All Chapters of 憎しみと愛~共犯者と綺麗になった私の七年越しの復讐計画~: Chapter 101 - Chapter 110

112 Chapters

第100話 開かない扉の向こうで、俺は消えると決めた

 病室は静かだった。  昼と夜の境目が分からなくなるくらいには。  点滴の落ちる音と機械の低い駆動音だけが、ここに時間が流れていることを教えてくれる。  私はベッドに横になったまま、開かない扉を見ていた。  もう何度目か分からない。  軽井沢に向かう前、あのときの言葉が、ふいに胸の奥で形を持った。 「……戻ったら、もう待たないから」  あれは、本気だったのだろうか。  それとも、追い詰められて思わず口にしただけの言葉だったのか。 「朱音が嫌だって言うまで……俺、引かない」  あんな言葉を、あんな顔で言われたら、信じてしまう。  信じたくなる。  それなのに。  ここには来ない。  胸の奥で、小さな不安が、はっきりとした形を取り始める。  ——もしかして。  あれも。  これも。  全部、私の勘違いだった?  そう思った瞬間、記憶が、勝手に引きずり出される。  東京で、清晴堂の再建に追われていた日々。  資金が尽きかけ、逃げ場もなくなって、社長室で震える声で「もう、これ以上は逃げたくない」と絞り出した晴紀。  その未来を、私が形にすると応じた夜。  あの時、晴紀は確かに変わったと思った。  雨の屋上。  四面楚歌で、肩を震わせて座り込む背中を、後ろから抱きしめたこと。 「救われるだろ……そんな言い方されたら……立つしかないだろ」  あの声の震え。  暗い企画室で、倒れかけた私を、無言で抱きとめた腕。 「倒れるまでやるなよ」  叱るくせに、逃げ場を失うほど、まっすぐだった視線。  パリで。  七年前のことを、やっと言葉にされた夜。  巻き込むのが怖かったと、守り方を間違えたと、震えながら告白された機内。  セーヌ川の光と夕暮れ。 「勝てたら、また来ないか。一緒に、ゆっくり歩きたい」  あのキス。  ホテルの部屋で、背中合わせに眠った夜。 「隣にいてくれて、ありがとう」  あの距離。  ——好きになってしまったのに。  昔よりも、ずっと、ずっと。  ——なのに。  最後に浮かぶのは、ホテルの床。  淡い水色の革のメモ帳。  拾われることもなく、視線も向けられず、ゴミ箱に落ちた音。  静かすぎて、はっきり覚えている。  あのとき、答えはもう出ていたのかもしれない。  信じたのも
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第101話 既読だけが残った夜、完璧な男はアマルフィ行きの未来を差し出した

 一週間が過ぎた。  肩の傷は落ち着いている。  包帯も、もう痛々しくは見えない。 「そろそろ、退院できそうね」  Dは窓際に立ち、外の灯りを一度だけ眺めてから、振り返った。  いつもの、隙のない表情だった。 「清晴堂の件、ひとまず落ち着いたわね」  確認ではなく、総括だった。  私は頷く。  秋の導線は順調で、ヴァロアとの提携も前に進んでいる。  不正会計の処理も、完全ではないが終わりが見えてきた。  神園家の動きは止まっている。    油断はできないけれど、嵐の中心は抜けた。 「あなたの役目も、一区切りよ」  Dはそう言って、ベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。  表情は、いつもと変わらない。  けれど——  空気だけが、張りつめていた。  Dが、なにか大事なことを言おうとしているのが、はっきりわかった。 「リュエールも、清晴堂も、もうあなたが前に出る必要はない。  あなたは、十分すぎるほどやったわ」  少しだけ間を置いて、Dが続ける。 「……だから、少し休まない?」  私は、思わず瞬きをした。 「前に、言ってたでしょう。  イタリアのアマルフィ。  海沿いを歩いて、レモンのジェラートを食べてみたいって」  胸の奥が、わずかに揺れる。  覚えていた。  私が、何気なく口にしただけのことを。 「仕事も、役割も、何も考えなくていい」 「ただ、行きたい場所に行けばいいの」  ——行きたい。  正直に言えば、そう思った。  結婚とも、永遠とも言わない。  ただ、「ここではないどこか」を差し出す。 「私が、全部整える」 「もう、誰かの再建に人生を使わなくていい」  それは、優しさだった。  完璧な、安全な未来の提示。  私は、一瞬だけ想像する。  静かな街。  誰にも踏み込まれない距離。  傷つかない日常。  ——それで、いいはずなのに。  胸の奥に、わずかな歪みが生まれる。  静かすぎて、無視できない違和感。 「……清晴堂は?」 「大丈夫よ」 「あなたがいなくても、もう回る。  それが、再建の成功っていうもの」  そうかもしれない。  Dは、私の手に触れなかった。  ただ、結論だけを置いていく。 「ここまで来たら、もう十分」 「だから——一緒に、行かない?」
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第102話 「俺の隣より自由な場所へ」そう決めたのに、残った喪失は耐え難かった

 社長室に戻ったのは、夕方だった。  警察への追加資料を送信し終え、弁護士からの確認メールに短く返事を返す。  机の上に残っているのは、もう「終わりを確認するための書類」ばかりだった。  不正会計の是正。  再発防止策。  対外説明。  完璧ではないが、致命傷は避けた。  少なくとも、清晴堂はこの冬を越えられる。  犠牲は、最小限で済んだ。  そう言い切れるだけの材料は、揃っている。  そう思った、そのときだった。  スマホが震えた。  画面に表示されたのは、見慣れた社名。  リュエール。  朱音が所属するマーケティング会社だ。 「……はい」  通話を取った声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。 『夜分に失礼します、清水様。  リュエール株式会社マーケティング本部長の鷹宮です。 御社の再建プロジェクトの進行について、体制変更のご連絡です』  直接の面識はないが、権限上は朱音の上司であり、本プロジェクトの最終責任者に当たる人間だ。  体制変更。  その言葉に、胸が冷える。 『結論から申し上げます。  今月末付で、御社再建プロジェクトにおけるマーケティング責任者は、朝倉朱音から別の担当へ引き継がれます』  一瞬、意味が理解できなかった。  引き継がれる。  誰に。  なぜ。 「……朝倉さんが?」  声に出して、ようやく現実味を帯びる。 『はい。  朝倉本人の意思と、当社としての判断を踏まえた決定です』 『清晴堂再建プロジェクト自体は、当初の計画通り、冬まで継続します。 秋以降の導線、ヴァロア社との共同施策も、予定に変更はありません』  続く、ということだ。  まだ、終わっていない。  終わらないのは、仕事だけだ。 「……理由を……伺っても?」  思わず、聞き返していた。 『朝倉朱音は、リュエールを退職することとなりました』  言葉が、すぐには意味を結ばなかった。  朱音が?  退職?  現実だけが、遅れて胸に落ちてくる。  俺の知らない場所で、  俺の知らない決断をしていたという事実が、  静かに、確実に突き刺さる。 『業務の引き継ぎは、すでに開始しています。 清晴堂側への影響は、最小限に抑えられる見込みです』  淡々とした説明。  感情の入り込む余地は、どこにもなか
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第103話 三日目のウイスキーと、帰らない弟

 オフィスは、異様なほど静かだった。  朝なのに、雑談がない。  響くのはキーボードとコピー機の音だけ。  受付で来客用カードを受け取り、エレベーターに乗る。  自分のIDは、もう使えない。  ——ああ、終わるんだ。  胸が騒ぐかと思った。  でも、何も起きなかった。  感情だけが、遅れている。  フロアに降りると、視線が一瞬集まり、すぐ逸れる。  気まずさじゃない。  配慮だ。  ——撃たれた人。  誰も言わない。  でも、その前提だけが空気に残っている。 「……体調は?」  通りすがりの声。 「大丈夫」  笑顔で、でも足は止めない。  デスクは、すでに空だった。  引き出しも、ゴミ箱も、何もない。  七年分が、最初から存在しなかったみたいに。  部長になったことも。  積み上げた時間も。  ここでは音を立てない。  ——それでも、消える。 「今回は、本当に……」  上司の言葉を、首を振って止める。  感謝されたら、ここに留まってしまう。  名刺入れをバッグにしまう。  擦れた革。  軽い。  軽すぎて、不安になる。  廊下の先で、Dが待っていた。 「終わった?」 「うん」 「次は清晴堂ね」  確認だけの言葉。  押さないし、引き止めもしない。  エレベーターに乗る。  扉が閉まる直前、フロアが歪んで見えた。  七年。  数字にならないまま、置き去りにされる。  外に出る。  冷たい空気。秋の匂い。  振り返らず、歩き出す。  ——行くだけ。  そう思わなければ、前に進めなかった。 ***  その日も、晴紀は一人で店に入った。  名前も覚えていない、駅裏の小さな店。  小さなカウンター。 「ウイスキー。ロックで」  カウンターの向こうで、バーテンダーが一瞬だけ手を止めた。 「……また、いらしたんですか」  驚きも、非難もない。  ただ、確認するような声だった。  晴紀は答えない。  氷がグラスに落とされる音がして、ウイスキーが注がれる。  その量は、ほんの少しだけ控えめだった。 「……飲みすぎはよくないですよ」  低く、穏やかな声。  注意というより、事実を置いただけの言い方。  晴紀は無言でグラスを受け取り、一口、流し込む。  苦い。
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第104話 守ったつもりの優しさが、紙一枚の重さになって胸に沈む

 翌日だった。 社長室に戻ると、秘書が一言だけ告げた。「……神園いずみ様と、ルカ=ベルナール様がお見えです」 逃げる理由は、もうなかった。 応接スペースに入ると、二人はすでに並んで座っていた。 いずみは、以前よりもずっと落ち着いた表情をしている。 ルカは、いつも通り、少しだけ距離を取る位置だった。「……よく来てくれたな」 先に口を開いたのは、晴紀だった。「悠斗の件で助けてもらった。 ありがとう」 いずみは、首を横に振る。「こちらこそ。 神園家のことで、ご迷惑をかけました」 事務的なやり取り。 でも、どちらもそれ以上踏み込まない。 晴紀は、ふと視線をルカに向けた。「……大丈夫なのか?」 それは体調の話でも、生活の心配でもなかった。 神園家からの制裁。 表に出ない圧力。 金と立場で人を縛るやり方を、彼は嫌というほど知っている。 一瞬、ルカが言葉を探す。 その前に、いずみが答えた。「……今は、家から離れて暮らしています」 そう言ってから、わずかに視線を横に向ける。「この人のおかげで」 かすかな微笑み。 これほど満ち足りたいずみの表情を、晴紀は見たことがなかった。 胸の奥に、安堵と、遅れてきた寂しさが重なる。 ——自分は。 ついにこんな顔をさせることができなかった。 そう理解した瞬間、言葉にしない敗北感が、静かに腹の底へ沈んでいった。 ルカは、小さく肩をすくめる。「完全に自由になれたとは言えませんが」「少なくとも、戻るつもりはありません」 晴紀は、短く息を吐いた。「……そうか」 それだけだった。 安心とも、諦めともつかない声。 沈黙が落ちる。 やがて、いずみがバッグから封筒を取り出した。  白い封筒。 中身は、見なくても分かった。「……離婚届です」「提出は、私がします。 お名前だけ書いて頂ければ。 あなたに、これ以上、何かをさせるつもりはありません」 いずみの声は、静かだった。 責める色も、恨みも、そこにはない。 だからこそ、胸に刺さる。「晴紀さん」 名前を呼ばれて、視線を上げる。「あなたは、優しい人です。 中学生の頃、私を助けてくれてから。 ずっと、私を拒まなかった」 晴紀の指先が、わずかに動く。「結婚してからも、そうでした。 私が何も言わなくても、察し
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第105話 社長室での最後の会話

 清晴堂の社長室の扉が閉まる。 音が、すっと遠のいた。 外では人が動いている。 足音も、話し声も、確かにある。 それなのに、ここだけが切り離されたみたいに静かだった。 デスクの向こうに、晴紀が立っている。 スーツに皺ひとつない姿。 その距離が、今日に限って、ひどく遠い。「朱音……」 一週間、死ぬほど聞きたかった声。 触れたかった温度が、すぐそこにある。 見つめ合うだけで、 あの日、機内で重ねた指の感触が蘇る。 「隣にいてくれて、ありがとう」と言われたときの、 彼の熱い体温も。 拒絶された絶望よりも、 会えなかった時間の空白が痛かった。 今はただ、それだけが胸を締めつけている。「いや、朝倉さん……今日は、ありがとう」 先に口を開いたのは、彼だった。 ゆっくりと、頭を下げる。 社長としての礼。 正しい距離。 正しい言葉。「清晴堂の再建は、まだ始まったばかりです。 ですが、ようやく明るい見通しがつきました」 ほんの一瞬、視線が揺れる。「……朝倉さんがいなくなるのは、痛手ですが」 胸の奥が、ちくりと鳴った。 ――必要とされている。 少なくとも、仕事としては。 本当は、私も支えたかった。 清晴堂の再建じゃない。 彼自身を。 でも。 それを求められていないなら。 踏み込む理由はない。 私は、一歩だけ前に出る。「こちらこそ」 一拍置いて、続ける。「……秋以降の導線については、引き継ぎ資料をまとめています。 次の担当でも、そのまま使えるように」 仕事の声。 区切りをつけるための言葉。 晴紀は、頷いた。 でも、資料には目を向けない。 ——ああ。 これで、終わるんだ。 その実感が、遅れて胸に落ちてくる。 離れたくない。 理由なんて、いらなかった。 ただ、ここにいたい。 沈黙が落ちる。 言葉はもうないのに、時間だけが、その場に残る。 耐えきれなくなったように、 晴紀は、デスクの上のメモ帳に手を置いた。「……これは、ずっと大切にしてる。 これからも」 晴紀は、言葉を探すように息を吸う。「でも……」 一度、そこで止まる。「きっと俺がいないほうが、 君にとっては……『晴れ』なんじゃないかって」 違うと、そう言いかけて、息を吸った。 でも、声が出なかった。 今さらだ
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第106話 捨てられなかった七年、手放せなかったメモ帳

 社長室の扉は、半分ほど開いたままだった。  晴紀は、デスクの前の椅子に腰掛けている。  背もたれに体重を預け、視線だけが落ちていた。指先は微かに震え、膝の上で組んだ拳に力がこもっている。  その手には、淡い水色のメモ帳。 「……兄さん」  悠斗は、しばらく声をかけなかった。  返事がないのを確認してから、ようやく口を開く。 「朱音さんが、挨拶に来てたけど」  それだけ言って、言葉を切る。静まり返った室内には、壁の時計が刻む音だけがやけに大きく響いていた。 「……大丈夫か?」  しばらくして、晴紀が口を開いた。 「……大丈夫な顔、してたか?」  声が、思ったより低い。  悠斗は答えない。  晴紀は、メモ帳を見下ろしたまま続ける。 「俺さ……ちゃんと、手放したつもりだった」  悠斗の視線が、わずかに動く。 「未練も」 「期待も」 「全部、整理したって思ってた」  指先が、革の端をなぞる。その使い込まれた表紙には、彼が何度も読み返した痕跡が深く刻まれている。 「……でも」  言葉が、そこで止まる。 「言われたんだ。  これを捨ててもいい、って」  ようやく、顔を上げる。 「それを聞いた瞬間。  ……ああ、まだ何も終わってなかったって分かった」  悠斗は、息を吐いた。 「今の顔。  あの時と、同じだな。  いずみさんと結婚したとき。  全部決めたあとで、動けなくなってた顔」  晴紀は、否定しなかった。 「……あの時も」 「正しいと思った。  間違えない選択だって」 「でも。納得は、してなかった」  目を伏せる晴紀を見て、悠斗は、淡々と続ける。 「それで後悔しなかったのか?」  晴紀は、少しだけ笑った。自嘲気味な、歪な笑みだった。 「……するに決まってるだろ」 「後悔しないために。  正しいって言い続けてただけだ」  沈黙が落ちる。  悠斗は、メモ帳に視線を落とした。 「そんなふうに逃げ続けて、メモ帳を持ち続けるのと捨てるのと、何が違うんだ?  朱音さんはDさんと海外へ行くそうだぞ」  晴紀は、ゆっくりと立ち上がる。 「……違う」  小さく、でもはっきり。 「逃げたいなら。  あれは、持ってない」  メモ帳を、胸の前で握る。 「捨てられないってことは」 「そうだな
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第107話 七年越しの「好き」

「……捨てられないんだ。どうしても」  低く、噛みしめるように。 「一緒にいたら、また傷つけるかもしれない」  晴紀の目に、涙の光がある。 「Dがいることも、分かってる」  声が震える。 「……それでも。  正しいほうを選んで、逃げるのは、もう嫌だ」  彼の手が、私の肩に触れる。  強くはない。  でも、離れられない。 「朱音」  名前を呼ぶ。 「一緒に、いさせてほしい」  次の瞬間、彼は私を抱きしめた。  勢いじゃない。  確信でもない。  耐えきれなくなったみたいな。  不器用で、震える腕だった。  不器用で。  遅すぎて。  最低なくらい、正直な人。  視界が、一気に滲む。  隣で、Dが小さく首を振った。  やれやれ、という仕草。  怒りでも、失望でもない。  でも、私の指先は、無意識に、強く、晴紀の背中を掴んでいた。  あの日と、同じように。  晴紀の腕の中で、私はしばらく息をすることさえ忘れていた。  胸に押し当てられた彼の鼓動が、壊れたみたいに速い。 「……どうして」  声が、自分のものじゃないみたいに震えた。  彼のスーツを掴んだまま、顔を埋める。 「どうして……来なかったの」  言った瞬間、涙が溢れた。  止め方を、もう忘れていた。 「待ってた……」  喉の奥が詰まる。  彼の胸に顔を埋めたまま、私は声を絞り出した。 「……七年前も。  今も……ずっと……待ってたのに……」  言葉が、途中で崩れる。  もう、止められなかった。 「だから私……」  視界の奥に、重なる光景。  レストランで。  向かいの席に座りながら、ドアの方ばかり見ていた夜。  病室で。  白い天井の下、開かない扉を、何度も見つめていた時間。  スマホの画面。  返ってこなかった言葉。  呼び出し音。  途中で途切れた、あの静寂。  ずっと。  ずっと。  心のどこかで待ち続けていた。  全部が、一気に押し寄せる。 「来ないなら……来ないって……言ってほしかった……」  声が崩れる。 「期待させないでよ……」  指先に力が入る。  逃げられないように。  今度こそ、いなくならないように。 「もう……終わったって……思おうとしたのに……」  それなのに。
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第108話 ようやく、あなたの腕の中

 外に出ても、晴紀は私の手を離さなかった。  何も言わないまま、その手の温度だけを確かめるように、私たちは夜の街を進んだ。  そして辿り着いた彼のマンションで――  扉が閉まった瞬間、背後の壁に押し付けられた。  カチリ、と鍵が閉まる音が、合図になる。  明かりをつける間もなかった。  暗がりの中で、晴紀の唇が、飢えた獣のように私の言葉を奪った。 「……朱音、……朱音」  何度も、何度も私の名前を呼ぶ。  その声は掠れていて、これまでの七年間、彼がどれほどの想いを喉の奥に押し込めてきたのかが伝わってきた。  胸が締めつけられた。  冷たい扉の感触と、彼の手のひらの熱。  ブラウスのボタンを外す彼の手は、驚くほど震えていた。 「怖かった……。君を失うことが、こんなに恐ろしいなんて」  露わになった私の肩に、彼が顔を埋める。  熱い吐息が肌をなぞり、首筋に吸い付くような感触が走る。 「っ、……はるき」  彼のシャツを、爪が食い込むほど強く握りしめた。  リビングのソファに倒れ込み、重なる体温。  晴紀の指先が、私の肌をひとつひとつ確かめるように愛撫し、奥へと滑り込んでいく。 「……信じられない。本当に、君がここにいるなんて」  月明かりに照らされた彼の瞳には、これ以上ないほどの愛おしさと、剥き出しの欲情が渦巻いていた。  彼が自らもすべてを脱ぎ捨て、私の脚の間に身を沈める。  密着した肌から伝わるのは、壊れた時計のような、激しくて不規則な鼓動。  ゆっくりと、けれど逃げ場のない強さで、彼が私の中に踏み込んできた。 「あ……っ、……ふ、……っ!」  喉の奥から、自分でも驚くような声が漏れる。  満たされる感覚は、これまで知っていたどんな快楽よりも濃密で、逃げ場のない熱が渦を巻いて押し寄せる。  晴紀が私の指を絡め取り、手のひらをぴったりと重ね合わせた。 「離さない。……もう二度と、一人で待たせないから」  突き上げられる衝撃のたびに、意識が白く弾ける。  彼の背中に爪を立て、私はただ、その熱の中に溶けていった。  七年間の苦しみも、あの病室の白い天井も、全部、今この瞬間の熱さで上書きされていく。  汗ばんだ肌が絡み合い、限界を超えたとき、私たちは同時に、深い歓喜の混ざり合った絶頂へと突き落とされた。  
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第109話 七年前の夜を、プロポーズで塗り替えて①

 ホテル・クラウンセレスティアのガラス壁が、夜の街の光を静かに映していた。  足を止めたのは、一瞬だった。  たった一瞬なのに、胸の奥では七年前のあの夜が、今も鮮やかに息をしている。  深紅のワンピース。  冷えていく指先。  届かなかったメッセージ。  開かない未来。  自動扉の向こうを見つめたまま、私は小さく息を吸った。 「……やっぱり、緊張する?」  隣から落ちた声に、顔を上げる。  晴紀だった。  今日は先に店で待っているのではなく、ロビーの入口に立っていた。  黒のスーツ姿。けれど以前みたいな作られた余裕はなくて、私を見る目だけが、まっすぐだった。 「……少しだけ」  そう答えると、晴紀は一歩近づいてくる。 「うん」  それだけ言って、私の手を取った。  強く引かない。  逃がさないように、でも、怖がらせないように。  そんな触れ方だった。 「今日は、最初から迎えたかった」  胸が、静かに揺れる。 「……待たせたくなかったから」  その一言だけで、喉の奥が熱くなった。  私は何も言えず、小さく頷く。  彼と並んで中へ入る。  ロビーの空気は変わらず静かで、磨かれた床も、低い照明も、記憶の中の夜と同じはずなのに──今日は、私を置き去りにする場所には見えなかった。  レストランの前で、スタッフがすぐに頭を下げる。 「清水様、お待ちしておりました」  その言葉に、胸の奥の何かが、ひとつほどけた。  今回は、ちゃんとそこに予約があった。  ちゃんと、私たちの席がある。  晴紀が私を見る。 「行こうか」 「……うん」  案内されたのは、七年前と同じ窓際の席だった。  同じ場所。  同じ高さの灯り。  同じ夜景。  でも、向かいの席に座る彼は、もう七年前の彼じゃなかった。  水が注がれ、最初の皿が置かれる。  けれど私は、料理よりもずっと、彼の指先ばかり見ていた。  ナイフを持つ手。  グラスに触れる手。  その手が、あの夜、何も拾えなかった私の心に、いまはこんなにも慎重に触れようとしている。 「……朱音」  低い声で呼ばれて、視線を上げる。  晴紀は、少しだけ息をついてから言った。 「最初に謝らせてほしい」  私は黙って、続きを待つ。 「あの日、ここで君を待たせたこと
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