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第4話

Auteur: 金子大介
洵也が息子を連れて帰宅したのは、もう夜の八時過ぎだった。

詩織が、彼らのために食事を残しておかなかったのは、これが初めてのことだった。

洵也は、綺麗に片付けられたテーブルを見て、まず一瞬戸惑い、すぐに大股で二人の寝室へと駆け込んだ。

「詩織!具合でも悪いのか?」

「え?ううん、別に」

詩織はドレッサーの前でスキンケアをしているところだった。その言葉に、怪訝そうに彼を一瞥する。「どうしたの?」

「だったら、どうして晩ご飯を……」

彼が言い終わる前に、詩織はきっぱりと遮った。

「二人とも、夕食は要らないって言ったじゃない。それなのに、私が待ってると思ったわけ?」

言っていることは、間違っていない。だが、洵也は、何かがおかしいと直感していた。

彼の妻は、こんなはずではなかった。

食事を待たずにいることも、彼を迎えて抱きしめないことも、今この瞬間まで、一度も彼を振り返らないことも、すべてがいつもと違っていた。

洵也は、その尋常ならざる事態を敏感に察知していた。

今日の運動会が原因だろうか?

彼は考えを巡らせ、問題はそこにあると結論付けた。

「詩織、こっちを見て」

詩織は振り返った。

「今日、息子は学校で大活躍だったよ。

こっそり俺に教えてくれたんだ。『ママは、誰のママよりも一番きれいだ』って。

詩織、君が引け目を感じる必要なんてない。怜央は、世界で一番幸せな子供だよ」

彼は一方的に捲し立てたが、詩織はただ静かに彼を見つめていた。

「分かってるわ。私は、誰にも借りなんてない」

そう言うと、詩織は目の前に立ちはだかる洵也を押し退け、ベッドにもぐり込み、彼に背中を向けた。

「詩織、俺が何か、君を怒らせるようなことをしたか?」洵也は、おそるおそる尋ねた。

「ううん」彼女はようやく口を開いた。「ただ、ある問題を考えていただけ」

洵也は途端に安堵のため息を漏らし、笑顔でその話に乗った。「どんな問題?」

その言葉を聞くと、詩織は寝返りを打ち、洵也と視線を合わせた。

「どんなおとぎ話も、結末はいつも『王子様とお姫様は幸せに暮らしました』で、その結婚生活がどうなったかなんて、書かれてないわよね。

ねえ、もし日常が平凡なものになったら、王子様はまだお姫様を深く愛し続けると思う?彼は、心変わりしないと思う?」

詩織は彼の顔をじっと見つめ、その表情一つ一つを見逃すまいとした。「昨夜、夢を見たの。あなたが、心変わりする夢を……」

「絶対にしない!」

言葉が終わるか終わらないかのうちに、洵也は詩織を腕の中に強く抱きしめた。まるで、そんな可能性は断じて認めないとでも言うように。

「詩織、君は俺がこの世で一番愛してる女だ。他の男は心変わりするかもしれないが、俺だけは絶対にない。知ってるだろ、俺は君なしではいられないんだ」

その言葉は、痛切に響いた。だが、詩織の心は痛むだけだ。

彼は「君なしではいられない」と言ったが、「君だけだ」とは言わなかった。

詩織が何かを言いかけた時、不意に洵也の携帯が鳴った。

彼は一瞬ためらい、そのまま切ろうとしたが、詩織が先に口を開いた。「大丈夫よ、出て。大事な用事かもしれないじゃない」

電話の向こうが何を言ったのか。洵也の表情は、初めは平静だったが、やがてその瞳孔が微かに収縮し、最後に彼女へと向けられたその視線は、ひどく不自然なものになった。

「詩織」彼は喉仏を動かした。

「会社で急用ができた。すぐに行かなきゃならない。君は先に寝てて。遅くはなるが、必ず帰る」

詩織は何も言わず、ただ彼を見つめて頷いた。

そして、その夜、洵也は朝まで帰ってこなかった。

詩織は一晩中、目を開けたまま彼を待っていた。何を待っていたのか、自分でも分からなかった。もしかしたら、完全に諦めきるための、最後の一押しを待っていたのかもしれない。

空が白み始めた頃、詩織はベッドを出て、怜央の部屋へ向かった。

一日中遊び回っていた子供は、今はぐっすりと寝息を立てている。彼女は忍び足で入ったが、不意に、床に落ちていたミニカーを蹴ってしまった。

「ごん」という鈍い音が響く。

幸い、怜央は起きなかった。

かつて、怜央は彼女の誇りそのものだった。

賢く、活発で、愛らしい。その顔立ちは、彼女と洵也の長所だけを受け継いでいた。詩織は、その寝顔に触れることなく、輪郭を指でなぞった。

怜央の顔の輪郭と口元は彼女に、そして目元は洵也にそっくりだった。

だから、彼が何か悪さをして、困ったようにこちらを見上げてくるたび、詩織はまるで幼い頃の洵也を見ているような気がしてしまった。それが彼の演技だと分かっていても、怒りは大抵、消え失せてしまうのだ。

本当は、彼を叱ることなど、ほとんどなかった。ただ、「羹に懲りて膾を吹く」というように、システムが何度も大丈夫だと請け合っても、彼女は息子の体のことを心配せずにはいられなかった。そうこうするうちに、少し口うるさくなってしまっただけだ。

今もそうだ。彼女は、怜央が布団をはだけているのを直してやろうと、思わず手を伸ばしてしまった。だがその時、布団の中に何かが大切そうに隠されているのに気がついた。

詩織がそっと引き抜いてみると、それは一枚の、アニメ風の絵だ。

描かれている子供は怜央。だが、その隣にいる女は、彼女ではなかった。

絵の一番上には、拙い文字を書かれていた。怜央の筆跡だ。

【彼女と僕】

詩織はその絵をしばらく見つめていたが、最後には、そっと元の場所に戻した。

今日ここへ来たのは、ただ、怜央の顔をもう一度見ておきたかったから。これで、二人の母子の縁も、終わりだ。

彼がこれほどまでに詩穂を慕っているのを見て、かえって心の中の罪悪感が、少しだけ軽くなった。

私は、息子を捨てる母親なんかじゃない。むしろ、息子の方が、先に私を捨てたのだ。

リビングに戻ると、詩織は息子に渡そうと思っていた手紙を、細かく引き裂いて捨てた。そして、新しく一通の離婚協議書を書き上げた。

最後の欄に名前を記し、それを、綺麗にラッピングされたギフトボックスの中に入れた。

もう二度と、この御影家に、彼女、詩織が姿を現すことはない。

システムの音声が、耳元で響いた。

「宿主様、離脱プログラムの準備が完了しました。最終確認を。離脱しますか?」

「はい、離脱する」

その言葉が終わると同時に、目の眩むような白い光が詩織の眼前に現れ、一つの通路を形作った。

周囲に、凄まじい風が巻き起こる。

彼女は、何の迷いもなく、その光の中へと足を踏み入れた。

「洵也、怜央。もう二度と、会うこともないわ!」

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