All Chapters of 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

霞月亭の個室では、すでに何度目かの乾杯が終わっていた。蓮は上座にゆったりと腰を下ろし、背もたれに身を預けながら、片手でテーブルの上のグラスを弄んでいた。周りの連中はすっかり酒が回り、調子づいた声がだんだん大きくなっていく。騒がしさに蓮はわずかに眉をひそめ、そろそろ腰を上げるかと思ったそのとき、個室の扉が開き、きちんと化粧を施した小さな顔がひょいと覗いた。蓮は表情ひとつ変えず、口元だけをうっすらと持ち上げた。蛍がようやく姿を見せたのだ。「こんばんは。セキメイの新エネルギー車を担当しております、沢原蛍と申します」蛍は控えめな笑みを浮かべて個室に入り、一人ひとりに名刺を差し出していく。ひと回りして、ようやく蓮の前にたどり着いた。「七瀬社長、お噂はかねがね伺っていました。こうしてお目にかかれて光栄です」蛍は両手で名刺を差し出し、深々と頭を下げる。「急に押しかけてしまってすみません。今夜の会計は、よろしければ私に──」「俺が金に困ってるように見えるか?」蓮はぼそりとそう言い、ちらりと名刺に目を落としただけで、受け取ろうともしなかった。手を差し出したままの蛍は行き場を失い、どうしていいか分からず固まってしまう。「違うんです、そういうつもりじゃなくて……せめてもの誠意をお見せできればと思って」「ここは俺の席だって分かってるよな。招かれもしないで入り込んで、場を壊しておいて」蓮は視線を上げ、まっすぐ蛍の目を捉えた。「で、どうやってケジメつける?」その一言に、周りの男たちが待ってましたとばかりに色めき立つ。「飲め!飲め!」蛍がまだ状況を飲み込めないうちに、焼酎の入った徳利が目の前にぐいと突き出された。「七瀬社長がわざわざ話を振ってくれたんだ、ちゃんと見せ場作らないとな?酒も飲めないようじゃ、仕事の話なんてできやしないだろ」男の一人が蛍の肩をぽんぽんと叩き、酒臭い息をかけながら笑った。「これは七瀬社長がくれたチャンスだぞ」「……分かりました」蛍は一瞬の迷いもなく徳利を掴むと、そのまま口元へと傾けた。この数年、彼女は数えきれないほどの会食をくぐり抜け、酒の席にも鍛えられてきたつもりだった。けれど、今のように焼酎を徳利の中身ごと一気にあおれば、さすがに喉が焼けつき、むせずにはいられない。喉から胃の奥へと、炎
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第72話

三十分ほどして知枝が霞月亭に着き、車を降りると、石柱にもたれて立っている蓮の姿が目に飛び込んできた。蓮は背が高くすらりとしていて、黒いパンツに白いシャツ、袖を肘のあたりまで無造作にまくり上げ、その気の抜けた格好さえ絵になっていた。指先にはタバコが挟まれ、真っ赤な火が夜の闇の中でやけに目立ち、どこか退廃めいた空気をまとわせている。蓮とは長い付き合いになるが、知枝はそんな蓮を見るのは初めてだった。知枝の知っている蓮は、いつも穏やかに笑っていて、春の風のように柔らかな人だった。今の蓮には、その笑みの奥に、薄く憂いの霞がかかったような影が差している。知枝は一瞬ためらったが、意を決して蓮の方へ歩き出した。声を掛けるより先に蓮の方が気づき、吸いかけのタバコをそばのゴミ箱の縁で無造作に押し消した。蓮は口元だけでふっと笑い、「来てくれたんだな」と言った。知枝が近づくと、酒気を含んだタバコの匂いがふわりと鼻をかすめ、思わず眉をひそめる。「蓮さん、お酒は体に悪いんだから、ほどほどにしてよ」「昭も呼んだ?あの子は……」「呼んだのはお前だけだ」と蓮が静かに答え、そのままくるりと背を向ける。「会わせたい人がいる」「誰?」答えが返ってこないまま、蓮の背中はどんどん遠ざかっていき、知枝も慌ててその後を追った。二人は前後になって歩き、霞月亭の裏口へと続く細い路地に入り込んだ。路地のすぐ脇には店の厨房があり、いくつものゴミ箱が並んでいた。生ゴミの臭いに油の焦げた匂いが混じり合い、空気にはどこかむっとするような湿気がこもっている。何が目的なのか見当もつかず、「蓮さん、こんなところに連れてきて、どうするつもり?」と知枝は尋ねた。蓮はそこで足を止め、半身だけこちらに向き直る。その動きにつられて視線をずらすと、ゴミ箱の脇にうずくまる影が目に入った。地べたには女がへたり込んでいる。乱れた長い髪が顔を隠し、スカートの裾には吐しゃ物がついて足に貼りつき、見るからに惨めな有り様だった。知枝は一目で蛍だと分かり、思わず息を呑む。「どうして沢原がこんなところに?」「今夜、俺に提携の話を持ってきてな。結局、かなり飲むことになった」蓮は片手をポケットに突っ込み、蛍を見下ろしながら、あからさまな嫌悪を隠そうともしなかった。その言葉
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第73話

「……」蓮は黙り込んだ。夜風が吹き抜け、知枝は思わず身震いした。「なんで黙ってるの?」知枝の声は少し強張っていた。蓮がこんなことをしたなんて、どうしても信じられなかった。蓮はいつだって大人たちが褒める「よその子」みたいな存在で、聞き分けがよくて落ち着いていて、有能で、失敗とは無縁の人間だった。七瀬テクノロジーはここ二年、自動運転システムに力を入れてきたのに、そのトップである蓮が、よそのシステムに不正アクセスして事故を起こしたのかもしれない。そんなことが明るみに出れば、どれだけの悪影響が出るか。考えるだけで、知枝はぞっとした。知枝は蓮の手を半ば強引につかみ、そのまま足早に路地を出た。「知枝」蓮が困ったように呼び止める。知枝は歩みを緩めず、「蓮さん、私のことにはもう口を出さないで。蛍のことは自分でケリをつけるから、蓮さんが背負う必要はない」と言った。「知枝」蓮が知枝の腕を掴むと、その勢いで知枝は危うく胸元に飛び込みそうになった。彼に触れた瞬間、火のついたものにでも触れたみたいにぱっと身を引き、頑ななほど真剣な目で蓮を見上げる。「お願い……もう手を出さないで。蓮さんにまで迷惑をかけたくないの」蓮はいっとき言葉を失い、彼女の瞳の奥に浮かぶ不安と拒絶を見て、胸の内側が大きく波打った。喜びが一気に広がり、酒のせいもあって頭がじんわり熱くなる。気持ちを抑えきれずに知枝の肩を掴み、どこか食い気味にたずねる。「知枝、お前、俺のこと心配してるのか?」「じゃなきゃ何なの?こんなことしてるのがばれたら、蓮さんのこれからが……」「構わない。俺はどうなってもいい」蓮は高鳴る気持ちを必死に押さえ込みながらも、その視線には隠しきれない熱が灯っていた。じっと見つめられて居心地が悪くなった知枝は、蓮の手を振りほどき、一歩下がる。「蓮さんが私のこと、妹みたいに思ってくれてるのは分かってる。だから、私が傷つくのが嫌なんでしょ。でも、妹として頼りないって思わないで。蓮さんに恥をかかせような真似はしないし、誰かに好き勝手やらせたりもしないから」「……」妹?また妹かよ。そんな兄のふりなんて、誰がするかよ。蓮は拳をぎゅっと握りしめ、喉まで出かかった言葉をどうにか押し戻した。まだその時じゃない、と自分に言
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第74話

知枝は霞月亭での出来事を、たいして気にも留めなかった。蓮なら自分の言うことを聞いてくれると、心の底から信じていたからだ。美南の家に戻ると、玄関にキーを置き、部屋に引っ込んで少しでも睡眠を稼ごうとベッドにもぐり込んだ。けれど、眠りに落ちて間もなく、無情にも目覚ましが鳴り響いた。前の日に昌成と約束してあった。今日は国有の自動車メーカーを一通り見て回り、ついでにプロジェクトチームのメンバーにも紹介してもらうことになっている。知枝はあくびが止まらないまま、気力だけでベッドから起き上がり、顔を洗って歯を磨くと、たっぷり注いだブラックコーヒーを流し込み、トーストをくわえるように持って慌ただしく家を出た。やっぱり、自分の車を一台持っていると全然違う、と認めざるを得ない。とくに通勤ラッシュの時間帯でも、タクシー待ちの列を気にせずに済むのは大きい。自動車メーカーの工場は郊外にあり、知枝は混み合う市街地を抜けると、そのまま車を飛ばして約束の時間より五分早く到着した。工場の駐車場に車を入れたあと、車内で残りの朝食をちょうど食べ切れる余裕があった。やがて昌成がチームのメンバーを連れて姿を見せ、知枝はその姿を確かめてから車を降りた。知枝を見つけた昌成は、ぱっと笑顔になって声を掛ける。「知枝、おはよう」知枝も口元をほころばせ、「先生、おはようございます」と返した。「さ、みんな、紹介しておくよ」昌成は知枝の腕を軽く引き寄せ、メンバーの前へと連れていく。「前に話していた間宮知枝だ。これからの自動車メーカーとの共同プロジェクトは、彼女がリーダーになってみんなを引っ張っていく」知枝は思わず目を瞬かせた。リーダーの話なんて、昌成から一言も聞かされていない。その場にいた他のメンバーたちの表情もわずかに曇り、どう見ても納得していない顔つきだ。「先生、俺たちだってもう三年は先生のもとでやってきたんですよ……彼女なんてラボに入ったばかりなのに、いきなりプロジェクトリーダーって、さすがに早すぎませんか?」「俺たちはてっきり藤宮さんがリーダーになるもんだと思って、この案件に志願したんです。なのに、いざ始まってみたら全然知らない新入りで……本当に大丈夫なんですか」「先生、もう一回考え直してくれませんか。俺たち男ばっかのチームを女の人に仕切らせるなんて
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第75話

チームのメンバーたちもその後ろについて歩きながら、担当者のあからさまなひいきぶりに気づいていた。メガネの男が大地の横に身を寄せ、「藤宮さん、この人も間宮のこと知ってるんすか?」と小声で言った。「知らないやつのほうが珍しいだろ」大地はどこか含みのある目つきで、じっと知枝の背中を追いながら、「あの人、前は津雲家の若奥様だったんだぞ。この業界の偉い連中とも、相当つながりがあるはずだ」と言った。「家柄も良くて、嫁ぎ先も一流だった女はさ、離婚したってそれなりにおこぼれはあるもんだよ」メガネの男はすっかり同意した様子でうなずき、「藤宮さんの言うとおりっすよ。どの業界にも損得勘定でしか動かない連中いますしね。この担当の人と小林先生、たぶん同じこと考えてますよ」と付け加えた。一時間あまり工場を回ったところで、見学はひとまず終わった。担当者の誘いで、一同はそのまま昼食をともにすることになり、食事の席で昌成が知枝をリーダーに据える話を切り出した。「いいですね!」担当者は笑顔で、「間宮さんなら、きっといい仕事をしてくれますよ」と言った。さっき工場を見て回っている間も、知枝は次々と質問を投げかけ、その答えを踏まえていくつも提案まで口にしていた。そこでようやく、彼は知枝が自分の想像していたような、ただの飾りみたいなお嬢さんではなく、ちゃんと腕の立つ人間だと思い知らされたのだ。なるほど、あの安雄がわざわざ顔を立ててまで彼女を紹介してきたわけだと、そこで腑に落ちた。今日一日接してみて、彼はいつの間にか、知枝ならきっと自分の想像をいい意味で裏切ってくれるかもしれないと期待するようになっていた。チームの面々も、担当者があまりにもあっさり話を受け入れたのを見て、内心では面白くないものの、誰一人として反対の声は上げられなかった。食事が終わるころには、誰もがそれぞれに複雑な思いを抱えていた。店の外に出ると、担当者は昌成の腕を取って、人目の少ないところへと連れていった。知枝は一人でチームの面々と向き合い、「私がリーダーっていうの、みんな納得いかないのは分かってる。私だって、今日初めて聞かされたんだ」と切り出した。「私にとって大事なのは、肩書きがあるかどうかより、ここで皆さんと一緒に仕事をして、お互いに成長していけるかどうかです。だか
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第76話

ふと、蛍は数日前に間宮家の別荘の門の前で蓮の姿を見かけたことを思い出した。あの日、蓮は門を一歩もくぐらず、よく分からないことを言い残し、そのまま帰っていった。よく考えてみれば、あのとき蓮が会いに来た相手は、知枝だったと考えるのがいちばん自然だ。そういえば、知枝は昭とも顔を合わせたことがある。そう考えれば……蓮が知枝を知っていても、何ひとつ不思議じゃない。もしかして、自分が七瀬テクノロジーとの提携をなかなかまとめられなかったのも、裏で知枝が手を回していたせいなのだろうか。そこまで考えが及ぶほどに、蛍の顔色は見る見るうちに険しくなっていった。蓮と昭、あの兄弟と知枝が、ここまで深い縁で結ばれているなんて、蛍は夢にも思っていなかった。知枝が、その二人をいとも簡単に動かせる立場にいるなんて。思い返せば、昨夜味わったあの屈辱の数々も、突き詰めれば全部、知枝のおかげというわけだ。怒りが頂点に達した蛍は、逆におかしさが込み上げてきて、ベッドの上に腰を下ろしたまま、まるで狂ったように笑い出した。「そうね……」知枝がそこまで必死に四億円を取り戻そうとしているのなら――望みどおりにしてやればいい。蛍はスマホを取り出し、典子にメッセージを送った。【知枝さんから明細のリストが届きました。もしお時間があれば、今お会いして少しお話しできませんか】……夕方近く、蛍は典子と顔を合わせ、知枝があり得ないことを要求してきたと、事情を自分の都合のいいように盛って話して聞かせた。話を聞き終えるなり、典子は怒りにまかせてテーブルを思いきり叩いた。「本当に、どこまでふざけてるのよ!健司を留置場送りにしただけでも足りないっていうの?今度はあなたからまで金をむしり取ろうとしてるわけ?健司が会社の金を着服したって、いったいどんな証拠があるっていうのよ!「もう弁護士に離婚の手続きは頼んであるの。離婚だってすぐに成立するわ!あんな性根の腐った女、健司はとっくに見切りをつけるべきだったのよ!」それを聞いた蛍は思わず目を見開いた。「知枝さん、本当に健司さんと離婚するつもりなんですか?」「本気だろうが見せかけだろうが、もう離婚協議書には二人ともサインしたのよ。あとは役所の手続きが終わるのを待つだけ」典子は苛立ちを抑えきれず、湯飲みを唇まで運んだ
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第77話

多くも少なくもなく、彼女が蛍に返せと求めていた「健司が流していた金」の残り半分とぴったり同じ額だった。すぐそのあと、蛍からのメッセージが画面に飛び込んできた。【お金はもう振り込んでおいたわ。間宮、今回くらいは譲ってあげる。まだまだ先は長いんだから……これからゆっくり勝負させてもらうわね】メッセージを読み終えた知枝は、呆れたように小さく息を吐き、そのまま迷わず蛍の番号を着信拒否リストに放り込んだ。金さえ入ってしまえば、目障りな存在を残しておく理由なんてない。知枝はスマホをしまい、ドアを開けて家に入ると、美南が弾むような足取りで飛び出してきた。「知枝、紫苑館の所有者がわかったよ。伊藤っていう男の人で、連絡先の番号まで調べておいた」美南は電話番号を書きつけた付箋を知枝に差し出し、「調べてみてびっくりだよ、当時の売買価格、相場の何倍も高かったんだから」と言った。「競売でこんな値段がつくなんて、ほとんどありえないことよ。それに、あなたの祖父母はあそこで……」美南はそこまで言って、はっとして自分の口を押さえ、「ごめん」と申し訳なさそうに知枝を見つめた。「気にしないで」知枝は付箋を受け取り、どこか自嘲めいた笑みを浮かべた。「もし本当に幽霊なんているなら……祖父母だけは、まだあの家にいてくれたらよかったのにね。他の人から見ればいわくつきの家でも、私にとっては、あそこだけが本当の家なんだ」その言葉に、美南は胸が締めつけられる思いがして、そっと知枝の手を握ったが、気の利いた慰めの言葉はなかなか出てこなかった。幸い、知枝はすぐに表情を明るくし、「美南、本当にありがとう。また大きな貸しを作っちゃったね。紫苑館を買い戻せたら、そのときは絶対ごちそうするから」と冗談めかして言った。美南はこくりと頷き、「うん、その約束、忘れないからね!」と笑った。そのあと、知枝は自分の部屋に戻り、付箋の番号をスマホに打ち込んで、先方に電話をかけた。呼び出し音が途切れたところで、男の声が聞こえてきた。「もしもし、どちら様ですか」知枝はわずかに眉をひそめた。この声、どこかで聞いたことがある気がする。けれど、どこで耳にした声なのか、すぐには思い出せない。知枝はひとまず礼儀正しく、「あの、私、間宮知枝といいます。紫苑館を買い取りたいと思
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第78話

二日後。健司が保釈になったという話が、知枝の耳にも入った。電話口で美南が毒づく。「津雲の連中って、本当に抜け目ないよね。健司が入ってまだ数日でしょ?もう手を回して外に出してくるなんて、どんな仕組みよ……!うちの先輩だっていろいろ動いて止めようとしたのに全然歯が立たなかったし、鉄舟重工の法務部ってほんとタダ者じゃないわ。ああいう根回しだけはやたらと上手いんだから!こういうときだけ世の中って現実的すぎて、ほんと嫌になる……」「……」美南はしゃべればしゃべるほど腹が立ってきて、もう弁護士らしい体裁なんてどうでもよくなっていた。一方の電話の向こうで、知枝はずっと黙り込んだままだった。美南はそこでようやく察して、言い方を変えながら宥めるように言った。「知枝、そんなに落ち込まないで。健司はまだ保釈されただけで、無罪ってことじゃないから。三か月後にはちゃんと裁判が待ってるんだからね。健司は法律を犯したんだし、それ相応の罰は必ず受ける。この点だけは私も先輩も保証できるから」「……うん」知枝は、どこか塞ぎ込んだ声でそう返事をした。覚悟はとっくにできていた。津雲の家がどれだけ手を回せる家なのかも分かっていて、健司を外に出すこと自体はきっと難しくないと知っていた。それにしても、あまりにも早すぎた。離婚の手続きが全部終わる前だというのに、もう健司は外に出てくる。「知枝、今どこ?今夜は早めに帰ってこない?なんか美味しいもの用意してあげるから」美南が気遣うように言った。「紫苑館にいるの。あの伊藤さんと、直接会って話してみたいの」それを聞いて、美南はほっと息をついた。「そっか。じゃあ、とりあえず会えるかどうかだけでも確かめてみて。もし話がこじれそうだったら、時間作って一緒に行くから」「うん。じゃあ、仕事戻って」通話はそこで終わった。知枝は鉄の門の外に立ち、顔を上げると、庭の奥にこんもりと茂った柿の木が見えた。子どものころ、塀によじ登って柿を落として遊んだ日のことがありありとよみがえり、「気をつけなさいよ」と笑いながら何度も声をかけてくれた祖父母の姿まで浮かんできた。祖父母は一人娘を何より大事にしていて、その愛情は唯一の孫娘である知枝にも、そのまま注がれていた。この古い屋敷は、知枝にとって、子どものころの心配事
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第79話

「知枝、あんたはやったことのツケをいつか必ず払うことになるんだからね!離婚したって間宮家には戻れないわよ。そのときになって健司に泣きつくんじゃないよ!」「……」罵りの言葉が一気にぶつけられた。知枝は聞こえないふりをしてしゃがみ込み、床に落ちた書類を拾い上げた。紙面に目を通すうちに、胸の奥がようやく静かに落ち着いていった。よかった。これで自分と健司の縁はきれいさっぱり切れた。「離婚協議書の財産分与もはっきり書いてあるし、健司の自筆のサインもあって、何も問題は……」「あんた、まだお金を取るつもりなの?」典子が甲高い声で、その言葉を鋭く遮った。その一言で、知枝はすぐに察した。蛍のあの金は、やっぱり典子に請求していたのだ。しかも、典子がここまで怒っているとなれば──蛍が相当話を盛って伝えたに違いない。そうやって借金はきれいに片づけ、ついでに怒りの矛先をずらして、典子を自分のところへ向かわせたというわけだ。蛍は本当に頭が回る。けれど、蛍はひとつ読み違えている。いまの知枝の腹の据わり方だ。まだ昔みたいに、都合よく扱えるおとなしい女だと思っているのだろうか。知枝はすでに、詳細なリストを安雄のところへ送ってある。健司が会社の金に手をつけたことは、もう隠しようがない。今、自分がこうして少しばかり嫌な思いをしている分、健司が背負うことになる痛みは、この何倍も重いはずだ。知枝は書類をそっと握りしめ、落ち着いた目で典子を見据えた。「私が受け取るのは、自分の取り分だけです。協議書にきちんとサインがある以上、それはもう法律的に有効なんですよ。もし財産分与の振り込みがいつまでもされないようなら、こちらから裁判に持ち込むだけです」「あんた……!」典子は怒りで顔を紅くし、思わず手を振り上げたが、その手首を知枝にしっかりつかまれた。「帝都中に『津雲家が慰謝料をごまかした』なんて話が流れて困るのは、そっちでしょう?払うものは払ってください。減らすなんて通りませんよ。払わないなら――もう誰も津雲家なんて相手にしません」言い終えると、知枝は手を離した。その冷えた視線に射すくめられて、典子は言葉を失う。典子は、目の前の女を信じられないものを見るように見つめた。記憶の中の知枝とは、まるで別人だ。ここへ来るまでに、典子は何
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第80話

書斎の入り口に立った知枝は、ようやく部屋の中の様子をはっきりと目にすることができた。健司は床に膝をつき、背中から滲み出た鮮血が白いワイシャツを赤く染め、見るも無惨な姿だった。典子は顔を涙で濡らしながら、必死に健司を庇い、頑としてその場を離れようとしなかった。浩一は妻子の傍らに立ち、苦渋に満ちた表情で三郎を見つめた。「父さん、俺の教育が悪かったんだ。まだ気が済まないのなら、俺に当たってくれ」「お前を許すとでも思っているのか!」三郎は怒りのあまり足元をふらつかせ、片手で杖をつきながら、もう片方の手で血に濡れた鞭を振り上げた。「今夜は本家の持仏堂で頭を冷やせ!」その藤の鞭の先が、続けざまに健司のほうへ突きつけられる。「俺がお前をどれだけ信頼して、鉄舟重工をいずれ任せようとまで思っていたか分かっているのか。それなのに会社の金をくすねて女を囲うとは、どういう了見だ!こんなことが株主どもの耳に入ったら、俺の顔は丸つぶれだぞ。どうやって説明しろと言うんだ。自分の手で、鉄舟に会社を食い荒らす虫けらを送り込んだみたいじゃないか!」三郎の怒りは言葉を重ねるごとに膨れあがり、藤の鞭を振りかぶると、そのまま容赦なく振り下ろした。典子はほとんど本能で身を翻し、健司を庇うように背中を向ける。その背に藤の鞭をまともに受け、瞬く間に皮膚が裂けて血がにじんだ。書斎じゅうに、凄まじい悲鳴が響き渡る。健司は慌てて典子の身体を支え、「母さん、俺のことはほっといてくれ!」と叫んだ。なんともまあ、絵に描いたような母子愛だ。知枝は思わず拍手でも送りたくなるのをこらえる。ここまで派手な見世物が見られるなら、わざわざ足を運んだ甲斐もあるというものだ。気配に気づいたのか、健司がふと入口の方に顔を向けた。そこで、冷ややかに状況を眺めている知枝の視線とばっちり目が合い、胸の奥がひやりと凍りついた。三郎は昔から躾に厳しく、健司も若い盛りには何度も罰を受けてきた。そのたびに知枝は健司のそばに付き添い、三郎に頭を下げて取りなしたり、ときには一緒に罰を受けることさえいとわなかった。三郎も知枝のことは可愛がっていたから、彼女の顔を立てて何度も折檻を途中でやめたものだ。それなのに今、知枝はこんな重い罰を受けている健司を目の当たりにしても、表情ひとつ動かさない
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