く、かすれていた。けれど、その一言には迷いがなかった。過去に縛られてきた自分を、今、ほんの少しだけ前に進ませるような…そんな勇気が滲んでいた。「…あんたのこと、ほんまに、好きや」その言葉に、晴臣は何も答えなかった。ただ、肩に置かれた岡田の手に、自分の指をそっと重ねた。それは会話でも約束でもなかった。ただそこに、静かに触れるという選択だった。触れられた岡田の指が、ほんの少しだけ、強く晴臣の手を握り返す。ふたりの手のひらに伝わる温度は、熱すぎず、冷たすぎず、ただ優しくそこにあった。過去の傷も、恐れも、不安も、その一瞬だけはすべて静まっていた。外では、まだ雨が降り続いている。窓を叩く雨粒の音が、ゆっくりとしたリズムを刻み、室内の静けさに柔らかく溶け込んでいた。まるでふたりを包み込むように、どこまでも穏やかに。岡田は、まっすぐ前を見つめたまま、ぽつりと呟いた。「俺な…たぶん、これからも臆病なままやと思う。過去のことも、きっと完全には割り切れへんし、自信なんてすぐには持たれへん」「…」「でも、それでも&he
last updateLast Updated : 2025-12-13
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