All Chapters of 夫と息子の裏切り~私、この世界から離脱します: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

御影洵也(みかげ じゅんや)の攻略に成功した城崎詩織(きのさき しおり)は、愛のためにミッションワールドへ残ることを選んだ。しかし、その幸せな日々も束の間、わずか数年後。彼女は、かつてあれほど深く愛してくれた夫と、賢い息子が、とうの昔に自分を裏切り、別の女に心移りしていた事実を、偶然知ってしまう。現実に目覚めた詩織は荷物をまとめ、眠っていたシステムを呼び出した。「私、この世界から離脱するわ」洵也、あなたと息子。もう、二人とも私にはいらない。――御影家の別荘の裏庭には、たくさんのイチョウが植えられている。秋が深まると、そこは一面黄金色に染まり、まるで真夏の日差しをすべて留めているかのようだ。詩織はお茶を手に裏庭のロッキングチェアに座り、その得難い景色を静かに眺めていた。庭にあるイチョウは、すべて洵也が自ら植えたものだった。この数年間、手入れさえも彼が率先して行っていた。以前、洵也は言った。ここにある一枚一枚の葉が、二人の愛の象徴なのだと。同じように熱烈で、眩いのだと。今、詩織もこう言えるだろう。ここにある一枚一枚の葉が、二人の縮図で、遅かれ早かれ、枯れて散っていくのだと。正午から、夕日が沈むまで。詩織はずっとそこに座っていた。そしてようやく、心の中で静かに呼びかけた。「システム、まだいる?」息を殺して待つこと五分、もう誰も応えてはくれないだろうと詩織が諦めかけた、その時。脳裏に、十年近く沈黙していた声が、再び響いた。「います、宿主様」「私、この世界から離脱したい」「世界からの離脱は不可逆です。宿主様、離脱を確定しますか?」詩織は一瞬黙り、しかし、すぐに迷いのない頷きを返した。「確定よ。完全に離れるわ」「宿主様の要求を受理しました。審査通過。世界離脱のカウントダウンを開始します。十五日後、宿主様は当世界より正式に離脱します。準備を進め、当世界の家族や友人に別れを告げてください」それだけ言うとシステムは消え、詩織だけがその場に残された。彼女は自らに問いかける。「家族?」その視線は、自らの携帯の待ち受け画面に落ちた。それは、一枚の家族写真だった。写真の中の洵也は、愛しさに満ちた瞳で彼女を見つめ、彼女の腕の中には、二人の愛の結晶である、愛しい息子――御影怜央(みかげ れお)が抱かれている。
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第2話

昨日の感情の起伏が激しすぎたせいか、詩織は昼過ぎまで昏々と眠ってしまった。目を開けた途端、堪えきれない咳が込み上げてくる。とっくにドアの外で控えていた昌代が、その物音を聞きつけるとすぐにノックして入ってきて、一杯の温かい水を差し出した。「奥様、御影社長が、昼食は待たなくてよいと仰っていました」「洵也と怜央は何をしに行ったの?」詩織は習慣でそう尋ねたが、口に出した後で、ふと黙り込んだ。「本日は坊ちゃまの学校で親子運動会がございまして。旦那様は、そちらに付き添われているかと」「そんなこと、私は何も聞いていないけど?」笑い話にもならない。自分は怜央の生みの母親だというのに、その親子運動会の知らせさえ、他人から聞かされるなんて。昌代は深く考えもせずに答えた。「きっと、坊ちゃまと旦那様が奥様のお体を気遣われたのですよ。この何年もの間、私たち傍の者が見ても、あのお二人は奥様に本当に尽くしていらっしゃいましたから」「そうかしら?」詩織は微笑むと、昌代に上着を持ってこさせた。「この何年も、私は怜央の学校に行ったことすらなかった。ましてや、行事に参加するなんて。今日は少し、見に行ってみようかしら」詩織はマフラーと帽子を身につけ、ついでにマスクも手に取り、顔が分からないよう、しっかりと身を包んだ。「洵也たちには内緒にして。怜央を驚かせたいから」怜央が通っているのは、帝都でトップワンの名門私立小学校だ。この数年、洵也のそばで贅沢は見慣れていた詩織だったが、それでもこの学校の絢爛豪華さには息をのんだ。「詩織、俺はすべてを懸けて、俺たちの息子を育て上げる」――それはかつて、洵也が彼女の病床で誓った、もう一つの約束だった。今となっては、この約束だけは、彼は破っていなかったようだ。学校は、確かに親子運動会の真っ最中だ。校門の前には、ありとあらゆる高級車が隙間なく停められている。一目見ただけで、詩織は御影家のものだと分かる、あのカスタム仕様のフェラーリを見つけた。ひときわ目を引く、鮮やかな赤色だ。洵也は、あんな派手なものは好まない。むしろ、怜央の方が、誰に似たのか、幼い頃からきらびやかなものを好んだ。今日、あの車で来ているということは、彼が強くねだったに違いない。秋の風が冷たい。あれほど厚着をしてきたのに、
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第3話

詩織は手をきつく握りしめ、しばらく息を整えてから、ようやく洵也に電話をかけた。呼び出し音が一度鳴っただけで、電話は繋がった。彼の声は、相変わらず優しく、愛情に満ちている。「詩織?」「今、どこ?」詩織が見ている前で、洵也は詩穂を軽く叩いて静かにするよう合図し、それからようやく彼女に答えた。「息子を連れて、学校の行事に来てるんだ」「どうして私に言ってくれなかったの?他の子たちは、パパとママが一緒なんでしょう。怜央に寂しい思いをさせたくないわ。今からそっちへ行こうか?」洵也が答える前に、携帯は怜央に奪い取られていた。「ママ!僕だよ!」子供の、無邪気で楽しそうな声だ。「僕は寂しくないよ。ママは体が弱いんだから、来なくたって大丈夫」「本当に、大丈夫なの?」詩織は必死で呼吸を整え、自分の異変が相手に伝わらないようにした。「ママは今からでも行けるのよ」「来ちゃダメ!」怜央はやはり子供だ。慌てると、すぐにボロが出る。「あ、じゃなくて、ママ。僕が言いたいのは……」彼がどう言い訳しようか悩んでいると、大きな手が携帯を取り上げた。「詩織、運動会はもうすぐ終わる。ここは子供が多すぎて、誰かが君にぶつかったりしたら大変だ」洵也はそう話しながら、隣にいる詩穂と怜央の手を左右それぞれで握り、校門の外へと歩き出した。「息子には俺がついている。安心して」「ええ、もちろん安心してるわ」「息子は午後、俺が会社に連れて行く。君はゆっくり休んで」新しい恋人がすぐそばにいるというのに、洵也はそれでも飽きもせず、薬を飲むように、水をたくさん飲むように、裏庭は風が強いからあまり長居しないようにと、彼女に言い聞かせる。詩織は一つ一つに頷き、電話が切れそうになる、その間際に、そっと彼の名を呼んだ。「洵也」「どうした?」男の声には苛立ちのかけらもなく、顔には笑みさえ浮かんでいた。「今日、小説を読んだの。その中の主人公が病気になって、最後には、愛する人が目の前を通っても、気づけなくなるの。私たちも、いつかあなたが私に気づけなくなる日が来ると思う?」「まさか。詩織、俺がこの世界のすべてを忘れても、すべての人を忘れても、君のことだけは、絶対に見間違ったりしないさ」詩織は黙って携帯を耳に当てたまま、道端に立ち尽く
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第4話

洵也が息子を連れて帰宅したのは、もう夜の八時過ぎだった。詩織が、彼らのために食事を残しておかなかったのは、これが初めてのことだった。洵也は、綺麗に片付けられたテーブルを見て、まず一瞬戸惑い、すぐに大股で二人の寝室へと駆け込んだ。「詩織!具合でも悪いのか?」「え?ううん、別に」詩織はドレッサーの前でスキンケアをしているところだった。その言葉に、怪訝そうに彼を一瞥する。「どうしたの?」「だったら、どうして晩ご飯を……」彼が言い終わる前に、詩織はきっぱりと遮った。「二人とも、夕食は要らないって言ったじゃない。それなのに、私が待ってると思ったわけ?」言っていることは、間違っていない。だが、洵也は、何かがおかしいと直感していた。彼の妻は、こんなはずではなかった。食事を待たずにいることも、彼を迎えて抱きしめないことも、今この瞬間まで、一度も彼を振り返らないことも、すべてがいつもと違っていた。洵也は、その尋常ならざる事態を敏感に察知していた。今日の運動会が原因だろうか?彼は考えを巡らせ、問題はそこにあると結論付けた。「詩織、こっちを見て」詩織は振り返った。「今日、息子は学校で大活躍だったよ。こっそり俺に教えてくれたんだ。『ママは、誰のママよりも一番きれいだ』って。詩織、君が引け目を感じる必要なんてない。怜央は、世界で一番幸せな子供だよ」彼は一方的に捲し立てたが、詩織はただ静かに彼を見つめていた。「分かってるわ。私は、誰にも借りなんてない」そう言うと、詩織は目の前に立ちはだかる洵也を押し退け、ベッドにもぐり込み、彼に背中を向けた。「詩織、俺が何か、君を怒らせるようなことをしたか?」洵也は、おそるおそる尋ねた。「ううん」彼女はようやく口を開いた。「ただ、ある問題を考えていただけ」洵也は途端に安堵のため息を漏らし、笑顔でその話に乗った。「どんな問題?」その言葉を聞くと、詩織は寝返りを打ち、洵也と視線を合わせた。「どんなおとぎ話も、結末はいつも『王子様とお姫様は幸せに暮らしました』で、その結婚生活がどうなったかなんて、書かれてないわよね。ねえ、もし日常が平凡なものになったら、王子様はまだお姫様を深く愛し続けると思う?彼は、心変わりしないと思う?」詩織は彼の顔をじっと見つめ、
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第5話

朝七時ちょうど、アラームが鳴り、昌代が朝食の準備のために起きると、思いがけず、リビングに詩織がいるのを見つけた。「奥様?どうしてこんなに早起きを?」「眠れなかったから、起きてたの」「旦那様は?」昌代は御影家で長年働いてきたが、洵也が朝寝坊をするところなど見たことがない。「朝食は、いつも通りでよろしいですか?」詩織は胃が弱く、いつもお粥だ。洵也は仕事がハードなので、朝は必ずブラックコーヒーを飲む。「彼は出かけたわ。戻るのは午後になると思う」詩織はギフトボックスを昌代に手渡した。「これを、ひとまず預かっておいて」「旦那様へのプレゼントですか?」昌代は断言した。旦那様と奥様ほど、仲睦まじいご夫婦はいないと。詩織は小さく笑った。「まあね。秘密にしておいてくれる?」「お任せください。旦那様が絶対に見つけられない場所にお預かりします」昌代は非常に責任感の強い人だ。大袈裟ではなく、この家のことを昌代以上に知る者はいない。詩織も、彼女のことはとても気に入っていた。「昌代さんがやってくれるなら、安心だわ」洵也は心変わりしてしまったが、詩織は今でも彼のことをよく理解していた。案の定、夕食が始まる直前になって、洵也がドアを開けて入ってきた。彼は靴も履き替えないまま、慌てて歩み寄り、彼女を抱きしめて優しく囁いた。「ごめん、詩織。昨日の夜、俺のこと待ってた?」今までは、こんな時、彼女はいつも「ううん」と答えていた。洵也に罪悪感を感じさせたり、心を痛ませたりしたくなかったからだ。だが、今の詩織は、そうは思わなかった。「ええ、一晩中待ってたわ。あなたは、電話の一本もくれなかったけど」洵也の顔には、案の定、申し訳なさそうな色が浮かんだ。彼は彼女の目の下の青黒い隈に手を伸ばす。「俺が悪い。夜中に連絡しようかとも思ったんだが、君が寝てるかと思って。もう、俺のことは待たないで。君の体が一番大事だ」詩織は軽く首を傾けて彼の手を避け、淡々とした口調で言った。「ええ、もう二度と待たないわ」洵也は深く考えもせず、背後から箱を一つ取り出した。「君へのプレゼントだ。開けてみて」箱の中には、プラチナのネックレスが入っていた。一周ぐるりとホワイトダイヤモンドがちりばめられ、その中央でメインストーンとして輝いて
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第6話

二人がカラオケの個室のドアを開けると、そこには彰人をはじめとした男たちが、それぞれ両脇に女を侍らせている光景が広がっていた。洵也は顔をしかめ、まず詩織の目を手で覆うと、何の迷いもなく部屋を出て、そのまま帰ろうとした。仲間たちはすぐに状況を悟り、慌ててそばにいた女たちを追い払った。「洵也、洵也!待てって!」「ほら、お前らさっさと出ていけ!」個室から女が一人残らずいなくなった後で、仲間たちはようやくため息をつき、洵也の肩に腕を回した。「おい洵也、お前は昔からほんと、女っ気がないよな。お前とは二十年の付き合いになるが、詩織さんの他に、お前のそばに寄れた女なんて見たことねえよ」男はかなり飲んでいるようで、口から強い酒の匂いがした。洵也は嫌悪感を隠さずに彼を突き放し、詩織を自分の背後にかばった。「俺は既婚者だ。それぐらいは当たり前だろ。ましてや、御影家のために子供を産む時、詩織は死にかけたんだぞ。俺が彼女に忠誠を尽くすのは当然だ」彼は言っているうちに腹が立ってきたらしく、男に向かって鬱陶しそうに手を振った。「結婚もしてないお前に何が分かる。あっち行け、俺に近づくな」その途端、部屋中がどっと笑いに包まれ、雰囲気はずいぶんと和やかになった。彼らに会うのは初めてではない。だが、詩織は、洵也の仲間たちが自分に向ける視線に、どこか言い表せない奇妙なものをいつも感じていた。彼女はそれが嫌いだ。だから、一人一人に挨拶を済ませると、詩織はお茶の入ったグラスを手に、一番隅の席に座った。洵也も、その隣についてきた。付き合いで来たとはいえ、彼の目には最初から最後まで、詩織しか映っていなかった。誰かがタバコを吸おうとすると、彼は即座に目で脅した。「消せ。副流煙の方が体に悪い」誰かが酒を勧めても、彼は一切構わずに首を振った。「飲まない。詩織はアルコールアレルギーなんだ」誰かがカラオケを入れれば、彼は眉をひそめた。「消せ。音が大きすぎると心臓に障る」洵也は冷たい顔ですべての誘いを断り、ひたすら詩織のために果物を剥いていた。しかも、わざわざ常温のものを店に頼んだ。「冷たいものは、喉を刺激するから」彼はまるで曲芸のようにフルーツナイフを操り、あっという間に、美しくカットされた果物の盛り合わせを詩織の前に差し出
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第7話

詩織が個室に戻ると、部屋の中はすでに再び熱気を取り戻していた。酒も回り、誰もが気分を高揚させ、遠慮というものがなくなっていた。そのため、詩織がドアを開けた瞬間、室内に自分の名前が響くのを聞いてしまった。「洵也、なあ、俺らマジで分かんねえんだけど。お前、詩織さんのどこがそんなに好きなわけ?」詩織はそっとドアを細く開け、中の様子を窺った。質問したのは、この中で最も洵也と付き合いが長く、また、界隈でも有名な遊び人庄司健二(しょうじ けんじ)だ。「確かに美人だとは思うよ。でも、詩織さんより綺麗な女がいねえわけでもねえだろ。性格だって、はっきり言って『お地蔵さん』じゃねえか。さっきから今まで、俺らと一体何言喋ったよ?それに、家柄は……」健二はすっかり口が滑らかになり、自分の世界に浸っている。洵也の顔色がどんどん険しくなっていくことにも、全く気づいていない。彰人はさっきから必死に目配せを送っていたが、健二はそれに気づかない。洵也が爆発する寸前、彰人は矢のように飛び出し、健二の口を塞いだ。「洵也、こいつは飲みすぎなんだ。口が悪いだけだから、気にするな!」「お前らに、もう一度だけ言っておく」洵也は目を伏せ、口元を固く引き締めていた。彼をよく知る者なら、この表情が、彼が本気で怒っている時のものだと分かる。「言うべきじゃないことは、口にするな。詩織がいなければ、今の俺はいない。彼女が良いか悪いかなんて、お前らには関係ないことだ。俺は、詩織なしではいられない。だが、帝都は、お前らなしでもなりたつんだ」個室は静まり返った。洵也の言葉が真実であることを、ここにいる誰もが知っていた。彼一人のさじ加減で、ここにいる全員の家族の未来が決まるのだ。最後は、彰人が覚悟を決めて仲裁に入った。「洵也、怒るなよ。詩織さんがお前にとってどれだけ大事か、みんな分かってる。詩織さんを敬わない奴がいたら、今後はこの俺が、真っ先にそいつを許さねえから」他の者たちも、慌ててそれに同調した。「健二は昔からの遊び人だから、口が滑っただけだよ。本気にするな」健二も、さすがに失言を悟り、その流れに乗って謝罪した。「悪かった、洵也。二度とない」それでも洵也が黙り込んでいるのを見て、詩織はドアを開けて中に入った。「どうしたの?」彼女は健
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第8話

二人が車に乗り込むと、またしても、むさぼるようにキスを交わし始めた。洵也が手を出すまでもなく、詩穂は自ら服を一枚、また一枚と脱ぎ捨て、その手は、まっすぐに洵也のベルトへと伸びていった。まもなく、車が小さく揺れ始めた。少しすると、その揺れはだんだんと大きくなり、時折、抑えきれない喘ぎ声が漏れ聞こえてくる。この地下駐車場に、他の人影はなかった。当然、詩織がすぐ近くで、車内の一部始終を見つめていることなど、誰も知る由もなかった。とうの昔に、彼への幻想など抱いていなかったはずなのに。いざ、この光景を目の当たりにすると、詩織の心臓はきつく締め付けられ、まるで針で刺されたかのように、チクチクとした痛みが胸に広がった。彼女は強く胸を押さえ、必死に息を吸い込んだ。拭っても拭っても、涙が溢れ出てくる。昔、まだ恋人だった頃。洵也はいつも彼女を尊重し、大切にしてくれた。どれほど感情が高ぶっても、キスと抱擁だけで、決して一線は越えなかった。彼は言った。「俺たちの関係は神聖なものだ。俺が愛しているのは君自身であって、一時の肉欲じゃない」そう言って、新婚の夜まで、彼は耐え続けた。あの夜、帝都で知らぬ者のない洵也が、緊張でまともに立ってもいられないほどだった。彼女の服を脱がせる指先は震え、耳は真っ赤に染まっていた。彼は、それほどまでに彼女を大切にした。一つ一つのステップで、彼女の感覚を確かめ、彼女を抱いたその瞬間、彼は感動のあまり泣いていた。何度も、何度も、彼女の耳元で囁いた。「詩織、君は、やっと俺のものになった。愛してる、永遠に愛してる」あの時、詩織は思った。この生涯で、洵也以上に自分を愛してくれる人は、もう二度と現れないだろう、と。今この瞬間に至るまで、詩織は、あの時の洵也の真心が嘘だったとは思っていない。だが、真心は、移ろうものだ。目の前で繰り広げられる生々しい光景に、詩織は吐き気を催し、えずいた。彼女は壁に手をついてしばらく耐え、やがて、まるで魂が抜けた抜け殻のように、ふらふらと外へと歩き出した。入り口で待っていた清水が、彼女のただならぬ様子に気づき、慌てて駆け寄ってきた。彼は、中にいる洵也に知らせようとしたが、詩織はすぐにそれを制した。「送らなくていいわ。少し、一人で歩きたいの。それと、私がここに戻ってきていたこと、洵
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第9話

その後、挑発的な言葉が立て続けに送られてきた。【詩織、あなたも今日、気づいたんでしょう。私と洵也がただならぬ関係だってこと。あの子も、彼の子よ。あなたは洵也が自分を愛してると思ってるかもしれないけど、私たち、もう三年も続いてるの】【彼がどれだけ私に夢中か、分かる?毎年、どのお祝い事でも、彼はあなたの相手をした後、必ず私のところに来るのよ。彼、すごく激しいの。ベッドでも、床でも、シャワーでも、車の中でも……どこでだってしたわ。あなた達のベッドの上でなんて、最高にスリリングだったわ】【ましてや、あなただけのものだと思ってるプレゼント。あなたが手にしてるのは、ぜんぶ私が選んだ後のお残りだって知らないでしょう。あの「恋詩」だってそう。あの「詩」があなたのことだと思ってる?あの名前、私が考えたのよ】【「男の愛は、お金の行き先を見ればわかる」って言うわよね。それに、愛とセックスは切り離せないものよ。あなたは、本気で洵也があなたを愛してると思ってるの?】【見てなさい。これから数日間、洵也は私のところに釘付けにしておくから】そのメッセージを見ても、詩織の心はもう、何も感じなかった。もう離脱すると決めたのだ。こんなものに、傷つけられるはずもなかった。それから数日、洵也は案の定、仕事が多忙だという口実で、家には帰ってこなかった。詩織は、一度も彼の動向を尋ねなかった。その代わり、詩穂からの連絡は、ますます頻繁になった。テキストメッセージ、写真。そのすべてが、洵也がどれほど詩穂を愛しているかを、彼女に証明しようとするものだった。詩織は、返信しなかった。子供ができたことで、詩穂は有頂天になっている。子供を盾に、正妻の座に就こうとしているのだ。詩織は、その策略に、あえて乗ってやることにした。もう、十五日間も耐える必要はない。一刻も早く、この息の詰まる家から、出られるのだ。詩織は、一分一秒を惜しんで、この家から自分に関するものをすべて消し始めた。消えるのなら、徹底的に。世界離脱まで、あと九日。詩穂が洵也の寝顔を盗撮した写真を送ってきた日、詩織は洵也とのツーショット写真をすべて集め、燃やし尽くした。世界離脱まで、あと八日。詩穂が洵也と怜央の三人で公園で遊ぶ写真を送ってきた日、詩織は業者を呼び、裏庭のイチョウをすべて伐採させた。
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第10話

洵也は、すべての望みを、このギフトボックスに託した。「もしかしたら、詩織はここに、俺への言葉を残してくれているかもしれない」彼は、ほとんど狂ったようにそう呟いていた。幾重にも重ねられた包装紙を破り、箱を開けた時、彼の目に飛び込んできたのは――詩織の名前がすでに署名された、一枚の離婚協議書だ。「いや!ありえない……ありえない……」洵也はソファに崩れ落ち、信じられないというように呟き続けた。「詩織は、本当に俺を愛していたんだ。離婚なんて、するはずがない」しかし、現実は、かくも残酷だった。洵也は離婚協議書を何度も見返した。それが詩織の直筆であることは、疑いようもなかった。だが、なぜだ?どうして詩織は、突然離婚だなんて言い出した?しかも、こんなにも、きっぱりと。彼は自問自答した。この数日、詩織が言ったすべての一言、そのすべての行動が、脳裏で繰り返し再生される。かつては見過ごしていた、些細な違和感。その一つ一つが、今になって、はっきりと意味を持ち始めた。詩織は、とうの昔に、俺の浮気に気づいていたんだ!洵也は、絶望に顔を覆った。彼は、詩織と詩穂、二人の女を、うまく手玉に取れていると思い込んでいた。自分は、慎重にやっていると。詩穂のことは、ただ、もう一人の、刺激的で魅力的な詩織として見ているだけだと。詩織の体は弱かったから。彼は、ただ詩穂の体に、刺激を求めただけだと。それなのに、彼女は知ってしまった。一体、いつからだったんだろう。洵也の瞳が、次第に潤んでいく。彼はふと、かつての結婚式で、詩織に誓った言葉を思い出した。「詩織、君は俺の生涯で、唯一無二の愛だ。俺は永遠に君を愛し、守り、慈しむ。決して君を悲しませたり、傷つけたりしないと誓う」そして、詩織の答えも。「洵也、私が欲しいのは、唯一の愛だけ。そして、私も、たった一度だけ、私の唯一の愛を捧げるわ。もし、いつかあなたが今言ったことを守れなかったら、私は、あなたの前から永遠に去る。あなたが一生見つけられない場所へ」あの時の洵也は、自信に満ちていた。自分は、決して彼女を裏切るようなことはしない、と。あれほど彼女を愛していたのだ。自分の心臓を丸ごと抉り出して、彼女の前に差し出したいくらいに。だが、一体、いつから変わってしまったんだ
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