All Chapters of 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

「ここのエアコン、効きすぎてないか?」と昌成が気遣うように尋ねた。 知枝は首を振り、冗談めかして「きっと誰かが陰で私の悪口でも言ってるんですよ」と笑ってみせた。 そのままふたりでホールへ戻ると、壁に掛かったテレビがちょうど、間宮グループが今週金曜に新エネルギー車ブランドを立ち上げると伝えていた。 本来なら記者発表会で前面に立つのは蛍のはずだったが、今の騒ぎを避けるために、急きょ車両デザインの主任技師に差し替えられたらしい。 昌成は、知枝の身に起きたことをおおよそ聞いているだけに、画面を見つめる目に苛立ちが滲んだ。 「たかが新エネルギー車ひとつだろうが」 鼻でふんと笑い、「ここ数年、新エネルギー車メーカーなんて国内で腐るほど立ち上がったが、まともに残ってるところなんてほぼ皆無だろ。決算だって見られたもんじゃない」と吐き捨てる。 「間宮グループに野心はあっても、肝心のトップが人を見る目ゼロじゃ話にならん。才能もない人間を宝物みたいに扱ってりゃ、沈むのは当然だ」と続けた。 「そうだ」 何か思い出したように顔を上げ、「この前、ある国有の自動車メーカーから共同開発の話が来ててな。興味があるなら、そのプロジェクト、お前に任せてみてもいい」と言った。 「人型機械骨格の方は、まだまだ時間がかかる。いくつか別の案件も回して手を慣らした方がいいし、新エネルギー車のバッテリーの問題は、軽量化した駆動ユニットと本質的には同じだ。 ついでに、国内の新エネルギー車づくりの現場の空気も肌で感じておけ」と、どこか感慨深げに続ける。「世界中がこれからそっちの方向に進んでいくんだ」 「はい」と知枝は素直にうなずき、「先生の言うとおりにします」と答えた。 きょうの午後はずっとラボにこもっていて、それがここ何年かの中でもいちばん肩の力を抜いていられた時間だった。 機械と向き合っているときが一番性に合っていると分かってはいても、今はまだ研究だけに全てを注ぎ込める状況ではないことも、痛いほど理解している。 岸元家の件は、まだ片付いていない。 蛍は彼女の居場所をそのまま乗っ取るように表舞台のど真ん中に座り、今や一番の注目を浴びている。 ひとつひとつ、まだ清算できていないものばかりで、落ち着いていられるはずがなかっ
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第52話

その晩、知枝は不動産会社に連絡を入れ、翌朝一番に実家の別荘で写真を撮ってもらう約束をし、売りに出す段取りをつけた。約束の時間どおり、知枝と担当者は別荘の玄関先で落ち合った。このあいだの配信のおかげで、担当者はひと目で知枝だと気づいた。担当者は目を輝かせて知枝の手をぎゅっと握りしめた。「本当に間宮さんなんですね!昨日お電話で声を聞いたときから、どこかで聞いたことあるなって思ってたんです。まさかご本人だなんて!」「あの夜の配信、最初から最後まで全部見ましたよ。もうすっかりファンになっちゃって。すごく勇気をもらって、翌日には夫に離婚したいって言ったんです!」知枝は「……?」と固まった。担当者は気まずそうに笑い、「びっくりさせちゃいましたよね。でもあなたのせいじゃないんです。うちの夫が暴力を振るう人で……子どものためにずっと我慢してきて、なかなか踏ん切りがつかなかったんですよ」と言った。「配信を見ながら、女だってあそこまで勇敢になっていいんだって、ずっと思ってて……」そう話しているうちに、担当者の目にうっすら涙がにじんだ。慌てて手の甲でぬぐい、ぱっと表情を明るくして知枝に笑いかける。「あ、話がすっかりそれちゃいましたね。今日はちゃんと仕事で来てますから!」目元のメイクは涙で少しよれて、ファンデーションの下に隠れていた薄いあざがかすかに浮かび上がった。知枝は細い眉をわずかに寄せ、何と言えばいいのか分からず言葉を失った。「とりあえず、こっちへどうぞ」「はーい!」担当者は楽しそうに返事をし、知枝のあとについて別荘の中へ入っていった。リビングのソファに腰を下ろしていた海斗は、ドアの開く音を聞くと、むっとした顔でそちらを振り向き、「帰ってくるなら、俺のメッセージくらい返しておけ」と冷たく言い放った。そう言い終えると、その視線は見慣れない女のほうへと移る。海斗はさらに眉間にしわを寄せ、「何でわざわざよそ者なんか連れて来たんだ」と声を荒らげた。事情が飲み込めず戸惑いながらも、担当者は素直に頭を下げた。「あ、こんにちは。不動産会社の者です。間宮さんからご依頼をいただいて、物件の写真を撮りに伺いました」それを聞くなり、海斗は勢いよく立ち上がり、「何を撮るってんだ。さっさと出て行け!」と怒鳴った。担当者はきょとんとした
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第53話

記憶の中と変わらないはずの顔なのに、今見ると憎らしさしか感じない。 知枝は、津雲家の人間の気持ちにさえ少し共感してしまう。身内の醜聞を外にさらされるのは、たしかにこれ以上ないほどみっともない。 世間では「良き夫」「良き父親」として知られているこの男の正体は、実のところ、実家にしがみついたまま成り上がった、恥知らずな男にすぎない。 しかも、自分の身体にも、そんな男の血が流れている。そう思うだけで吐き気がした。 知枝はこみ上げる感情を抑えきれず、握りしめた拳の中で、爪が掌に深く食い込んだ。 「一つだけ聞くわ。蛍が健司を焚きつけて岸元家に矛先を向けさせた件、知ってたの?」 「……」 海斗は一瞬黙り込んだ。その刹那に走ったうろたえは、知枝の目にははっきりと映った。 「そんな昔の話なんか、いちいち持ち出すな」 海斗は険しい顔になり、「今一番大事なのは、お前が状況をちゃんと分かることだ」と言い放つ。「健司と離婚して、お前はどこへ行くつもりだ?津雲家を敵に回したら、帝都になんかもういられなくなるぞ!」 「どこへ行こうと、あんたが口を挟むことじゃない」 知枝は海斗にとうに見切りをつけていたが、今のやり取りで、心のどこかに残っていたわずかな期待さえ跡形もなく消えた。胸の内側がすっかり空洞になったようで、瞳の光までじわじわと色を失っていく。 分かっている。岸元家の件が本当に海斗の黙認だったとしても、自分にはどうすることもできない。 法律は、見て見ぬふりをしただけの人間に罪名なんて与えてはくれないのだから。 今の自分にできるのは、間宮家と一刻も早くきっぱり縁を切ることだけだ。 「今日は、お母さんのものを持って行くために来たの。 それから、お母さんが遺言で残した間宮グループの創業時の持ち株10%は、私のものになってる。早めに株の名義変更の手続きに協力してちょうだい」 「創業時の株って何のこと?」蛍の顔色がさっと変わる。「まさか、このタイミングで間宮グループに入り込むつもり?そんなことしたら、津雲家の矛先が間宮グループに向くだけよ」 「駄目だ!」 そこでようやく状況をのみ込んだのか、海斗は鋭い声で拒絶した。 知枝はもうこれ以上言い合う気にもなれず、「これは、あんたたちが口を
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第54話

海斗はぼんやりと知枝を見つめ、その一瞬、昔、自分とやり合っていた妻の姿が重なった。 あのときも、妻は今の知枝と同じ場所に立っていた。 「海斗、知枝のためなら、私はあんたに合わせてこの茶番を続けてもいい」 でも、あの二人のガキは一人たりとも家に連れて来ないで。 忘れないで。今の地位は岸元家のおかげよ。私がいなかったら、あんたなんて何者でもなかった」 「……」 知枝の目元は母親に驚くほどよく似ていて、その軽蔑と嫌悪の色までそっくりだった。 海斗は胸の奥を刺されたような気がして、顔をさらに曇らせた。「お前の母さんの物は、全部俺の物だ。弁償だの何だのって話じゃない。そんなに言うなら、健司を訴えたみたいに実の父親も訴えてみろよ。 知枝、お前は俺の娘だ。忘れるなよ。お前の姓は間宮で、岸元なんかじゃない。それに、岸元の人間はもう誰も残ってないんだ。今さらあいつらのために意地を張ったところで、何の意味がある」 海斗はついに本音をむき出しにした。「もう浩一様とは話をつけてある。お前が津雲家に戻る気がないなら、間宮家にも置いてはおけん。 まだこうして穏やかに話してやってるうちに分かれ。今ならまだ、津雲家の若奥様としても、間宮家のお嬢様としても生きていける道が残ってるんだ……」 「……ふっ」 その冷たい笑いは、海斗の痛いところを踏みつけたも同然だった。 海斗はたちまち表情を険しくし、「知枝、分をわきまえろ!」と怒鳴った。 「来た甲斐はあったわ」 知枝は憎しみを宿した目で海斗を頭の先から足元までゆっくりとなめるように見て、低く吐き捨てた。「今日ようやく分かったよ。あんたが、どういう人間なのか——海斗さん」 その名前を、一語ずつ噛みしめるように絞り出しながら。 これから先、自分にはもう父も母もいない。 獣みたいな男を父親だなんて認めるくらいなら、孤児のほうがまだましだ。 知枝の目に宿った決意を見て、海斗は理由もなく胸騒ぎを覚えた。「お、お前……どういうつもりだ?」 だが、知枝はもはや海斗を見ようともせず、顔を蛍のほうへ向けた。その視線には容赦のない冷たさが宿っていた。 「その顔、大事にしときなさい。次に私の手のひらに飛び込んできたら、もっと強く打つから」 そう言
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第55話

知枝は箱を抱えたまま部屋に入ると、もう自分ひとりしかいない空間で張りつめていた感情が一気にほどけ、その場に力なく崩れ落ちた。 箱はボロボロで、中身は床一面に散らばっていた。 海斗と向き合うくらい、もう平気だと高をくくっていたのに、ふたを開けてみればこのざまだ。 「お母さん……」 知枝は砕けたブレスレットを両手で包み込み、母がそれをはめていた手の感触が脳裏によみがえる。ぼんやりしていると、そのやわらかくてあたたかな手が、また自分の頭にそっと触れた気がした。 身内を失うということは、終わりの見えない長雨みたいなものだ。今、その人を想う気持ちが土砂降りになって、一気に彼女をのみ込んでいく。 「お母さんに会いたいよ……」 涙が一気にあふれ出し、知枝はブレスレットをぎゅっと握りしめたまま、声にならない嗚咽を漏らし続けた。 胸が裂けるように泣きじゃくりながら、鋭い断面が掌を切り裂き、深く肉に食い込んでいることにも気づかない。やがて指のあいだから、じわじわと血がにじみ出てきた…… そばに落ちたままのスマホが激しく震え続け、画面には何度も「七瀬昭」の名前が浮かんでは消えた。 知枝はそちらに目をやろうともしなかった。 電話を五回続けてかけても、むなしい呼び出し音が鳴るばかりだった。 昭はどうしようもなくなって、気まずそうに頭をかいた。「もしかして師匠、今は休んでるのかもな。俺、あとでもう一回かけてみようか?」 「いい」蓮はスーツの上着を手に取り、「俺が探しに行く」 「兄貴……」 昭は蓮の腕をつかみ、おずおずと言った。「兄貴が師匠のこと心配してるのは分かるけどさ……今のあの状態で兄貴がそばに行ったら……」 「本気で俺を兄貴だと思ってるなら、余計な口出しはするな」 蓮はその手を振り払うと、振り返りもせずにオフィスを出ていった。 向かう途中、蓮は美南に連絡を取り、知枝が今どこにいるのかを聞き出した。 美南は深く考えもせず、昨夜、知枝が不動産屋を呼んで、今日は間宮家の別荘に行くと言っていたとだけ伝えた。 それを聞くなり、蓮はハンドルを切り返し、そのまま間宮家の別荘へ向かった。 着いたとき、ちょうど出かけようとしていた蛍と鉢合わせた。 蓮だと気づいた蛍は思わず顔を
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第56話

インターホンの音が鳴った。知枝ははっと目を覚ました。まだ意識はぼんやりしていて、泣き疲れてそのまま床に倒れ込んで眠ってしまったことだけをかろうじて覚えている。上体を起こした途端、頭の奥にきゅっとした痛みが走る。泣きすぎたせいだろう。知枝はこめかみを押さえながら玄関へ向かい、ドアを開けた瞬間、背の高い影が勢いよくぶつかってきた。相手がとっさに力を抜いてくれたおかげで、そのまま彼女の腕をつかみ、二人まとめて壁にどんとぶつかった。「知枝、大丈夫か?」蓮はどこか取り乱した様子で、知枝の体を頭のてっぺんから足元まで確かめた。知枝は首をかしげ、「蓮さん、どうしてここに?」と問い返す。蓮は一瞬言葉に詰まり、それから努めて落ち着いた声で続けた。「昭から、お前と連絡が取れないって聞いた。心配してたからさ。ちょうど近くで打ち合わせがあったから、様子を見に来たんだ。さっきから何度もチャイムを鳴らしても出てこないからさ。何かあったんじゃないかと思って、いっそドアを体当たりで開けようかってところだった。ぶつかって痛くなかったか?」蓮は知枝の腕をしっかりと握ったまま、なかなか手を離そうとしない。知枝はそのことに気づき、気まずそうに腕を引き抜いた。「ただ寝ちゃってただけ……」その次の瞬間には、今度は手首をつかまれる。蓮は血で汚れた彼女の掌をじっと見つめた。「……その怪我、間宮家でやられたのか?」知枝はわずかに目を見開く。「どうして、私が間宮家に行ってたって分かったの?」「ここに来る前に、高峯さんに聞いた。彼女が教えてくれた」そのとき、蓮の目の奥に一瞬、冷たい殺気のような光がよぎる。だが顔を上げて知枝を見たときには、そこにあるのは気遣いだけだった。「知枝、このところずっと、つらかったな」蛍がどうやって間宮グループの社長の座に収まったのかなんて、蓮にとってはどうでもいいことだ。彼にとっては、知枝を傷つける者は誰であれ、自分の敵になる――ただそれだけだった。だからこそ、わざわざその話題を持ち出す必要はない。これ以上、彼女の胸をえぐるだけだからだ。「これからお前が何をしようと、俺はずっとお前の味方でいる。だから、怖がるな」蓮は言葉を選ぶようにゆっくりとそう告げながら、無意識のうちに知枝の手首をきゅっと強く握りしめていた。
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第57話

「あの人は、何も怖くないの」知枝は美南の視線を追って箱を見やり、その目の奥はすっかり荒れ果てたように虚ろだった。「父さんはもうとっくに表舞台から退いていて、今の間宮グループを動かしているのは沢原よ。こんな時期に『実は妻帯者なのに不倫してました』なんて暴いたところで、父さんにとっては大した痛手にならない。それどころか、沢原があの椅子に堂々と座るための、格好の口実にされるだけ。それに、私はついこの前、生配信で夫の浮気を暴露したばかりでしょ。ここにさらに『父親にも隠し子がいました』なんて重ねて騒いだら、世間から見れば私はただの可哀想な女よ。感情に任せて喚き散らす、みっともない女にしか映らない。あの人たちがわざわざこんなふうに私を追い詰めてくるのも……」知枝は苦く口元をゆがめ、「きっと、私のことを世間から『頭のおかしい女』だと思わせたいだけなんだよ」とつぶやいた。「それは……」弁が立つことで知られる弁護士の美南でさえ、今ばかりは海斗のことをどう言い表せばいいのか、言葉が出てこなかった。美南はそっと知枝を抱きしめ、胸が締めつけられる思いで、静かにささやいた。「知枝、私がいるから」……夕方。蓮は秘書がまとめた間宮グループの資料を手に別荘へ戻り、玄関に入って初めて、昭も来ていることに気づいた。昭は物音に気づくと、慌ててスマホゲームを中断して顔を上げ、「兄貴、やっと帰ってきたな。師匠には会えた?」と尋ねた。「ああ」蓮は短くうなずき、ジャケットをメイドに預けると、室内履きに履き替えながらそのまま階段へ向かった。昭はそのあとをぴったりとついて行き、一緒に書斎へ入っていった。「様子はどうだった?」蓮は答えず、代わりに追い払うように言った。「もう遅い。お前はそろそろ七瀬家に帰れ」昭は眉をひそめ、「兄貴、この何年か、師匠には俺も散々世話になってきたんだ。師匠のことは俺のことでもある。俺だって何か力になりたい」と食い下がる。「お前のその頭で、どんな名案が出てくるっていうんだ?」蓮は顔を上げ、その目に冷たい光を宿しながら、「……俺のことを見張りたいだけなんだろ」と低く言った。「……」昭は言葉を失い、口をつぐんだ。書斎には、机の上の暖かな色のスタンドライトだけが灯っている。光の当たらない側の蓮の横顔は影に沈
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第58話

翌朝、知枝は美南と並んで朝食をとりながら、株式譲渡に関する細かい手続きを最後にもう一度確認した。一日でも早く手続きを済ませて株を売り、現金に替えてしまわないことには、落ち着いていられない。書類をまとめながら、美南が「一緒に来ないの?」と顔を上げた。「行かない」知枝は首を振った。これ以上毎日蛍の顔を見るなんて、考えただけでうんざりだ。「今日は昭のレースがあるの。昨日、よかったら見に来てくれってメッセージが来てたし」今日は自治体主導の新エネルギー車レースで、全国のメーカーが最新で一番尖った技術を持ち込んでくる。昌成が話していた国営の自動車メーカーも、その主催側のひとつだ。呼ばれたから顔を出すだけじゃない。ちゃんと勉強しに行く、大事な機会でもある。知枝は手を伸ばして美南の肩を軽く叩き、「今日は頼りにしてるね」と笑った。「任せて」美南は口元をほころばせ、「あんたはレースだけ見てきなよ。株の名義変更は私がきっちり通しとくから、あんたは株を売ってお金が入るのを待ってればいい」と言った。「うん、ありがと、美南」そのあと、美南が先に家を出て行き、知枝は部屋に戻って着替えを選んだ。テーブルの上のアクセサリーケースを手に取り、会場へ向かう前に修理してくれる店を探そうと思った。彼女にとってあのブレスレットの価値は、金額じゃなくて、そこに詰まった記憶そのものだ。昨夜、砕けた欠片を見つめながら散々考えた末に、結局は直して身につけることに決めた。このブレスレットを腕にはめたまま、自分の手で間宮グループを叩き潰す。その結末を、母にしっかり見届けてもらうために。母がそばにいてくれると思えば、もう自分ひとりで戦っているわけじゃない。……間宮グループ。株式譲渡の手続きのために美南がスタッフを連れて訪れると、蛍が自ら出迎えた。社長室は広くて明るく、蛍が就任してから手を入れたらしく、ガラスケースにはここ数年の賞状やトロフィーがぎっしりと並んでいる。美南はちらりと一瞥し、心の中で「ないものほど並べ立てたがるのよね」と毒づく。蛍はゆったりと向かいのソファに腰を下ろし、長い脚を組んだ。美南が口を開こうとしたところで、蛍がスッと二枚の招待状を差し出してきた。「間宮さん、セキメイの車のデザインも描いてくださったそ
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第59話

そのあいだに、秘書が一通の封書を持ってきた。蛍は何気なく封を切り、中から裁判所からの呼出状を取り出したが、訴えの内容を見た瞬間、顔色がさっと変わった。なんと知枝が、夫が婚姻中に不貞相手へ渡した金品の返還を求めて、裁判を起こしていたのだ。そのときになってようやく、美南のあの一言の意味に思い至る。蛍の怒りを含んだ視線があまりにも露骨だったので、美南はそれに気づき、顔を上げた拍子に彼女の手にある呼出状を目にした。なんていいタイミング。美南は得意げに眉を跳ね上げ、わざと口パクで「さっさと返しなさいよ、不倫女」と挑発してみせた。蛍は怒りで胸が煮えくり返り、その場で呼出状をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。冗談じゃない、返してたまるか!あれは全部、健司が自分にくれたものだ。どうして知枝なんかのものにならなきゃいけないのよ。……株の名義変更の手続きが終わる頃には、蛍の姿はとっくになく、客を見送る役目だけが秘書に押しつけられていた。間宮グループを出るなり、美南は待ちきれないとばかりに知枝へ電話をかけ、さっきの出来事を半ば笑い話のように聞かせた。その頃知枝はサーキットにいて、歓声が美南の声をあっさり飲み込んでしまい、細かいところまではよく聞き取れなかったが、とりあえず呼出状が蛍の手元に届いたことだけは分かった。そう遠くないうちに、蛍が何かしら仕掛けてくるだろうと踏んでいる。近いうちにまとまったお金が入ってくると思うと、知枝の気分もぐっと軽くなった。このところずっと美南の家に世話になりっぱなしでいるのも、さすがに気が引ける。いつまでも居座るわけにはいかない。お金が入ったら、岸元家の本家を多少割高でも買い戻そう――そう決めていた。あの頃、岸元精工が倒れて岸元家も行き詰まり、本家の屋敷は競売にかけられた。競売の手続きが進んでいるあいだに、岸元家の人間には次々と不幸が降りかかり、誰も屋敷の行き先まで気を配る余裕などなかった。幸子の葬儀をすべて終えたあとで、本家が正体不明の誰かに買われたと人づてに聞いたが、その頃の知枝は、あの家を思い出すこと自体がつらくて、深く考えようともしなかった。けれど今は、岸元家で過ごした日々が日に日に恋しくなっていて、叶うことなら、もう一度あの家で暮らしたいとさえ思う。そう心
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第60話

懇親会は北郊のサーキット近くにあるリゾートホテルで開かれ、一階のバンケットホールは、そのまま屋外プールへとつながっていた。ドライバーたちは皆若く、形だけの挨拶回りほど嫌いなものはない。三、四人でつるんでは服を着替え、さっさとプールに飛び込んでいく。スポンサーとの話やビジネスの交渉は、自然とチームの責任者たちの役目だ。日が暮れるにつれて、ホールの中はドレスと香水の匂いで華やぎ、外では笑い声と水しぶきが絶えない。全体がほどよく浮かれた、若さのある夜だった。昭はチームメイトに腕を引っぱられながらも、知枝も誘おうと振り返っていた。知枝はプールに一瞥をくれ、苦笑して首を振った。もう子どもじみた学生ではない。場の空気も、自分の立場も理解している。昭はそれ以上は強要せず、「じゃあ、あとで迎えに来る」とだけ言い残した。昌成がジュースのグラスを手に知枝のそばへ来て、彼女の視線の先――遠くへ駆けていく昭を目で追い、うれしそうに目を丸くした。「なるほど、君の言ってた友達って、七瀬くんのことだったんだね」「ええ、まあ、気が合うほうです」知枝はジュースを受け取り、少し考えたあと、自分にはそれなりにマシンいじりの経験があることを、そろそろ先生にも伝えておいたほうがいいかもしれないと思った。ちょうど口を開こうとしたとき、背後から作り物めいた甘い声が降ってきた。「間宮さん、こんなところで奇遇ね」昌成の誘いを受けたとき、ここで蛍と鉢合わせするなんて、知枝は少しも想像していなかった。今では、声を聞いただけで胸の奥がざらつく。ところが、それ以上に激しく反応したのは昌成だった。さっと身を翻して知枝をかばうように前に出ると、険しい顔で蛍をにらみつけ、「視界に入らないところまで消えてくれないか」と言い放った。蛍は昌成のことを知らない。頭の先からつま先まで一度値踏みするように眺めて、大体の察しをつけた。本の匂いがしそうな中年男。身につけているものに高級ブランドの気配は一つもなく、着ているブルーのシャツも襟元がすっかり色あせている。見るからに金も権力もなく、あるのは意地ばかり。どう頑張っても一生大金とは縁がなさそうなタイプだ。でも――今の知枝は津雲家からも間宮家からも離れ、肩書きという意味では何も残っていない。こういう男と一緒にいるほうが
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