All Chapters of 手遅れの愛、妻と子を失った社長: Chapter 581 - Chapter 590

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第581話

「どうしてだ?」修司が尋ねた。「久瀬家の人を信用してませんから」柚香は彼個人を責めているわけではなく、そう言い切った。「電話での話し方を聞いていても、あなたに彼女をちゃんと守れるとは思えなかったからです」修司は何も言わなかった。柚香はさらに続ける。「もし彼女をあなたに任せて、今夜何かあったら、私にも責任があります」「遥真を信用できないのは理解できる」修司の口調はいつも通りで、感情の揺れもほとんど見えない。「でも私は、人として疑われるようなことはしていないと思うが」「私を利用して遥真を追い詰めたでしょう」柚香が言った。「それは協力関係じゃなかったのか?」「最初に仕掛けたのはあなたですよ」「そうだな」修司はあっさり認めた。「でも、君を呼び戻して遥真の命を救わせた。それで帳消しにならないか?」「明日、千尋さんが目を覚ましたら、あなたが来たことは伝えます」柚香はその言葉には答えず、改めて自分の意思を示した。「でも、彼女はあなたには渡しません」「もし私と千尋が付き合っていると言ったら、それでも渡さないか?」修司がふいに尋ねた。「……え?」修司は表情を引き締めた。「いや、何でもない。彼女は暗いところが苦手だから、ベッドサイドの灯りを一つ残しておいてくれ」「分かりました」柚香はうなずいた。修司は礼を言って階下へ降りていった。だが、すぐには帰らなかった。車に乗り込むと、窓越しに目の前の建物を見つめる。別荘というより、もはや城のような豪邸だ。その視線は少しずつ冷たく沈んでいく。「もう少し前へ出してくれ」運転手に指示した。運転手は言われた通り車を進めた。車が止まると、修司は窓を下ろし、煙草に火をつけた。片腕を窓の外へ出し、立ちのぼる煙の向こうで表情は判然としない。スマホを取り出し、千尋とのトーク画面を開く。そして短く打ち込んだ。【本当に倒れてるのか?】千尋はそのメッセージを見たが、開かなかった。開けば既読がつくため、こちらの状況に気づかれる。修司はさらに送る。【私が嘘を嫌うのは知っているはずだ。私を騙したらどうなるかも分かってるだろう】送信されたメッセージは海に沈んだ石のように、何の反応も返ってこなかった。修司が最後にもう一度だけ探りを入れようとしたそのとき、車の窓の外に、恭介の姿が
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第582話

「彼、毎月私にお金をくれるの。その代わり、彼の好きな『おとなしくて従順な女』を演じて、言うことを聞くのが私の役目なの」千尋は露骨な言い方こそ避けたが、大人なら誰でも意味はわかる。柚香は少し考えてから聞いた。「いくらもらってるの?」千尋は隠さず答えた。「四百万円」柚香は容赦なく突っ込んだ。「ケチじゃない?」千尋はぽかんとした。ずっと人に言えず抱えていたものが、その一言で不思議と軽くなった。「彼は久瀬グループの社長じゃないとはいえ、株も持ってるし、会社だっていくつも持ってるんでしょ?」柚香はそのあたりの事情を多少知っていた。「それなのに月四百万円って、かなりケチだと思うけど」「機嫌がいい時はプレゼントもくれるよ」千尋がそう言うと、柚香は真剣な目で彼女を見つめた。じっと見つめられているはずなのに、千尋にはその視線がどこか可愛らしく感じられた。「問題はプレゼントじゃないよ」柚香は、修司に無意識のうちに押さえつけられたことで、千尋の考え方が歪んでしまっていると感じた。「その容姿と実力があれば、女優として月四百万円稼ぐなんて難しくないでしょ」「うん」お蔵入りになった数本の作品は、どれも有望な原作をもとにした良作だった。役柄は三番手や四番手の脇役、あるいは悪役だったが、それでも十分魅力のあるものだった。会社の計画どおりに放送されていれば、彼女は「名の知られた女優」の仲間入りができるはずだった。柚香は彼女の考えを整理するように話した。「あなたが出演した作品、全部止められたの?」「うん」今日の出来事を思い返しながら、柚香は大胆な推測を口にした。「もしかして、外で仕事を受けるのも禁止されてた?ただ大人しく彼に従ってればいいって感じで」千尋は目を大きくした。まさかそこまで当てられるとは思っていなかった。「良く言えば、責任を取りたくないくせに支配欲だけ強いダメ男」柚香は一瞬で本質を見抜いた。修司の思惑には乗らなかった。「悪く言えば、ケチで、人を精神的に追い詰めるし、自分勝手な人間だよね」千尋はこれまでのことを思い返した。「私が怒らせなければ、それなりに優しかったよ」柚香の表情に複雑な色がよぎる。千尋は完全に……「彼があなたに渡しているお金は、囲っているからじゃなくて、仕事に口を出したことへの埋め合わせよ」柚
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第583話

千尋の体がぴくりと震えた。長いあいだ心の奥にしまい込んでいた記憶が、波のように一気によみがえる。過去の出来事が次々と脳裏をよぎり、まるで時間がこの瞬間だけ止まってしまったかのようだ。ぼんやりとした表情を見て、柚香は思った。きっと千尋と蓮司の間には何かあったのだろう。でなければ、こんな反応にはならないはずだ。「話したくなければ無理に聞かないよ」柚香が聞いたのは、蓮司がどんな人なのかを周りの人から知りたかったからだ。今でも彼が母の事件に関わっていたという事実を、どうしても信じ切れずにいた。「知ってるわ」千尋は口を開いた。「昔、とても仲の良い友達だったの」「そうなんだ」柚香はそれ以上聞かなかった。つらい記憶を掘り返したくなかったし、本当に親しい友達だったなら、名前を聞いただけでここまで感情が揺れるのは不自然だ。すると千尋のほうから尋ねてきた。「どうしたの?」「別に」柚香が答える。「私は大丈夫」千尋はもう過去を受け入れていた。ただ、あまりにも久しぶりにその名前を聞いて、昔のことを思い出しただけだ。「聞きたいことがあるなら聞いて。私が知っていることなら何でも話すわ」柚香はしばらく彼女を見つめた。無理をしているわけではないと分かり、ようやく尋ねた。「蓮司さんって、どんな人なの?」「正義感が強くて、友達思いで、年上の人にも礼儀を尽くす人よ」千尋の口から出るのは褒め言葉ばかりだった。「いい人だと思う」柚香はうなずいた。彼と接した回数は多くない。印象として残っているのは、公私の線引きがはっきりしていることと、近寄りがたいほど冷たい雰囲気だけ。千尋の話とはまるで別人だった。「ただ、もう何年も会っていないの。今の彼がどんな人なのかは、正直あまり分からないわ」千尋はそう付け加えた。自分の話が柚香の判断を誤らせるのを心配したのだ。「彼に何か用があるの?」「そういうわけじゃないよ」柚香は適当な理由を口にした。「いちおう従兄だし、どんな人なのか知っておこうと思って」母の事件については、さすがに他人に軽々しく話せることではなかった。家族の問題であるだけでなく、神崎家も関わっている。千尋は一瞬きょとんとしたが、すぐに納得したように言った。「あ、そうか。さっき慎吾さんが、おじいさんは和雄さんだって言ってたものね。そう考えると、あな
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第584話

千尋は蓮司のSNSを開いた。投稿は一件もなかった。「ありがとう」今夜、何度も口にした言葉だった。千尋はスマホを柚香に返しながら言う。「でも、友達追加はやめておく。何年も連絡してないのに今さら申請したら変だし。お金を借りに来たとか、ご祝儀目当てだと思われるかもしれないし」その言葉を聞いて、柚香は二人の間にきっといろいろな過去があるのだろうと察した。けれど、人との距離感を大切にする彼女は、むやみに聞こうとはしなかった。その夜、柚香はぐっすり眠れた。一方、千尋はゲストルームでなかなか寝付けず、浅い眠りの中で修司から逃れられない夢と、久しく会っていない蓮司の姿が入り混じっていた。さまざまな感情に揺さぶられながら、彼女はスマホを手に取り、ブラウザの検索欄に「神崎蓮司」と入力した。すると、蓮司の功績を伝える記事が次々と表示された。最新の記事では、国際的な大型提携を成立させたと報じられている。彼女はその中の一枚の写真を開いた。そこには、スーツをきっちり着こなした蓮司が写っていた。高く通った鼻筋、整った顔立ち。数年前よりもさらに大人の男の魅力をまとっている。別れてからというもの、彼に関するものには一切触れないようにしてきた。無意識に、彼に関係するものを避け続けてきた。それは、自分の気持ちを抑えるためだった。何年も前、ようやく断ち切ったはずの想いが、また息を吹き返してしまわないように。けれど今日は、どうしても抑えきれなかった。気づけば、夜が明けていた。朝、柚香が階下へ降りると、千尋がソファに座っていた。顔にはわずかな疲れの色が見える。薄くメイクをしていても、充血した目は隠しきれなかった。「そろそろ帰るね」千尋は立ち上がった。柚香を見る目には感謝と、ほんのわずかな複雑な感情が浮かんでいる。「昨日は本当にありがとう。また時間があるとき、ご飯でも行こう」「今の状態で帰ったら、一睡もしてないって修司にすぐ見抜かれると思うけど」柚香は一応そう忠告した。「大丈夫」千尋は答えた。柚香は少し眉を上げた。まさか彼女が急に前向きになるとは思わなかった。「あなたの言う通りだった。ずっと自分で自分を閉じ込めてたんだと思う」千尋はふっと笑った。「一度、ちゃんと修司と話してみる」「何かあったら電話して」柚香は基本的に他人の決断を
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第585話

二分後、隼人は柚香との通話を終えると、普段は冷静な顔に珍しく考え込むような表情を浮かべた。裕樹が自ら社長の悩みを解決しようと声をかける。「どうしたんですか?」「なあ、俺がおじさんたちの話を盗み聞きしてた時、なんでスマホで録音しようと思わなかったんだろうな」隼人は顎をなでながら真剣に考える。「どうせバレるなら、録音しておいた方が決定的な証拠になっただろ?」裕樹「……」「君も思いつかなかっただろ?」裕樹はやんわりと指摘した。「盗み聞きしていた時は、見つかるとは思っていなかったのでしょう」隼人は少し考えたあと頷く。「それもそうか」裕樹は再びデスクワークに戻った。この社長が時々とんでもなく抜けることには、もう慣れっこだ。一方、通話を終えた柚香は、安江の事故について考えていた。隼人が当時の会話をはっきり覚えていないということは、盗み聞きしている途中で何かを勘違いした可能性もある。蓮司の性格を考えると、むしろかなり真っ直ぐな人間に思える。そう考えた柚香は、蒼海市に戻ったら改めて調べてみることにした。そして、本格的に仕事に取りかかる前に、千尋へメッセージを送る。【着いた?】千尋からはほぼ即座に返信が来た。【今着いたところ】三年間過ごした目の前の別荘を見つめながら、千尋は深呼吸して気持ちを整え、中へと入っていった。だが彼女は知らなかった。修司は昨夜、遥真と会ったあと、一度も部屋へ上がって休んでいなかったことを。ずっとソファに座ったまま彼女を待ち続け、スマホの音量も最大にしていた。千尋が帰ってきたのを見ると、修司はスマホをマナーモードに切り替えた。「ちゃんと帰ることだけは覚えてたんだな」重苦しい声が飛ぶ。眼鏡の奥の黒い瞳には、一睡もしていないせいで赤い血が滲んでいる。千尋は彼の前に立ち、どうやって本題を切り出そうか考えていた。修司の視線が彼女の濃い色の上着に落ちる。次の瞬間、長い腕が伸びて彼女を抱き寄せ、大きな手が上着を脱がせようとした。「前に言ったこと、忘れたのか?」「それ、柚香さんの服なの」千尋は慌てて手を伸ばして止めた。「同じことを二度言わせるな」修司の口調は穏やかだったが、その奥には冷たさが滲んでいた。「上に行って着替えてこい」千尋は感情を押し殺した。「……わかった」言い争うつ
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第586話

「君がどんな体質か、私が知らないとでも?」修司はゆっくりとした口調で言った。眼鏡をかけたその顔でそんなことを口にすると、どこか知的でいて危うい雰囲気がある。「一晩であれだけ何度しても意識がはっきりしてる人間が、疲れて倒れるわけないだろ?」千尋の顔にわずかな気まずさがよぎったが、胸の奥は冷えていった。こんな修司に、自分が勝てるはずがない。「じゃあ、どうして見抜いたのに黙ってたの?」「君が遊びたいなら付き合ってあげようと思ってね」修司の手が遠慮なく彼女の体をなぞる。「ちょうどいい機会だから、君にも現実を理解してもらおうと思ったんだ。そうすれば、時々変な夢みたいなことを考えなくなるだろうし」実際のところ、千尋が倒れたふりをしていたことに気づいたのは、今朝になってからだった。彼女は先に電話で説明するどころか、帰ってきていきなり話がしたいと言った。どう考えても様子がおかしい。それに、隠しきれないほど目が充血していた。昨夜眠っていないことなど、一目でわかった。眠れなかった理由は、おそらく柚香に何か言われて、一晩中考え込んでいたからだろう。「私との関係を終わらせたいと思ったのか?」修司が尋ねた。千尋は彼の視線を受け止め、しばらく黙ったあとで答えた。「……うん」「柚香は柚香、君は君だ」修司は手を引き、彼女の指を軽くつまんだ。「君は金持ちの家の娘じゃない。子どもの頃から愛してくれる親がいたわけでもないし、何かあった時に助けてくれる金持ちの友達もいない。柚香が何を言ったとしても、あいつの考えは君には当てはまらない」千尋は唇を噛み、何も言わなかった。だが心は少しずつ深い闇へ沈んでいく。「柚香が遥真と別れるのは、お嬢様の社会勉強みたいなものだ」修司の穏やかな声は続いた。「でも君が私から離れたら、それは暗闇からさらに深い闇へ落ちるってことだ」「……わかった」千尋は、彼が自分に警告しているのだと理解していた。今回は見逃してくれる。でも次があれば、きっと容赦なく思い知らせるつもりだ。「これからは柚香と付き合うな」修司は彼女を横抱きにして二階へ向かい、ベッドに下ろしたあと、低い声で言った。「私は彼女が嫌いだ」千尋は赤い唇をきゅっと結び、心はさらに沈んでいく。修司の手が腰から下へと滑り、温かい吐息が耳元にかかった。「
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第587話

三か月前、修司が年齢的に結婚を考える頃だという話になり、神崎家との雑談の流れで、朝倉詩織(あさくら しおり)を婚約者候補として紹介しようという話が出ていた。その時の修司は反対もせず、好きにすればいいという態度だった。こういう話は初めてじゃなかったからだ。だいたい思いつきで話が進む。今日はこの子がいいと言い、明日には別の子がいいと言う。「修司さん?」詩織が様子をうかがうように声をかけた。「時差ボケが落ち着いてからにしよう」修司は適当な理由をつけた。「まずはゆっくり休め」詩織はすぐにうなずいた。「うん!」千尋は修司がスマホを持って部屋を出ていったのを見て、ようやくほっと息をついた。だが頭の中では、自分と修司の関係について考えていた。彼から離れるには、まず大学に通う妹を彼の監視から外さなければならない。けれど妹は大学に入ったばかりだ。大学は高校のように簡単に転校できるものではなく、基本的には四年間通い続けなければならない。つまり……少なくともあと四年は、彼との縁を断ち切れないということだ。そんなことを考えていると、柚香からメッセージが届いた。【大丈夫?】柚香は時間を見計らって連絡していた。この時間なら話し合うべきことはだいたい終わっているはずだし、もし助けが必要ならすぐ動けると思ったからだ。通知音が鳴る。千尋から返信が来た。【大丈夫。心配しないで】柚香はさらに何か送ろうとしたが、文字を打ったところで手を止めた。千尋とは、真帆とのような親友同士という関係ではない。相手がこう返してきた以上、それ以上踏み込むのは失礼な気がした。しばらく考えた末、短く返した。【それならよかった】その日以降、柚香は千尋と会うことはなかった。千尋から連絡が来ることもなかった。まるであの夜の本音をぶつけ合った時間が、淡い夢だったかのように。気づけばさらに半月が過ぎた。隣市のプロジェクトは、柚香が何度も足を運んだ末にようやく獲得できた。だが京原市の案件は駄目になった。慎吾の予想どおりだった。あの人たちは遥真への遠慮があり、露骨に断ることはできなかった。だからこそ食事会には応じ、将来目をつけられないよう表向きは愛想よくしていたのだ。そんなわけで、柚香は隣市との契約を終えると、そのまま蒼海市へ戻る準備
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第588話

遥真は横目で見ながら尋ねた。「前に、修司が圧力をかけて千尋の出演作を何本かお蔵入りにしたって言ってたよな?」恭介は答えた。「はい」もともとは知らなかった話だが、ちょうどそのとき遥真の指示で資料の引き継ぎに行き、偶然その件を知ったのだ。「向こうに話を通して、千尋の出演作は全部公開させろ」遥真は普段、人のことに口を出すタイプではない。だが今回は修司のやり方が度を越していた。「何か問題が起きたら俺の名前を出せ」恭介はすぐに返事をした。「承知しました」健太が嬉しそうに口を挟む。「やっと、元の社長に戻ってきましたね」遥真「?」恭介「?」「だって、前に柚香さんのことを全然気にしなくなってた時期があったじゃないですか。あのとき俺、本当に心配だったんですよ」健太はずっと二人を応援していたので、連絡を取らなくなっていたあの期間がどうにも落ち着かなかった。恭介は軽く咳払いした。「ちゃんと運転しろ」「へへっ」健太は間抜けな笑みを浮かべながら、アクセルを踏んで柚香の車を追いかけた。空港に着くと、恭介は遥真の視線がずっと柚香のいる方向へ向いているのに気づき、思い切って切り出した。「社長、蒼海市で進めている案件の打ち合わせがあるんですが、いかがでしょう?」「いつだ?」遥真が静かに尋ねる。「明日の午前十時です」恭介は真面目な顔で続けた。「交渉にはおそらく一週間ほどかかります」遥真は淡々と答えた。「分かった」張り詰めていた恭介の心は少しだけ軽くなった。賭けに勝ったのだ。「手配済みの専用機が三十分後に出発します。柚香さんより二十分ほど早く蒼海市へ到着予定ですが、今から向かわれますか?」「君に任せる」遥真の表情は変わらなかった。「承知しました」恭介はそう答え、機長へ連絡して予定どおり進めるよう伝えた。健太と目が合う。二人の目には同じ言葉がはっきり浮かんでいた。――社長、ついに素直になった!!!今回の移動中、遥真はほぼずっと陰から柚香を守っていた。彼女の前には姿を見せず、彼女の行動に干渉もしない。守りながらも、自分の約束を守っていたのだ。蒼海市に到着したのは午後五時過ぎだった。恭介は朝のうちに現地スタッフへ車の手配を済ませており、飛行機を降りるとすぐ専用車に乗り込んだ。そして柚香を迎えに来た車が到
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第589話

柚香は一瞬きょとんとした。まさかこんなに早く話が広まるとは思わなかった。契約書を受け取ったのは今日の昼なのに、まだ家にも着いていないうちから、もうみんな知っていたのだ。「おばあちゃんは?」「書斎にいるよ」陽翔はこのところ、安江やその友人たちとすっかり打ち解けていた。「僕には気にしなくていいって。あの人たちのことは無視してていいって言われた」柚香は「うん」と返し、陽翔の手を引いて家に入った。母が無視できるのは、この人たちがみんな母に申し訳ないことをしてきたからだ。相手にしないことが、むしろ一番穏当な対応だった。しかし自分は違う。母の株式を取り戻す以上、どうしてもこの人たちと関わらなければならない。「あ、そうだ」陽翔が丸い目をぱちぱちさせた。「おばあちゃんが伝えてって。もし話したくなかったら、適当に二、三言合わせるだけでいいって。真面目に付き合わなくてもいいってさ」「わかった」柚香はそう答えた。しばらくして。柚香と陽翔は一緒に中へ入った。慎吾は荷物を持って自分の部屋へ戻っていく。リビングに入った瞬間、ソファに座っていた数人の視線が一斉に彼女へ向けられた。最初に口を開いたのは昭彦だった。「柚香、帰ってきたか」「はい」柚香は軽くうなずく。「これは君へのプレゼントだ。提携を取れたお祝いに」昭彦は綺麗に包装された箱を差し出した。柚香が口を開こうとしたが、その前に昭彦が先に話し始めた。「少し休んでいなさい。上でお母さんに君が帰ってきたって伝えてくる」そう言うと、柚香の反応も待たず、プレゼントを手に押しつけるように渡して、そのまま立ち去った。柚香「?」母はもう帰ってきたことを知ってるんじゃなかったっけ?それに、まるで自分の家のような振る舞いだけど、ちょっと馴染みすぎじゃない?「さあ、こっちへ座りなさい」拓海が愛想よく声をかける。顔には人の良さそうな笑みが浮かんでいた。「君は本当に大したもんだ。たった二か月で二つもプロジェクトを取ってきたんだからな。家族の誇りだよ」柚香は表面上だけ礼儀正しく返した。「運が良かっただけです」拓海は豪快に笑う。「運も実力のうちだ。立派だよ」柚香は軽くうなずいただけで、それ以上は何も言わなかった。「これからの予定は?」隣で無表情に座っていた蓮司も口を開い
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第590話

「はい」柚香が答える。拓海は続けて尋ねた。「離婚の原因は解決したのか?」「その程度の問題なら、神崎家の未来に比べれば大したことじゃありません」柚香はそう言った。「私は自分を犠牲にしてでも、遥真と一緒に神崎家を発展させたいんです」拓海「……」拓海は内心ですでに悪態をついていた。だが、最初に「優しい叔父」という立場を作ってしまった以上、簡単に態度を変えるわけにはいかない。「結婚は子どもの遊びじゃない。やっぱり慎重に考えるべきだ」話題を切り替え、諭すように続ける。「神崎家の未来よりも、おじさんは君の幸せのほうが大事なんだ」「そこまで私のことを考えてくださるなら、なおさら自分の都合だけで神崎家の未来を犠牲にはできません」「……」拓海は言葉に詰まった。そして隣にいた蓮司へ視線を向ける。――そもそも最初、柚香と何の話をしていたんだっけ?どうして神崎家の未来なんて話になった?「おじさん、ほかにご用件がなければ少し失礼します」柚香は立ち上がり、礼儀正しくもどこか距離を感じさせる口調で言った。「帰ってきてからまだお母さんと話していないので」「行っておいで」柚香は軽くうなずいてその場を離れた。階段を上っていく後ろ姿を見ながら、拓海は眉をひそめて隣の蓮司に話しかける。「柚香、最初に会った頃と少し変わったと思わないか?」蓮司は分かっていながら、とぼけたように返した。「そうなのか?」「今のあの子は安江みたいに一直線というより、昭彦の図太さを少し受け継いでる気がする」蓮司は淡々と答えた。「別に悪くないと思う」蓮司の評価は至って冷静だった。「この世界の人間なんて、相手によって話し方を変えるのが普通だろう」拓海の目がすっと細くなる。――この生意気なやつ、何て言い方だ。だが蓮司は顔色一つ変えない。相変わらず人を寄せつけない冷たい空気をまとっていた。柚香は二階へ上がると、そのまま書斎へ向かった。部屋に入る前から、昭彦が母のデスクのそばで静かに立ち、「秘書役」をしているのが見えた。柚香「?」どういうこと?母って、いつからその人にこんなに甘くなったの?「安江、うちの娘が来たよ」昭彦は柚香がドアの前に立っているのを見つけると、すぐに報告した。安江が顔を上げる。柚香の姿を見た瞬間、手を止めて立ち上がり、
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