All Chapters of 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

「ピッ、ピッ」スマホの通知音が二度続けて鳴った。知枝はスマホをしまい、顔を上げて蛍を見た。「今ね、リストを送ったわ。ここ五年間、健司があなたにいくらつぎ込んだかの明細よ。あの別荘は名義上こそあなただけど、実際にお金を出したのは健司よね。本来なら、あれも売って現金にして精算するのが筋でしょう?細かい出費を全部足すと、ざっと十億円になるの。健司が出したお金は全部、私たち夫婦の共有財産なんだから、そのうち半分は私の取り分よ。私の口座も一緒に送っておいたから、三日以内にその分を振り込んでちょうだいね」知枝は淡々と告げ、蛍はあっけにとられて言葉を失う。すぐに我に返った蛍は、思わず声を荒らげた。「知枝、あんた正気?どうかしてるんじゃないの?」その一声に、周囲の招待客たちの視線が一斉に向く。蛍は自分の失態に気づき、あわてて仕事用の作り笑いを貼りつけた。一瞬で表情を切り替える蛍を眺めながら、知枝は細い眉をわずかに上げ、勝ちを確信したような余裕の笑みを浮かべる。「沢原さんだって、こんな場所で自分が男から金を吸い上げる女だなんて知られたくないでしょう?」もともと知枝は、蛍から金を吐き出させるタイミングを慎重に見計らっていた。ところが運よく――というか、蛍のほうから自分で地雷を踏みに来てくれた。この懇親会に顔を出しているのは、国内の自動車メーカーの重役たちばかりだ。立ち上げたばかりの新ブランド「セキメイ」にとっては、業界の先輩たちに目をかけてもらえる絶好の場でもある。だからこそ、今ここでツケを回収するのは、これ以上ない好機だった。知枝は人畜無害を装うように目元を細めて微笑む。「沢原さん、もう間宮グループの社長の椅子に座っているんだから、お金に困っているはずないわよね?さっき自分で言ってたじゃない。お父さんはあなたを溺愛してるし、一番に頼りにしてるって。そのくらい肩代わりしてもらっても、文句なんて出ないでしょう?」「あんた……」蛍は歯を食いしばり、濃いメイクの下でその顔立ちがわずかに歪む。知枝に渡す金なんて、どこから湧いてくるっていうのよ。健司が彼女に注ぎ込んできた金は全部、宝石だのブランド品だのに化けて、人脈づくりの餌に消えたんだから。海外から帝都に戻ってきてからは、社交界で見栄を張るのに必死で、周り
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第62話

「やってくれるわね!」蛍はそう吐き捨てると、スマホを手に知枝の口座へ五千六百万を振り込んだ。「残りは、できるだけ早くそろえて渡すから」そう言い捨てて踵を返し、蛍はツカツカと歩き出す。ヒールのかかとが床を打つたび、そこに穴があくんじゃないかと思うほど、苛立ちをぶつけていた。蛍は本気で自分を呪いたくなるくらい、今さら悔やんでも悔やみきれない気分だった。さっきなんて、わざわざ話しかけに来るんじゃなかったと、自分に毒づく。これじゃ、自分からせっせと貢ぎに行ったようなものじゃないか。考えれば考えるほど腹が立ってきて、少し歩いたところで、蛍のスマホにまたメッセージが届いた。【健司から受け取ったお金がどこから出たものか、あなたならわかっているはずよ】文面を読み終えると、蛍の胸の奥がずしんと重くなり、振り返って知枝の方を見やった。大勢の客を挟んで、遠くから視線がぶつかる。遠目にも、知枝の目元に浮かぶ冷ややかな笑みと、その奥に潜む計算高さが、はっきりと見て取れた。心の中で、くそっと悪態をついた。知枝のことを、完全に甘く見ていた――そう痛感させられる。とはいえ……今のメッセージで、むしろ大事なことを思い出させてもらった。自分はあくまで金を受け取っただけの立場だ。知らないふりはいくらでもできる。けれど、健司が会社の資金を横領した事実は、ごまかしようがない。典子なら、その穴を埋めるために迷いなく金を出すだろう。そう考えた瞬間、蛍の頭の中に一石二鳥の妙案がひらめき、ふっと紅い唇がつり上がった。まあ、いい。今夜のターゲットは昭だ。せっかくのいい気分を、知枝なんかに台無しにされてたまるものか。そのうち改めて、典子とゆっくり話をつければいい。プールサイドから楽しげな笑い声が聞こえてきて、蛍はハイヒールを鳴らしながらプールへ向かう。真紅のドレスが揺れ、その姿は誇らしげな孔雀のように華やかだった。赤いドレスが人波の中に消えていくのを、知枝はぼんやりと目で追っていた。その耳に、不意に安雄の声が飛び込んでくる。「さっきの女、君のこと困らせてた?」「いいえ」知枝は一度視線を落とし、それから安雄を見上げた。その狐のような切れ長の瞳と目が合った瞬間、心の奥まで見透かされたような気がして、理由もなく胸がざわつく
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第63話

今では車椅子の身になってなお、安雄はこの業界で確かな存在感を放っていた。そんな安雄が鉄舟重工の舵を取り直したのだから、再び黄金期を築いてくれると期待している者は数え切れない。宗太がいつまでも黙ったままなのを見て、昌成が不満げに口を開く。「どうした?安雄にここまで言わせても、まだ踏ん切りがつかないのか?」「い、いえ、そういうわけでは……」宗太は口ごもるばかりで、要領を得ない。知枝はその迷いの理由を察し、声を落として言った。「私が入ることで御社と鉄舟の関係にひびが入るのが不安なら、名前は出さずに参加しても構いません」自分の立場がどう見られているかは、誰よりも自分がわかっている。これ以上、相手を困らせるつもりはなかった。そもそも彼女が欲しいのは名声でも金でもなく、自動車メーカーの現場に近づくチャンスだけだ。「それは駄目だ!」昌成は即座に首を振る。「ここまで全部君がやってきたのに、名前だけ隠すなんて筋が通らないだろ!」「先生」知枝は苦笑して、「お気持ちは本当にありがたいんですけど、私にも私なりの事情があります。やっと戻ってこられた世界なのに、仕事を始める前にまた追い出されるのはごめんです」と言った。「何を怖がるんだ。ここには安雄もいるだろう?こいつが……」「知枝さんの言うとおりでいい」安雄が不意に口を挟んだ。昌成はぽかんと固まり、信じられないものを見るように安雄を見つめた。このガキは、俺の話までぶった切るつもりかと。宗太は、安雄まで口を挟んできたのを見て、頭をかきながら苦笑した。「……わかりましたよ。津雲さんがそこまで言うなら、うちが彼女をぞんざいに扱うはずありません」知枝はほっと嬉しさが込み上げ、軽く頭を下げてその場の面々に順番に礼を述べた。安雄の番になると、彼は片手を上げてそれを制し、「俺はいい」とそっけなく言った。知枝はうつむいたまま、その手を間近で目にすることになった。肌は驚くほど白く滑らかで、指はほっそりと長い。思わず見とれてしまうほど、整った手だった。そのとき、突然、甲高い悲鳴が響いた。知枝はびくりと肩を震わせ、反射的に顔を上げてプールの方を見やった。プールサイドには大勢の客が群がっており、その中でも昭の笑い声だけがやけに大きく、室内まではっきりと響いてきた。知枝は心の中で「
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第64話

「人助けってやつだよ」安雄はそう適当にごまかし、車椅子をくるりと回してその場を離れた。昌成はすぐに不満げな顔になり、安雄の後を追いながら言った。「安雄、俺たち、もう何年の付き合いだと思ってる。君がどういう性格かなんて、先生の俺が一番よくわかってるんだからな……」「ふうん?」と安雄は片眉を上げ、わざとからかうように続けた。「つまり先生から見れば、俺はろくでもない人間ってわけだ」「いや……」と昌成は少し考えてから、「まあ、だからといっていい人ってほどでもないけどな」とつぶやく。「正確に言うなら、君はただの面倒くさがりだ。知枝と津雲健司の一件なんて、それ自体がとんでもない火種だ。津雲の人間である君なら、どっちの肩を持つかはともかく、本来なら一歩引いて我関せずを決め込むタイプだろ。なのに、見て見ぬふりをするどころか、陰で手を貸して仕事まで回してやってる。いったいどういうつもりなんだ?俺にだって読み切れない」安雄は車椅子を止め、顔を上げて昌成を見た。「ちゃんとした理由が聞けないからって、知枝のことを見捨てられるのか?」「それはない。あいつは俺の教え子だぞ。あの才能を埋もれさせるなんて、俺が許せるわけがない」と昌成は即答した。「なら、それで十分だ」安雄は視線を伏せ、「じゃあ俺は用事があるから先に失礼する。知枝のこと、もう少し案内してやってくれ」と言った。「おい、ちょっと待てよ……」昌成は、去っていく安雄の背中を見送るしかなく、苦笑いを漏らした。まったく、どうにも手のつけようがない教え子だと、肩をすくめるほかなかった。ホテルのエントランスを出て車に乗り込むと、ハンドルを握る蒼真が「本邸にお戻りですか?」とたずねた。「いや、紫苑館へ」「かしこまりました」蒼真は軽くうなずき、エンジンをかけて車を滑り出させた。安雄はこめかみに指を添え、そっと目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、先ほど知枝が昭を叱りつけていたときの光景だ。繊細に整った小ぶりな顔立ちは、怒っているはずなのにどこか艶を帯び、眉間に走る苛立ちさえ、不思議なほど愛嬌に見えてしまう。昌成の言ったとおり、あれこそが本来の知枝なのだろう。一度目にしてしまえば、簡単には忘れられない美しさだった。幼い知枝は、塀の上に腰かけ、棒先で柿の実をつつき落として
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第65話

ここ何年も本人は海外暮らしだったが、その間ずっと人をつけてこの屋敷を定期的に手入れさせてきた。中は隅々まで片づいていて、家具も飾りも昔のままきちんと残されている。帰国してからの間は、ずっと津雲家の本邸で暮らしていた。今日が、この家を手に入れてから初めてここで夜を過ごす日になる。蒼真が車椅子を押して中庭へ入っていくと、安雄が手を上げて、その場で止まるよう合図した。塀際の柿の木は葉を生い茂らせ、夜の闇の中で大きな傘のように枝を広げていた。ここで暮らす人が変わっても、変わらずそこにあるのはあの柿の木だけ。積み重ねた年月を、ただ静かに見守っている。蒼真も安雄の視線を追って木の方を見るが、胸の中には疑問ばかりが渦巻き、それでも口に出す勇気はなかった。蒼真の知る限り、紫苑館はただの競売物件というだけでなく、いわくつきの家でもある。岸元家の老夫婦はそろってこの屋敷で息を引き取っているのだ。それなのに、あの競売のときには、わざわざ安雄と張り合う相手までいた。ふたりは何度も値をつり上げ合い、最終的に相場の三倍という値段で、この家は安雄のものになった。その一件は、今でも蒼真にはどう考えても腑に落ちなかった。安雄は岸元家と特別な縁があったわけでもない。それなのに、どうしてここまでしてこの家を手に入れようとしたのか――蒼真には見当もつかない。……同じ頃、蛍はびしょ濡れのまま、間宮家の別邸へと戻ってきていた。玄関を入るなり、使用人たちが荷物を詰めているのが目に飛び込んできた。リビングはダンボールと荷物で足の踏み場もない。階段の途中には海斗が立っていて、水浸しの蛍を見るなり、「お前、その格好はどうしたんだ」と声をあげた。蛍は答えず、「お父さん、何してるの?」と問い返した。「引っ越す」海斗はむっと顔をしかめ、「知枝がどこからか不動産屋を引っぱってきてな、たった一日で何組もこの家を内見させやがったんだ。追い出せって手下に言ったら、今度は俺の目の前で警察に通報するってスマホを取り出しやがって」とまくし立てた。「『他人の持ち家を不法占拠している』とか言って脅してきてな!ふざけてると思わないか?俺は三十年以上この家で暮らしてきたんだぞ、それが違法だったなんて、初耳だよ!」話を聞き終えると、蛍は心底から父に味方するような声で、
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第66話

部屋に戻った蛍は、バスタブいっぱいに湯を張った。浴室は湯気で白くかすみ、蛍は何も身に着けずに浴槽へ身を沈めると、あまりの心地よさに目を細めた。ふと、頭の中にプールの光景が浮かぶ。必死にもがき、水しぶきが四方に跳ね、身体は沈んでは浮かび、そのたびに口いっぱいに水が流れ込んだ。視界はぼやけているのに、四方八方から注がれる嘲りの視線だけはやけにはっきりと感じられた……気が遠くなりかけた瞬間、今沈んでいるのはプールではなく、あの頃自分を溺れさせかけた便器の水の中なのだと錯覚する。揺れる電灯の光と、狂ったような叫び声と、鼻を突く汚れた水の臭いがごちゃ混ぜになって頭の中になだれ込み、冷たさが手足の先までじわじわ染み込んでいく。「沢原、父親もいない出来損ないのくせに、よく私たちと同じ席で授業受けてられるね?」「なんであんた、あのバカ弟と一緒にさっさと死んでこないわけ?」「……」蛍ははっと目を見開いた。血の味がするような憎しみが目尻を染め、天井を射抜くようにじっと見つめる。どれくらい時間が経ったのか、気づけば浴室の湯気はすっかり薄れていた。胸の奥で渦巻いていた感情も少しずつ静まり、我に返った蛍は、自分が浴槽の縁を力任せに掴んでいることにようやく気づいた。ネイルは剥がれ、指先からじわりと血がにじんでいる。あんな日々には、すべてを投げ出すことになっても二度と戻りたくない。……セキメイ新エネルギー車の発表会は、間宮グループにとってここ数年でいちばん重要なイベントだった。蛍にまつわるネガティブな報道の影響を少しでも薄めるため、間宮グループの広報とプロモーション部は、まるで湯水のように金を使いながら、オンラインとオフラインの合同キャンペーンを次々と打ち出していた。間宮グループの誰もが、ここで派手なスタートダッシュを決めようと気合いを入れていた。発表会当日、蛍はきっちりとしたスーツ姿で会場のバックヤードを歩き回り、大小を問わず自分の目で確かめないと気が済まなかった。「蛍さん、開始まであと三十分です。各部署の準備はすべて整いました」春菜は蛍のそばまで来て手短に報告したが、返事がないので、その視線をたどってステージを見やった。あの夜、知枝があの生配信をしなければ、今日この発表会の主役は間違いなく蛍だった。セキメ
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第67話

ここ数日、美南は職場の男連中がセキメイの新型車の話ばかりしているのを嫌というほど耳にしていた。性能がどうだの価格がどうだのと持ち上げては、国産の新エネルギー車のコスパ最強だと口をそろえている。なかには蛍をかばうような声まであって、女ひとりでよくやっているじゃないかと評価する者もいた。美南は聞いているだけでイライラして、何度も言い合いになった。そんな話ばかり耳に入るせいか、美南自身もだんだん気になってきて、昨日からこの発表会を心待ちにしていた。「セキメイは立ち上がったばかりの新興自動車ブランドだから、早く市場に食い込みたいなら、低価格・高装備で押して、配車サービスや法人向けリースといったBtoB市場を狙うしかないんだよ。モデルのデザインは見た目優先で、その分空気抵抗も大きい。永久磁石同期モーターの実測トルクも、ボディ剛性のデータも決め手に欠ける。カタログ上では75kWhのバッテリーを積んでいるように見えても、実際は電費が悪くて、航続距離なんて思ったほど伸びないんだ……」「ちょっと待った!」美南は延々と説明を続ける知枝を手で制して、呆れたように言った。「そういう専門用語は置いといて、素人でも分かる言い方して」知枝は画面の中で照明が落ちていくステージを見つめながら、口元だけでふっと笑った。「つまりね、蛍が作ったのは見た目だけきれいなポンコツってこと。ぱっと見はコスパが良さそうだけど、狙うべき市場には合ってない。発表会が終わって、車好きのインフルエンサーや評論家が試乗レビューを出し始めたら、弱点なんてすぐに露わになるよ。燃費が悪くて、やたらメンテに手がかかる車なんか、配車ドライバーがわざわざ買うと思う?」美南はぱっと顔を輝かせ、「そう言われると、一気に分かるわ!」と言った。知枝はくすりと笑った。美南は目をきらきらさせて、「なんかまた、皇大を沸かせてた頃の知枝を見てるみたい。得意分野になると、本当に全身から光ってる感じがするね」と言った。「あの頃さ……」美南は知枝の横にもたれかかるように座り、大学時代のあれこれをとりとめもなく語り始めた。二人は学部こそ違ったが、いつも一緒にいると言われるほど仲が良かった。知枝は賞を取るたびに美南をご飯に連れ出し、半年もしないうちに、美南はまん丸ほっぺのぽっちゃりさんに仕上がった。
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第68話

車内からの声を聞いた蛍は、とっさにスタッフに指示を出し、通話を切らせた。ステージ上で説明をしていたエンジニアは、突然の事態に頭が真っ白になっていたが、イヤモニから蛍の指示が飛んできてようやく我に返る。「ぼーっとしてないで。そこは飛ばして、次のパートに進んで!」エンジニアはそこでようやく正気に戻り、あわててマイクの位置を直して、何事もなかったかのような顔で説明を続けた。だが客席のメディア各社の記者たちは、なおも顔を寄せ合ってひそひそと騒ぎ始める。「さっきの通話、何が起きてた?新車の自動運転、制御不能になったのか?」「前に、セキメイが七瀬テクノロジーと組んで、あとから自動運転を載せるって話があるって聞いてたのに……これだけ大風呂敷広げておいて、肝心の自社システムがポンコツってこと?」「新車発表会の本番でこんな致命的なミス出しておいて、セキメイがいくら性能と安全性を持ち上げても、誰が信じるんだよ」「……」発表会は生配信されており、ネット上の議論はあっという間に手がつけられないほど燃え広がっていった。【うわっ!これから道路でセキメイ見かけたら、絶対近寄らないわ!】【セキメイなんて、誰が乗るんだよ。時限爆弾みたいなもんじゃん、自動運転がいつ命を持っていくか分かんない】【女が作った車を信じるとか、よくそんな度胸あるな】【……】生配信の画面いっぱいに流れていくコメントを見て、蛍はテーブルを思いきり叩きつけた。「外のコース、今どうなってるの?」「暴走した車は、さっき衝突吸収材に突っ込んで、強制的に止まりました」スタッフはおそるおそる状況を説明する。「自動運転システムが、ハッキングされた可能性が高いって言ってます」「どういうこと?」蛍は言葉を失った。まさかセキメイがハッカーに狙われるなんて、これっぽっちも考えていなかった。自動運転システムへのハッキング自体は、もはや珍しいニュースではない。とはいえ、まだ立ち上がったばかりのブランドであるセキメイが、なぜわざわざ標的にされる?それもよりによって新車発表会という場を狙っての侵入だ。嫌がらせどころか、明らかな報復行為にしか見えない。「どこの誰がやったのか、必ず突き止めて!」蛍はそう命じると、奥歯を噛みしめながら顔を横に向け、春菜に広報部の緊急ミーティング
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第69話

今日の発表会が、セキメイのこれからを決める舞台だった。今、蛍が握っているハンドルは、間宮グループという大きな船の舵そのものだった。どこへ進むのかは、彼女の意思ひとつにかかっている。スタートの号砲が鳴った。蛍は迷いなくアクセルを踏み込み、さっき事故を起こしたばかりの車は、一気にコースを駆け抜けていった。観客が息を呑んで見守る中、蛍はさきほど不具合を起こしたL2レベルの運転支援を含め、自動運転の主要モードを次々と披露していった。「こいつ、ほんと肝座ってるなあ!」美南は思わず身を乗り出し、目を丸くして言った。「さっき暴走したばっかの車だよ?よく平気で乗れるよね。命張るつもりなの?」「責任者が信じてない車なんて、誰が買うのさ」知枝はゆっくりと言葉を引き取りながらも、視線はずっと蛍の顔に貼りついたままだった。このわずかな時間で、裏方のエンジニアが原因を洗い出してパッチを当てることはできても、ハッカーがまた入り込まない保証なんてどこにもない。勝つためなら平気で命まで賭けるなんて――そこまでやる女だとは、さすがの知枝も思っていなかった。ふと、蛍が健司を動かして幸子の実家を狙わせ、その件が露見しても、うまく姿を消してやり過ごしたことを思い出す。そこまでやれる蛍が、ただ者のはずがない。蛍が車から降りるのを見届けると、知枝は腰を上げた。これ以上は、予定調和の挨拶が続くだけだと分かっていたからだ。今回の火消しで評判を完全に立て直すことはできない。それでも、悪評をここまで抑え込んだのは上出来と言っていい。海斗が間宮グループを蛍に託そうとしているのも、理屈としては分かる気がする。知枝もようやく、自分が相手取っているのがどういう女なのかを真正面から思い知らされていた。蛍が帰国してから帝都の名家の輪にあっという間に溶け込み、どこへ行っても上手く立ち回れているのも、相当な野心と度胸があってこそだ。そう考えれば、自分が一度は蛍に出し抜かれたのも、そこまで恥ずかしいことではない。この先は、いままで以上に強くなって、いままで以上に用心深くならなければ勝てない。……その夜、セキメイの公式アカウントは立て続けにいくつものお知らせを投稿した。まずは事故の発生を認め、そのうえで自動運転システムのログを詳しく公開し、関係部署が
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第70話

「ハッキングによる侵入でして……」「どういう事情だろうと知ったことか!」海斗は苛立ちを露わに蛍の説明をさえぎった。「自動運転システムに不具合が出るなんて、新エネルギー車にとって致命的なんだ。こういう問題は命に関わるんだぞ。お前が謝って『大丈夫です』と口で言ったくらいで、客の信頼は戻らない。とにかく一刻も早く、不安を根こそぎ消す手立てを考えろ!」「分かっています」蛍はうつむいたまま、影に隠れた瞳の奥で感情の渦を必死に押し殺していた。「七瀬蓮へのアプローチをさらに進めます。彼が提携を受け入れてくれれば、セキメイの新エネルギー車に七瀬テクノロジー開発の自動運転システムを搭載でき、消費者の不安も一気に払拭できるはずです」それを聞いた海斗は眉をひそめ、「その話は、ずいぶん前から進めていたんじゃないのか?」と問うた。「はい」蛍は声の調子をいっそう引き締めた。「計画を一から見直します。できるだけ早く、この提携をまとめてみせます」さらに深く頭を垂れた蛍を見下ろしながら、海斗の怒りはようやく半ばほどしぼみ、代わりに重い溜め息が漏れた。「いいか――絶対にやり遂げろよ。七瀬蓮との話をまとめられなかったら、間宮グループの株主にどう顔を向けるのか、自分でよく考えておけ」海斗は立ち上がり、蛍を横目に睨んだ。「反対を押し切ってお前を社長に据えたのは俺だ。俺の顔に泥を塗るな。そうなったら、お前を庇いきれない。忘れるな。一年間は試用期間だと思っておけ」氷のように冷たいその言葉だけを残して、海斗は背を向けて部屋を出ていった。蛍はその場に立ち尽くした。照明に伸びた影が床で交差し、華奢なシルエットに陰りを帯びた執念深さを浮かび上がらせる。……セキメイの新車発表会で自動運転システムの事故が起きたせいで、販売台数は予想を大きく下回り、広告費などの先行投資さえ回収できていなかった。一日が過ぎても、ネット上では自動運転をめぐる騒ぎがいっこうに収まらない。自動車系のインフルエンサーたちもこの熱気に乗じて、自分名義で注文したと投稿し、車が届きしだいレビューすると宣言していた。会議の席で売上報告書を受け取った蛍は、その数字に血が上り、資料をテーブルに叩きつけた。間宮グループの誰もが華々しいスタートダッシュを期待していたというのに、ふたを
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