All Chapters of 手遅れの愛、妻と子を失った社長: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

「あなたみたいに温かい環境で育った人なら、そういうことも簡単に言えるよね」玲奈は相変わらず柚香のことが好きではなかったが、その口調は以前よりずっと穏やかになっていた。「でも私みたいに、そもそも選ぶ自由すらなかった人間は、どうやって自分を救えばいいの?」柚香が答える前に、玲奈は続けた。「私だって、いい仕事を見つけて親から逃げようと考えなかったわけじゃない。でも無駄だった。どこへ行っても、あの人たちは必ず私を見つけ出す。本当に見つからなかったら、私のいる街まで来て、親族訪問中に行方不明になったって警察に届け出て、警察経由で私に連絡させるの。いろんな方法を試したけど、一度も逃げ切れなかった」あんな家庭から逃げられないとわかっていたからこそ、彼女は遥真と柚香の間に割って入った。浮気相手なんて大嫌いだった。けれど仕方なかった。あの日、柚香が助けた相手が、よりによって遥真だったのだ。「あなたには選択肢があったよ」柚香ははっきりと言った。「本当に?」玲奈は何にも興味がなさそうな目をしていた。「もしあんなことをしていなかったら、私たちは一生友達でいられた」柚香は本心からそう言った。「私はあなたがあの息苦しい家庭から抜け出せるよう手伝ったと思うし、あなたが得意な分野で輝けるよう応援したと思う」玲奈は小さく笑った。柚香には、その笑いの意味がわからなかった。「無理だよ」玲奈は今までになく率直だった。「初めて会った時から、私はあなたが嫌いだった。温かい家庭も嫌だったし、何事にも執着しないその考え方も嫌だった」柚香は過去を振り返った。決定的な亀裂が入る前まで、二人は仲のいい友達だったはずだ。「私はあなたとは友達になれない。一緒にいるだけで、この世の不公平さを思い知らされるから」玲奈は胸の内をすべて吐き出した。「みんなが必死に頑張って手に入れるものを、どうしてあなたは簡単に手に入れられるんだろうって、いつも思ってた。正直に言うと、あなたは本当に運がいい」その言葉には、隠しきれない羨望が滲んでいた。柚香は否定しなかった。母は若いうちから、自分のために衣食住に困らない温かい未来を用意してくれた。成長する過程でも、母と弘志はたくさんの愛情を注いでくれた。自分は幸せな子どもだったと思う。遥真とのことや、その後に起きたあれこれも
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第572話

そんなことを考えていると、柚香のスマホが鳴った。真帆の父親の電話だとわかると、彼女はすぐに出た。「今、病院に着いた」俊成は少し早口で、心配しているのが伝わってきた。「君たちはどこにいる?」「第三病棟の六階です。エレベーター前でお待ちしています」柚香はスマホを持ったまま立ち上がり、そう言いながら外へ向かった。そのせいで、玲奈が複雑そうな目で自分を見ていたことには気づかなかった。三分後。柚香はエレベーター前で俊成と合流した。彼はスーツ姿で、まるで会食の席からそのまま駆けつけてきたようだった。「真帆はどこだ?」俊成はすぐにそう尋ねた。その目には、隠しようのない心配と愛情が浮かんでいる。「真帆に何があったんだ?」「え?」柚香の頭の上には大きなハテナが浮かんだ。俊成は眉をひそめる。この子、どうしたんだ?まさか真帆の容態がかなり悪いのか……「真帆が、自分のことだって言ったんですか?」柚香は少し考えて、ようやく事情を理解した。俊成の足がぴたりと止まる。「違うのか?じゃあ誰なんだ?」電話であの娘は弱々しい声でこう言ったのだ。――お父さん、大事な娘が今病院にいたけど、会いに来る?「来ればわかります」柚香はそれ以上説明せず、そのまま病室へ案内した。病室で玲奈の姿を見た瞬間、俊成の顔に一瞬戸惑いがよぎった。そしてその直後、胸いっぱいだった心配はきれいさっぱり消えてしまった。柚香は彼を病室に残して病院を後にし、車に乗る前に真帆へ電話をかけた。「お父さんに、引き渡した?」真帆はゲームをしながら話していた。「うん」柚香は病院を振り返りながら、さっき俊成に聞かれたことを思い出した。「お父さんに、自分に何かあったって言ったの?」「言ってないよ。『大事な娘が今病院にいる』って言っただけ」真帆は頭の回転が速かった。「玲奈が大変だって言ったところで、あの人、明日の朝まで来ないかもしれないし。あんたの自由と気分を守るために、父親はあっさり切り捨てた」柚香は心から言った。「ありがとう」「私たちの仲で何言ってるの」真帆は手際よくスキルを発動しながら、会話もまったく止めない。「それより、玲奈ってなんであんたを緊急連絡先に設定してたの?頭おかしいんじゃない?」柚香は玲奈との会話をそのまま話した。聞き終えた真帆は
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第573話

その後の数日間、柚香は約束どおり毎日病院へ遥真のお見舞いに行った。時々他愛ない話を交わしているうちに、あっという間に日が過ぎ、遥真も退院の日を迎えた。自分の服に着替えた彼を見て、柚香は時也に言った。「頼まれたことは全部やったから。そっちも約束を守ってね」「もちろん!」時也は即答した。柚香は「うん」とだけ返し、それ以上は何も言わなかった。帰る時も、遥真には声をかけなかった。遠ざかっていく彼女の背中を見つめながら、遥真の瞳はこれまでになく深く沈んでいた。胸の奥では、抑えきれない感情が激しく渦巻いていた。そんな彼の様子を見た時也は、小声で恭介に耳打ちした。「今後、柚香が誰かと食事する予定があったら、同じ店で遥真の席も取っておいて。距離と時間はうまく調整して」「承知しました」ここ数日の社長の指示は、明らかに陰から柚香を守るためのものだった。気持ちの整理がついたのなら、特別助手の自分も全力で支えるべきだ。遥真は着替えを終えると、二人が何やら話し込んでいるのに気づいたが、特に気にしなかった。薄い唇を開き、恭介に尋ねる。「数日前に頼んでおいた件はどうなった?」「すべて準備完了しております」恭介はすぐに答えた。「そうか」遥真は腕時計をつけ、出かける準備をした。その時、恭介が呼び止める。「社長」遥真が横目で彼を見た。恭介は報告を続けた。「ご両親から、ご実家に戻ってほしいとの連絡がありました。お話ししたいことがあるそうです」「連絡は無視しろって言ったはずだ」遥真が言う。「今回は少し事情が違います。柚香さんの名前が出ました」恭介は内容をそのまま伝えた。「それと、もし社長が帰らないなら、修司さんと話をするしかないともおっしゃっていました」遥真の瞳が冷たく沈む。恭介が尋ねた。「ご実家へ戻られますか?」遥真の答えは今までと変わらなかった。「行かない」「承知しました」「しばらくの間、あちらの動きを監視してくれ。柚香に対して何か仕掛けるようなら、すぐ対処しろ」遥真は念を押した。「彼女に面倒をかけるな」「承知しました」恭介は即座に応じた。「ただ、修司さんの方は……」遥真の兄は久瀬グループの社長ではないが、その手腕や能力は遥真とほとんど変わらない。何かを企てたとしても、必ずしも追跡できるとは限らない。「
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第574話

食事会も終盤に差しかかった頃、慎吾はテーブルをぐるりと見回し、声を潜めて柚香の耳元でささやいた。「社長、なんか変です」柚香は口元に笑みを浮かべたまま、相手と談笑していた。聞こえていると分かった慎吾は、さらに小声で続けた。「この食事会、誰も一滴もお酒を飲んでません。不自然です」「どこが不自然なの?」柚香は雑談を終えてから返事をした。「あまり深い意味はないと思うけど。お酒が好きな人もいれば、お茶が好きな人もいる。人それぞれじゃない?」「社長はまだ経験が足りません」慎吾は至って真面目な顔だった。柚香はちらりと彼を見た。この人、ただお酒がなくて退屈なだけじゃないの?それから十分ほど経ち、食事会はお開きになった。病院側の人たちは次々と立ち上がって席を立ち、一人ひとり丁寧に柚香へ礼を述べて別れを告げた。柚香も彼らを個室の外まで見送る。「ここまでで結構ですよ」そのうちの一人がそう言った。「はい」柚香はうなずき、その場で足を止めた。おそらく、食事会に参加していたところを誰かに見られたくないのだろう。「社長」慎吾は彼らの後ろ姿を見送りながら、真剣そのものの口調で言った。「この案件、多分取れません」柚香は彼を見た。「少しは私に期待してくれてもいいんじゃない?」話は盛り上がったし、見積額もかなり低めに出している。この案件が自分のところに来ない理由はないはずだ。「重要なポイントに気づいてませんか?」慎吾はいつものクールで真面目な顔をしていたが、ときどき少し天然なところもある。柚香は不思議そうに彼を見た。慎吾は自分の観察結果を口にした。「みんな、社長に対して妙に丁寧だったんです」柚香は少し思い返した。「そうだった?」「社長がお茶で乾杯したとき、全員が立ち上がりました」慎吾は細かなところまでよく見ている。「社長の話には必ず返事をして、必ず話を広げていました。一度も場が白けませんでした」柚香は彼を見つめた。「それって礼儀正しいってことじゃないの?」どちらも教養のある大人だ。飲み会のしがらみなんて持ち込まずに接するのは、むしろ良いことではないか。「以前、社長が遥真さんと一緒に食事へ行ったときのことを思い出してください」慎吾は分かりやすい例を挙げた。「誰かが立ち上がったら、遥真さんも一緒に立ち上がっていましたか?」
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第575話

ドアが壁に激しくぶつかり、大きな音を立てた。柚香が音のした方を見ると、服が乱れた千尋が慌てた様子で隣の個室から飛び出してきた。彼女は柚香のそばを通り過ぎる時に気づいたが、何も言わず、そのまま外へ走っていった。同時に、個室の中から、がっしりした体格のボディーガードが二人追いかけてくる。ほぼ一瞬で、柚香は何が起きたのか大体察した。彼女は数歩先まで走っていた千尋を呼び止める。「千尋さん!」千尋の足が止まった。柚香は彼女の方へ歩み寄る。「私のそばに来て。私が守るから」千尋の目に迷いがよぎった。慎吾に止められているボディーガードたちを見て、それから目の前の優しくて頼もしい柚香を見つめる。胸の中でさまざまな感情が渦巻いていた。柚香は何気ない様子で彼女の乱れた服を整えた。そして上着の一部が破れているのを見ると、迷うことなく自分のジャケットを脱いで彼女に着せ、さらに車のキーを渡した。「下三桁が866の車だよ。先に車で待ってて」「でも……」千尋はためらった。今の彼女は、以前病室で会った時とはまるで別人だった。あの時の千尋は花が咲くような笑顔で、親しみやすいのにどこか距離感があった。だが今は、不安や恐怖が入り混じり、これまで身につけていた鎧が剥がれ落ちていた。「大丈夫。私が何とかするから」柚香は安心させるように言い、慎吾へ視線を向けた。「それに最悪、慎吾なら一人で十人相手でも平気だから。相手を手も足も出なくできるよ」千尋は車のキーを返した。「私も一緒にいる」自分を守ってくれた人を置いて、一人だけ逃げるわけにはいかなかった。柚香も無理には勧めず、そのまま残ることを認めた。「どけ。でないと容赦しないぞ」追いかけてきたボディーガードは、千尋が逃げていないと分かって少し安心したのか、険しい顔で慎吾に言った。「どうぞ」慎吾はとても礼儀正しい口調で答え、さらに説明までしてあげた。「ここは監視カメラだらけです。あなたたちが先に手を出したなら、俺がうっかり皆さんを殴り殺してしまっても正当防衛になりますよ」ボディーガード二人は顔を見合わせた。慎吾が尋ねる。「やらないんですか?」二人は眉をひそめ、仕方なく後ろ盾を持ち出した。「俺たちが誰の部下か知ってるのか?」「知りません」慎吾は真面目な顔で答えた。「知りたいなら警察に電話して
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第576話

千尋は反射的に柚香を背中にかばい、不安を押し殺しながら口を開いた。「佐藤社長、この人はただの知り合いなんです。何かあるなら私に言ってください」さっきは焦りすぎて、そこまで頭が回らなかった。だが今になって、柚香はもう遥真と離婚していて、橘川家も破産寸前の状況だということを思い出した。もしこの男に柚香まで目をつけられたら、自分のせいで巻き込むことになる。「そのお友達に中へ入ってもらって、一緒にお酒でも飲んでくれたら、さっきの件は水に流してあげるよ」和夫は穏やかに話し合うような口調で言った。「どうかな?」千尋が返事をする前に、慎吾が真面目な顔で口を開いた。「うちの社長はお酒を飲みません」和夫はますます興味を示した。「へえ、女の社長なのか?」「社長は社長です。なぜわざわざ『女』を付けるんですか」慎吾は淡々と返した。「いや、ちょっと意外だっただけだよ。大半の女性は家庭に入って夫や子どもの世話をしているからね」和夫の視線は終始、柚香と千尋に向けられていた。彼は昔から、美しい女性には目がなかった。「その若さでそこまで上り詰めたなら、相当な実力者なんだろうな」最後の「実力者」という言葉には、わざと含みを持たせていた。「ええ、優秀ですよ」慎吾は言葉どおりの意味で受け取った。「だからこそ神崎家と黒崎家の後継者候補になっているんです」和夫の表情が固まる。眉をひそめながら聞き返した。「神崎家と黒崎家だって?」慎吾の表情は最初から最後まで変わらない。まるで感情のない機械のような顔のまま続けた。「紹介が遅れました。うちの社長は橘川柚香といいます。母は橘川安江さん。元夫は久瀬遥真さん。実父は黒崎昭彦さん。育ての父は橘川弘志さん。祖父は神崎家のご当主。そして兄は神崎グループの社長で……」慎吾は息継ぎもせず次々と並べ立てた。柚香「……」柚香はしばらく黙ったあと、特に止めなかった。これで面倒が片付くなら、利用できるものは利用すればいい。和夫の顔色はみるみる青ざめていく。千尋も思わず目を見開いた。「き、君が……柚香さんなのか?」和夫は心の底から後悔した。こんな相手だと知っていたら、こんな話を持ちかけるはずがない。もし遥真に知られたら、ただでは済まない。「そうです」柚香はあっさり答えた。すると和夫はさっきまでの威勢を完全に引っ
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第577話

千尋と慎吾が同時に柚香を見た。柚香は車の窓越しに和夫たちの車が遠ざかっていくのを確認してから、慎吾に言った。「二人ほど手配して、あの人に恨みを持つ相手を装わせて、夜中に一度痛い目に遭わせてちょうだい」「???」慎吾は真顔で言った。「社長、変わりましたね」柚香は目を上げる。「どこが?」「前は気に入らなかったら即ぶつかってたじゃないですか」慎吾はこのところの彼女の変化を思い返しながらまとめた。「今はちゃんと身を隠す術を覚えたっていうか」「私は京原市にはあまり長くいないから」今の柚香は以前よりずっと立ち回りが上手くなっていた。気に入らないからといって、すぐ正面からぶつかったりはしない。「もし直接揉めたら、私がいなくなった後に千尋へ仕返しされたら困るでしょ」だからこそ、さっきも終始穏やかに振る舞っていたのだ。和夫は彼女の後ろ盾を警戒して手を出せないかもしれない。けれど千尋は、この場所では頼れる人もいない。……待って、千尋って修司と付き合っているんじゃなかった?「ありがとう」千尋は心からそう言った。「気にしないで。大したことじゃないから」柚香は自然に返しながら、本題を聞いた。「でも、どうして佐藤社長に目をつけられたの?」「マネージャーに食事会へ連れて行かれたの。あるドラマの第三ヒロイン役を探しているって聞いて、プロデューサーや出資者と仲良くしておいた方がいいって言われて……」助けをもらったこともあり、千尋は隠さず話した。「まさかこんなことになるなんて思わなかった」業界の暗黙のルールなんて珍しくもない。けれど大半は話がまとまらなければ終わるだけで、あそこまで強引に手を出してくる人は滅多にいない。「あなたって……」柚香は頭の中で情報を整理した。「女優なの?」「うん」千尋は頷いた。さっきよりだいぶ落ち着いている。「ただ、今まで出演した作品で名前が知られるようなものは、まだ一本もなくて」公開されたのは、セリフすらない端役ばかり。中には顔さえまともに映っていないものもあった。それ以外の出番のある作品は、すべて修司によって握り潰されていた。「まだ制作中なの?」柚香は尋ねた。「違う」その話になると千尋の表情は曇る。「公開できなくなったの。たぶん一生世に出ないと思う」柚香はわずかに眉をひそめた。さらに聞こうと
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第578話

千尋はしばらく黙り込んだ。何か吹っ切れたように、彼女は答えた。「修司が許してくれなかったの」「え?」柚香は一瞬きょとんとした。「修司が放送を止めたってこと?」千尋はかすかな声で答えた。「うん」柚香の眉がわずかに曇った。まさか修司がそこまで独断的な人だったとは思わなかった。自分の都合のために、俳優たちの努力や制作側の苦労を無視して、強引に作品をお蔵入りにするなんて。久瀬家の兄弟って、何か問題でもあるんじゃないの。「社長」その時、慎吾が口を開いた。「千尋さんの家はどちらですか?先にお送りしましょうか」柚香は千尋を見た。千尋は膝の上に置かれた手が、少しずつ強く握られていく。まるで帰るのを怖がっているみたいだった。「今夜、うちに泊まる?」柚香はできるだけ彼女を刺激しないように言った。「空いてる部屋もたくさんあるし」柚香には、千尋と修司がどういう関係なのか分からない。ただ、以前遥真が話していたことからすると、二人は何年も一緒にいたのに、修司は一度も千尋を恋人だと認めなかった。それなのに仕事には干渉する。千尋もそれに不満を持っているはずなのに、なぜか別れずにいる。二人の関係は、かなり複雑なのだろう。「どう?」返事がないので、柚香はもう一度聞いた。千尋は承諾したかった。けれど修司の性格を思い出し、ためらった。「やっぱりいいわ。東通り駅まで送ってくれれば」そう言った直後、スマホが震えた。今度の着信音は、さっきの電話とは違う。柚香はちらりと画面を見た。表示されていた名前は「S」だった。S?修司?千尋は着信画面を見つめたまま、指を動かせずにいた。出るべきかどうか、本気で悩んでいるのが伝わってくる。「修司?」柚香が聞いた。「うん」千尋はうなずいた。柚香は何か聞きたかったが、プライベートなことに踏み込みすぎる気がして、言葉が出てこなかった。さらに五秒ほど経った頃。千尋が彼女を見た。何か決心したような目だった。「さっきの提案、もう一回言ってもらってもいい?」「慎吾、柚苑に戻って」柚香はその一言で答えを示した。千尋はほっと息をついた。だが目の前で鳴り続ける電話をどうするかは、まだ決められない。出たら、修司に何と言えばいいのか。彼は昔から鋭くて疑い深い。どんな嘘も見抜かれてしまう。
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第579話

千尋の目に、一瞬だけ複雑な感情がよぎり、思わず赤い唇をきゅっと結んだ。「安心して。あなたを連れて行かせたりしないから」柚香は彼女が何を考えているのか察し、落ち着いて運転している慎吾に言った。「もう少し飛ばして。修司が来る前に着けるように」「承知しました」慎吾はすぐに答え、アクセルをさらに踏み込んだ。車はさっきよりずっとスピードを上げた。車内は静まり返っていた。あの電話を受けてから、千尋は異様なほど静かだった。何も話さず、ずっと黙ったまま。それは柚苑に着くまで続いた。車を降りたあと、柚香は執事に「あとで修司が来ても勝手に通さないで」と言おうとしたが、この家の使用人たちはおそらく彼を少し怖がっているだろうと思い、その役目を慎吾に任せた。「もし修司が急に来ても、二階には上げないで」「承知しました」柚香は周囲を見渡しながら続けた。「行動できる範囲はリビングだけ。千尋さんに会いたいと言っても、私が下りてくるまで待ってもらって」「承知しました」慎吾は答えた。柚香は千尋を一瞥し、最後に付け加えた。「それ以外は、彼に何を聞かれても答えなくていい。全部、私が下りてきてから対応するから」「承知しました」慎吾は彼女の指示をすべてそのまま実行するつもりだった。柚香はうなずき、執事たちにも同じことを伝えた。修司はとても頭が切れる。遥真と同じで細かい変化によく気づくタイプだ。少しでも手配が甘ければ、車内で話したことが口実だったと見抜かれるかもしれないし、千尋が倒れたふりをしていたこともバレてしまう。自分のことなら別に構わない。修司も自分には手を出せない。問題なのは千尋だ。「行こう」柚香は千尋を連れて二階へ上がった。その間ずっと、千尋は彼女を見つめていた。二人は親しいわけではない。病院で会ったのが初対面だった。それ以前の柚香についての情報は、すべて修司の口から聞いたものだけだった。しかし今こうして見ると……柚香は、修司の言う「弟に囲われているだけの女」ではなかった。やっぱり男の言うことなんて、一つだって信用できない。「今夜はここで休んで」柚香は彼女をゲストルームへ案内した。「クローゼットに新しい服が入ってるから着替えて。洗面用品はバスルーム横の棚に入ってるよ」千尋は彼女の優しさに胸が温かくなった。「う
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第580話

修司は慎吾を通り越し、そばにいた執事へ尋ねた。「柚香は?」執事は礼儀正しく答える。「柚香さんなら二階にいらっしゃいます」修司はそのまま二階へ向かおうとした。まるでここが自分の家であるかのような足取りだったが、慎吾が素早く前に立ちはだかった。「?」修司は、あまり見覚えのないその顔を見つめた。慎吾は彼が口を開く前に先に言った。「お客様、二階はプライベートスペースです。ご主人の許可なく立ち入るのは、いかがなものでしょうか」「私が誰か分かってるのか?」修司が静かに言う。「だいたいは把握しています」慎吾は淡々と答えたあと、さらりと続けた。「うちの社長の元旦那さんのお兄さんですよね」「……?」修司は固まった。執事たちも、その場にいた全員も固まった。誰もがその一言にしばらく言葉を失う。「どうぞソファにお掛けください」慎吾は一語一語はっきりと言った。真面目な顔には真剣さしかない。「ご用件があれば、お伝えいたします」修司は彼をじっと見つめた。レンズの奥の視線には強い圧迫感がある。だが慎吾はまったく動じない。「柚香は女性を一人連れて帰ってきたのか?」修司は威圧感を引っ込めた。この男はおそらく遥真が柚香につけた人間なのだろうと察していた。「それは社長のプライベートなことですので、お答えできません」慎吾はまるで機械のように、事務的な口調で答える。「お知りになりたいのでしたら、お伝えいたします」修司の視線が少し冷たくなる。慎吾は尋ねた。「ほかにご質問はございますか?」修司「……」「なければ、あちらのソファへお掛けください。俺が上に行ってお伝えしてまいります」「もうない」修司はそう言ってソファへ向かった。慎吾は「はい」と返し、そのまま二階へ向かおうとした。だが二歩ほど進んだところで、一つの人影が彼を追い越し、そのまま足早に階段を上っていった。その無礼な行動を見た慎吾は、慌てて追いかけ、階段の前で再び彼を止めた。態度もぐっと厳しくなる。「修司さん、それは少し失礼ではありませんか」「どうしたの?」そこへ柚香がやって来ると、二人が向かい合っているのが目に入った。修司はすぐ尋ねる。「千尋は?」慎吾はすかさず告げ口した。「社長、この人、失礼です」一回では足りなかったのか、さらに続ける。「さっきはソファに座るっ
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