憎しみと愛~共犯者と綺麗になった私の七年越しの復讐計画~의 모든 챕터: 챕터 61 - 챕터 70

97 챕터

第61話 天才パティシエは、私にだけ甘かった

「本社プレゼンをしてもらうわ」 ミレイユがそう告げた。 それは、ルミエール・ガトー展示会に進む前に設けられる、 ヴァロワ内部の正式な投資判断の場だった。 ホテルの小さなデスクに資料を広げ、私は一度、深く息を吸った。「今回のプレゼンは、商品説明じゃない」 晴紀が顔を上げる。「ヴァロワが見たいのは、味でも数字でもない。 ――なぜ、今この会社が世界で戦うのか」 タブレットを回し、簡潔な一枚を示す。「清晴堂は老舗だけど、勝ち続けてきた会社じゃない。 一度は、確実に沈みかけた」 指で流れをなぞる。「崩壊寸前で、それでも手を止めなかった職人たち。 伝統と技術を、守るんじゃなく―― 世界に出すと決めた人たちの話」 晴紀は、黙ったまま聞いていた。「これは挑戦の話よ。 美談でも、成功譚でもない」 視線を上げる。「覚悟を選び続けた人間の話」 一拍。「最後に話すのは、あなた。 社長として、何と戦う覚悟で、ここに立っているのか」 間を置いて、静かに言った。「それが言えたら――このプレゼンは通る」 晴紀はしばらく黙り、やがて静かに頷いた。「……任せてくれ。 そこは、俺の言葉で話す」 その横顔は、迷いを削ぎ落とした経営者の顔で、一瞬だけ眩しく見えた。***「神園いずみ様、本日はご搭乗ありがとうございます」 いずみは視線だけを向け、鷹揚にひとつ頷いた。 名を呼ぶ声は、過不足なく整っている。 特別扱いでも、親しみでもない。 ――そういう客としての距離。 続いて、隣の席に向き直る。「ルカ=ベルナール様も、ご搭乗ありがとうございます。 10月の機内誌でも拝見しました」 その名前に、いずみの視線がほんのわずかに動いた。 ――清晴堂の競合調査で、一度見た名前。 プリ・エクラ・シュクレ最年少受賞者。 毎年、欧州の菓子業界関係者が注目する若手登竜門で、「次の十年を変える一皿」に与えられる賞だ。 受賞から一年も経たずに独立し、すでに自分の店を構え、評価を固めつつある新進気鋭のパティシエ。 金髪に近い淡いブロンド。 整えすぎていない髪、無駄のないジャケット。 雑誌で見た印象より、ずっと静かな佇まいだった。「本日は、ルミエール・ガトー展示会へご参加予定と伺っております」 アテンダントがそう告げると、彼は小さく頷いた。
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第62話 再び恋に落ちる日、帳簿は黒く

 ヴァロワ本社、投資委員会用プレゼンテーションルーム。  ルミエール・ガトー展示会に先立ち、最終的な投資判断を下すためだけに設けられた非公開の場だった。  日時は午前九時。  出席者はミレイユを含む投資委員三名と、財務顧問、ブランド戦略責任者。  ――ここで首を縦に振らせなければ、展示会はただの視察で終わる。  空気は静かで冷たい。    スクリーンに、清晴堂のロゴが映し出される。  晴紀は一歩前に出て、深く一礼した。 「清晴堂代表取締役、清水晴紀です。本日はお時間をありがとうございます」  声は低く、落ち着いていた。 「本日お話しするのは、商品でも、売上予測でもありません」  ミレイユの視線が、わずかに動く。 「なぜ、いま――  倒れかけた日本の老舗菓子店が、世界で戦おうとしているのか。  その理由だけを、お伝えします」  スクリーンが切り替わる。  映ったのは完成品ではなく、夜明け前の工房。割れた琥珀糖。失敗作の山。 「清晴堂は、三百年以上続く店です。  でも、勝ち続けてきた会社ではありません」  少し、間を取る。 「時代に取り残され、資金は尽き、  もう終わりだと言われた瞬間が、確かにありました」  危機は誇張せず、事実だけを淡々と。 「それでも、職人たちは手を止めなかった。  この技術は、世界で通用すると信じたからです」  次のスライドには、若い職人の手元。  震えながらも、糖を引く指。 「私たちは、過去に戻ろうとはしていません。  懐古で売ろうとも思っていない」  晴紀は、まっすぐ前を見た。 「守るのではなく、出す。  継ぐのではなく、挑む。  それが、私たちが選んだ道です」  私は一瞬だけ、スクリーンから晴紀へ視線を移した。  言葉をなぞっているのではない。  覚悟として、噛み直して話している。 (……知らなかった) (こんな顔で、こんな声で、人の前に立つ人だったなんて) (そうじゃない。成長してる)  胸の奥が、静かに、でも確かに熱を持った。 (また……好きになってしまう)  ミレイユが、腕を組んだまま静かに頷く。 「これは成功譚ではありません。  いまも、失敗の途中です」  空気が、少しだけ張り詰めた。 「それでも私は、社長としてここに立っています。  こ
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第63話 彼に電話をかけたのは、呼ばなければ勝てないと分かっていたから

(やっぱり……私たちだけじゃ届かない) ルミエール・ガトー展示会の準備は、終わりの見えない作業だった。 原材料の手配から製造、輸送、保管、会場設計、人員、予算。 どれもが同時進行で、どれも失敗が許されない。 ——それでも一番大事なのは、この展示会で清晴堂を「何として記憶させるか」を決めることだった。 ホテルの一室で、私は資料を広げ、タブレットをスクロールし続けていた。 派手な音はない。 ただ、淡々と、勝った展示と負けた展示の違いを拾い上げていく。 完成度は、どれも高い。 技術も、味も、申し分ない。 それでも―― 明確な差がある。 勝っている展示は、菓子を「並べて」いなかった。 作る過程を、空間として見せている。 時間、温度、手の動き、失敗の痕跡。 見る側の視線が、自然と物語を辿るように設計されていた。(……作って、見せる展示) 完成品だけでは、足りない。 技術の説明でも、理念の言語化でもない。 体験させる構造。 私はペンを走らせながら、清晴堂の展示案を頭の中で組み立ててみる。 職人の手元。 夜明け前の工房。 割れた琥珀糖。 温度のズレで失敗した層。 ——ここまでは、できる。 だが、その先で、思考が止まった。(……誰が、この空間を仕上げる?) 私と晴紀。 私たちは「何を伝えたいか」は分かっている。 でも、「どう見せれば勝つか」を、客観的に切り分けられるだろうか。 資料をめくる手が、止まる。 頭に浮かんだのは、 冷静な視線。 距離の測り方。 感情と演出を、意図的に切り離す判断。(……Dなら) 思考が一段、深く沈んだ。 晴紀は、正面から語る人だ。 覚悟と情熱を、そのまま言葉にする。 だから、心は動く。 でも展示会は、心だけの勝負じゃない。 最初の三秒で、見る価値があると思わせる設計が要る。 二人では、足りない。 そう結論づけた瞬間、 胸の奥が、少しだけ痛んだ。 Dは、かつて私に言った。 冗談みたいに軽い声で、 でも逃げ道を残さない言い方で。「一緒に生きてみない?」 その言葉を、私は忘れていない。 うれしかった。 真剣に向き合われていると、はっきり分かった。 好きだという気持ちも、確かにあった。 それでも―― 私は、晴紀に惹かれている。 彼の覚悟。 不器用なほ
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第64話 あなたが少年の顔になる日、その妻が来た

 展示会まで、あと二日。  ヴァロワがパリ郊外に所有するテストキッチンは、想像以上だった。  本社施設とは切り離された、研究と最終調整のためだけの場所。  天井は高く、白とステンレスで統一された空間に、複数の独立ブース。  音は吸われ、熱と香りだけが、静かに立ち上る。 「……すごいわね、ここ」  思わず、声が漏れた。  晴紀はすでに中央のブースに立っている。  白衣の袖をまくり、温度と湿度を確かめながら、迷いなく手を動かしていた。 「……すごいな。  低温制御のスチームも、減圧発泡も、急速結晶のラインもある」  ――どれも、最先端の菓子づくりには欠かせない設備だ。  社長業で忙しいはずなのに、ここまで把握している。 (……やっぱり) (この人、心から、作るのが好きなんだ)  晴紀の声が、少しだけ弾んだ。 「これ……応用できないかな。  本社のレストランで出すとか」  無邪気に言うから、胸がきゅっと鳴る。 「ハイエンド帯を設けるの、いいと思うわ」  私は視線を設備に向けたまま答えた。 「技術が見える場所を一段上に置くのは、  ブランド戦略としても理にかなってる」 「だよな」  晴紀が、嬉しそうに笑った。 (……こういう顔) (こんなこと思っちゃいけないけど) (でも、可愛い)  作ることと、未来を同時に考えているときだけ、彼は少し少年に戻る。  そのときだった。 「……この施設、すごいですよね」  不意に、背後から声がした。  振り返ると、白衣のままの金髪の青年が、ひとつ離れたブースに立っていた。  こちらと同じように、設備を一つずつ確かめるような視線。 「ここじゃないと、表現できないものがある。  温度も、圧も、構造も……全部、ギリギリまで攻められる」  言い方が、完全に同類だった。 「あなたたちも……ルミエール・ガトー展示会に出展ですか?」 「ええ」  答えたのは、晴紀だった。 「……あなたも?」  青年は、少しだけ口角を上げる。 「ええ」  一拍置いて、名乗る。 「ルカ・ベルナールです」  ――名前は、覚えていた。  清晴堂の競合調査で一度だけ見た、プリ・エクラ・シュクレ最年少受賞
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第65話 受けて立つよ。逃げたって言われる趣味はない

 ヒールの音が、テストキッチンの床に乾いて響いた。  振り向かなくても、分かった。  この場に似合わない、張りつめた気配。  いずみが、そこに立っていた。  白いコートのまま、手に細長い封筒を持っている。  顔色は少し悪くて、それでも背筋だけは不自然なくらい真っすぐだった。 「……何しに来た」  晴紀の声は低く、刺すようだった。  いずみは一拍、息を整えてから、こちらへ一歩踏み出す。  封筒を、胸の高さで差し出した。 「これを……渡しに来たの」  晴紀は受け取らない。  封筒だけを、じっと見下ろす。 「これは?」 「離婚届よ」  はっきりした声だった。  けれど、唇の端がわずかに震えている。 「……ずっと、欲しがっていらしたでしょう?」  その言葉に、空気が凍った。 「今さら、どういうつもりだ」  晴紀の声が、怒気を帯びる。 「同情か? それとも、次の一手か。  今度は何を企んでる?」 「違う」  いずみは、首を横に振った。 「私は……最近まで、何も知らなかった」  その一言に、晴紀の目が細くなる。 「知らなかった?」 「父が、兄が……裏で何かしているって。  本当に、知らなかったの……」  言い切る声だった。  逃げも、濁しもない。 「私は、支えているつもりだった。  資金も、人も、あなたのためだと思って動いてた」  喉を一度鳴らし、言葉を続ける。 「でも……それが、再建の邪魔になってたって知った。  知らなかったこと自体が、もう……言い訳にならないって」  封筒を持つ指が、きつく握られる。 「だから、身を引く。  これ以上、無自覚に壊す側にはなりたくない」  一瞬の沈黙。  次に落ちたのは、冷たい声だった。 「……信じろと?」  晴紀が、低く笑う。 「都合が悪くなったら『知らなかった』か。  神園家の金と名前で、ここまで来ておいて?」 「そんな……!」 「君の父と兄が、うちを潰そうとしていた。  その事実は変わらない」  一歩、距離が詰まる。 「知らなかったはずがない。  ……いや、知らなかったとしても、結果は同じだ」  いずみの表情から、色が抜けた。
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第66話 彼との未来はきらめいて見えるけれど、まだ答えは出せない

 ミレイユに連絡を入れたのは、その直後だった。  必要な材料が届いていない状況を説明すると、彼女は一瞬だけ考えてから言った。 「完全に同じ代替は、正直難しいわね」  それでも声は落ち着いている。 「でも、近い食材ならあるかもしれない。  この辺りのマルシェ、見てみたら?」  現実的で、でも突き放さない言い方。  私は小さく息を吐いた。 「ありがとう。行ってみる」 「無理はしないで」 「展示会は勝負だけど、消耗戦じゃないから」  電話を切ると、テストキッチンの窓の外はすっかり暗くなっていた。  しばらく、誰も何も言わない。  その沈黙の中で、どうしても思い出してしまう。  白い封筒。  震える指。  受け取られなかった離婚届。  それを見透かしたように、晴紀が言った。 「……さっきの離婚届。受け取った方がよかったかな」  優柔不断だった昔の晴紀を思い出して、私は小さく笑った。 「今は、考えなくていいと思うわ」  晴紀が、少し驚いた顔をした。  私は続けた。 「まずは勝つ。  展示会で結果を出して、融資を引き直す。  清晴堂を、ちゃんと立て直す。  それから考えましょう」 「……やっぱり」  晴紀は小さく笑った。 「朱音となら、未来を戦えるって思う」    晴紀の言葉に、胸の奥が静かに揺れた。  一緒に切り開く清晴堂の未来。  それは、なぜかきらめいて見えた。  同時に、Dを思い出した。 「……私と、一緒に生きてみない?」 そう囁く声。  あの人なら、この状況をどう見るだろう。 (……もうすぐ、Dがパリに来る) (何かが、動く気がする)  答えは出ない。  だから、今は考えない。  ヴァロアのスタッフが手配してくれた車で、私たちはマルシェへ向かった。  十分もかからない距離。  住宅街の延長にある、生活の市場。  車を降りると、空気が少しだけ違う。  甘い匂い、青い匂い、土の匂い。  果物の屋台が、いくつも並んでいる。  種類が多い。  林檎だけでも、赤、黄、緑。  小さいもの、大きいもの、形の崩れたもの。  日本なら、きっと規格外になる形。  でも、ここでは普通に並んでいる。  誰も気にしていない。  選ばれるのは、見た目じゃなくて、使い道だ。  甘さと香り
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第67話 そのキスを、いちばん見られたくない人に

 テストキッチンの中央。  作業台を挟んで、私と晴紀は向かい合っていた。 「だから、それじゃ弱いのよ」 「弱くない。むしろ攻めすぎだ」  声は抑えているのに、空気だけが熱を帯びていく。 「現地食材を使うなら、全面に出すべきでしょう」 「出しすぎると、コンセプトがぼやける」 「展示会よ。分かりやすさも武器なの」 「分かりやすいだけなら、誰でもできる」  互いに一歩も引かない。  テストキッチンの空気が、張りつめていた。 「だから、マルシェの現地食材を使うなら——」 「分かってる。でも、それだけじゃ足りない」  言葉は冷静でも、どちらも譲らない。  結論は近いのに、最後の一歩が噛み合わない。  そのときだった。 「……二人とも、間違ってない」  低い声。  静かで、はっきりした断定。  振り向くと、Dが立っていた。  いつ来たのかも分からないほど、自然にそこにいた。  晴紀が即座に反応する。 「なら、どっちだ」  Dは首を振る。 「選ばない」  一瞬、沈黙が落ちる。 「展示会で完成形を出そうとするから、ぶつかる」  Dの視線が、私に向いた。 「朱音が見たマルシェは、素材の多様性そのものが価値だったでしょう?」  次に、晴紀を見る。 「あなたが欲しいのは、同じ思想で量産できる道筋よね」  一拍置いて。 「なら、展示会でやることは一つ」  静かな声で、言い切る。 「完成させない」  二人とも、言葉を失った。  Dは続ける。 「芯を固定しない」 「林檎でも、洋梨でも、無花果でもない。  核として成立する条件だけを定義する」  はっとする。 「……甘さと、食感と、香りの立ち上がり」  私が口にすると、Dは短く頷いた。 「そう」  晴紀が、ゆっくり息を吐く。 「供給は?」 「展示会後に決めればいい」  Dは淡々と言う。 「市場ごとに芯を変えられる設計として出す」  そして、決定打。 「融資側に見せるのは、菓子じゃないわ」  一瞬の間。 「構造よ」  静かに落ちたその言葉が、テストキッチンの空気を、完全に塗り替えた。  晴紀は、しばらく黙っていた。  それから、悔しそうに——でも、目を逸らさずに言う。 「……そうか」  尊敬と、くやしさが混じった声。  私と晴紀が、
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第68話 気づいたときには、もう遅い。——それが最後の安全圏だった

 深夜の経営企画室で、悠斗は小さく息をついた。 照明は半分だけ落としてある。 ガラス張りの会議室に、自分の影が薄く映っていた。 画面には、さっきまで確認していた数字。 異常はない。 正確で、整っていて、説明がつく。 ——だからこそ、違和感が消えない。 まず一つ目。 監査委員会への資料送付。 送信履歴は残っているのに、受付番号が発行されていない。 システム障害、と言えばそれまでだ。 だが、同時刻に送られた別案件の資料は、問題なく処理されている。 内部統制に関する確認資料だけが、抜け落ちている。 悠斗は、もう一度だけ送信ログを確認し、画面を閉じた。 ——偶然、か。 二つ目。 経理部から上がってきた修正依頼。 内容は些細だった。 展示会関連費用の計上区分を、一部変更したいというもの。 理由も妥当。 手続き上、問題はない。 だが、その修正案を作成したのが—— 坂東ではなかった。 名前は、部下のもの。 けれど、文体と数字の並べ方は、坂東の癖そのままだ。(……下に降ろしたな) 切られる準備をしている人間は、こんな手間のかかる指示は出さない。 むしろ逆だ。 責任の所在を、できるだけ曖昧にする。 三つ目。 帰宅前、エントランスで警備員に呼び止められた。「部長、最近、お帰りが遅いですね」 ただの世間話。 そう思って、軽く笑って返した。「正念場ですから」 すると、警備員は一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いた。「……お気をつけください」 理由は、言われなかった。 その一言が、妙に耳に残る。 悠斗は、コートを羽織りながら考える。 監査資料の行方。 責任の分散。 意味のない注意喚起。 どれも、単体では説明がつく。 騒ぐほどのことじゃない。 ——だが、線で見ると違う。(……急いでいる) 誰かが。 自分より先に、事態を動かそうとしている。 会社を守るためじゃない。 終わらせるためでもない。 口を塞ぐための動きだ。——そう思った瞬間、背中がぞくっとした。 悠斗はスマートフォンを取り出し、兄の名前を一瞬だけ表示して、消した。 今は、まだ言えない。 確証がない。 感情で動けば、全員が危険に晒される。 必要なのは、時間。 そして、逃げ道。 駐車場に出ると、夜気がひんやりと肌に触れた。
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第69話 彼の指先と、もう一人の横顔が忘れられない

 ノックの音がしたのは、送信履歴を閉じた直後だった。「……朱音」 ドアを開けると、廊下の灯りの中にDが立っていた。 コートを羽織ったまま、いつもより少しだけ、気配が静かだ。「起きてると思って」「ええ」 短く答える。 ドアを開けたまま、私は迷った。 部屋に招こうとする手が、途中で止まる。(今日は……)(なんでだろう) 一人でいたい、というより—— 誰も、ここには入れたくない。 その一瞬で、Dは気づいたらしい。 ほんの少しだけ、寂しそうな表情が浮かぶ。 けれど、それはすぐに消えた。「……外にする?」 問いかけは柔らかい。 でも、踏み込まない距離をちゃんと保っている。 私は、ほっと息を吐く。「ええ。 下のバー、まだ空いてると思う」 私がそう言うと、Dは小さく頷く。「今は、その方がいい」 理由は聞かれなかった。 聞く必要がない、と分かっている顔だった。*** ホテルのバーは、遅い時間らしく落ち着いていた。 低い照明。 磨かれたカウンターに、間隔を空けて座る人影。 私とDは並んで腰を下ろす。 触れない距離。 でも、離れてもいない。 グラスが置かれて、ようやく息を吐いた。「……今日は、長かったわね」「ええ」 Dは短く答えて、グラスを傾ける。 それ以上、すぐには何も言わない。 しばらく、音楽とグラスの音だけが流れる。 半分ほど飲んだ頃だった。「……で」 Dが、視線をグラスに落としたまま言った。「何も、なかったの?」 唐突だった。 でも、不意打ちじゃない。 私は、すぐには答えられなかった。 ——なかった、と言えば、なかった。 でも。 未来の話。 あれは、プロポーズみたいだった。 短いキス。 何もせずに、隣で眠った夜。 それを「何もなかった」と呼んでいいのか、分からない。 私は黙り込んだまま、グラスを指でなぞる。 Dは、その沈黙を急かさなかった。 ただ、同じ速度で飲む。 数秒。 あるいは、もう少し。 やがて、Dが小さく息を吐いた。「……悩む顔ね」 苦笑だった。 責めるでもなく、諦めるでもない。「なかった、と言い切れないなら—— それはもう、答えよ」「……意地悪ね」「ええ」 Dはあっさり認めた。 それから、ほんの一瞬だけ。 カウンターの下で、私の小指
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第70話 展示会当日の朝――その二人が一緒にいるはずがないのに

 深夜二時。 悠斗は、自宅のデスクで、再び端末を開いていた。 眠るつもりだった。 だが、あの着信が頭から離れない。 知らない番号。 短すぎるコール。 番号検索にかけても、情報は出てこない。 プリペイドか、転送。(……本気だな) 監査資料の件。 経理修正。 警備員の言葉。 全部が、展示会の「後」を見据えた動きだ。 ——負けた場合じゃない。 勝った場合の処理。 悠斗は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。(……時間がない) 守るための準備は、もう間に合わない。 必要なのは——「……公開、か」 独り言が、静かな部屋に落ちる。 内部で潰されるなら、 外に出すしかない。 だが、それは—— 清晴堂だけでなく、神園家も、坂東も、全部を巻き込む選択だった。 端末の画面に、未送信の下書きが並ぶ。 《展示会後、即時公開用資料》 《想定Q&A》 《メディア対応フロー》 覚悟を決めるには、まだ一晩、必要だった。 窓の外で、遠くサイレンが鳴る。 展示会まで、あと—— 一日。*** まだ朝は早かった。 パリの街は目を覚ましきっておらず、展示施設の周囲も、通勤の流れから少し外れた静けさに包まれている。 それでも—— 《ルミエール・ガトー展示会》の会場だけは、すでに動いていた。 一般来場者が入る前。 設営が最終段階に入り、評価だけが先に始まる時間帯。 自動ドアを抜けた瞬間、空気が変わる。 磨き上げられた床。 白を基調にしたブースが規則正しく並び、その間を、黒いスーツや上質なコートに身を包んだ人々が静かに行き交っていた。 足取りは落ち着いているのに、無駄がない。 視線は、すでに「見るべきもの」を探している。 聞こえてくるのは、フランス語、英語、時折混じる他国の言葉。 笑顔と名刺交換。 抑えた声で交わされる、短い評価。 甘い香りが、まだ薄く漂い始めたばかりの空間に、金属とガラスの冷たい気配が混ざり合う。 自分たちのブース前で足を止め、私は会場全体を一度だけ見渡した。 どのブースも、すでに形は整っている。 完成度も高い。 ——だからこそ。(ここで、何を見せるか) 味じゃない。 見た目でもない。 構造。 清晴堂が、ここに立った理由を。 私は名札を確認し、 設営図面をもう一度だけ目でなぞる。
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