All Chapters of あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!: Chapter 671 - Chapter 680

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第671話

一方佳乃も杏奈を引き止めなかった。そこへ向かうのに2時間の道のりだったが、杏奈には、とてつもなく長く感じられた。彼女は顔面蒼白で、体に力が入らず、オード州で車を降りた時、とうとう立っていられなくなるほどだった。もしボディーガードが支えていなかったら、そのまま地面に倒れていたかもしれない。再び、この馴染みのない街に戻って、ある店の前で、杏奈は見覚えのある姿を見かけた。それは、あの日、健吾が自分を裏山から逃がしてくれた時に、助けてくれた人だった。健吾と彼の会話から察するに、二人はきっと親友なのだろう。杏奈はボディーガードの手を振り払い、フラフラしながらコーリンの腕を掴んだ。コーリンは驚いて振り返った。杏奈の姿を見ると、「どうしてあなたがここにいるんですか?」と目を見開いた。「健吾さんどこですか?」杏奈は、コーリンなら佳乃とは違うことを言ってくれるんじゃないかと期待した。しかし、コーリンは彼女を見るうちにどんどん表情を曇らせ、同情のこもった眼差しを向けた。「鈴木さん、健吾は……」「死んでないんでしょう?病院にいますね?お願い、彼に会わせてください!」そう言われて杏奈の目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。そして、胸のうちが痛んで息が詰まるほどになっていた。その様子を見て、大の男であるコーリンも、思わず目頭が熱くなった。彼は杏奈に頭を下げた。「ごめんなさい。俺が健吾を守りきれなかったからです。柴田に隙を与えてしまい、あいつは狂っています!それで健吾を道連れに……」それを聞いて杏奈は、全身から力が抜けていくのを感じた。彼女はコーリンの手を離し、数歩後ずさった。「信じられません……信じられるわけありません……」ついこの間まで、健吾は優しく話しかけてくれて、自分のために全てを準備してくれたのに。その笑顔も、抱きしめられた時の温もりも、まだはっきりと覚えている。彼は言った。「すぐに戻るから、待っていて」と。だから、健吾が死ぬはずがない。そう思って杏奈は再びコーリンの腕を掴み、「彼に会わせてください!」と叫んだ。そこまで言われるとコーリンも仕方なく、健吾が事故に遭った場所へ杏奈を連れて行った。そこのまっすぐな道路の脇は、木々が焼け焦げて黒い土がむき出しになっていた。地面には血
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第672話

杏奈は妊娠していた。健吾と関係を持つときは、いつもちゃんと避妊していたのに。でも、ほんのわずかな確率が、彼女に当たってしまったのだ。杏奈は、最後に健吾と体を重ねた夜のことを思い出した。サイズが合わなかったから、彼は外に出してしまった。まさかとは思った。それで、赤ちゃんができてしまうなんて。でも、この時の杏奈は喜びを感じられなかった。彼女は香織の手を掴んだ。そして目を赤くしながら言った。「健吾さんは死んでないですよ!D国に戻らせてください。彼を探しに行きます!」病室の中の慣れ親しんだ文字を見て、眠っている間に、国内へ戻されたのだと杏奈はすぐに分かった。でも、今は国内にいたくなかった。健吾が、こんな訳の分からない形でいなくなるなんて、彼女は受け入れられなかったのだ。彼の遺体をちゃんと見ていない。だから、バラバラになった肉片だけで健吾が死んだなんて、絶対に信じない。あんなにすごい人が、死ぬはずない。だけど、香織は杏奈を抱きしめた。「健吾は私の一人息子なのよ。私もあの子がこんな形でいなくなったなんて信じたくない。でも、これが現実なの。受け入れるしかないのよ」「受け入れたくないです……」杏奈はしくしくと泣き、その声はどんどん小さくなっていった。そして、ついにまた意識を失ってしまった。それを見た香織はパニックになり、慌てて空を呼んだ。それから、空は産婦人科の名医を連れて、杏奈の病室へ向かった。診察の結果、杏奈は深い悲しみと体の衰弱で失神したことが分かった。今のところは大丈夫だけど、このまま精神的に不安定な状態が続けば、お腹の子は危ないかもしれない、と医師は言った。香織は心配そうに杏奈を見つめて言った。「じゃあ、杏奈さん自身は?彼女は大丈夫なんですか?」「母体もひどく弱っているので、同じく危険な状態です」それを聞いて、香織はひどく焦った。「どうしましょう。彼女が目を覚ましたら、また健吾のことを考えてしまいます」空は香織を慰めた。「大丈夫です。杏奈に何かあったりはさせません」空の言葉には、なぜか人を安心させる力があった。香織は少し落ち着いたが、それでも心配は尽きなかった。空はベッドに横たわる杏奈をじっと見つめ、香織に尋ねた。「旦那さんはD国に行かれているようですが、何か分
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第673話

そう思っていると、茂は言った。「澪ちゃんがここを去ってから、一度も戻ってこない。行方も分からず、どうもおかしいんだ」このことは、ずっと茂の心に引っかかっていた。香織は澪の名前を聞いても、もう昔のように優しくなれる気分ではなかった。「生きていけなくなったら、どうせ戻ってくるわ。あの子のことより、杏奈のことを心配してあげて」と彼女は言った。澪に対する香織の態度がすっかり変わってしまったのを見て、茂は少しやりきれない気持ちになった。彼が心配しているのは澪自身のことではない。澪と​裕一との繋がりを考えると、健吾の死に彼女も関わっているんじゃないかと思ったんだ。だが、隆に頼んでD国でずっと探してもらっているのに、澪の手がかりは全くない。そのこと自体に何か裏があるのではないかと、茂は疑っていた。いい大人が、忽然と姿を消したんだ。A国とD国のどこを探しても、彼女の痕跡はない。一体、どこで何をしているんだ?一方杏奈はぼんやりしていたが、ふと顔を上げると、少し離れたところに香織と茂が立って、自分のことを見ていることに気づき、彼女は立ち上がって、二人のほうへ歩いて行った。そして二人の憔悴しきった様子が目に入って、杏奈は胸が苦しくなった。「お父さん、お母さん。私なら大丈夫ですから、心配しないでください」杏奈の声は、か細かった。橋本家に越してきてから、彼女はもう自分を二人の嫁だと思っていた。健吾と式は挙げていないけど、彼女の中で生涯を共にするのは彼以外考えられなかったから、彼女は自分から進んで橋本家に入ったのだった。香織は笑って杏奈の手を取った。「ええ、分かっているわ。あなたなら、自分とお腹の子のことをちゃんとできるって信じてる」妊娠6ヶ月のお腹は、まだそれほど大きくない。杏奈はお腹に手を当てた。すると、お腹の子の鼓動がまだ感じられた。この子は、自分と健吾の子だ。この子のためにも、自分の体を大事にしなくちゃ。そう思って、彼女は頷いた。それから、香織と杏奈は、ゆっくりと家の中に戻った。一方、茂は隆からの電話に気づき、少し離れた場所で通話ボタンを押した。かつては小さなすれ違いもあった二人だが、今ではもうわだかまりはすっかり消えているのだった。「お前に頼まれてた千葉の件だが、最近、D国からこっちに
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第674話

こうして時はあっという間に過ぎていき、杏奈の出産予定日になり、鈴木家と橋本家のみんなが病院に集まった。いつも撮影で忙しくしている克哉も、珍しく監督に休みをもらい、山奥からはるばる京市の病院まで駆けつけた。そして汐梨もイベントの仕事を終え、京市に駆けつけ、逆に彼女の方が克哉より先に着いていたくらいだった。この時彼女はマスクで顔を隠し、人目を避けるように病院の裏口に立っていた。克哉が着くと、汐梨はすぐに彼の手を引いて中へ入ろうとした。「遅いじゃない!杏奈さんはもう分娩室に入っちゃったのよ」「なんだって?」克哉は悪い知らせでも聞いたかのように、信じられないという顔で汐梨を見た。「途中で10分渋滞につかまっただけなのに、もう分娩室に?」「お産をなめてるの?早く行くわよ。赤ちゃんが生まれちゃうわ。モタモタしてたら立ち会いに間に合わなくなるじゃない」こうして、克哉は汐梨に手を引かれ、産婦人科へと急いだ。この時鈴木家の四兄弟は全員そろっていて、雫も豪の隣で心配そうに分娩室のドアを見つめているのだった。みんな深刻な顔つきだ。それを見た克哉はなんだか胸騒ぎがして、彼は汐梨を連れてみんなに近づき、「どうしてみんな暗い顔をしてるんだ?杏奈に何かあったのか?」と尋ねた。しかしそう言った途端、後頭部を思い切りひっぱたかれた。汐梨は平然と手を引っ込めると、痛さで目を赤くした克哉を見つめ、感情のこもらない声で言った。「縁起でもないこと言わないの」叩かれた克哉は不満だったが、他の人たちも同じように自分をにらみつけていることに気づくと、彼はさらにしょんぼりした。そこでタイミングよく香織が口を開いた。「杏奈は産前の検査もずっと健康でしたし、先生もリスクは少ないって言っていました」だが、空は相変わらず冷静で真面目な表情を崩さないまま、眉間にしわを寄せ、メガネの位置を直して言った。「出産に絶対はありません。油断は禁物です」豪も同感だとうなずき、啓太は拳を握りしめた。「もし何かあったら、絶対に母体を優先しろよ!」啓太が言い終わると同時に、何本もの手が彼の頭を叩いた。それは克哉が受けたものよりずっと強かった。「縁起でもないこと言うな!」空、豪、雫が同時に声を揃えた。それを見た克哉は黙って汐梨のそばに戻ると、彼女
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第675話

空が真っ先に駆け寄ってきた。「どこか痛むのか?俺が先生を呼んでくるから」そう言って、空は病室を出ていった。一方、杏奈はついに泣き出してしまった。「お産したばかりだから、思い悩んじゃだめよ」香織は慌てて杏奈の涙を拭った。「どこか痛むならちゃんと言って。お母さんを心配させないで」そう言って、香織の目も赤くなっていた。その間汐梨は布団をめくって確認したが、出血はしていなかったので、彼女はほっと息をついた。すると杏奈は香織の手をぎゅっと握りしめた。「お母さん……さっき、健吾さんの夢を……」彼女の詰まった声が途切れると、あたりは静まり返った。香織はたまらず、声を殺して泣き始めた。でもすぐに気を取り直し、杏奈を抱きしめて背中を優しくさすった。「杏奈、お母さんはここにいるから。大丈夫よ……」そして雫も赤ちゃんを抱いて近づき、優しい声で杏奈に話しかけた。「杏奈ちゃん、見て。あなたと橋本さんの赤ちゃんよ。とっても可愛いわ」すると杏奈は雫の声に誘われるように、目を向けた。赤ちゃんはまだ少しシワシワだったけれど、目を閉じてすやすやと眠っていた。この子が、自分と健吾の子。そう思うと涙は次第に止まり、彼女は手を伸ばして赤ちゃんを受け取った。小さな赤ちゃんは、抱きしめても重さを感じないほどだった。でも、その温もりが杏奈の心を自然と癒やしてくれた。すると、彼女の口元に、ようやく笑みがこぼれた。それを見て香織は顔をそむけ、黙って涙をぬぐった。茂が黙って香織にティッシュを差し出した。すぐに空が医師を連れて戻ってきた。医師は杏奈を診察し、問題がないことを確認すると、いくつか注意点を伝えて病室を出ていった。「産婦さんは、あまり感情的にならないように、体に障りますから」そう言われ、杏奈はうなずいて返事をした。雫はベッドのそばに座り、愛おしそうに赤ちゃんを見つめる杏奈を眺めていた。彼女は尋ねた。「お名前は、もう決めたの?」杏奈はきょとんとした。そして顔を上げ、隣にいる茂と香織を見た。「お父さん、お母さん、この子の名前を付けてもらえませんか」健吾は子供はいらないと言っていた。だから、二人の間で赤ちゃんの名前について話したことは一度もなかった。愛し合っている時でさえ、子供のことは考
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第676話

それと同時に、杏奈は赤ちゃんにおっぱいをあげていると、突然、胸が締めつけられるような痛みを感じた。体が痛いというのとは違う。まるで、何か大切なものが自分の中から流れ出ていくような感覚だった。彼女はその痛みにしばらく耐えた。すると腕の中にいる娘が、すでにすやすやと眠っていることに気づいた。小さくて柔らかい娘を見ていると、その胸騒ぎはだんだんと消えていった。「赤ちゃん、ママがもうすぐ素敵な名前を考えてあげるからね」杏奈は娘の小さな鼻を優しくつつきながら、愛情のこもった声で話しかけた。「パパったら、夢の中にさえ出てきて名前の相談をしてくれないの。あなたのこと、あんまり考えてくれてないみたいだから、もう二人で無視しちゃおっか」そう言うと、彼女の口元からふっと笑みが消えた。「ううん、やっぱりやめよう。パパもわざとじゃないもんね」病室は静かだった。窓から吹き込む優しい風が真っ白なレースのカーテンを揺らし、暖かい日差しが差し込んでくる。病室の中どこもかしこも、新しい命の誕生によってイキイキとした雰囲気が溢れていた。2時間後。救急治療室のドアが開き、医師が出てくると、澪がすぐに駆け寄った。「先生、彼の容態はどうなりましたか?」医師は言った。「全身に複数の骨折が見られます。古い傷もいくつかありますね。ひとまず応急処置はしましたが、今後の経過観察が必要です」澪は何かを思いついたのか、ためらいがちに医師に尋ねた。「先生、彼のこの状態で、転院手続きをすることはできますか?」それを聞いて、医師は眉間に深いしわを寄せて言った。「馬鹿なことを言わないでください!こんな大怪我で転院なんてできるわけがないでしょう。うちの病院の整形外科は国内トップクラスなんですよ。転院するのは、賢明な判断ではありませんよ」澪は何か言いかけた。しかし、医師の態度は頑なだった。「患者さんを動かすのは危険です。もし転院するとしても、最低1週間はこの病院で様子を見る必要があります」澪は少し考えた末、頷くしかなかった。しばらくして、健吾が病室に運ばれてきた。澪は健吾を個室に移し、誰にも近づかせず、一人で看病にあたった。澪は事前に調べていたのだ。杏奈の出産予定日はまさにこの数日間。彼女はきっとこの病院で出産するはずだと
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第677話

澪はそう言って病室を出ていった。健吾は手術が終わってからまだ2時間。体が弱っているから、本来なら誰かに付き添ってもらう必要があった。だが彼は澪の背中を見送るだけで、呼び止めようとはしなかった。もともとこの程度の手術であれば、目覚めるのには早くても7、8時間はかかるはずだった。でも、健吾の体が人並み以上に丈夫だったから、たった2時間で意識が戻ったんだ。健吾はふと横を見て、もうすぐ空になりそうな点滴に気づいた。それで、彼はさっき澪を行かせてしまったことを、思わず後悔した。体はまったく動かない。点滴が空になって血管に空気が入ったら……今の状態では、間違いなく死んでしまう。死を意識すると、健吾は、なぜだか分からないが、自分は一度死んだことがあるような気がしていた。澪が言っていた、自分は重い病気で記憶をなくしたような比喩的な意味じゃなくて。そうではなくて、本当に、文字通り一度死んだ、という感覚だ。それに、何かとても大事なことを忘れてしまった気がしてならなかった。澪は、自分たちが恋人同士だと言った。でも、自分の心を問いただしても、彼女を好きだという気持ちは全くないのだ。だから、彼はこの数日間、自分の身分についてもずっと疑いを抱いていた。そして澪の魂胆についても疑った。でも澪は、本当に心から自分によくしてくれていた。そんなことを考え始めた途端、頭が割れるように痛んだ。だから、健吾はもう考えるのをやめた。そして点滴が、本当に空になりかけていた。腕を上げようとすると、なんとか動かせることがわかった。彼は少しずつ腕を伸ばし、ナースコールに手を伸ばした。ボタンを押したあと、健吾はすでに汗びっしょりになっていた。まるで水にでも浸かったかのようだった。そしてすぐにドアが開いて、誰かが入ってきた。でも、看護師でも医師でもない。見知らぬ男が、トレイを持ってベッドのそばにやって来たのだ。健吾は、目の前の男に強く見覚えがある気がした。その目元も、雰囲気も、どこかで見たことがあるような気がしたが、どうしても思い出せないでいたのだ。一方その頃空は、杏奈に用事があって、病院に戻ってきたところだった。そしてこの病室を通りかかった時、看護師が足をくじくのを見かけたから、空はとっさに看護師の手
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第678話

一方健吾は、早くに目を覚ますことができたが、実際には彼の体はもう限界に達していた。空が振り返ったときには、健吾はもう一度目を閉じて眠ってしまっていた。包帯で全身を固められた健吾を見つめ、空は少し考え込んだ。そして、静かに病室のドアを開けて外へ出た。それから数日間。澪は献身的に健吾の看病をした。彼女は、杏奈も同じ病院にいると知るやいなや、医師に健吾の退院を急かすようになった。しかし、健吾の怪我はあまりに重い。そのため、医師は患者の体を第一に考え、退院の許可をなかなか出さなかった。ついに澪は、脅しという最後の手段に訴えた。医師に退院手続きをするよう強く迫り、もし言うことを聞かないなら、この病院で大騒ぎしてやると脅したのだ。すると、医師も仕方なく、自己責任を問う書類にサインさせた上で、ようやく健吾の退院手続きを承諾した。澪はそれでやっとホッとして、車椅子を押しながら病室に向かった。その頃、健吾はベッドの上で体を起こしていた。彼は骨が砕けていたのだから手術から数日経っても、彼は少し身じろぎするくらいしかできなかった。澪は健吾の世話をしていたが、彼の体を拭いたり、下の世話をしたりするために、男性のヘルパーを雇っていた。さすがに下の世話まで自分でやるのは、相手が健吾でも嫌だったのだ。そして澪は車椅子を押して部屋に入ってくると、男性ヘルパーに手伝わせ、健吾をベッドから車椅子へと移した。健吾は不思議そうに彼女を見た。「何するんだ?」「もう先生に退院手続きをしてもらったの。今すぐここを出るわ。もっと専門的な整形外科のある病院を探してあげるから」澪が言うと、そばにいたヘルパーがたまらず口を開いた。「転院するとしても、傷がある程度ふさがるまで待った方がいいです。今の彼の状態はまだ深刻で、動かすのは危険です」ヘルパーがそう言うと、澪は我慢できずに彼に言い返した。「あなたはお世話をするために雇ったの。私に指図するために雇ったんじゃない。健吾さんがここの患者だからって、別に絶対あなたを雇わなきゃならないってことはないんだから」彼女の態度は強硬で、容赦なかった。そう言われるとヘルパーも所詮は雇われの身だから、雇い主の考えを変えることなどできなかった。だから彼も澪を手伝って、健吾を車椅子に乗せるしか
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第679話

健吾は、二人の男に目をやり、少し眉をひそめた。やはり、どういうわけか見覚えがあるような気がした。そう思ってエレベーターのドアが閉まりかけた時、突然中から出た手が挟まって、再び扉が開いた。そこに空が、赤ちゃんを抱いて立っていた。「さっきそっちから連絡があって、杏奈が階段で下りてきたらしいから、ちょっと様子を見てこよう」杏奈。健吾はその名前を聞いて、心臓がぎゅっと縮むような感覚に襲われた。それはまたしても、とても慣れ親しんだ感覚のように思えたから。豪はちらりと健吾に視線を向けたが、一瞬で逸らした。彼は空の後について、その場を離れた。その隙に澪は素早く健吾の車椅子を押して、エレベーターに乗り込んだ。すぐにエレベーターのドアが閉まると、澪はほっと息をついた。早くその場を離れられてよかった。もしあの人たちと鉢合わせしていたら、逃げられなかった。一方車椅子の上で、健吾は苦痛に顔を歪ませていた。頭の中では、あの名前が何度も繰り返されるのだった。杏奈。一体、誰なんだ?ところが、エレベーターのドアが閉まるその瞬間、豪は何かがおかしいと感じていた。さっきの二人に、どこかで会ったことがある気がしたのだ。それに、あの女の様子が変だった。なぜ自分たちを避けるようにしていたんだ?そんなに自分たちが悪人に見えたとでもいうのか?一方杏奈が階段から下りてくると、空が慌てて声をかけた。「杏奈、出てきちゃだめだと言っただろう。どうして言うことを聞かないんだ?」空は彼女に歩み寄りながら、厳しい口調の中にも心配をにじませた。だが、杏奈は少し体を動かしたかったのだ。ここ数日、ずっと寝たきりで体がなまっていたから。彼女は空が抱いている娘に目をやり、その小さな頬を撫でて微笑んだ。「ちょっと散歩したかっただけよ。大丈夫だから」「産後の大事な時期なのに、どうしてちゃんと休まないんだ?」空は思わず杏奈を責めた。この時、杏奈は病衣の上にウールの帽子まで被っていて、まるで重装備のようだった。それを聞いて杏奈は思わず言い返した。「産後だってある程度動いたりする必要はあるでしょ。あなたは医者なのに、なんでそんなに頑ななのよ?」彼女はそう言うと、娘を抱こうと手を伸ばした。空はそれを避けた。「この子を検査に連
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第680話

再び、健吾の名前を口にした時、兄たちは、示し合わせたように杏奈を見た。彼女がまた感情的になって、泣き出すんじゃないかと心配になったからだ。産後の体で、あまり感情的になるのは望ましくない。でも、杏奈は彼らが思っているよりずっと芯が強かった。杏奈は落ち着いた様子で健吾の名前を口にしただけ。すぐに腕の中の結愛に視線を戻し、悲しそうな素振りは全く見せなかった。それを見て、兄たちもようやくほっとした。三人が病室へ戻ろうとした、その時だった。救急治療室のあたりが、にわかに騒がしくなった。「急げ!患者が意識を失ったぞ!今すぐに処置しないと命の危険がある!」「こっちが転院させなかった理由、これでわかったでしょう!回復期なんですよ。むやみに動かすべきじゃなかったんです!」そう話す医師の声は、怒りに満ちていた。それで隣にいた澪も、予想外の展開に驚いていた。病院の正門に着く前に、健吾はふっと意識を失ってしまったのだ。慌てて覗き込むと、彼の口の端から血が流れていた。それを見て、澪は心臓が止まるかと思った。そして、すぐに近くにいた医師に助けを求めた。だから医師に責められても、言い返したい気持ちがあっても、ベッドの上で健吾がまだ意識がないのを見て、今は耐えるしかないと思ったのだ。こうして澪は医師や看護師の後について、再び救急治療室の前に戻ってきた。一行が慌ただしく通り過ぎていく中、豪は、付き添いの澪と、ベッドに横たわる健吾の姿を注意深く目で追った。健吾の顔に巻かれていた包帯は半分ほどほどけ、血まみれになっていた。輪郭がおぼろげに見えるだけで、顔までははっきりとは分からなかった。豪は見覚えがあるような気がしたが、それが誰なのかは分からなかった。だが、隣にいた杏奈は違った。彼女は、ちらりとそちらに目をやっただけで、顔から一気に血の気が引いていたのだ。そして杏奈は、震える声でつぶやいた。「健吾さん……」杏奈の小さなつぶやきを聞いて、豪は眉をひそめた。次の瞬間だった。杏奈は赤ちゃんを抱いたまま、救急治療室へと駆け出した。「杏奈!」すると二人の兄も、慌てて後を追った。そのころ澪はマスク姿で、救急治療室の前に立っていた。やきもきしながら待っていると、後ろから近づいてくる足音が聞こえた
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