All Chapters of 手遅れの愛、妻と子を失った社長: Chapter 531 - Chapter 540

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第531話

ブブブ――スマホが鳴った。真帆からの着信だとわかると、柚香は頭の中いっぱいの疑問を押し込め、それを理由に言った。「真帆から電話。ちょっと出てくるね」「うん」怜人はいつも通り軽い口調で返した。柚香はスマホを持って、そのまま逃げるように部屋を出た。ドアが閉まった瞬間、怜人は苛立った顔でスマホを取り出し、真帆に長文メッセージを送りつけた。【君、頭おかしいだろ!!!なんでよりによって今なんだよ!?一回言い忘れただけで、どんだけ根に持ってるんだよ?!】腹が立ちすぎて、画面を叩く指にも力が入る。今すぐスマホ越しに飛んでいって殴りたいくらいだ。だが真帆はそんなメッセージなどまるで気にしていない。彼女は映画を観ながら、スマホを脇に置いて柚香と話していた。「最近どう?」「結構充実してるよ」「今、電話まずかった?」真帆は彼女の声が少し小さいのに気づいた。柚香は今、自分の寝室にいる。「大丈夫」真帆はいつもの調子で言う。「なんでそんな、こそこそしてるの。浮気中みたい」柚香は真顔で返した。「浮気したことあるの?」「柚香、普通黙るところなんだけど?」真帆は親友のことをよくわかっている。「わざわざ聞き返してくるってことは、何か隠してて後ろめたいんでしょ?」「……」柚香は軽く咳払いした。「そんなにわかりやすい?」「めちゃくちゃわかりやすい」真帆は果物を口に放り込みながら答えた。柚香は黙り込んだ。今日までずっと、怜人は真帆のことが好きなのだと思っていた。二人はいつも言い合いばかりしていて、まるでお似合いのケンカップルのようだったから。かなり昔、怜人が「女は恋愛対象じゃない」と言っていたこともある。しかし柚香は、それを真帆に気持ちを悟られないための苦しい言い訳だと思っていた。実際、これまで彼が特別仲良くしている男性なんて見たことがなかったし。高校時代の「噂の彼氏」を除けば。「何をそんな長いこと考えてるの?」真帆は映画そっちのけで、完全にゴシップモードだった。「怜人に告白された」柚香は言った。「で?」「……驚かないの?」柚香は眉を寄せた。真帆はあっさりしている。「別に驚くこと?」「彼……」そこで柚香は何かに気づいた。頭の中にひとつの可能性が浮かぶ。「あなた、知ってたの?」真帆は
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第532話

怜人はあっさりした口調で言った。「そっか。やっぱ俺の魅力不足か」「そうじゃないの」柚香はできるだけ相手を傷つけないように言葉を選んだ。「私自身の問題。いったん心の中でこの人はこういう関係の人って決めたら、たぶん一生そのままなの」彼女はもともと恋愛に積極的なタイプではない。唯一、遥真だけは違った。彼はまっすぐ柚香の世界に飛び込んできて、隠しもせずに「君が好きだ」「愛してる」って伝えてきた。感情の波なんてほとんどなかった彼女の心を、少しずつ温めて。そして彼を受け入れ、好きになり、愛するようになって、最後には、自分の世界に迎え入れた。しかし、そんなことは人生で一度きりだ。たとえ遥真と離婚したとしても、彼女の世界に他の誰かが入り込む余地はない。「じゃあさ、もし俺たちが小さい頃から、おままごとで夫婦役とかしてたらさ」怜人は、どこか冗談めかした口調のまま続けた。「会うたびに、『大きくなったら結婚しようね』なんて言い合ってたら……俺たちも、今とは違ってたのかな」「選択しなかった道を美化しないで」柚香はそんな仮定を考えようとしなかった。「毎日ケンカして、友達にすらなれてなかったかもしれないよ」怜人は一瞬黙り込み、少し考えてから頷いた。「それもありそうだな」小さい頃から、柚香は同年代よりずっと大人びていた。もし本当にそんなことをしていたら、きっと自分のことを「子どもっぽい奴」くらいにしか思わず、嫌がられていたかもしれない。「怜人」柚香はこういう話になると、いつも真剣だった。「好きになってくれてありがとう。でも、ごめんね」「そんなしんみりすんなって」怜人は場を和ませるように、いつもの調子でにやっと笑った。「むしろ俺、君に断られて感謝してるくらいだし」「え?」柚香は不思議そうに首を傾げた。「君に振られなかったら、十年以上続いた片想いを終わらせられなかったかもしれない」怜人は彼女を困らせたくなかったし、負担にもしたくなかった。「正直さ、時々もう分かんなくなるんだよ。これが本当に『好き』なのか、それとも長年の執着なのか」「……?」柚香は聞き返した。「どうして?」「うまく言えない。ただ、なんとなく」怜人は本気で考え込むような顔をしたあと、ふと彼女に尋ねた。「俺たち、これからも友達でいられるよな?まさか告白断ったうえに、さらに追い打
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第533話

「どうしたの?」柚香は、陽翔が何か考え込んでいることに気づいた。「別に」陽翔は胸の内の気持ちを全部飲み込んだ。ママはずっと自分を愛してくれる、と信じていたから。「これからもし他のおじさんがママに告白してきたら、付き合ってみてもいいと思うよ」「ママは再婚するつもりないよ」柚香は優しく言った。もし不安や心配がなければ、陽翔は部屋の外で自分と怜人の会話を聞いたりしなかったはずだ。まだ四歳を少し過ぎたばかり。同年代の子より大人びているとはいえ、まだ子どもだ。子どもは心の奥では敏感で、パパとママがそれぞれ再婚して、別の子どもを持つんじゃないかって不安になるものだ。遥真のことについては約束できない。しかし、自分のことなら約束できる。陽翔はやわらかい声で尋ねた。「どうして?」「今の生活にすごく満足してるから」柚香は本音を口にした。「陽翔とおばあちゃんと一緒に暮らせて、それだけで十分幸せなの」新しい恋愛を始めたいとは思わない。自分の世界に、もう他の誰かが入る余地なんてない。陽翔はぱちぱちと瞬きをした。柚香はそのほっぺを軽くつまむ。「安心して。ママはずっと陽翔を愛してるし、この先も子どもは陽翔ひとりだけだよ」陽翔は何も言わなかった。けれど、少し緩んだ口元に、嬉しさが滲んでいた。柚香は思わず笑う。やっぱりまだ子どもだ。「先に下でピアノ練習してくる!」陽翔はすっかり機嫌を良くし、小さな足でぱたぱたと部屋を飛び出していった。階下に降り、柚香が来ていないことを確認すると、遥真に電話をかけた。その頃、遥真は久瀬グループの会議室で人と打ち合わせをしていた。着信に気づいた涼介が、礼儀正しく言う。「先に電話どうぞ」遥真はその場で通話ボタンを押した。低く落ち着いた声が響く。「もしもし」「いいニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞く?」陽翔の声には少し得意げな響きが混じっていた。「悪いほう」遥真は即答した。「怜人おじさんがママに告白した」陽翔はわざとそう言った。父親に危機感を持ってほしかったのだ。元通りとまではいかなくても、せめて普通に接せられる関係には戻ってほしかった。遥真は表情一つ変えない。「で、いいニュースは、柚香が断ったってことか」「ちがうちがう」陽翔の幼い声が返ってくる。遥真「?」陽翔は
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第534話

遥真が口を開くより先に、陽翔はさっさと言った。「ピアノの練習あるから、もう切るね」通話が切れると、向かいに座っていた涼介が探るように遥真に聞いた。「今の、陽翔くんから?」「……で、何の用だ」遥真はスマホをしまった。さっきまでの柔らかい空気は消え、元から持っている圧の強さが戻る。その威圧感に、涼介は内心ひるんだ。――この人、自分の兄より怖いんだ。「社長」恭介が身をかがめ、小声で告げる。演技も完璧だった。「あと十分で先方が到着します」遥真は腕時計を見て時間を確認した。そのまま帰るよう促そうとした瞬間、涼介が慌てて口を開いた。「単刀直入に言う。今日は神崎家の件について聞きに来た。あれは、遥真さんの指示か?」遥真は視線を上げた。何も言わない。ただ静かな表情だけで、人を押し潰しそうな圧がある。「柚香の件をネットで広めさせないのって……陽翔くんの親権が彼女にあるからか?」涼介は慎重に探りを入れる。遥真と柚香の関係が実際どうなのか、彼にはわからない。世間では「久瀬家の次男が溺愛している相手」なんて噂されているが、そんな話を鵜呑みにはしていなかった。むしろ、遥真がイメージ戦略としてやっているだけだと思っている。大企業の社長が一途な男、というキャラは世間受けもいいからだ。「続けろ」遥真の声からは、本心がまったく読めない。涼介は自分から切り出した。「俺なら、柚香に陽翔くんの親権を渡させることができる」「条件は?」遥真が聞く。「今後、神崎家のことには関わらないでほしい」「神崎家の次男は、自分にずいぶん自信があるらしいな」遥真は淡々と言った。視線だけが冷え切っている。「俺が取れなかった親権を、君なら取れると?何を根拠にそう思う」涼介は言葉を選びながら答えた。「俺と柚香は兄妹だから。兄の言うことなら、多少は聞くと思う」「従兄の言葉のほうが、夫より効くのか?」遥真はさらりと言った。「……」涼介は表情こそ平静を保っていたが、内心では盛大に毒づいていた。――君が夫?離婚した時点で、ほぼ敵だろ。敵の言葉より、自分のほうが効くに決まってる。そもそも、言葉だけで親権を渡させるなんて言ってない。「不満なら、この話はなしでも構わない」遥真は軽く顎をしゃくった。「出口はあそこだ。気をつけて帰れ」「???」涼
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第535話

今でも、恭介は二日前のことを覚えている。柚香の様子を社長に報告したとき、遥真はかなり怒っていた。「前に言ったこと、もう忘れたのか?秘書として務まらないなら辞めろ」――そんなことまで言っていたくせに。結果はどうだ。本人は裏で必死にいろいろ動いていた。「俺じゃない」遥真は社長椅子にもたれ、底の見えない視線を向ける。その表情からは何も読み取れなかった。「じゃあ誰なんです?」恭介は首を傾げ、ふと大胆な予想を口にした。「まさか……柚香さんに想いを寄せてる人とか?」遥真の目がゆっくりと深くなる。唇を結んだまま、何も言わない。「今のうちに動かないと、柚香さん、誰かに取られますよ」恭介はまた焦り始めた。「今の彼女、神崎家と黒崎家に戻った『お姫様』みたいな立場ですからね。追いかける男なんて山ほど出てきますって」――出てくる。遥真自身、それはよく分かっていた。しかも、その多くは見栄や利益目当ての男だ。柚香を利用して神崎家や黒崎家に取り入り、四大名家の一員になろうとする連中。「本気で好きならまだいいんですけどね」恭介は理屈を並べるように続けた。「でもこういうタイミングで近づいてくる人間って、大半は利益狙いでしょう?」遥真は黙ったままだった。恭介はさらに言う。「柚香さんの将来、腹に計算ばっか抱えてる男と一緒になるの、見たいですか?」「……彼女は、そんなすぐ再婚しない」その言葉が恭介に向けたものなのか、自分自身に言い聞かせているのか、遥真にも分からなかった。「お母さんもいる。そう簡単に利用されたりしない」安江だけじゃない。和雄も、昭彦もいる。あの人たちが、柚香を利益しか見ていないような男に渡すはずがない。「それはそうですけどね。でも恋愛なんて理屈通りになりませんし」恭介はどうにか彼をその気にさせようと、言葉を重ねた。「柚香さんが本気で好きになったら、安江さんだって止めないと思いますよ」遥真「……」「それに、結婚が一番まずいってわけでもないです」「?」遥真が眉をひそめる。結婚以上にまずいことなんてあるのか。「もし柚香さんが、二十歳そこそこの年下男子と付き合い始めたら、それこそ最悪ですよ」恭介は妙に真面目な顔で語った。「若いし、体力あるし、甘い言葉もかけたりしますからね……」「頼んだ仕事、終わったのか
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第536話

「たとえ俺たちが手を回さなくても、柚香があの案件を取るのは相当難しいはずだ」拓海はそう言った。「そもそも、彼女があの会社を引き継いだこと自体、まだ外には公表されてない。世間から見れば、ただの突然やって来た新任社長だ」神崎家の後ろ盾もない。黒崎家の後ろ盾もない。上の人間たちは事情を知っていても、外部の人間は何も知らない。柚香は、どこにでもいる普通の経営者にしか見えないのだ。涼介は少し考えてから、「確かに……」と頷いた。「案件を取るなら、事前にあちこち顔を出して、食事に付き合って情報を集める必要がある」拓海はそういう業界のやり方をよく分かっていた。「でも、相手連中がどういうタイプかなんて皆知ってるだろ。柚香みたいな見た目と性格じゃ、うまく立ち回れない」一応、入札案件ではある。だが、事前に食事を重ねて顔を売っておく。そんなのはもう半ば暗黙のルールになっていた。柚香の性格は安江にそっくりだ。酒の席の下品な冗談なんて到底受け流せない。会社から与えられたこの試練を、彼女が乗り越えられるはずがない。「でも、もし本当に取れたら?」涼介はまだ少し不安そうだ。遥真の元妻。そして安江の娘。幼い頃からそういう駆け引きを学んでいなかったとしても、あの環境で育った以上、完全な世間知らずってわけじゃない。「利益二億を出すなら、一件だけじゃ足りない」拓海は最初から計算済みだった。「最低でも二、三件は必要だ。一度に全部まとめて取れるわけがない」涼介は黙って考え込む。拓海は、こういう小細工だけは妙に頭が回る。「仮に全部まとめて取れたとしても、案件は最終的に複数の承認を通さなきゃいけない。手を入れられる場所なんていくらでもある。今すぐ焦る必要はない」「分かった」涼介もその言葉に納得した。さっき遥真が釘を刺したばかりだ。今はまだ、真正面から敵に回すべきタイミングじゃない。時間をかけて動けばいい。遥真に、自分たちを疑わせないように。時間はあっという間に過ぎていった。それから一か月あまり。柚香は正式に会社を引き継ぎ、蒼海市青葉医療システム株式会社の社長になった。突然現れた新社長に、社員たちは最初みな半信半疑だった。しかも、現れたのはあまりにも綺麗で、どこか頼りなさそうにも見える女性。それを見て、チームリーダー二人が退職
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第537話

「謝ってくれたし、もう気にしてない。これからはちゃんと仕事してね」 柚香は特に責めることもなく、周囲を見渡した。「プロダクトマネージャー、開発部長、それから各チームのリーダーは集まって。会議を始める」「はい!」全員がきっちり声をそろえて返事をした。「うちのチームリーダー、辞めちゃってて……」「こっちもです」さっき話していた女性と、柚香に謝っていた男性が口を開く。柚香はすぐに判断した。「じゃあ、副リーダーの二人が引き継いで」「わかりました」それだけ指示すると、柚香は自分のオフィスへ向かった。青葉医療は設立からもう十年になる。社員の多くは四年以上勤めていて、中には八年近く在籍している人もいた。みんなこの会社に愛着を持っていた。決して大企業ではないけれど、福利厚生は悪くない。この過剰に競争ばかり求められる社会の中では、青葉医療はかなり働きやすい会社だ。――とにかく、最初の一歩は踏み出せた。青葉医療を完全に潰さずに済んだことに、柚香はひとまず胸をなで下ろした。その後、午後いっぱいを使って会議が続いた。この一か月、柚香はプロジェクトを勝ち取っただけじゃなく、医療システムの各案件や細かい内容まで徹底的に把握していた。案件獲得後に、知識もないまま適当な指示や口出しをしないためだ。会議は四時間にも及んだ。「明日からは各チーム、担当タスクに沿って進めて」締めの言葉を口にしたあと、柚香はさっき謝ってきた副リーダーへ視線を向けた。「HISシステムはあなたに任せるわ。問題ある?」真壁陽斗(まかべ はると)は即答した。「ありません」今の彼は、柚香に心から感服していた。異論なんてあるはずがない。続けて柚香は、先ほど発言していた女性を見る。「LISシステムはあなたにお願いします」水野琴音(みずの ことね)は笑顔で答えた。「必ずやり遂げます!」「PSCSシステム、導入、それからテストについては、これまで通りの担当分けで進めて」柚香は残る三人にも視線を向ける。「何かあれば、私かプロダクトマネージャー、開発部長にすぐ相談して」「はい!」全員が返事をした。「じゃあ今日はここまで。しっかり休んで、明日から正式スタートだ」そう言って柚香は資料を持ち、慎吾と一緒にオフィスへ戻った。部屋に入った直後、長い髪の琴音
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第538話

一か月前、柚香は仕事の細々した雑務を任せるために助手を雇おうとしていた。まだ人事が募集を出す前だったのに、慎吾のほうから先に名乗り出てきた。あのとき、なんて言ってたっけ。たしか……「俺が助手になります」柚香が「どうして?」と聞くと、彼はこう答えた。「俺は二十四時間ずっとお嬢様のそばで護衛しています。一番適任です」「ダメ」柚香は考える間もなく断った。「大変すぎるよ。体がもたないでしょ」慎吾は平然としていた。「問題ありません。給料を倍にしてくれればいいだけです。仕事の能力が心配なら、普通に面接してもらっても構いません」そして結局、彼は面接を通過した。能力は抜群で、ボディーガードと助手、両方の給料を受け取ることになった。今回のプロジェクトを獲得できたのも、彼の功績が大きい。柚香は取引先の前でうまく話をまとめ、慎吾は前半戦で、柚香に回ってきた酒をすべて引き受けてくれた。「働いてる人間なんて、みんな金欠ですよ」慎吾は彼女の問いにそう答え、真剣そのものの目で柚香を見つめた。「賭けてみます?」「賭けるわ」柚香は即答した。以前、真帆に言われたことがある。――社長に好意を持つ人なんていない。まして好きになる人なんて。「お嬢様」慎吾が再び口を開く。「ん?」彼は唇を軽く引き結び、真面目な口調で言った。「何もしないで楽に稼ぎたいと思いませんか?」柚香の目に、わずかな疑問が浮かぶ。「このプロジェクトなら、俺も多少はわかります」慎吾は金のためなら本気だった。「毎月少し報酬を払うだけで、これからはずっと楽になります」柚香「……」慎吾はさらに自分の有用性をアピールする。「プロジェクト全体のプランを全部まとめます。あとは連中に効率よく動いてもらえばいいです」「それはいいよ」柚香は迷わず断った。「プロダクトマネージャーと開発部長が対応するから」「今の効率だと、プロジェクト全体の骨組みを固めるだけで一か月はかかります」慎吾の口調はまったく変わらない。「でも俺なら、二週間で全体案を出せます」柚香は疑うような目を向けた。かなり大きな案件だ。今日の会議も四時間かけて、ようやく必要な機能を整理した程度。仮に初期案だけでも、プロダクトマネージャー、開発部長、それに各チームリーダーがまとめるとなれば、一か月前後は必要
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第539話

「柚香さん、今どこだ」時也の声は切羽詰まっていて、話すスピードもいつもより速かった。「遥真が倒れた。京原市に来てもらえないか」柚香の瞳がわずかに揺れる。「……どうしたの?」「意識を失って、今は病院にいる」時也はできるだけ状況を詳しく伝えた。柚香は張りつめていた心を、少しだけ緩めた。この一か月、誰も彼女の前で遥真の話をしなかったし、遥真から連絡が来ることもなかった。仕事に追われ、毎回気を張って対応しなければならない会食続きで、毎日仕事以外のことを考える余裕なんてなかった。だからこそ、彼が倒れたと聞いた瞬間、心臓が反射的に強く締めつけられた。陽翔の父親だから、無事でいてほしいと思ったのかもしれない。あるいは、五年間積み重ねてきた想いが、あまりにも深く心に根づいていたのか。「このところ、あいつ本当にひどい状態なんだ」時也は病室の外に立ち、面会窓越しに、やつれた顔で眠る男を見つめていた。「一度でいいから、会いに来てくれないか」柚香は少し黙ってから答えた。「私は医者じゃない。行っても意味ないよ」時也は焦ったように言う。「まだ会ってもないのに、なんで意味ないって決めつけるんだ」柚香は何も答えなかった。時也はさらに説得を続ける。「今まであいつが君にしてきたことを思えば、一目くらい会いに来てもいいだろ。目を覚ましたら帰っていいから、頼む」「ごめん」柚香は感情を押し込み、彼の提案を断った。「こっちもまだやることがたくさんあるの。もう切るね」「柚香さん……!」その後の言葉は、通話が切れる音にかき消された。柚香はスマホを握ったまま、頭の中でさまざまな感情がぶつかり合っていた。本当に深刻な状態でなければ、時也が自分に連絡してくるはずがない。けれど自分の言う通り、自分は医者ではない。行ったところで何もできない。もう二人は、これ以上関わるべきじゃないのだ。「時也さんからです」慎吾が静かに声をかけた。柚香は視線を落とす。画面には、何度も時也の番号が表示され続けていた。彼女はしばらく見つめたあと、通話を切り、短いメッセージを送った。【私と遥真はもう関係ない。これからは彼のことで私に連絡しないで】時也は怒りのあまり、スマホを叩き壊したくなった。拳を壁に叩きつけ、関節が白くなる。「柚香さん、断っ
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第540話

柚香さんは本当によくやってくれていると恭介は思う。誰よりも社長を尊重して、理解して、受け入れてきた。だからこそ、社長の中ではずっと、柚香さんこそが「社長夫人」だ。「……でも、柚香にも悪いところはあるだろ」時也は言い返せなくなり、半ばやけ気味にそう言った。「先にお戻りになって休まれてください」恭介が提案する。「こちらは私が見ています。社長が目を覚ましたら、すぐにご連絡しますので」「いや、いい」時也は断った。「ここで付き添ってる」嫁も来てないのに、せめて親友くらいそばにいないとな。恭介はそれ以上何も言わなかった。ただ、遥真が再び深い眠りに落ちたのを見て、柚香にメッセージを送った。【柚香さん、あまりご心配なさらないでください。社長は寝不足と疲労が重なっただけです。時也さんがおっしゃっていたほど深刻ではありません】柚香からは、ほとんど間を置かず返信が来た。【うん】恭介【早めに休んでくださいね】以前と変わらない、礼儀正しく距離を保った文面。それを見つめながら、柚香はそっと唇を結んだ。画面の上で指が止まる。――どうして倒れたの?そう打ちかける。結婚していた五年間、遥真の体はずっと健康そのものだった。健康診断の数値もすべて正常。多少仕事が立て込んで徹夜しても、体調を崩すような人ではない。「倒れる」なんて、彼にはまるで似合わない言葉だった。だが打ち終えた瞬間、彼女はその文字をすべて消した。代わりに送ったのは、たった一言。【恭介さんも】恭介はなんとも言えない気持ちになった。そのメッセージなら、三秒もあれば打てる。なのに彼女は、二十秒近くもかけていた。これで何もないなんて、そんなはずがない。「お嬢様」慎吾は人前ではきちんと「社長」と呼ぶが、人目のないところではいつもそう呼ぶ。「空港行きます? 行くなら今すぐチケット取りますけど」「行かない」柚香は即答した。慎吾は彼女を見つめ、淡々と言う。「でも、『行きたい』って顔してますよ」柚香「……」慎吾はさらに続けた。「必要なら言ってください。いつでも京原市に出張行けるよう準備してますから」その日、仕事を終えて家に帰ったあとも、柚香の調子はあまり良くなかった。本当なら、最初のプロジェクトを勝ち取ったことで、ようやくぐっすり眠れるはずだった。こ
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