All Chapters of 愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

「それに、会社の金がどうこうなんて話、私は一度もしていません……」知枝はいったん言葉を切り、唇の端にかすかな苦笑を浮かべた。「沢原さんは健司からあれだけお金を受け取ってきたんですから、そのお金がどこから出ているのか、誰より分かっていたはずです。あの人のためにここまで身を投げ出すなんて、私には夢にも思えませんでした」話を聞き終えた三郎の胸の内で、ようやく合点がいった。知枝は正妻として当然の権利を守ろうとしただけだ。尻ぬぐいをさせる相手を探していたのはむしろ蛍のほうで、わざと火種をまき、典子を利用して自分の代わりに矢面に立たせたのである。典子も薄々それに気づきながら、どうしても認めようとしないのが見て取れた。「そ、そんなはずないわ!」典子はきっぱりと言い切る。「蛍が私をだますはずない!健司をここまで追い詰めたのは、全部知枝が仕組んだことよ!お父さん、知枝の言い分だけ信じちゃだめ!この女は……」「黙れ!」三郎が一喝した。「典子、お前、本当にどうかしてるぞ!知枝はお前の嫁だろ。それを信じもせずに、赤の他人の女を信じる気か!」典子は食い下がるように叫んだ。「お義父さん、健司をめちゃくちゃにしたのは知枝よ!」「もういい!」三郎の怒りは頂点に達し、目の前の親子三人に対して心の底から失望していた。「健司が会社の金に手をつけていた件を見つけたのは安雄だ。あいつは帰国したばかりで、鉄舟重工を急きょ引き継いだんだ。過去の帳簿を洗い直しておかなきゃ、安心して会社を任されるはずがないだろう。知枝は周家の人間とはいえ、鉄舟重工の帳簿に触れる権限なんかない。健司がどんなバカな真似をしていたか、知るはずがないじゃないか!」……典子は言葉を失い、反論のひと言も出てこなかった。隣にいた健司が、ゆっくりと口を開いた。「おじいさん、蛍も、俺の金がどこから出てるかなんて知らない」その言い訳を聞いた三郎は、怒りのあまり乾いた笑いを漏らした。「この状況になってもまだ、知枝の目の前でよその女を庇うつもりなのか?」「俺は、事実を言っただけだ」さきほど三郎が述べた説明は、そのまま「知枝には何の落ち度もなく、嘘をついて金を巻き上げたのは蛍だ」と皆に宣言したも同然だった。健司は、それ以上蛍に新しい罪をかぶせるような真似を、黙って見過ごすこ
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第82話

三郎の顔色がさっと変わった。「お前たち、本当に離婚したのか?」健司のほうがさらに顔をこわばらせていた。あの日、知枝が留置場を後にしてからというもの、健司はずっと考え続け、結局どうしても彼女を手放すことができないままだった。その後、弁護士から保釈のめどが立ったと聞かされると、胸を躍らせた。外に出られたら直接会って頭を下げて、許しを乞い、どうにかしてあの離婚協議書を取り消してもらおうとまで思っていたのだ。ところが……いま目の前で知枝の手に握られていたのは、離婚が正式に成立したことを示す書類一式だった。その現実を見た瞬間、健司の心は一気に崩れ落ちた。「知枝、待ってくれ……」健司は身を起こそうともがいたが、傷だらけの背中が悲鳴を上げ、腰を伸ばすことすらできない。典子があわてて健司の体を支えた。「健司、あんた……」「どうして勝手に離婚の手続きを進めたんだよ!」健司は目を赤くし、歯を食いしばって問い詰めた。「俺に一言でも相談したか?」典子は一気に理不尽さが込み上げてくる。「だってあんた、自分で離婚協議書にまでサインしたじゃないの。あの女なんかさっさと振り切りたいからでしょ。ぐずぐず引き延ばしたってろくなことにならないんだから……」「俺は、離婚なんかしたくない!」健司は典子の手を乱暴に振り払い、知枝のほうを振り向いた。あまりの動揺で、口から出る言葉もうまくつながらない。「知枝、この前あの離婚協議書にサインしたのは……その場の勢いだったんだ。お前が出て行ってから、俺なりにずっと考えてた。できる限りのことをして償う。お前にしてきたことは、全部きちんと責任を取る。だから、お前は……」「でも、私は本気で別れたかったの」知枝は冷ややかに言葉を遮った。その大きな瞳には、澄んだ冷たさがはっきりと宿っている。別れるだけじゃ足りない。この男のことは、八つ裂きにしてやりたいとさえ思っている。健司は、その決意を帯びた瞳に刺し貫かれたような心地がして、つい口を滑らせた。「……お前、本気で考えたことあるか?俺と離婚したら、帝都じゅうどこ探したって──お前を嫁にもらおうなんて男、他にいないんだぞ」「ふっ」知枝は鼻先で笑った。「今のが、そんなにたいした脅しになると本気で思ってる?」「忠告してるだけだ」健司は次第に調子を取り
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第83話

来るときは典子の車だったくせに、帰ろうとしたらタクシーが一台も拾えない。知枝はやれやれとスマホをしまい、「今日はもう歩いて降りろってことね」と自分に言い聞かせた。くねくねと続く山道を下りながら、頭の中も胸の中もすっかり空っぽだった。津雲に嫁いで五年、そのあいだ知枝は津雲家の若奥様らしくあろうとして、義母の典子が決めた家の掟を守り、品がよくて分別のある女になろうと必死で自分を押し込めてきた。結局、その「らしさ」は最後まで身につかなかった。でも、それでいい。どうやっても馴染めない家に、これ以上無理やり自分を合わせる必要なんてない。山の風がふっと吹き抜けてスカートの裾を揺らし、その拍子に体じゅうから力が抜けていくのを感じた。心の中で「津雲家の若奥様なんて、くそくらえだ」と毒づく。そのとき、後ろから一台のマイバッハがゆっくりと近づいてきた。エンジン音に気づいて足を止め、振り向くと、マイバッハがちょうど自分のすぐ横に停まったところだった。窓がするりと下がり、安雄が知枝のほうを見て言った。「乗れ」知枝は反射的に断ろうとしたが、ここからタクシーを拾える場所まで歩いたら一時間はかかりそうだと頭の中でざっと計算する。「じゃあ……ありがとうございます、おじ……」と言いかけて、あわてて言い直す。「お手数をおかけします、安雄さん」安雄は何も返さず、そのままスイッチに触れて窓を上げた。知枝は特に気にも留めず、車を回り込んで反対側の後部座席に乗り込む。車内にはしばらく言葉ひとつ落ちない。知枝は前を向いたまま、胸の中に言いたいことを山ほど抱えながらも、どこから口を開けばいいのか分からない。その気配に気づいたのか、安雄が横目で一度だけ視線を寄こし、「どうして俺がお前を助けたのか、知りたいか」と問うた。知枝は一瞬きょとんとして、「聞いていいんですか」と返す。図星をさされたように目を丸くする彼女の顔を眺めて、安雄は口元を緩めた。「自分で選んだ手駒すら信じられないとはね。知枝さんは、いつもそんなふうに運任せで動くのか?」窓の外はよく晴れていて、金縁の眼鏡の下でふっと生まれた笑みが、いつもの冷たさをいくらか薄める。そのせいか、目尻のほくろまで少し色っぽく見えた。笑った顔は、人を惑わせずにはおかない、どこか底知れない美しさを
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第84話

「俺のため?」健司は冷えた声でそう返した。典子は、健司が不満を必死に押し殺していることなど少しも気づかず、一人でしゃべり出した。「前から私は知枝のことが気に入らなかったのよ。たいした家でもないところの娘が津雲に嫁げたなんて、それだけで十分ありがたいと思うべきなのに。なのにあの子ったら、義父母の世話ひとつ満足にできないの。いちいち私が手取り足取り教えてあげないと、お風呂で足を洗わせてもお湯加減も分からなくて、何度もヤケドするところだったんだから……」「母さん、知枝に足なんか洗わせてたのか?」健司は目を見開き、典子を見つめた。「足を洗わせるくらい、どこが悪いのよ。目上を敬って親孝行をするってどういうことか、体で覚えさせてるだけじゃない」典子は自分のどこにも非があると思っておらず、むしろ胸を張って続けた。「私は家のしきたりを教えて、津雲の若奥様にふさわしい人間にしてあげようとしているだけよ……」「母さん」健司はかすかに声を震わせた。「……そんなこと、知枝は一度も俺に言わなかった」「言わないほうが正解でしょ。ちょっとぐらい我慢したくらいでいちいちあんたに泣きついてたら、どれだけ甘ったれなのよ……」「言わなかったのは、俺と母さんの関係を壊したくなかったからだ。俺を困らせたくなかったんだよ!」健司は突然声を荒げ、その勢いに典子は本気でびくりと肩を震わせた。典子はその場にへたり込み、胸に手を当てて血の気の引いた顔でつぶやいた。「あんた、あの女の味方なんてして……お母さんに向かって怒鳴るなんて……?」思い返せば、この何年かで知枝をいびったことは一度や二度ではない。そのうちのいくつかについては、健司も承知していたはずだが、口を出したことは一度もなかった。その黙認があったからこそ、典子はどんどんエスカレートして、知枝を躾けてきたのだ。少し前に健司にあれこれ問題が降りかかったときでさえ、むしろ自分が甘すぎたから知枝にあんな馬鹿な真似をする度胸をつけさせてしまったのではないかと、真面目に反省すらしていた。ところが、今日の健司の反応は、そのどれとも違って見えた。どうやら本気で離婚したくないどころか、今でも心のどこかで知枝の居場所を残しているらしい……このとき、健司はしばらく典子を見つめていたが、目の中の怒りの
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第85話

今のこのブレスレットは、修理してもらったとはいえ、もう昔のままの姿じゃない。母が見たら、怒るだろうか、とふと不安になる。知枝はもう片方の手でブレスレットをぎゅっと握りしめ、そうしていれば母の手まで一緒に握っていられる気がした。店を出て、茂夫に支えられて車に乗り込む安雄の背中を見ていた知枝は、ふと何かを思い出し、そのまま慌てて後部座席に滑り込んだ。「安雄さん、ひとつ伺いたいことがあるんですが」知枝は真剣な眼差しで安雄を見つめ、「紫苑館の持ち主の方と、面識がおありですよね?」と切り出した。探るような視線を受けて、安雄の表情に一瞬だけためらいがよぎるが、すぐ何でもないふうに「……何か用か」と返した。その一言で、知枝は「これはいける」と直感する。思わず胸の内で小さくガッツポーズを決め、こくりとうなずく。「紫苑館を買い戻したいんです。あそこは、母方の祖父母が残してくれた財産なので。今は友だちの家に居候させてもらってますけど、いつまでも甘えているわけにもいかなくて。いずれは出ていかなきゃいけないし、あれこれ考えた末に、やっぱり紫苑館に戻りたいと思ったんです。一度、現在の持ち主の方に連絡を取ろうとしたんですけど、売るつもりはないの一点張りで、きちんと話を聞いてもらうこともできなくて。もしご存じの方なら、私の願いだけでも伝えていただけないでしょうか」このところずっと、紫苑館を買い戻したいという気持ちは膨らむ一方だった。あの家はもう誰も住んでいないけれど、建物だけは変わらずそこにある。そこへ戻るということは、知枝にとって――失われた家族の温もりに、もう一度そっと触れるようなものだった。「もし向こうが売ってもいいと言ってくれるなら、値段は言い値で構いません」知枝はきっぱりとそう言って、自分の覚悟を示した。「……」安雄はしばし黙り込み、頭の中でいくつもの考えが行き来した。本当なら「紫苑館は俺の持ち物だ」と一言告げれば済む話なのに、その言葉が喉元まで出かかって、どうしても外に出てこない。「分かった」最終的に、安雄はそれだけをあっさりと口にした。紫苑館を手放すつもりなど毛頭ないことを、分かっているのは彼自身だけだ。希望が見えた気がした知枝は、その場で何度も頭を下げて礼を言った。そのあとは、車内に言葉らしい
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第86話

安雄はふと尋ねた。「このところ、知枝からまだ連絡は来ているか?」蒼真が答えた。「はい、ありましたけど、もう出ないようにしています」蒼真は安雄の背中に目をやり、気になって尋ねた。「紫苑館を彼女に売るおつもりなんですか?」安雄は短く首を振った。「いや」とだけ答え、少し間を置いてから、「少なくとも、今じゃない」と付け足した。蒼真はすぐに意図を読み取り、深くうなずいた。「承知しました。安雄様のご指示がないかぎり、一切漏らしません」「ああ」安雄は窓の外の夜景に目を向ける。中庭の柿の木が風に揺れていた。ここに住んでいたのはそう長くはない。それでも、この紫苑館には心の底から愛着がある。岸元家の老夫婦は戦後のインテリらしく、この紫苑館を建てるときも、内装から動線の取り方に至るまで細部に心を砕いていた。屋敷のあちこちから家庭の温かさと本の匂いが漂い、そこに年月の積み重ねが生む静けさが混じっている。この紫苑館に一歩足を踏み入れた途端、胸の奥がふっと静まる。正直なところ、この家を手放す気にはどうしてもなれない。安雄がそれ以上何も口にしないので、蒼真は視線を落とし、思わずその脚に目をやった。あのとき、安雄が海外へ渡るときに連れて行ったのは、蒼真ただ一人だった。丸八年、蒼真は安雄が何度も転び、また立ち上がる姿を間近で見てきた。その日々を、傍で見ていた自分ですら思い返せば息苦しくなるほどだ。当事者の安雄にとっては、なおさらだったはずだ。あれほどの苦しみと絶望の連続にもかかわらず、結局のところ安雄は折れなかった。今でも鮮明なのは、三年前、安雄が震える足で立ち上がり、最初の一歩を踏み出したあの光景だ。長年そばに仕えてきて、あのとき初めて、蒼真は安雄の目に涙が浮かぶのを見た。帰国が決まる前、安雄は、倉庫で埃をかぶっていた車椅子を引っ張り出すよう蒼真に命じた。その車椅子に安雄が腰を下ろしたとき、蒼真は正直、理由が分からなかった。けれど時間がたつうちに、少しずつ分かってきた。安雄は、実力を隠すためだけに車椅子に戻ったわけじゃない。津雲家をどれほどみじめな姿で後にしたのかを、いつも自分に思い出させるためでもあるのだ、と。それに、あの事故の黒幕は今もなお姿を見せていない……「来月にはホライズン・テクノロジーの本社が正
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第87話

話を聞き終えると、知枝はこくりと頷いた。「分かってます。だから、もっと時間をかけてじっくり学びたいんです」「まったく、君って子は!」昌成の笑みがさらに深くなる。「本当に君にはかなわないな。学生の頃とまるで変わってないじゃないか」もともと昌成は、長く穏やかな生活を送ってきた知枝が、ラボのハードな仕事にきちんとついてこられるか心配していた。ところがふたを開けてみれば、誰より自分でアクセルを踏んでいる。「そこまで知りたいって言うなら、こうしようか……」昌成は少し考えてから言った。「来週、海外のラボとの交流研修がある。一緒に行ってみないか」知枝の目がぱっと輝く。「本当ですか?うれしいです!」うれしさを隠しきれないその顔を見て、昌成は胸の奥がじんわり温かくなる。そっと彼女の肩を軽く叩き、「今日はそろそろ帰れ。この数日はしっかり準備して、自動車メーカーとの共同プロジェクトの段取りをちゃんと整えておきなさい」と言った。「大丈夫です、任せてください!」知枝は明るくそう答えると、手にしていた書類を机に置き、昌成にひと言挨拶をしてから、足取りも軽くラボを後にした。彼女がエレベーターで下のフロアへ降りていくのを見届けてから、暗がりに潜んでいた人影がようやく姿を現した。昌成は安雄のそばまで歩み寄り、「さすがおじさんってところだな。俺なんかよりよっぽど知枝のことを気にかけてる。外に連れ出して気分転換させようなんて、俺は全然思いつきもしなかったよ」と苦笑まじりに言った。「おじさんって言っても、彼女より数歳上なだけだがな」安雄は知枝が去っていった方角を見つめ、感情の読めない眼差しのまま口を開く。「それに、知枝はもう健司と離婚してる。俺なんか、親戚面する資格もないさ」「え?」昌成は首をかしげて安雄を見下ろした。言っていることはもっともだが、どこか引っかかる。長年の付き合いからしても、安雄がここまで他人のことを気にかけるのは、ほとんど見たことがない。最初は、親戚としての気遣いなのだろうとばかり思っていた。ところが、今の一言は、その縁をあっさり切り離したようにも聞こえる……まさか、別の狙いでもあるんじゃないだろうな。安雄は、昌成の探るような視線などまったく気に留めず、いつまでも視線を戻そうとしなかった。あの日、二人が津雲家
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第88話

翌朝早く、健司は警備の制止も聞かず、車を走らせて津雲家本邸を飛び出した。二階のベランダでは、三郎が熱い茶をすすりながら、車のテールランプが見えなくなる方角をじっと見つめていた。その背後に控えていた執事が、小さな声で尋ねた。「誰か後をつけさせましょうか」「いや、いい」三郎は茶碗を置き、どこか考え込むように言った。「いつまでも家の中に閉じ込めておくわけにもいかん。自分で探しに行かんと分からん答えもある。結局のところ、あいつ自身が動かなきゃ取り返せんのかもしれん」健司に、知枝をもう一度こちらへ向き合わせるだけの力があるというのなら、それはそれで悪くはない。裁判まであと三か月。そのあいだに健司がどうやって知枝の心を動かし、訴えを取り下げさせるかにかかっている。「はあ……」三郎は深くため息をつき、「俺だって、あんなに出来た孫の嫁を手放したくはないんだが……」とこぼした。……だが、健司が向かった先は、知枝のところではなかった。二日前、蛍からメッセージが届き、体を気づかう言葉と一緒に、会えないかという誘いが送られてきた。約束した時間と場所に到着すると、蛍はすでに茶室の席についていた。顔を上げた蛍の目にはたちまち涙がにじみ、慌てて立ち上がって健司のそばまで駆け寄る。「健司、本当に大変だったわね……」「大したことはない」蛍がそっと手を伸ばすのを見て、健司は思わず身を引き、そのまま彼女の横を回り込んで席へと腰を下ろした。宙に取り残された蛍の手は、気まずげにゆっくりと握りしめられ、胸元へと引っ込められる。その瞬間、何かが以前とは違ってしまったことを、蛍は鋭く感じ取った。「健司」蛍はなおも心配そうな顔で続けた。「典子さんから一通り聞いたわ。三郎さんも、よくあんなにきついやり方ができたものね。全部、私のせいよ。あなたのお金のことだって、もっと早く分かっていれば……」言葉を飲み込みながら、蛍の指先がそっと健司の背中をなぞる。「俺が自業自得なんだ」ここまで来てしまえば、健司はもう誰のことも責めなかったし、自分がしてきたことを悔いてもいなかった。蛍を愛し、そのためにすべてを差し出した――そこに間違いはないと今も思っている。ただ、知枝が去っていったという事実だけが、これまでにない動揺を胸に生んでいた。
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第89話

タイヤが悲鳴を上げるような音を立てて車が急停止し、相手との距離は拳ひとつ分ほどしかなかった。その一瞬で、知枝の全身に冷や汗が噴き出した。まだ心臓が荒く跳ねているうちに、その人影は運転席側へ回り込み、窓ガラスを叩いた。音に気づいて顔を向けると、ほとんど錯乱しかけた健司の顔がそこにあった。本当に頭おかしいんじゃないの。知枝は考えるより先にシートベルトを外し、ドアを勢いよく押し開けて健司の体を何歩も後ろへ弾き飛ばした。「死にたいなら一人で勝手に死になさいよ!私を巻き込まないで!」知枝は怒鳴りつけ、マンション前を行き来する人たちの視線などまるで気にも留めなかった。健司は早足で詰め寄り、知枝の手首をつかんで吐き捨てるように言った。「なんで七瀬蓮の車に乗ってやがる!」帝都の社交界なんて、広いようでいて案外狭い。大きな家同士は多少なりともつながりがある。何度もパーティーで顔を合わせるうちに、健司は蓮の車も見慣れていて、気づけばナンバーまで頭に入っていた。その今朝、蛍から、知枝と蓮の仲は思っている以上に深くて、セキメイと七瀬テクノロジーの提携も邪魔しているらしいと聞かされたが、そのときはまだ半信半疑だった。ところがさきほど、自分の目の前で知枝がその車を運転しているのを見た瞬間、怒りが一気に込み上げ、考えるより先に体が動き、車の前へ飛び出して止めにかかっていた。今も、危なかったという恐怖はかけらもなく、ただ知枝から答えを引きずり出すことしか頭になかった。男の目に宿る剥き出しの怒りを見て、知枝はすべてを察し、思わず鼻で笑った。「何様のつもり?あんたに口出される筋合いなんてないわ」そう言って、知枝は腕を引き抜こうとした。だが健司の力は異様に強く、指先にどんどん力がこもり、今にも手首の骨を砕かれそうだった。「離しなさいよ!」知枝は痛みに歯を食いしばりながら、健司をきつくにらみつけた。それでも健司はお構いなしにまくし立てる。「あいつとはどこで知り合った?なんで一度も俺に言わなかった?知枝、お前、俺を裏切ってたのか?」「……」あまりの言い草に、知枝は呆れ返るしかなかった。この男が、よくもそんなことを口にできるものだと。そのころには、周りには足を止めて様子をうかがう通行人が増え、中には二人の顔を知っているらしい者
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第90話

「知枝!」美南は息を切らせて家に飛び込んでドアを開けると、出来たてのご飯の匂いがふわっと押し寄せてきた。ちょうどそのとき、知枝が鍋いっぱいのスープを抱えてキッチンから出てきて、「いいタイミングだね。手を洗って、ご飯にしよ」と声をかけた。「こんなときに、ご飯なんか作ってる場合?」美南はテーブルまで歩いていき、信じられないものを見るように知枝を見つめた。照明に照らされたその顔は、怒っているのか笑っているのかさえ分からないほど柔らかくて、いつもと変わらない。「あのクズ、わざわざ車の前に飛び出してきたんでしょ?しかも七瀬さんとのことまで持ち出して……」言いかけたところで、美南は一気に声を荒らげた。「健司って本当に最低!口を開けばロクでもないことしか言わないし、もう離婚してるのに、わざわざデマまでばらまきに来てさ。知枝が静かに暮らしてるのがそんなに気に入らないわけ?」知枝は目を瞬かせて、「どうしてそれ知ってるの?」と首をかしげた。「マンションの住民ラインがその話で大盛り上がりなのよ。あの人たち、本当に暇なんだから……」美南はそのトーク履歴を見て初めて健司がここに現れたと知り、仕事どころではなくなってバッグをつかむと、すぐに職場を飛び出してきた。ここへ向かう道中だって、運転中じゃなかったら、あの噂好きの住人たち一人一人に文句を言って回っていたに違いない。今思い出しても胸のあたりがムカムカしてきて、「今度会ったら、ちゃんと言いたいこと全部ぶつけてやるから!」とぷりぷりしている。「もういいって」知枝はふっと笑って、「ここは美南がローンまで組んで買った家でしょ。ご近所さんとはそれなりに仲良くやっておいたほうがいいよ。わざわざ揉め事起こしたら、あとで顔を合わせるたびに気まずくなるだけだし」と言った。「どうせ私はすぐ引っ越すし、ここからいなくなれば、誰も私のことなんて話題にしなくなるよ」「引っ越すって?」と美南は眉をひそめ、「もしかして私のもてなしが足りなかった?それとも住み心地が悪い?直したほうがいいところがあるなら、私――」とまくしたてる。「もういいってば。私たちの仲で、そんな建前いちいち気にしなくていいでしょ」知枝はスープを一杯よそって美南の前に差し出し、「仕事、決まったの。今の距離だと通勤が遠すぎてね、もう少
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