All Chapters of 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

そして、その全部が彼女一人の痛みと屈辱の上に築かれている。ここまであからさまに計算づくなのに、目を覚まさないわけがない。安雄の視線を追って個室のほうを見やり、知枝は自嘲気味に口元をゆがめた。「最初におじさんと手を組んだのは、間宮家を守りたかったのと、自分のための逃げ道を一本残しておきたかったからだよ。でも、その逃げ道も潰された。なら、この取引はもうナシでいい」自分が健司への訴えを取り下げなければ、三郎は必ず間宮グループへの報復に出て、彼女に譲歩を迫ってくるだろう。さっきまではそれが怖くて頭を抱えていたのに、今となってはどうでもいい。失うものなんて、もう残っていない。二度と戻れない間宮家なら、いっそきれいさっぱり捨ててしまえばいい。三郎には間宮グループをどう扱おうが勝手にさせればいい。もはやその行く末に口を出すつもりはないし、むしろ中途半端に手加減されるほうが迷惑だとさえ思っていた。安雄はちらりと知枝を見やる。照明に照らされたその瞳の奥には、「一緒に沈むならそれでいい」とでも言いたげな鋭さが澄んでいて、そこには諦めの色など微塵もなかった。昨日津雲家に戻ったとき、三郎に書斎へ呼ばれ、知枝が置いていった iPad を渡されて「お前はどう見る」と意見を求められた。あのファイルの数々に目を通して、ようやく安雄は、知枝という人間の力量を本当の意味で知ったのだ。「津雲家には事業も後継ぎも十分にある。跡継ぎに困らないって……そう言い切ったのは、あなたのほうでしょう」安雄はそれ以上余計なことは言わず、あの事故のあとで耳にした言葉を、そのままそっくり返しただけだ。そのとき三郎がどんな気持ちになったのか、何を考えたのかまで、深く詮索しようとは思わない。昨夜から今に至るまで、安雄の頭の中にあるのはただ一つ――知枝を手放さない、ということだけだった。視線を個室の扉から外し、「とりあえず行こうか。みんな、君を待ちくたびれてる」と何気なく声をかける。個室は廊下のいちばん奥にあり、この店で一番広い部屋だった。ドアを開けた途端、賑やかな笑い声がどっと押し寄せてくる。「津雲さん、遅いじゃないですか。ずっと待ってたんですよ!」「先輩、遅いですよ。お腹すきました」「安雄、俺にサプライズがあるって言ってただろ?」眼鏡をかけた
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第42話

蛍は一瞬きょとんとしたあと、観念したように小さく告げた。「うちにいます」浩一はふっと鼻で笑った。「やっぱりお前か……」「違います」蛍は慌てて手を振り、「鉄舟に健司さんを探しに行かせたのは私じゃありません。もともとあの子は海外で学校に通っていて、ずっと人目につかないようにしていたんです。誰かがこっそり連れ出して、こっちに戻したんです……」と必死にまくしたてた。「問題にしてるのはそこじゃない」もともと機嫌が悪いうえに酒も入っていて、浩一の胸には理由のない苛立ちが燃え上がり、声も一段と荒くなっていた。海斗が慌てて場をなだめた。「浩一様、まあまあ落ち着いてください。蛍は、子どもをダシに津雲家に入り込もうなんて思ってないって、あなたに疑われるのが怖かっただけで、むしろ距離を置こうとして、わざとあの子を鉄舟に預けたんですよ。ほら、あの子はもう四歳ですよ。それでも蛍は健司には何も言ってこなかった。それだけで、母親として地位を上げようなんて気は本当にないってわかるじゃないですか」「それならいい」浩一は水を一口飲み、言葉を継いだ。「あの子が健司の血を引いた子どもなら、津雲家で引き取るのが筋だ。沢原さんはこれから先、気に掛ける必要はない。知枝は体が弱くて、ずっと子どもを授かれなかった。あんな馬鹿な真似を健司にさせたのはお前なんだから、その償いだと思えばいい」その言葉を聞き終えた蛍は、ぱちりと目を見開いた。「……つまり、私の息子に知枝さんをお母さんだと言い聞かせるつもりなんですか?」「そうだ。さすがだな、話が早い」浩一は海斗のほうへ視線を向けた。「海斗、これでいいだろう?」「そ、それは……」海斗が言い淀むのを見て、浩一の声が再び強まる。「どうした?津雲家の血を外に流したままでいいっていうのか」「そんなわけがない!」海斗は、蛍の縋るような視線を痛いほど感じていた。だが、ここまで来てしまえば、浩一の案がいちばん丸く収まりそうだというのも事実だった。知枝は、健司に飲まされた薬のせいで子どもを持てない身体になってしまった。夫婦としての形を保つには、それでもやはり跡継ぎとなる子どもが必要だ。ちょうど蛍には、健司との間に認知されていない子どもが一人いる。その子を差し出せば、両家の血筋も途切れずに済む。そう考えれば、その子
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第43話

ホライズン・テクノロジーは、創業からまだ八年しか経っていないのに、業界ではすでに「伝説」とまで言われている。事業領域は幅広く、工業オートメーションの分野では世界最先端の技術をいくつも抱えている。なかでも自社開発のスマートセンサーやアクチュエーターは、他社の追随を許さない。ホライズン・テクノロジーが本社機能を国内に移すらしい――そんな噂はだいぶ前から流れていて、その話だけで機械業界はざわついていた。鉄舟重工のような業界トップクラスの企業でさえ、ホライズン・テクノロジーには一目置いている。「どうした?」昌成は手を上げて知枝の目の前でひらひらさせ、「まさか、知らないなんて言わないよな?」と言った。「知ってます」知枝は、宝物でも握りしめるように名刺をぎゅっとつかみ、胸の奥からじわじわと嬉しさが込み上げてきた。彼女にとっては、行き止まりだと思っていた先に、いきなり視界がひらけたような感覚だった。もう逃げ道なんていらない。目の前には、まっすぐ続く大きな道が一本伸びている。ラボにうまく入れさえすれば、最先端の技術や設備に触れながら、自分の得意な分野で新しい生き方を探っていける。たとえ最後に自分一人だけになったとしても、自分のものだったはずのものは全部取り返してみせる――そう心に決めた。「この会社のボスっていうのはな……」昌成が安雄のほうを指さそうと腕を上げかけたところで、安雄がさりげなくその腕を押さえた。「そろそろいい時間だ。今日はこのへんでお開きにしよう」安雄がそう切り出すと、ようやくその場の空気が解け、一人また一人と席を立って挨拶を交わし始めた。今夜は皆かなり飲んでいて、互いに肩を貸し合いながら、思い思いに店の外へ歩き出していった。店を出る前、昌成は知枝の肩をぽんぽんと叩き、「絶対に俺のところに来るんだぞ!」と念を押した。知枝は「はい、行きます、必ず行きます」と何度も頷きながら、ようやく昌成を送り出した。そんなふうにして一同は料亭の前でそれぞれの帰り道へ散っていき、知枝は安雄の車に乗り込んだ。その様子を、蛍はしっかりと目に焼きつけていた。そのころ海斗は、ふらふらの浩一を運転手に託したところで、ぼんやり立ち尽くしている蛍に気づき、「蛍、お前、何してるんだ?」と声を掛けた。「お父さん、さっきお
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第44話

拘置所。今でも健司にとって時間は十八日のあの日で止まったままらしく、眠れば必ず、知枝に崖から突き落とされるあの光景が夢に蘇る。どれだけ必死に許しを乞おうと、彼女は一度も振り向かなかった。そのせいで目を覚ますたびに、健司はほとんど取り憑かれたみたいに、知枝に会わせろと騒ぎ出したくなる。そしてついに、その願いが叶う日が来た。警察官に連れられて面会室に入れられ、扉が開いた先の椅子に知枝の姿を見つけた瞬間、くすんでいた健司の目にぱっと光が戻った。「知枝!」健司は待ちきれないように椅子に腰を下ろすなり、身を乗り出して知枝の手をつかもうとした。ところがその手が触れる前に、甲の上に固いファイルが勢いよく叩きつけられた。美南がきつい表情で、「ちゃんとルール守ってください。私の依頼人に触れないで」ときっぱり言い放つ。健司は美南など眼中にない様子で、ただ必死に知枝を見つめた。「来てくれるって信じてた。知枝、本当に悪かった、俺——」「余計なことはいいから」知枝は離婚協議書を健司の前へ滑らせ、「前にも一度目を通したでしょ。中身は同じ。異論がないならサインして」と言った。「嫌だ」健司は協議書を押し返し、「サインなんかしない」と即座に拒んだ。「どうして」知枝は唇の端をわずかに吊り上げ、冷たく笑った。「まだ分からないの?これだけやっても、私たちにまだ戻れる余地があるなんて、本気で思ってるの?」「知枝、岸元家の件で訴えたのがお前だってことは、わかってる……」テーブルの上で握りしめた拳は、血の気が引いて白くなり、健司はどうにか胸のざわつきを押し込めようとしていた。「最初は、ここまで大事になるなんて本気で思ってなかった。祖父母を死なせるつもりなんてなかったし……まして、お母さんまで巻き込む気なんてなかったんだ」「へえ?」知枝の胸のどこかがすっと冷え、「じゃあ、あの人たちのほうが打たれ弱かったって言いたいの?破産くらいで死ぬなんておかしいって?」と静かに切り返す。「違う、そんなつもりじゃない。俺はただ……」健司はうつむき、「もしあの時わかってたら……」と声をしぼらせた。「あの時わかっていればなんて通用しない。あの人たちはもう戻ってこない。それが現実で、あなたは自分がしたことの代償を払うしかないの。それと、隠すつも
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第45話

知枝は健司がしてきたことを全部表に出したうえで、自分から離婚するとまで言い放った。健司はようやく気づいた――あの日、謝りに行ったときに玄関先で言われた「お祝いの贈り物」とは、自分を奈落へ突き落とすことそのものだったのだと。いったいいつどこで知枝に勘づかれたのか、健司は長い時間をかけて思い返した。これまでずっと、うまく隠し通してきたつもりだったし、すべてが落ち着いたら今度こそ知枝と普通の夫婦としてやり直そうと、本気で考えていた。すべてが自分の手の内にあると信じ込んでいたからこそ、最後の土壇場でタガが外れたのだ。鉄舟を継ぎさえすれば金も権力も手に入る、そうなれば知枝が自分から離れていくはずがないと、高をくくっていた。何より、知枝が自分を深く愛していると、疑いもしなかった。これまでも知枝が拗ねることはあったが、少し気を遣って機嫌を取ればすぐに笑ってくれて、夫婦喧嘩など一晩眠れば跡形もなく消えた。けれど、今回はそのどれとも違う、本気の知枝だった。「……離婚してもいい」健司はぽつりと折れるように言いかけ、「ただ……少し待ってくれ。俺が出てからじゃ駄目か」と続けた。その言葉に、知枝の細い眉がきゅっと寄り、すぐに意図を悟って胸の奥に冷たい嘲りがわいた。さっきまでの懺悔は、この一言のための前振りに過ぎなかったのだ。今でも、健司の心は蛍のほうを向いたまま。自分が拘置所にいるあいだに離婚すれば、世間の矛先が一気に蛍へ向かうのを恐れている。それに、津雲の家族もきっと、離婚の責任を蛍に押しつけるだろう。健司は、自分の手が届かない場所で蛍が傷つけられることを何より怖がっていた。「無理」知枝はこみ上げる感情を押さえきれず、勢いよく立ち上がった拍子に、視界がぐらりと揺れた。反射的に机の端をつかんで体を支え、そのまま冷えきった目で健司をにらみつける。「あんたたち二人の不倫を隠すためのいい妻役なんて、もうごめんだわ」言い捨てると、知枝はくるりと背を向けた――人の言葉が通じない相手とこれ以上話しても、時間の無駄だ。「知枝!」健司は叫び、知枝が一度も振り返らずに出て行く背中を、ただ呆然と見送るしかなかった。次の瞬間、胸をわしづかみにされるような強烈な不安が一気に押し寄せた。反射的に立ち上がろうとしたところを、
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第46話

声のしたほうへ顔を向けると、典子が人を引き連れて、ものすごい剣幕で歩いてくるのが見えた。「どうせ健司とあそこまで揉めたのを後悔してるんでしょ?わざわざここまで来て、機嫌でも取りにきたわけ?無駄よ。あんたのせいで健司は鉄舟を継げなくなって、世間からも叩き落とされたんだから。いまさら足元にひざまずいて謝ったって、どうにもならないわ。でもね……」典子は腕を胸の前で組んだまま、いかにも不本意そうな声で続けた。「お義父さんがあんたを買ってるのは、運がいいと思いなさいよ。罪滅ぼしのチャンスをくれてるんだから。素直に津雲の家に戻りなさい。いま、あの子は家であんたを待ってるの。外には海外で代理出産して産んだ子どもってことにしておけばいいだけでしょ……」「法律のこと何も分かってない人は、黙っててもらえます?」美南はさすがに聞いていられず、バカを見るような目で典子をにらみつけた。「代理出産なんて、国内じゃ認められてもいないのよ。そんなグレーな話を持ち出してまで、健司を庇いたいわけ?あの子は蛍と健司の、戸籍にも載ってない外でつくった子でしょ。そんな子の母親役まで知枝に押しつけるなんて、ふざけるのも大概にしなさいよ!」「黙りなさい!」典子はかっとなって、「さっきから外でつくった子だの何だのって、よくそんな口の悪いことが言えるわね。弁護士のくせに! 事務所に苦情入れてやるんだから!」とまくし立てた。「どうぞ、ご自由に!」美南は腰に手を当て、典子の怒りの矛先に真正面から一歩踏み込んだ。知枝が手を伸ばして美南の腕をそっとつかみ、典子のほうを見た。「私と健司は、さっき離婚協議書に正式にサインしたところです。あの子のお母さんを探してるなら、人違いですよ」真上には明るい日ざしが降り注いでいるのに、知枝のまなざしは静まり返っていて、その奥には薄い冷たさが宿っていた。典子はあまりのことに一瞬ぽかんとし、さっきまでの勢いもいくらかしぼんだ。「……何て?もうサインしたっていうの?」美南は顎を上げて言い放つ。「そうよ。もうきちんと書面で取り交わしてあるの。お母さん役が欲しいなら、よそを当たって」「そ、そんなはずない!」典子は信じられないという顔で知枝をにらみ、「頭おかしくなったの?健司と離婚して、あんたこれからどうするつもり?お父さんは会社
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第47話

昨夜、浩一は典子とそんな話をしていた。知枝は育ちこそごく普通だが、素直でおとなしく、嫁としては申し分ない女だ、と。だからこそ二人は、知枝をもう一度受け入れて、津雲の家に戻す機会を与えようと決めたのだ。結果はどうなったかと言えば――その知枝が、健司のことを「大した器じゃない」「何の価値もない男」呼ばわりしたのである。典子はいえば言うほど腹が立ってきて、知枝の鼻先を指さし、「上等じゃないの!そんなに離婚したいなら勝手にしなさいよ。こっちで手続きに人を付けてあげる。あとから後悔したって、一歩だって引いてあげないから!」とまくし立てた。そう吐き捨てたところで、典子の手の中のスマホがぶるぶると震えた。画面をのぞくと、蛍から「どうしても直接話したいことがある」と面会を求めるメッセージが入っていた。メッセージを読み終えた典子は、もう一度ぎろりと知枝をにらみ、「覚えておきなさいよ!」と吐き捨てた。怒鳴り散らしながら取り巻きを連れて去っていく典子の背中を見送り、知枝はふっと鼻で笑った。五年も姑のご機嫌を取ってきたが、その愚かさは少しも変わっていない。典子の逆鱗がどこにあるのか、どうやってそのぎりぎりの線で踊ってみせるかは、誰よりも知枝がよく分かっている。これで、本来なら一か月はかかる手続きも、もう待つ必要はなさそうだと思った。「美南、結婚中に渡した財産の取り戻し、今どうなってる?」「問題なし。裁判所からの呼出状、もう沢原のところに届いてるはず」美南は呆れたように舌打ちし、「調べてみてびっくりしたけど、この五年間で健司が蛍に渡した金品、合わせて8億以上よ。住んでる別荘まで、健司の金で買ってあげてたんだから」と言った。「そんな大金、蛍が素直に吐き出すと思う?」「出したくなくても出してもらうしかないでしょ」知枝は唇の端をつり上げ、いたずらっぽく笑う。「内訳は全部リストにして。渡した分は、きっちり取り戻すから」健司のパートナーとして五年もそばにいたのだ。あの男の懐にどれだけ金が転がり込んでいるかくらい、知枝には分かっていた。ただ、社の金にまで手をつけて愛人を囲う肝があったとは、さすがに想定外だった。ここまで来たら――蛍に返させないという選択肢は、もうない。「で……」美南は知枝の肩に腕を回し、細い眉をくいっと上
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第48話

Wラボが入っているのはハイテク開発区の一角で、この一帯はまだ本格的な開発途中であり、自治体の誘致でやってきた数社のハイテク企業がぽつぽつと建っているだけだ。とはいえ、この地区のポテンシャルは計り知れず、いずれ帝都の産業の中枢になると目されている。知枝はタクシーの後部座席に身を預け、窓越しに外を眺めながら、空を突くようなオフィスビル群のあいだを走り抜けてきた。区画の切り方も動線の取り方もよく練られていて、この街がどれほど大きな野心を抱えているのかが伝わってくる。ここへ来る前から、ホライズン・テクノロジーの本社も同じ開発区に建つ予定だと聞いていて、いざ正式に入居となれば自治体が大々的な PR を打つに違いないと思っていた。「着きましたよ」運転手の声に呼び戻されるように、知枝はふっと現実へと意識を引き戻された。料金を支払って車を降り、ふと見上げると、頭上には巨大な「W」のロゴが陽射しを受けてまぶしく光っていた。大学を出てすぐ専業主婦になってしまい、会社でちゃんと働いた経験のない知枝にとって、今日は実質、人生で初めての面接だ。覚悟は決めてきたつもりでも、今この瞬間ばかりはどうしても胸の奥がきゅっと強張る。昨夜はノートパソコンを抱えたまま、Wラボとホライズン・テクノロジーについてひたすら調べ続け、知れば知るほど胸が高鳴って眠れなくなった。岸元家は機械で身を起こし、一方の間宮グループも電力設備関連の企業で、その二つの家業のおかげで、知枝は子どものころから機械と縁の切れない生活を送ってきた。同い年の子たちがままごと遊びに夢中になっていた頃、知枝は小さな工具箱を片手に、工場のフロアをあちこちうろついていた。ぴたりと噛み合い、息を合わせるように回り続ける歯車の動きは、どこを見ても彼女にはたまらなく魅力的に映った。だからこそ、高校卒業後の進路を決めるときも、迷うことなく機械工学系の学科を選んだ。やがて健司と結婚することになったときも、鉄舟重工という会社そのものに惹かれた部分がまったくなかったわけではない。プロジェクトの企画書を練るのが好きなのは、健司の役に立ちたいからだけではなく、自分が心からその仕事に夢中になれるからだ。結婚して五年、何もかもを手放したわけじゃない。少なくとも、身につけた専門知識だけは錆びつかせずにこ
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第49話

安雄はただ静かにそこに座っているだけなのに、晴れ渡った空の下に咲く高嶺の花のように、どこか遠い存在だった。生まれながらのエリートが、たった一度の事故で一生車椅子に縛られてしまうなんて、本当にやるせない。また自分の足で立てるようになればいいのに……少しでもこのプロジェクトの力になれたら、自分をこのWラボへと紹介してくれた安雄への恩返しにもなる。そんな思いが、静かに胸の奥に根を下ろした。知枝は昌成の方を見て、「先生、私に軽量化した駆動ユニットを任せたいってことでしょう?」と口を開いた。その言葉に、昌成はぱっと顔をほころばせた。「そう!やっぱり君は、先生の考えていることをすぐ見抜くなあ。間宮グループは電力設備の会社で、ここ数年は新型の電池もやってるだろう。駆動ユニットの一番のネックは電池の持ちで、今のリチウム電池じゃエネルギー密度が全然足りないんだ」知枝が自分から間宮グループの話を口にしたのを聞いて、安雄はふと視線を上げ、彼女の方を見た。けれど、その横顔はいつもと変わらず、喜びも怒りも読み取れない。まるで間宮グループなんて、自分とはもう何の関わりもないと言わんばかりだ。たかが数日でここまで平然としていられるあたり、この女の芯は想像以上に強い。考えてみれば、それも不思議ではない。人生のある時期で道を踏み外したとはいえ、感情に飲み込まれず引き返すべきところで引き返し、一歩一歩足場を確かめながらここまで来た女だ。もし中身がそこまで強くなければ、とっくに津雲家の圧に押し潰されていただろう。この頃には師弟ふたりはすっかり意気投合し、昌成は知枝を捕まえて楽しそうに語り合いながら、今の研究成果を自ら次々と見せていった。知枝が手際よく装置を調整していくのを眺めながら、昌成はそばで目尻に皺を幾重にも寄せて、笑いっぱなしだった。昌成がここまで満足げな顔をしているところを見るのは珍しく、安雄は思わず何度か知枝の方へ視線を送った。ハイテク感あふれるラボの中で、知枝はまさに水を得た魚のように、一挙手一投足に迷いがなく、動きもどこか軽やかで、いつもの彼女とはまるで別人のようだった。今の彼女はそこに立っているだけで光を帯びているようで、その小さな表情の変化ひとつひとつから、なかなか目が離せない。安雄は表情ひとつ変えないままそっと視
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第50話

安雄が本邸に入ったときには、典子はもう三郎のそばから離れていた。 少し離れた場所で腕を組み、あからさまに挑むような視線を、そのまま安雄へ投げつけている。 「お前、おとといの夜は家で晩飯も食わずに、どこで何をしていた?」と、三郎が声を張った。 こんなふうに日にちまでぴたりと言い当ててくるあたり、どこかから話を聞きつけたのは間違いない。 安雄はすぐに悟り、表情ひとつ動かさずに「小林先生と食事をしていました」とだけ返した。 「嘘ね、あんた、知枝と一緒だったじゃない!」 典子は尻尾を掴んだとばかりに勢いづき、くるりと三郎の方へ向き直ると、「ほら、まだお義父さんに嘘ついてるんですよ!」と畳みかけた。 三郎は典子を無視し、険しい表情のまま安雄を見据えた。「正直に言え。お前は一体、誰と一緒にいたんだ」 安雄はその視線を正面から受け止め、「あの夜、知枝もその場にいました」と淡々と告げた。 「お義父さん!」典子はますます気を良くして、「ね、私の言ったとおりでしょう。ふたりぐるになって……」と得意満面で言葉を重ねる。 「もういい!」 三郎が怒鳴り、その一声で典子の言葉を叩き切った。 浩一はあわてて典子の手首をつかみ、これ以上余計なことを口走って三郎の機嫌を損ねないよう、必死に制した。 一方で安雄は、どこまでも落ち着いたまま居間をぐるりと見回し、唇の端に薄い嘲りを浮かべた。「つまり俺が、知枝と組んで鉄舟を乗っ取ろうとしてるとでも?馬鹿馬鹿しい。 鉄舟に入って健司の副社長をやるって話だって、俺から言い出したのか、それとも三郎の方から誘ったのか、本人に聞いてみればいい。 まともに歩くこともできない役立たずひとりにまで、そこまで悪意を向けてくるとは。津雲の家は、八年前と相変わらず腐りきったままだな」 リビングは広く、明るい照明が隅々まで行き届いている。 安雄の声は決して荒くはなかったが、一言一言がやけに重く響いた。 普段の彼は物腰も柔らかく、どこか品のある穏やかさだけを残して、人との距離も近すぎず遠すぎずといった空気をまとっている。 だがひとたび表情から温度が消えると、その場の空気を一気に支配するような圧と迫力が立ち上がり、周囲の人間は息を潜めるしかなくなる。 三郎は言葉を失い
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