All Chapters of 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

今ごろ安雄は鉄舟重工で会議をしている時間のはずじゃないのか。そう思いかけてすぐに考え直す。健司の件は鉄舟重工にとって決して軽い話ではなく、安雄がいちいち目を光らせていてもおかしくはないのだ。典子はまだ取り乱していて、浩一はここで長居する気などさらさらなかった。安雄に軽く会釈だけすると、そのまま典子を連れて部屋を後にする。安雄は夫婦の背中が遠ざかっていくのを見送り、視線をまた一階のフロアへと戻すが、どうしても見える範囲は限られていた。さっきまでは知枝の後ろ姿がちらりと見えていたのに、今は三郎のほうへ歩いて行ったらしく、そこから先はまったくの死角になってしまう。胸の奥に、妙な焦りのようなものがにじんでいるのにふと気づき、安雄は思わず苦笑する。いつから自分は、こんなに人のことが気になる性質になったんだ。一方、リビングでは知枝がバッグからiPadを取り出し、ロックを解除してから三郎の前にそっと差し出していた。「おじいさま、これがここ数年、私が健司のために全部手がけてきたプロジェクトです」三郎はiPadを受け取り、びっしり並んだファイル名にざっと目を走らせただけで、眉間に深いしわを刻む。「こ、これ……全部お前がやったのか……」このiPadに入っている案件は、昨夜の生配信で公開されたものよりはるかに細かく、数も多い。工場設備の設計図のような小さなものから、国家レベルの産業機密に関わる大型プロジェクトまで、大小さまざまだ。ここ数年、健司はこのプロジェクトの実績を足場に、周囲からどれほど持ち上げられ、社内で順風満帆にやってきたかは言うまでもない。三郎は自分こそ世の中を知り、人を見る目だけは確かだと信じてきた。だが、その自負はあっさり裏切られた。ここまで誇りにしてきた若い孫が、女におんぶにだっこで成り上がったただの能なしだったとはーー。これまで外ではどれだけ健司を自慢してきたか。そう思い返すだけで顔から火が出そうになり、これまでの自慢話がすべて自分への恥さらしだったように思えてきた。三郎はiPadを握りしめたまま、しばし言葉を探してから口を開く。「知枝、悪いのは健司のほうだ。あいつは本当にどうしようもないろくでなしでな……」「これをお見せしたのは、私が有能だと証明したくてじゃありません。健司には鉄舟重工を継ぐ資格なんてない、
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第32話

「ええ」知枝は、よく通る声で言い切った。わずかな怯えも見せない。「岸元精工を潰したのは健司の仕業です。その余波で祖父母も母も命を落としました。それでも、私があの人を告発しちゃいけないとおっしゃるんですか。おじいさまが私を呼んだのは、私の腹を探って訴えを取り下げさせるためだってことくらい、わかっています。そして今日ここで首を縦に振らなくても、これが第一手にすぎなくて、このまま引き下がる気はないことも。だからこそ、今日は遠回しな言い方はやめて、はっきりさせに来ました。岸元の件については、津雲家がどう足を引っ張ろうと、私は一切引くつもりはありません」知枝は三郎の目から視線を外さない。大きな瞳には、一歩も退く気のない固い意思が宿っていた。「お前ひとりでか?」三郎は手にした杖をぎゅっと握りしめ、声を荒げる。「俺はお前のためを思って言ってるんだ。津雲家に楯突いたところで、お前の得になることなんか一つもない」知枝は赤い唇の端だけをわずかに上げたが、その笑みに目元はまったくついてこなかった。「もし交渉がしたいだけなら、とっくに証拠を持ってここに来ています。わざわざ手間をかけて健司を中に送る必要なんてありませんから」「お前ってやつは……!」三郎は息を荒くしながら続ける。「お前はもっと賢い子だと思ってたが、とんだ思い違いだったな。仮に岸元の家族の無念を晴らせたところで、あの人たちが生き返るわけじゃないだろう?生きている人間は前を向いて生きるしかないんだ。お前にはお前の人生がある。自分の手で夫を刑務所送りにした女だなんて噂が立って、いいことがあると思うか?」「健司は捕まります。でも、私の夫としてじゃありません」知枝はいったん言葉を切り、さらにきっぱりと言い添えた。「できるだけ早く、離婚します」知枝はすでに面会の申請を出しており、三日後には健司と直接顔を合わせる予定だった。今回は、健司も離婚届にサインせざるを得ないだろう。なにしろ、あの人には蛍とのあいだに立派な息子がいて、自分の将来を潰した妻が目の前にいる。そこまでわかりやすい状況なら、どちらを選ぶべきかくらい、いくら健司でも判断できるはずだ。そこまで考えたところで、知枝はふっと視線を落とす。「……今日がおじいさまとお呼びする最後です。言うべきことは全部申し上げましたので
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第33話

知枝が無意識に視線をそらしたのを見て、安雄はそれ以上は突っ込まず、「で、どこまで行く?」とだけ聞いた。 「間宮の家まで。お願いね、おじさん」 知枝は、海斗から届いた責め立てるメッセージが頭から離れず、一度ちゃんと顔を合わせて話を聞かなきゃと思っていた。 「わかった」 安雄が横を向いて運転手の葉山茂夫(はやま しげお)に行き先を告げると、ほどなくしてマイバッハは津雲家の本邸を後にした。 道中、安雄はずっと書類に目を通していて、車内には紙をめくる微かな音だけが響いていた。 一方の知枝は、視線を膝の上に落としたまま、息をひそめるように黙って座っていた。 視界の端を、スラックスに隠れた長い脚のラインがかすめ、そのたびに胸の奥に小さな悔しさがにじむ。 あの事故さえなければ、安雄の実力があれば、鉄舟重工は今とは比べものにならないほど大きくなっていたはずだ。 今は車椅子の生活で、どれだけ成果を上げてどれだけ高いところまで登りつめても、世間は結局「惜しいけど、所詮は車椅子の奴だ」と一言で片づけてしまうのだろう。 そんな目を全部正面から受け止めて平然としていられるなんて、どれだけ強い心をしているんだろうと、知枝には想像もつかなかった。 気づけば、胸の中には尊敬の念しか残っていない。 「着いたよ」 安雄の一言が、遠くへ飛んでいた知枝の意識を現実に引き戻す。 「うん、ありがとう、おじさん」 知枝はそう礼を言うと、ドアを開けて車を降りた。 知枝が間宮家の別荘の中へ消えていくのを見届けても、安雄はしばらく視線をそこから外そうとしなかった。 我慢しきれなくなったように、茂夫が「安雄様、車を出しましょうか?」と声をかける。 「ああ、出してくれ」 そう言ってから、安雄はスマホを取り出し、三十分ほど前に昌成から届いていたメッセージに目を落とした。 【サプライズがあるって聞いてたんだけど?いつまで待たせるつもり?】明日の歓迎会には、その子を連れてきなさい。うちのプロジェクトチームは誰でも入れるわけじゃない。君の紹介でも、最終判断は俺だ】 安雄は少し考えてから、「いいよ」とだけ返した。 すると、すぐに新しい通知が目に飛び込んできた。 【間宮グループ社内ポータル:沢
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第34話

蛍はおずおずと口を開いた。「私をクビにするのはまだいいとしても、間宮グループにかかる影響が……」「黙って!」知枝は思わず怒鳴りつけ、自分でも感情が抑えきれなくなっているのがわかった。誰に背を向けられても、まだ耐えられる。けれど、海斗だけは別だ。この世界で、自分に血のつながった家族は、もう海斗しかいない。その海斗に裏切られるなんて、どうしても受け入れられなかった。「父さん、答えて。沢原をクビにしたくないって、本当なの?」声はかすれ、言葉を絞り出すように問いただす。「……ああ」海斗は、ほとんど反射的にそう答えた。「どうして?」知枝はあきらめきれずに問いを重ね、悔しさをこらえるように両手を固く握りしめた。蛍の前でだけは、涙を見せたくなかった。「一ヶ月前にはもう書類を作ってある。間宮グループは蛍に任せるつもりで、今日その社内告知も出した」その一言は、思いもよらない衝撃となって、知枝の胸に深く突き刺さった。一瞬、頭の中が真っ白になり、「い、今なんて……?」とつかえながら聞き返した。「もう全部段取りは済んでた。お前さえあんなことをしなければ――」「父さん!」知枝はとうとう堪えきれず、泣き声まじりの震える声で叫んだ。「沢原が間宮グループを継ぐなんて……どうしてよ! そんなのおかしいでしょ!」昨夜の配信で蛍の本性を思い知って、海斗も目を覚ましてくれたはずだと信じていたのに。ところが実際には、海斗は蛍をクビにするどころか、間宮グループそのものを丸ごと任せようとしていた。人の家庭に割り込んで、色で取り入ってのし上がった女が、会社のトップの椅子に座るなんて、どう考えてもおかしい。納得のいかなさと怒りばかりが膨らみ、冷静さはどこかへ吹き飛び、頭はほとんど回っていなかった。知枝は、並んで立つ海斗と蛍を見比べる。喉元を見えない手でつかまれたような嫌な予感が胸をよぎり、考えるより先に口が動いた。「まさか……ただ女が欲しかっただけなんて言わないよね?」「この馬鹿娘が!」海斗は逆上して手を振り上げ、そのまま知枝の頬を平手で打ちつけた。知枝は避けもせず、その一撃をまともに受けた。口の中にじわっと血の味が広がり、胸の奥までひびが入ったように痛んだ。これが、自分の父親だ。物心つく前からずっと、誰
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第35話

知枝はその瞬間、父の本当の顔を思い知らされた。ようやくその仮面をかなぐり捨てて、汚れた本性をあらわにしたのだ。これで今までのことが、全て一本の線で繫がった。蛍がわざわざ健司をけしかけて岸元家を叩き潰し、あの家族の人生をめちゃくちゃにしたのも、全部は堂々と海斗のそばに戻るため。しかも、その一件は、海斗が黙ってうなずいたうえで進められた可能性が高い。そこまで考えたところで、背筋が凍りつき、これ以上は想像したくなくなる。いつもはぬくもりのあるはずの間宮家が、一瞬で冷たい底なし沼に変わったように感じられ、海斗の顔つきまでもが少しずつ歪んでいく……知枝の頭の中は真っ白になり、絶望に追い立てられるみたいに、その場から駆け出した。「知枝!待ちなさい!」背後から海斗の怒鳴り声が追いかけてくるが、知枝は振り返りもしない。ただ、この悪い夢みたいなところから一刻も早く逃げ出したい、そのことだけを考えていた。信じたくもなければ、向き合う勇気もない。逃げ出す以外の選択肢なんて、今の彼女には見えない。間宮家の別荘の門を飛び出しても、陽射しが肌をなでるだけで、周囲の空気は相変わらず骨の髄まで冷たく感じられる。世界そのものが、見知らぬ景色にすり替わってしまったみたいだ。何もかも嘘だったのか。本当なんて、いったいどこにあるんだろう。魂の抜けたようにふらふらと歩き出し、その場に停まったままのマイバッハの存在にも、まるで気づかない。「知枝様!」肩をぐっとつかまれ、知枝は反射的に振り払おうとしてから、相手が安雄の運転手だと気づき、ようやく少しだけ理性が戻ってくる。「どうしてまだここにいるの?」「安雄様もいらっしゃいます」茂夫は招くように手を差し出し、「どうぞ、お乗りくださいませ」と促した。自分でも理由が分からないまま、知枝はもう一度、安雄の車へと乗り込んだ。安雄は何一つ問いたださず、茂夫に間宮家の別荘から離れるよう静かに指示するだけだった。……一方その頃、蛍は海斗の腕にそっとすがりつき、小さな声でささやいた。「お父さん、お姉ちゃんだって気持ちを整理するには時間がいるんだよ。あまり追い詰めないであげて」「この二年間、ずっと打ち明けるタイミングを探していたんだ。本当のことを話したいと思っていたのに……」海斗は首を振り、
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第36話

マイバッハは滑るように道路を走り、窓の外にはにぎやかな街並みが流れていく。陽射しはちょうど心地いい。けれど、知枝だけは濃い霧の中に取り残されたみたいに、うつむいたまま一言も発さない。安雄は隣で iPad を手に資料に目を落としているが、熱心そうに見えてページはしばらく一枚もめくられていない。蛍が間宮グループの新社長就任の通知を目にした途端、知枝は一瞬の迷いもなく茂夫に車を引き返させ、間宮家の門前へと向かわせた。ほどなくして、彼女は姿を現した。知枝は魂を落としてしまった人みたいに、ふらつきながらも驚くほどの速さでマイバッハの脇を素通りしていった。安雄が茂夫に「車に乗せろ」と指示すると、彼女は抵抗もせず素直についてきて、無言のまま後部座席に腰を下ろした。そうしているうちに、マイバッハは市内を何度もぐるぐると回っていた。そのとき、iPad の画面に秘書からのメッセージがポンと浮かび上がる。【社長、本日の会議はどうされますか?】安雄は視線の端で隣の知枝をうかがい、少しだけ考えてから、【今日は中止で】と返信した。黙って座っているだけのはずなのに、その静けさのほうが、泣き叫ばれるよりよほど不安にさせる。たった半月のあいだに、知枝は二度も裏切られた。恋人の浮気より、血のつながった家族に背を向けられるほうが、何倍も飲み込みづらい。かつて自分も家族に捨てられた身だからこそ、今になって同じ痛みが分かるのかもしれない。だからここまで気にしてしまうのだ。その感情を、安雄は素直に「心配だ」と認め、知枝へ向ける視線もいつの間にかずいぶんと柔らかくなっていた。だが、その変化に知枝はまるで気づいていない。海斗の不倫が事実だと突きつけられたことは、彼女の心を押し潰す最後の一押しになった。津雲家との一件さえ片づければ、あとは晴れ間がのぞく――そう信じていたのに、実際に待っていたのは終わりの見えない長雨だった。世の中はこんなに広いのに、自分の居場所だけがどこにも見当たらない。ついさっきまで、どうすれば間宮家を守れるか、どうやって間宮グループに入り込むか――そればかり考えていたというのに。気がつけば、いちばん滑稽だったのは自分のほうだった。今となっては、海斗にまつわるどんな思い出も刃物に変わり、心臓を何度も何度もえぐってくる。
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第37話

「美南……私、もう帰る家がなくなっちゃった……」そう言い終えるなり、知枝はスマホを握りしめたまま、声にならないほど泣き崩れた。どれだけ冷静を装っていても、女の泣き崩れる声を目の前で聞かされれば、安雄とて少なからずうろたえる。しばらくためらった末に、ポケットからハンカチを取り出し、そっと知枝へ差し出した。今の彼女に、どんな言葉も薄っぺらく響くだけだ。せめて気が済むまで、思い切り泣かせてやるしかない。通話の向こうでは美南が相当慌てているのが分かる。スピーカーにしていないのに、声だけはやけにはっきり届いてくる。「知枝、泣かないでってば。今どこにいるの?迎えに行くから!帰る家がないなんて誰が言ったのよ。うちがあなたの家でしょ。これからは、私たち二人でやっていけばいいじゃない」美南には、受話器の向こうから聞こえる泣き声しか手がかりがない。いても立ってもいられず、鞄をつかんで玄関へ向かいながら、何度も知枝の名前を呼んだ。「もしもし」突然、低い男の声が割り込んできた。「今どこにいるか教えていただけますか。知枝さんを、そちらまでお送りします」美南は思わず固まり、「ちょっと……あなた誰?」と聞き返した。「津雲安雄です」その名前を聞いて、美南は耳を疑った。えっ、あの「おじさん」じゃないの?どうして知枝と一緒にいるの……受話器越しに聞こえる泣き声に背中を押され、美南は余計なことを考える暇もなく、自分の家の住所を早口で告げた。安雄はその住所を茂夫に伝えてから、スマホを知枝の手に戻したが、彼女はすっかり力が抜けていて、端末を支えることさえままならない。今にも滑り落ちそうになったスマホを、とっさに安雄がつかむ。その拍子に、知枝の手ごと自分の掌の中に収めてしまった。色白でほっそりした手は、指先が少し冷たく、かすかに震えている。力を込めれば壊れてしまいそうな、ガラス細工みたいなか弱さだった。安雄は一瞬だけ息をのんでから、何事もなかったようにそっと手を離し、そのままスマホだけを取り上げて彼女の横に置いた。当の知枝は泣くことに精一杯で、さっきのことにもまるで気づいていない。安雄もまた、最初から何もなかったかのように振る舞う。それから三十分ほどして、マイバッハはマンションの前にたどり着いた。知枝もようやく涙が引き、そこで初め
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第38話

そこへ、昭が車から降りてきて、「師匠、兄貴がお前のこと聞いて……」と言いかける。「……ごほん」スーツ姿の男が軽く咳払いをして、昭の言葉を遮った。それから知枝のほうへ視線を向け、「大丈夫か」と気遣わしげに問いかける。知枝はかすかに笑みを作り、「平気だよ」と答えた。ネクタイもろくにゆるめていないその格好からして、会社からそのまま飛んできたのだろう。七瀬蓮(ななせ れん)は昭の実の兄であり、の現社長でもある。知枝は昭とは前から顔なじみで、ほとんど本当のきょうだいみたいに気安く付き合ってきた。その流れで、蓮のことも自分の兄のように頼りにしている。そんな自分が今やこれだけ人生をぐちゃぐちゃにして、二人にまで心配をかけていると思うと、申し訳なさが込み上げてくる。「わざわざ様子を見に来なくてよかったのに。もういい大人なんだし、離婚したくらいでどうこうなるほどヤワじゃないよ」「俺が送ったメッセージ、返事がなかった」その一言で、知枝はようやく、朝方ざっと流し見した通知の一覧の中に、蓮からのメッセージも混じっていたことを思い出した。あのときは海斗からの連絡で頭がいっぱいで、ほかが誰から来た文面なのかなんて、気にする余裕もなかった。「ごめん、朝はいろいろ立て込んでて」と、知枝は気まずそうに言い訳する。「俺の前でまで無理しなくていい」蓮は眉間にしわを寄せ、真剣な眼差しで続けた。「知枝、津雲健司があんなふざけた真似をしたのに、どうして一人で抱え込んでたんだ。もっと早く俺に言えばよかったのに。最初から分かってたら、いくらでも力になれたのに」「こんなの、自分で片づけられるよ。わざわざ巻き込みたくないの」さっき思い切り泣いたせいで、知枝の体はどっと疲れが出ている。「蓮さん、ごめんね。今日はもう帰ってゆっくり休みたいの。ちゃんともてなす余裕もないし……また今度ゆっくり会おう?」そう言って軽く会釈すると、高峯美南の手を取ってマンションの中へと消えていった。蓮は口を開きかけたものの、結局その背中を呼び止める言葉は出てこなかった。昭が兄の肩に腕を回し、「なあ兄貴、会議ドタキャンしてまで飛んできて、そのひと言だけって、割に合わなくない?」と遠慮なく毒づく。「さっきまで泣いてたんだ」蓮は去っていく知枝の背中を見送りなが
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第39話

外では、海斗は財界の中でも「数少ない清い存在」だと持ち上げられている。だが、知枝の話を聞き終えた美南には、その「数少ない清い存在」が、どこからどう見ても清いどころか真っ黒だとはっきり分かった。「男なんて棺に入る瞬間まで信用ならないって言うけどさ、もう心の底から納得したわ。ロクな奴、一人もいない!」美南は歯を食いしばり、ソファをどんっと拳で叩きつけた。ひとしきり泣いたあとで、知枝にはただ疲れだけが残り、クッションを抱きしめたままソファに沈み込んで、指一本動かす力もない。この半月ほど、離婚の段取りや蛍への対抗策ばかり考えてきて、心も体もすっかり使い切ってしまった。そこへきて海斗の件が追い打ちをかけ、激しい怒りと感情の崩壊を通り過ぎた今は、燃え尽きた灰だけがぽつんと残っているようだ。頭はもう回らず、体を動かそうという気力さえ湧いてこない。美南は横を向いた拍子にその様子を目にして、胸がさらに締めつけられ、「知枝……」と名前を呼んだ。「ちょっと、休ませて……」知枝はクッションを抱き寄せた腕に力を込め、ゆっくりとまぶたを閉じる。一瞬だけ、自分は果てのない海でただ一人、流木にしがみついて荒波に揺られているような錯覚に襲われた。本当に、今の自分には自分以外誰もいないのだと痛感する。……その夜、知枝は一睡もできないままベッドに横たわり、窓の外の空が少しずつ白んでいくのをぼんやりと眺めていた。真実を初めて突きつけられたあの夜と同じように、またしても眠れぬまま新しい一日を迎えようとしている。ただ――あのときと違うのは、今回はまだ、その夜を乗り越えられたと言える段階にまで気持ちが追いついていないことだ。健司と違って、海斗は紛れもなく血のつながった家族であり、三十年ものあいだ敬ってきた父親だ。憎もうと決めたからといって、すぐに復讐の段取りを立てられるような他人ではない。この現実をどうやって飲み込めばいいのかも分からなければ、この先自分がどこへ向かうべきなのかも見えない。そのせいで、一日中ぼんやりと靄の中をさまよっているような状態が続いていた。美南はそんな知枝が心配で、わざわざ仕事を休んで家に残り、あれこれ工夫して食事を作っては勧めた。けれど知枝にはどうしても食欲が湧かず、箸をほんの少し動かしただけでテーブルに
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第40話

知枝は、ごく薄くメイクをして、徹夜明けの疲れをなんとか隠した。そのあと、安雄の後ろを一歩遅れてついて行き、二人並んでエレベーターに乗り込む。「七瀬蓮と知り合いなのか」不意に安雄の声が落ちてきた。知枝は一瞬きょとんとしてから、昨日のことを全部見られていたのだと気づく。「……うん」そう小さく返事をして、視線を落としながら安雄をうかがったが、その先の言葉は続かない。本当に、それだけ聞いて終わり?そのあとは、二人とも黙ったままだった。向かう先は、都内でも名の知れた高級料亭で、政財界の重鎮ばかりを相手にする店だ。客単価も桁違いで、いわば日常の接待でもこれ以上ないというクラス。母の幸子がここの料理を気に入っていたせいで、知枝もかつてはよく通っていた。だが、幸子が亡くなってからは、思い出が痛すぎて、一度も足を運んでいない。「ここの蟹しんじょ、すごくおいしいんだよ」思わず口をついて出たあとで、知枝はハッとする。安雄がここに通す客の格を考えれば、こんな料理をすすめるような話でもない。「おじさんも、機会があったら一度食べてみて」そう言い足しながらも、気恥ずかしさは消えない。たぶん昨日、車の中であれだけ泣きじゃくったせいだろう。あのときの羞恥が尾を引いていて、安雄の前に立つとどうにも落ち着かない。ちょうどそのとき店のスタッフが出迎えに現れ、二人きりの気まずい空気がふっと途切れた。案内に従って、八階のVIP個室フロアへと向かう。エレベーターを降りると同時に、安雄はふと振り返り、スタッフに「蟹しんじょを一品、追加で」と告げた。「かしこまりました、津雲様」とスタッフが恭しく頭を下げる。知枝は一瞬目を丸くし、車椅子を滑らせていく安雄の背中を見送った。健司は安雄のことを毛嫌いしていて、「あいつは人情味の欠片もない、冷たい男だ」とよくこぼしていた。けれど、この数日一緒に過ごしてみて知れたのは、安雄は口数こそ少ないが気配りが行き届いていて、決して踏み込みすぎることもない、絶妙な距離を保ってくれる人だということ。圧のある雰囲気をまとっているのに、不思議と息苦しさはなく、ときどき年上の人にそっと庇われているような安心感すら覚える。「どうした、来ないのか」安雄に促すように声をかけられ、知枝は我に返って歩を
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