All Chapters of あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

杏奈はもう否定しなかった。かわりに、黙り込んでしまった。カフェには穏やかな音楽が流れていた。窓から差し込む日差しが、店内をぽかぽかと暖かく照らしていた。しかし、二人の間に流れる空気は、凍えるほど冷たかった。「どうして?」長い沈黙を破ったのは、健吾の方だった。彼の声は、どこかかすかにかすれているように聞こえた。杏奈はようやく顔を上げて、健吾を見つめた。いつもの笑顔はなく、彼は無表情だった。銀色の髪の下で、驚くほど黒い瞳が、どこか傷ついたように揺れていた。杏奈は胸がずきりと痛んだけれど、それでも言葉を続けた。「私、すぐに新しい恋を受け入れるなんてできない……それに、あなたはもっと素敵な人と一緒になるべきよ。私は……」彼女が言い終わる前に、健吾は突然、鼻で笑った。「もっと素敵って、何のことだ?」杏奈は言葉に詰まった。でも、なんとか気持ちを落ち着けて、言葉を続けた。「私は結婚してたし、心も体も傷だらけなの。今は必死にアトリエをやってるように見えるかもしれないけど、本当はもうボロボロなのよ。心も、何もかもが。だから、あなたとまともな恋ができる自信がないの」杏奈の8年間の結婚生活は、いびつなものだった。夫は他の女のために彼女を利用し、息子もその女のせいで彼女を嫌っていた。それでも杏奈は、純粋に、そして独りよがりかもしれない愛情で、二人に尽くしてきた。正直に言うと、あの辛い過去から逃げ出すことはできたけど、もう好きという気持ちを信じられないし、昔のような熱い気持ちで誰かに向き合うこともできないのだ。もし本当に健吾を受け入れたら、彼に対して不誠実だと思った。健吾は、杏奈が何を心配しているのか分かっていた。でも、そんな言葉は聞きたくなかった。彼は、自分を卑下する杏奈の言葉には直接答えなかった。代わりに、骨ばったきれいな指を伸ばした。「なら、気持ちの話はやめよう。別の話をしないか」杏奈は、健吾が何を言いたいのか分からなかった。でも、とりあえず話に合わせて尋ねた。「何を話すの?」「貸し借りの話だ」杏奈は、健吾の指が折られていくのを見ていた。「昔、異国の地で、あなたは俺の命を救ってくれた。俺はあなたに命の借りがある。そうだろ?」杏奈は眉をひそめ、戸惑った様子で彼を見た。だが、
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第292話

カフェからアトリエに戻るまでの道すがら、杏奈は、ずっと上の空だった。睦月に大声で呼ばれて、彼女ははっと我に返った。「何をそんなにぼーっとしているんですか?顔、真っ青ですよ。具合でも悪いんですか?」杏奈は首を横に振った。「ううん、大丈夫です。どうしましたか?」睦月はスマホを指さした。「良さそうな人を何人かピックアップしたので、面接したいんですが、明日時間ありますか?一緒に面接を引き受けてくれない?」杏奈はうなずいた。「時間、ありますよ。段取りお願いできますか?」睦月はうなずいたけど、やっぱり杏奈の様子がおかしいと思った。彼女は杏奈の後を追って、オフィスに入った。そして、上の空になっている杏奈を見て、目を細めながら尋ねた。「さっき、健吾さんがカフェにあなたを訪ねて行くのを見たんですけど。何の話をしたら、こんな風に思い詰めたようになったんですか?」健吾の名前を聞いた瞬間、杏奈の瞳が揺れた。睦月はその反応を見逃さなかった。いたずらっぽく笑いながら、デスクに手をついて顔を近づけた。「やっぱり何かありましたね。一体どうしたんですか?まさか、告白でもされたんですか?」杏奈は驚いて顔を上げた。その目は「どうしてわかったんですか?」と物語っていた。睦月は「やっぱり」という顔をすると、冷蔵庫に向かって飲み物を一本取り、ソファに腰掛けた。「健吾さんのあなたに対する態度って、他の人とは全然違いますよね。気持ちが顔に思いっきり出てるんですから。彼があなたのことを好きなことくらい、誰が見たってすぐにわかりますよ」だが、当の本人である杏奈は、そんな細かいことに全く気づいていなかった。彼女はさっきカフェで、健吾が告白の後に言った、断れないような言葉を思い出していた。「気持ちをはっきり伝えたから、もうアプローチは隠さない。もし俺につらく当たるならそれでもいい。あなたの前では泣かないよ。どこか隅っこで、一人で傷を癒すだけだから。大学の同級生の連絡先、送っておいたよ。このくらいのお願いも聞いてくれないなら、もう二度とあなたには何も頼まないから」いい大人の男が、これでもかってくらい可哀想なふりをするんだもの。杏奈は、健吾がわざと言っている部分もあるとは思った。でも、その言葉は彼女の心に罪悪感を芽生えさせた。健吾は今
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第293話

杏奈は、わけがわからなかった。睦月は、杏奈のことをずっと賢い子だと思っていた。でも、8年も結婚生活を経験したのに、恋愛にこんなに鈍感なんて……もしかして、本当はすごく鈍い子なのかもしれない。「N市に来てからずっと気づいていたんですけど。あなたは、鈴木家のお兄さんに対する態度と、健吾さんに対する態度が、全然違いますよね。鈴木家のお兄さんたちには普通に接しているように見えるけど、どこかまだよそよそしい感じがします。でも、健吾さんに対しては違います。この前の内装のことで考えてみて、啓太さんと健吾さんが一緒にいたのに、カーテンの色で迷った時、あなたが最初に意見を聞いたのは健吾さんでしたよね」杏奈は、そのことを覚えていた。あの時、アトリエの内装工事はもうほとんど終わりかけていた。彼女はアトリエのカーテンを見ながら、白いレースのものにするか、それとも水色の柄物にするかで迷っていた。啓太も健吾もそばにいたのに、自分がとっさに尋ねた相手は、確かに健吾だった。「啓太さんは確かに私の兄です。でも、鈴木家に戻ってきたばかりで、みんなとはうまくやっているけど、まだそんなに親しくはないんです。健吾さんとは京市で知り合った友達だし、啓太さんより彼の方が付き合いが長いのは事実ですから」親しくなるには、やっぱり時間がかかるものだし。京市で健吾と過ごしているうちに、自然と仲良くなって、気心も知れてきた。だから、それは当たり前のことじゃない。杏奈は、睦月が大げさに騒ぎすぎだと思った。「恋愛したこともないあなたに話しても、無駄みたいですね」杏奈は、睦月と話すのをやめた。睦月はカッと目を見開いた。「あなたは、よくも人の痛いところを突きますね!」彼女は飛び上がって杏奈を追いかけようとする。杏奈は慌てて部屋を飛び出し、睦月の魔の手から逃げ出した。そして夜、鈴木家に帰宅したあと、杏奈は何度もスマホを手に取っては、健吾とのライン画面を眺めていた。トーク画面には、健吾からの【無事、家に着いたよ】というメッセージが表示されていた。その一つ上には、彼の大学の同級生の連絡先が送られてきている。杏奈はデザイン部屋でデザイン画を描いていたが、左手にはペン、右手にはスマホを握っていた。こうして彼女はうつろな目でスマホをじっと見つめていると、ペン先が
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第294話

次の日。杏奈は、約束の時間にある和食レストランに着いた。蒼真は、もう先に着いて待っていた。そして、蒼真と一緒にいたのは、健吾だった。杏奈は、健吾までいるとは思わなかった。彼は蒼真の隣に座っていた。蒼真が立ち上がっても席を立とうとせず、ただテーブルに片ひじをついて、杏奈に向かって口元をゆるめて笑った。杏奈は遠くからでも、健吾の目にいたずらっぽい光が浮かんでいるのが見えたから、彼女はなんだか息が詰まるようで、気が晴れなかったのだ。「こんにちは、鈴木さんですね?俺は渡辺蒼真です。昨日はどうも」蒼真が気さくに話しかけてきたので、杏奈も健吾から視線を外し、蒼真に笑顔を向けた。「こんにちは。鈴木杏奈です」「さあ、座ってください」そう言われ、杏奈は蒼真の向かいの席に座った。健吾の視線は、ずっと杏奈を追っていた。彼女が席に着くと、その斜め向かいからじっと見つめていた。杏奈が健吾のほうを見ているのに気づいて、蒼真が口を開いた。「鈴木さんと健吾は、俺なんかよりずっと親しい仲ですよね。今日、健吾はたまたま暇だったんで、昔話でもしようって一緒に来たんです。鈴木さん、ご迷惑じゃなかったでしょうか?」すると、杏奈が何か言う前に、健吾が割り込んだ。「彼女が迷惑なわけがないだろ。俺たちはすごく長い付き合いなんだから」そう言われ杏奈は、彼をこっそり睨みつけた。でも、その睨みはまったく迫力がなくて、健吾にはむしろ可愛らしく見えた。一方、杏奈は蒼真の手前、愛想笑いを浮かべておくしかなかった。「全然、お構いなく」それを聞いて、蒼真はさらに明るい笑みを浮かべた。彼は杏奈にメニューを渡して言った。「今日の食事は健吾のおごりですから。鈴木さん、遠慮なく何でも頼んでくださいね」すると、健吾は、蒼真の方を向いた。「俺はお前たちを引き合わせたんだぞ。だったら、お前が俺たちにご馳走するべきじゃないのか?」蒼真はお金の話も恥ずかしがらず、堂々と言い放った。「今は起業したばかりで、お金は全部工場につぎ込んじゃったんだよ」そう言うと彼は杏奈に視線を移した。「工場に資金がちゃんとあって初めて、鈴木さんとの協力も安定します。健吾は俺たちの友達なんだから、提携がうまくいけば彼だって嬉しいはずです。だから、彼がおごるべきなんで
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第295話

蒼真は、すごい情熱の持ち主だった。杏奈は、これこそが起業家に必要な情熱なのだろうと思った。そう思って彼女は資料を閉じ、これ以上考えるのをやめた。「では、これからよろしくお願いします」杏奈は蒼真に向かって手を差し出した。蒼真は一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうな顔で言った。「鈴木さんは、さすが決断が早いですね!」「もう鈴木さんじゃなくて、杏奈さんって呼んでください」「はい、杏奈さん」蒼真は手を伸ばし、杏奈の手を握った。健吾はずっと隣に座ったまま、握られた二人の手をじっと見つめていた。その表情は、なんとも言えないものだった。それから、料理が運ばれてくると、杏奈と蒼真は提携についての話で盛り上がった。健吾は箸を手に、茶碗のご飯を何度もつついていた。楽しそうに話す二人を見て、彼はだんだんと面白くなくなってきた。今回の提携を仲介したのは、どうやら自分の首を絞めることになったみたいだ。そんなことを考えていると、見覚えのある、虫唾の走る男が遠くから歩いてくるのが見えた。竜也がレストランに入ってきて、誰かを探しているのか、きょろきょろとあたりを見回していた。なかなか目当ての相手が見つからず、彼はいらだたしげにスマホを取り出した。しかし、ふと何かを感じたように、杏奈たちのテーブルの方を見た。すると、竜也は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに険しい表情に変わった。そして、指先でスマホの画面を適当に数回タップすると、それをしまい、杏奈たちのテーブルに向かってきた。杏奈と蒼真が話していると、ふと横に人の気配がした。顔を上げると、竜也がすぐそばに立っていた。竜也は蒼真に目をやると、ふんと鼻で笑った。「また知らない男か。杏奈、お前も懲りない女だな?」「杏奈?」それを聞いて蒼真は杏奈に尋ねた。「お知り合いなんですか?」杏奈が何か言うより早く、竜也が面白そうに口を挟んだ。「知り合い?杏奈、お前は外で一体どれだけの男を手玉に取ってきたんだ?」それを聞いて、杏奈は顔をこわばらせ、心底うんざりしたという表情で竜也を見た。「あなたには関係ないわ」「関係ないだと?」竜也は、あまりの言い草に言葉を失った。彼はふと視線を上げると、隣に座る健吾の真っ黒な瞳と目が合った。健吾に何度も脅されたこと
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第296話

蒼真は、去っていく二人の後ろ姿を見ながら、健吾に怪訝そうに尋ねた。「健吾、杏奈さんは大丈夫かな?あの男、どう見てもろくなやつじゃなさそうだけど」健吾は彼を見下ろして、質問には答えず、逆に話題を変えた。「彼女のこと、なんて呼んだ?」蒼真は少し考えてから、「杏奈さん、だけど」と答えた。「呼び方を変えてくれ」健吾はどうやらそれが気に食わなかった。それを聞いて、さすがに鈍感な蒼真でも、この時には何かがおかしいと気づいた。彼はニヤニヤしながら健吾の顔を覗き込み、冗談っぽく言った。「どうりで忙しいお前が、俺の起業話にこんなに親身になってくれるわけだ。橋渡ししてくれたり、一緒に提携先まで会いに来てくれたりさ。なるほど、俺のビジネスパートナーは、お前の好きな人ってわけか」健吾は否定しなかった。「分かってるならいい」そう言われ、蒼真は俄然興味が湧いてきた。「じゃあ、見に行かなくていいのかよ?あの男、どう見ても良からぬことを考えてるぜ!」蒼真はドアのガラス窓の向こうにいる二人を指差した。彼は竜也の第一印象がすごく悪かった。嫌味ったらしい上に、女を脅すなんて。どう見たって最低のクズだ。健吾は外の二人を見て、険しい表情になった。彼は黙ったまま、蒼真の言葉には答えず、追いかけるそぶりも見せなかった。その頃、店の前。杏奈と竜也が向かい合っていた。彼女はわざと、比較的静かで、人目につく場所を選んでいた。竜也が、あの夜のクルーズ船のようにまた暴走するのを避けるためだ。杏奈は竜也を、冷めきった表情で見つめた。「話して。一体なんなの?」「この間、浩がお前のところに行っただろ?」杏奈はうなずいた。「ええ、そうだけど。それが何か?」竜也は眉をひそめて彼女を見ると、諭すような口調で言った。「何はどうあれ、浩はお前の子どもだ。俺たちの問題を子どもにぶつけるな。浩が会いに来たのは、まだお前を母親だと思ってるからだ。優しく受け入れるべきで、追い返すなんてあり得ないだろ!」杏奈は、何かよほど大事な用かと思っていた。まさか、こんなことのために呼び出されるなんて。彼女はフッと鼻で笑った。「離婚協議書にはっきり書いてあるわ。浩の親権はあなた。私とあなたたち親子は、法律上の関係を一切断ち切ったの。まさか、
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第297話

健吾は椅子の背にもたれ、悪びれもなく首をかしげると、ガラス窓の外にいる竜也に視線を送った。そして彼は挑発的な笑みを浮かべ、細長い指で自分の首を掻っ切る仕草をした後、くいっと眉を上げてみせた。まるで自分が勝者だとでも言いたげな、堂々とした態度だった。それを見て竜也は、ぐっと拳を握りしめた。あの運転手、杏奈が自分に平手打ちしたのをきっと見ていたんだ。だから、こんな挑発をしてくるんだ。「中川社長、すみません、お待たせしましたか?」その時、竜也が約束していた相手が到着したのだ。彼は振り返って浩平を見ると、店に入ろうとするのを手で制した。「店を変えましょう」そう言うと、竜也はくるりと背を向けて、まっすぐに歩き去った。そして彼はまた心の中で固く誓った。杏奈とは8年も連れ添った仲だ。離婚したからといって、あんな得体のしれない男と付き合っているなんて噂が広まれば、自分の面子が立たない。必ず、あの運転手から杏奈を引き離してやる。一方浩平は、なぜ竜也が急に考えを変えたのか分からなかった。でも、彼の真剣な表情を見て、何も聞けずに後を追って店の入り口を離れた。そして食事を終えると、杏奈は蒼真に別れを告げた。一方、健吾は杏奈の後についてきた。杏奈はうつむいてスマホでタクシーを呼んでいたが、視界の端に映る、ずっと隣にいる健吾の姿に、そっと眉をひそめた。「あなたは帰らないの?」「あなたは?どこかへ行く予定はあるのか?」健吾は答えず、逆に問い返した。杏奈はスマホをしまい、くるりと健吾の方に向き直った。「健吾さん、あなたは橋本グループの社長なんだから、毎日忙しいんじゃないか?」健吾は頷いた。「ああ、忙しいさ。でも、今は忙しくない」彼は相変わらずの笑顔のまま、図太い態度を露わにしていた。こんな健吾に、杏奈はまったく太刀打ちできなかった。彼女は眉をひそめたままその場に立ち尽くし、何も言い返せなかった。一方、健吾は満面の笑みを浮かべて、少し和らいだ日差しと、杏奈のやや憔悴した表情を交互に見やった。「アトリエに戻るのか?」杏奈は彼を睨みつけるように一瞥した。「戻って、提携が決まったことを睦月さんに報告しないと」「そんなの電話で済む話だろ。わざわざ行く必要あるのか?」「アトリエでやることがたくさ
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第298話

杏奈は顔を真っ赤にした。この人は、どうやら告白してからどんどん羽目を外してくるようになったわけね。そう思って、彼女は健吾を睨みつけた。「どこに行くの?さっさと行ってよ!」そう言うと、杏奈は窓の外に顔を向け、もう彼を見ようとはしなかった。健吾は軽く笑い、杏奈をからかうのをやめた。そしてエンジンをかけ、レストランの前から車を発進させた。一方、竜也はレストランの向かいのビル、二階の窓際の席で、健吾と杏奈のちょっとした動きまで全て目にして、その手の中にあったグラスを握り潰しそうになっていた。……一方、車の中は、ずっと静かだった。杏奈は窓の外を見ていたけど、何やら思い詰めている様子だった。健吾は運転の合間に彼女をちらりと見た。彼の眼差しは深く、何を考えているのか分からなかった。そして車は走り続け、N市中央病院に着いた。目的地に着くと、杏奈は戸惑った。「あなたは病気なの?」健吾は彼女を見つめて言った。「いや、病気なのはあなただ」杏奈は、まるでつまらない冗談を聞いたかのような顔をした。健吾は笑って言った。「さあ、行こう」なぜ健吾が自分を病院に連れてきたのか分からなかったけど、杏奈は彼の後について行った。二人は外科にやってきた。健吾はためらうことなく主任のオフェスに入っていく。すると部屋の中には空と、見知らぬ外国人の姿があった。空は二人が入って来るのを見て、少し驚いたように喜んだ。「杏奈、どうして来たんだ?」杏奈は苦笑いを浮かべた。こっちが聞きたいくらいだ。空はわざと健吾を無視しているようだった。彼は杏奈だけを、外国人の向かいにあるソファに案内した。「杏奈、まず座って。お水持ってくるから」すると杏奈は、傍らで無視されて立っている健吾の方を見た。彼女は少し眉をひそめ、健吾に手招きした。「あなたもこっちに座って」健吾は口元の笑みを崩さず、杏奈の隣に歩いてきて腰を下ろした。彼は座ると、向かいの外国人に挨拶をした。「ヴィス先生」「ヴィス先生」と聞いて、杏奈は目を丸くした。ヴィス教授といえば、この分野で最も権威のある専門家だ。杏奈が昔病院で働いていた頃、ぜひ一度この教授と話してみたいと強く願っていた。しかし、ヴィス教授が国内に来て講演などをすることは滅多
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第299話

ヴィス教授は指の腹で杏奈の手首のあたりを何度か押し、落ち着いた声で言った。「腱が切られた後、うまく繋がっていないみたいですね。骨も少し変形しています。このまま手術をしないと、変形はどんどんひどくなりますよ」それを聞いて杏奈は嬉しそうに、ぱっと顔を上げてヴィス教授を見た。「手術のあと、後遺症は残りますか?」「私が執刀すれば、その心配は要りません」ヴィス教授は、絶対の自信を漲らせて言った。それを聞いて杏奈の胸は、期待にときめいて、高鳴った。手首と足首の怪我は、彼女にとってずっと癒えることのない痛みだった。普段は口にしなかったけど、ペンを握ってデザイン画を描くたびに手首が痛んで、やっぱり心の底ではずっと気にしていたのだ。杏奈は元外科医だから、自分の手足の傷がどういう状態なのか、本当はずっと分かっていた。ただ、この手術はものすごく難しい。全国を探しても、この手術ができる医師を見つけられなかったのだ。まさか健吾が、ヴィス教授をN市まで呼んでくれるなんて。もし自分の考えすぎでなければ、健吾は自分のために、わざわざヴィス教授をN市に呼んでくれたんだ。そう思うと、彼の優しさに応えられない申し訳ない気持ちと、言葉にできない複雑な感情が混じって沸き立った。一方、手足の怪我が治ると知って喜んでいる杏奈を見て、空も口元を少しほころばせた。妹がやっと実家に戻ってきたばかりだから、本音を言えば、こんなに早くまた嫁いで家を出ていってほしくはない。でも、健吾がこれまで杏奈にしてきたことは、すべて見てきた。それに、妹は健吾に好意を表には出さないけれど、心の中では間違いなく彼に惹かれていることも、空も見て取れた。だが、彼女は前の結婚でひどく傷ついたばかりだ。だから、すぐに次の人を受け入れられないのも当然だろう。きっと時間がすべてを癒してくれるはずだ。それに、健吾みたいに粘り強い男なら、大した問題じゃないのかもしれない。そう思って彼は、もう余計な口出しはやめておこうと決めた。それからヴィス教授と手術の日程を相談した後、杏奈はまた新たな問題に頭を悩ませていた。アトリエを立ち上げたばかりで、注文もたまっている。手術をしたら回復にも時間が必要で、なんだかんだで3ヶ月はかかるだろう。それに、来月には海外のファッション
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第300話

杏奈は何か思いついたように、目を細めて健吾を見つめた。「ふと思ったんだけど、京市のあのデザイナー交流会で私がもらった賞って、あなたが裏で何か手を回したりしてないよね?」健吾は眉間にしわを寄せ、「あなたには、俺がそんな公私混同するような男に見えるか?」と言った。確かに、彼はそんな人じゃない。そう思うと、杏奈は疑念を打ち消した。ということは、あの時の賞金は、本当に自分の実力で勝ち取ったものだったんだ。それが分かって、杏奈はまた喜びが込み上げてきた。「今すぐ戻って睦月さんに話して、アトリエの仕事の段取りをつけたら、すぐに手術を受ける!」そんな彼女を健吾は愛おしそうに見つめながら言った。「送っていこうか?」「あなたは用事があるなら行って。私はタクシーで帰るから」健吾はきょとんとした。どうして杏奈は自分に用事があると分かったんだろう?杏奈は彼の戸惑いを読み取って説明した。「あなたは、いつもなら送るかどうかなんて聞かないで、無理やり車に乗せるじゃない。尋ねてきたってことは、用事があるってことよ」そんなに分かりやすかったか?健吾は、さらに口角を上げた。杏奈がタクシーを呼ぶと、二人は通りに並んで立った。沈黙が流れたが、気まずさはなかった。空は曇っていて、蒸し暑い風が吹くと、杏奈の霧のように軽やかなスカートの裾がふわりと揺れた。彼女は唇を引き結び、呼んだタクシーが着く直前になって、ようやく健吾の方を向いた。「健吾さん、ありがとう」突然のお礼に、健吾はきょとんとした。そして彼は口の端をくいっと上げて、いつもの冗談を口にした。「その『ありがとう』、全部覚えていけばいいさ。いつかまとめて請求するからな」そう言って健吾は杏奈に顔を近づけた。「できれば、体で払ってくれると嬉しい」杏奈は顔を少し赤らめたが、今回は避けなかった。「健吾さん」その声には、少し真剣な響きがあった。健吾を見るその瞳も、真剣そのものだった。そのせいで、健吾も思わずドキリとした。彼は瞬きをしながら、おとなしく杏奈の言葉を待った。「あなたは私より3歳年下で、まだ若い。だから、気持ちのことはちゃんと考え直してほしいの。昔、海外で私があなたを助けたことへの恩返しだっていうなら、もう十分よ。今まで、何度も助けてもらった
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