All Chapters of 愛の終わり、帰る日のない場所へ: Chapter 1 - Chapter 10

26 Chapters

第1話

響音寺の境内は、読経の響きと人々の熱気で満ちあふれていた。そんな中、望月明日香(もちづき あすか)も本堂の座布団にひざまずき、ひたすらに祈りを捧げいた。「私、望月明日香は聖地へ向かいます。聖山を守り、二度と北嶺山地からは出ないことを誓います!」その傍らで住職の藤原宗道(ふじわら そうどう)は質素な衣をまとう明日香を見つめた。「聖山朝霧は、最後の浄土だ。足を踏み入れるなら、執着を捨て、人の情けも欲もすべて断ち切らねばならぬ」明日香が向かう聖山朝霧は、仏教の聖地だ。一旦聖地を守るために山に入れば、外の世界とは完全に切り離されてしまうことになる。それはつまり、青木涼太(あおき りょうた)とも、もう一生、二度と会えなくなるということだった。……明日香は幼い頃に両親を亡くし、響音寺で育った。5歳の時だった。両親とお参りに来た際に、恨みを持つ者の襲撃を受けたからだ。あの時両親は暴漢に殺されたが、彼女は仏像の台座の下に隠れて、奇跡的に助かった。ひとりぼっちになった明日香を見て、宗道が不憫に思い、引き取って育てあげた。18歳のとき、明日香は涼太と出会い、一目で恋に落ちた。当時、涼太は親が決めた政略結婚から逃げるため、北嶺山地へやって来て修行生活を送っていた。ある夜、明日香はこっそりと彼の部屋の扉を開けた。涼太は座布団の上で、数珠を指で繰りながらお経を唱えていたのだったが、その冷ややかで禁欲的な姿が、かえって彼女の心をかき乱した。明日香は思い切って涼太の膝にまたがると、白い指先で強引に彼の顎を持ち上げた。彼女のまとっている赤いドレスは薄く、なまめかしい身体のラインが透けて見えるほどだった。数十年も「いい子」として生きてきたけれど、彼女は一度だけでいいから、羽目を外してみたかったのだ。「青木さん、あなたはまだ未練があるでしょう?これでは、お経を読んでも心は静まりませんね」そう言って明日香は声をかけた。一方の涼太の目線は、雪山のように冷たく鋭く、どこか触れることさえためらわせるような威圧感があった。彼は瞳の色を少し沈め、低い声で警告するように言った。「神聖な場所で、罰当たりな真似はやめなさい。恥ずかしいと思いませんか?」しかし、そう言われても明日香はしなやかな身体を寄せ、艶めかしく涼太の腰に腕を回す。「人
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第2話

初恋を知った明日香。彼女は外の世界の華やかさに、すっかり目を奪われていた。そのまま宗道に別れを告げて、涼太と共に東都へ旅立つことにしたんだ。宗道は明日香を引き留めようとした。「外の世界は誘惑ばかりで、欲望に飲み込まれて、本当の自分を見失ってしまうことがある。ここでの暮らしも悪くないし、外の世界が想像ほど素晴らしいとも限らないんだぞ」でも、明日香の決意は揺るがなかった。「大丈夫。また、時間ができたら、会いに戻ってくるから!」こうして、彼女は涼太に青木家へ連れて行かれ、何不自由のない贅沢な暮らしをさせてもらった。このことは東都の社交界でも噂となって、なにやら涼太が美人を囲んでいるなどと広まっていたのだ。それからの5年間。涼太はとことん明日香を甘やかして、大切にしてきた。彼女が機嫌を損ねれば、数億円の商談なんて放り出して、海外から夜通し飛行機を飛ばして、ご機嫌を取りに戻ってくるほどだ。ある日、明日香が事故でプールに落ち、重い肺炎にかかってしまった時のこと。医師には「覚悟をしてください」とまで言われた。涼太は土砂降りの雨の中を飛び出し、彼女の命をつなぐお守りを求めるために観音寺へ走った。何百段の階段を、一段進むたびに深々と祈りを捧げて登りきると、彼の足はガクガクになっていたのだった。そして、涼太は20億円を投じて小惑星の命名権を買い、そこに明日香の名前を付けたりもした。さらに、愛染堂という縁結びに縁がある名所では敬虔に祈りを捧げ、二人の名前を刻んだ縁結びの錠を自らの手でかけたこともある。だから、周りの人も皆、涼太が明日香に心底惚れていると言っていたのだ。しかし、5周年の記念日。プレゼントを用意して涼太の元へ向かった明日香は、友人たちと談笑する彼の声を耳にしてしまうのだった。「霞は海外で療養してるけど、随分良くならないんだ。彼女の最大の願いは、俺との結婚式だからさ。とびきり盛大な式を挙げてやるって約束したよ」すると友人たちがからかうように尋ねた。「明日香さんに知られたら、大変なことになるんじゃないか?」すると、涼太は気だるげに瞼を上げた。「明日香は嫉妬深いからな。お前らも口裏を合わせて、上手く隠し通してくれ」それを聞いて友人は更に囃し立てた。「あなたたちの婚姻届が本当は手続き行われていなかったなんて知
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第3話

片や、明日香が入ってくるのを見て、涼太は近づき、自分の体温が残る上着をふわりと肩に掛けてあげた。「外は雨なのに、どうしてここへ?」明日香は喉まで出かかった問い詰めたい言葉を飲み込んで、こう答えた。「今日は、7回目の結婚記念日だから」「結婚」という言葉に、彼女はことさら力を込めながら言った。だが涼太の口調は、相変わらず優しかった。「ごめん。最近、接待で忙しくてプレゼントを用意し忘れてたよ。何が欲しい?シャネルの新作バッグ?それとも、カルティエのネックレスかな?」彼は嘘をつくのが本当にうまい。あまりに自然で、疑う余地もないほどだ。今まで、この人は自分にどれだけの嘘を重ねてきたんだろう。明日香はバッグの中で、妊娠検査の結果用紙を強く握った。サプライズにするつもりだったけれど、もう必要ないみたい。そう思うと急に、胃の奥から強烈な吐き気がこみ上げてきた。すると、彼女はトイレに駆け込み、視界がくらむほど激しく嘔吐した。だが、それを目の当たりした涼太は逆に眉をひそめ、じっと明日香の顔色を窺った。「もしかして、子供ができたのか?」明日香は顔面蒼白のまま、首を横に振った。「ううん。なにか悪いものでも食べたみたい」それを聞いて、涼太はあからさまにホッとした顔を見せ、彼女を支えようと手を伸ばした。「病院まで送るよ」だが、明日香はその手をそれとなく避けた。「薬を買って飲めば治るから、大丈夫」外は土砂降りだったけれど、彼女はそう言うと構わず雨の中へと飛び出した。雨の中で走りながら、彼女は顔を濡らすのが雨なのか涙なのか、もうわからないほどになっていた。そして、あっという間に、全身がずぶ濡れになった。そこ頃、東都はもう冬に入っていて、骨の髄まで凍えるほど寒かった。道端にしばらく立ち尽くしてから、明日香はふらふらと薬局に入った。店員を見つけ、感情のない声で告げる。「ミフェプリストン錠を一箱ください」店員は怪訝そうに彼女を見た。「ミフェプリストンは中絶薬で、初期の妊娠を終わらせるための薬ですよ。どういう薬か、わかってますよね?」明日香はお腹に手をあてた。そこには今、小さな命が確かに宿っている。なかなか声が出なかったけれど、ようやく言葉を絞り出した。「一箱ください。これで妊娠を、終わらせたいんです」涼太と一
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第4話

宗道の言っていた通りだ。人の心ほど、推し量るのが難しいものはない。涼太がどうしても「あの人」を忘れられないのなら、自分は身を引くつもりだ。泣きわめいたりもしないし、騒ぐこともしない。彼女にとって彼が自分を愛していないことも、あの女を愛していることも受け入れることはできる。でも、自分に深い情があるふりをしながら、裏であの女とつながっているのだけは許せなかった。彼は本当に好きな人がいるくせに、自分には心にもない甘い言葉を囁いた。そんな態度に、自分は心を動かされてしまった。だけど、涼太はこの関係からいつでも綺麗さっぱり抜け出せるだろう。一方で残された自分は、底なし沼にはまったように動けなくなってしまうのだ。手術を終えた明日香が、ふらふらの体を引きずって家に帰ると、信じられない光景が待っていた。自分の居場所はすでに奪われていたのだ。そこには、涼太の後ろにおどおどと隠れる霞がいた。けれど彼女のその目から、はっきりとした挑発が見て取れた。そして、涼太は冷たく言い放った。「霞は帰国したばかりで、泊まるところがないんだ。だから主寝室を彼女に明け渡して、君は一旦ゲストルームへ移ってくれ」それを聞いて、使用人の北条恵(ほうじょう めぐみ)は小声で独り言をつぶやいた。「お客さんが主寝室を使って、主人がゲストルームだなんて、そんなのおかしいわよ」一方で、霞がこちらに向ける視線には、隠しきれない軽蔑の色が混じっていた。彼女は涼太の頬を痛ましげに撫でてみせた。「涼太、愛してもいない人と一緒に暮らすなんて、きっと辛かったでしょ?もし最初におじさんが反対しなかったら、私たちは世界一幸せなカップルになれたのにね!」明日香は中絶手術を受けたばかりだったから、壁に手をついていなければ、まともに立っていられないほど弱っていた。涼太の言葉に彼女はまるで笑いものになったかのようにただ呆然と立ち尽くしていた。そして深夜にふと目を覚ますと、隣の部屋から物音が聞こえてきた。そこでは、霞はしなやかな体で、涼太にぴたりと抱きついて、まるで熱愛をしているカップルかのように絡み合い、口づけを交わしていた。そして二人は久しぶりの再会に酔いしれながら、お互いの愛を確かめ合っているのだった。「誰にも邪魔されたくないの」霞が涼太の胸にもたれかかり、甘ったるい声でお
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第5話

涼太は一瞬きょとんとして、眉をひそめたが、きっと、これも明日香の強がりだと思って気に留めなかった。「霞は生まれつき心臓が悪くて、誰かがついてなきゃいけないんだ。外に住まわせるのは心配だからな。彼女は静かなのが好きで、騒がしいのは苦手なんだ。郊外に別荘があるだろ、君は明日そっちへ移ってくれ」それを聞いて、明日香は素直にうなずいた。「うん、明日そっちに行くね」だが、彼女のその態度に涼太の目には、信じられないという色が浮かんでいた。泣きわめかれるとばかり思っていたのに、彼女があっさり引き下がったからだ。「物分かりのいいふりをする必要はないぞ。明日にでも、郊外の別荘の名義を君に書き換えてやる」彼は後ろめたさがあるから、そうやって埋め合わせをしようとしているのかもしれない。だが、明日香はもとより、霞に部屋を奪われること自体は気にしていなかった。彼女が気にしているのはただ、それを許している涼太の態度なのだ。「青木家のことは、ずっとあなたが決めてきたもの。誰を受け入れて、誰を追い出すかは全部あなたの一存でしょ?」それを聞いて涼太は探るような目線を明日香に向け、まるでどうせわざと言っているのだろう、とでも言いたげだ。「君のいいところは、引き際を心得ている点だ。頼むから物分かりよくしてくれよ。病人に嫉妬なんかするな」しかし、そう言われても明日香は、彼に本心を話してもらいたかったから、尋ねた。「ねえ、涼太。私たち、これからの関係を考え直すべきじゃない?もし終わりにしたいなら、私から出ていくわ。絶対に未練がましくしないから!」だけど、涼太は冷ややかな顔つきで言った。「子供を失ったばかりなんだろ。これ以上、言い争いたくない」そして、彼はドアを荒々しく閉め、部屋を出ていった。明日香が家を追い出された件は、人づてに噂となり、さらに大げさに広まっていった。涼太に捨てられたのだと、誰もが言っていた。そんな中、彼女は片道のチケットを予約した。北嶺山地へ帰るためのチケットだ。この数年、明日香は必死に自分を抑えて、涼太のいい妻でいようとしてたんだ。出発前、彼女は荷物をまとめた。持っていけるものはカバンに詰め、そうでないものは処分することにした。そしてアトリエを整理している時、ある一枚の絵画を見つめながら、明日香はぼんやりと思
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第6話

それを聞いて、明日香は苦々しく笑った。「もし私が彼女の大切にしてる何かを壊したら、あなたは彼女にも『気にするな』って言える?」そう言われ、涼太は引き裂かれた絵を一瞥した。そしてその瞬間、彼の封印されていた記憶が一気によみがえようだった。彼はライターで火をつけると、散らばった紙くずを跡形もなく燃やし尽くした。その揺らめく炎が、涼太の表情を冷酷に照らし出す中、明日香は震えあがった。いつも冷静な涼太が、こんなにも激しい怒りを見せるなんて初めてだったからだ。そう感じた彼女は胸を無理やり引き裂かれたような、鋭い痛みを覚えた。5年間も恥を捨ててこの男に尽くしてきた。それだけの時間があれば、どんなに冷たい相手だって情が湧くはずだと思っていた。だから、彼女は涼太も本当は自分が好きなのかもしれない、なんてそんな馬鹿なことを、本気で信じてやまなかった。だが、自分が思っていたあの運命的な出会いは、彼にとっては恥ずべき過去であり、消し去りたい汚点だったのだ。一方で、涼太は優しく霞の涙を拭ってあげながら言った。「泣かないでくれ、霞。君が泣いて目を腫らしていると、俺の心が痛むんだ」その夜、涼太は別荘で歓迎会を開き、親しい友人たちを招いた。彼の友人たちは霞とも古くからの知り合いで、二人の絆を見守ってきた証人のような存在だ。だが事情を知らなかった明日香にとっては、これまで彼らの前で涼太と仲良く振る舞っていたことはまさに、恥をさらになっていたのだ。そして涼太の友人たちにとっても、そんな姿を晒す彼女はまさに滑稽なピエロでしかなかったのだろう。そして、涼太には長年想い続ける女性がいて、周囲もそれを知りながら、口裏を合わせて明日香を騙していたのだ。一方で、霞は今日彼女の清純さをいっそう際立たせる白いワンピースを纏って、とても愛らしく着飾っていた。その周りを男たちが次々と近寄ってきて、親しげに彼女を囲んだ。「霞、あなたが留学した後、涼太の奴ひどかったぜ。胃が出血するほど毎日浴びるように酒を飲んで、荒れてたんだ」「北嶺山地にこもって修行僧みたいな真似までして、家族と縁を切るなんて大騒ぎしてたよな!」「これであなたも戻ってきたことだし、もう、二人を邪魔するやつはいないだろう!」そんな中、明日香は部屋の隅に身を隠していたが、それでも辺
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第7話

それを聞いて明日香の心はさらに震えあがった。弁解しようとしたけれど、苦い思いが喉に詰まって声にならない。霞が泣きついてきた。「明日香さんがペンダントを奪おうとしたの。渡さないって言ったら、プールに突き落とされた!」明日香は口を開こうとした。でも、どんな言葉も言い訳にしか聞こえない気がして、彼女は力が抜けたようだった。そして、霞はさらに被害者ぶって声をあげた。「明日香さん、欲しいものなら何でもあげるわ。でも、あのペンダントは涼太がくれたの。世界に一つだけなのよ!」涼太が冷たく告げる。「明日香、人の物を無理やり奪おうとするなんて」その氷のような声に、明日香の心は鋭く突き刺されたようだった。そうこうしていると、霞が焦った声で言った。「涼太、お願い、ペンダントを見つけて!」それを聞いて、涼太は暗い瞳で明日香を睨みつけた。「それなら、なくさせた人間に責任を持って探してもらえばいい」揺れる水面を見て、明日香の胸に恐怖が走った。「涼太、私、水が怖いの!」3年前、明日香は溺れかけたことがある。それ以来、水への恐怖心が消えないのだ。息ができなくなる絶望感。それが悪夢のように彼女を苦しめ続けていたのだった。だが、涼太は冷めた目で明日香を見据え、一言ずつ噛みしめるように言った。「飛び込んで、ペンダントを拾ってこい!」それは議論の余地を与えない、完全な命令口調だった。明日香は彼の服の裾をぎゅっと握りしめて言った。「信じて。私は彼女を突き落としてなんかいない!」しかし、涼太の眼差しは冷え切っていた。明日香の言葉なんて、何一つ耳に入らない様子だ。そして、大事な霞の敵を討つかのように、彼は自らの手で明日香をプールへと突き落とした。プールの中でもがく明日香はもがきながら言った。「涼太、助けて……」しかし、水が口や鼻から入り込み、彼女の助けを呼ぶ声はかき消されていくのだった。最後の力が尽き、彼女は自分が水底へと沈んでいくのをただ感じていた。そこをようやく友人たちが水面の異変に気づいて慌てた。「おい涼太、これマジでやばいぞ。死ぬって!」だが涼太は、氷の彫像のように動かない。「放っておけ。少し痛い目を見ないと、こいつは反省しないからな!」時間が少しずつ過ぎていった。1分。2分。3分が経過した……ついに涼太
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第8話

すると、点滴の針が抜けて、すぐに赤い血がにじみ出した。そこへ見かねた看護師が慌てて駆け寄った。「やめてください!先生がやっとのことで助けたんです。これ以上乱暴するのは危険です!」明日香の顔は真っ青だったけれど、涼太にはそれすら演技に見えた。彼は冷たく嘲笑って言った。「本来なら5歳で君の両親と死んでるはずだ。むしろ、君が疫病神だから彼らは殺されたんじゃないか?」その言葉は再び鋭い刃物のように、明日香の心を深くを突き刺した。明日香は信じられない思いで涼太を見つめた。そして目の前の男が、急に赤の他人のように思えてきた。かつて一番辛い過去を打ち明けた時、涼太は優しく抱きしめて慰めてくれたのだった。「君は運がいい子だ。これからは悪いことなんて起きない。ずっとずっと幸せになれるよ!」そう言って、彼は自分が安心できる温かい居場所をくれた。けれど人生はまるで三流映画だ。いつどこで、最悪の展開になるかわからない。あの優しかった涼太は、この瞬間音を立てて崩れ去ってしまったのだ。そして涼太に霞のところへと連れて行かれ、突き飛ばされた明日香は無様に床へ倒れ込んだ。それはすぐには起き上がれないほどの衝撃だった。一方で、霞は、わざとらしい寛大な態度を見せた。「涼太、ペンダントは見つかったんだからもう、明日香さんを責めないであげて。5年も一緒にいた仲じゃない。そんなひどいことをしたら、可哀想よ」だが、涼太の決意は固かった。「彼女は間違いを犯したんだから、罰を受けるべきだ」そう言って、彼は明日香の白くて細い手をじっと見つめた。「どっちの手で、霞を池に突き落とした?」それを聞いて、明日香は恐怖に目を見開き、涙声で訴えた。「涼太、私は彼女を突き落としてなんていない!お願い、信じて!許して!」絵の才能があった明日香にとって、手は命よりも大切だった。F国の皇室美術学院に入るのが長年の夢なのだ。けれど今霞の嘘のせいで、涼太は彼女の大切な手を潰そうとしているのだ。彼は周りにいたボディーガードたちに明日香を押さえつけさせると、ゾッとするような声で言った。「過ちを犯した人間は、相応の報いを受けなきゃな」明日香は泣きじゃくりながら叫ぶ。「怪我をしたら、もう二度と筆が持てなくなるの!絵が描けなくなるのよ!」涼太は優しく彼女の涙をぬ
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第9話

そう思うと明日香は涙が出るほど笑った。「涼太、私がいつまでも、あなたを愛し続けるとでも思ったわけ?」それを聞いて涼太の表情がこわばった。「霞は心臓が悪くて、もってあと2年だ。彼女は式を挙げたがってた。俺はただ、彼女の最期の願いを叶えてやりたかっただけだよ」そして彼はさらに諭すように言った。「いい子で待っててくれ、式場で騒ぎをたてるなよ。2年の辛抱だ、そうすれば君はずっと俺の妻でいられる」そして涼太はさらに余裕しゃくしゃくに続けた。「君は俺に惚れ込んでるから、俺から離れられるわけないだろ?」そう言われて明日香は黙ったまま、彼に抱きしめられた。けれど、彼女の腹は決まっていた。ここを出て行って、もう二度と戻らないと。こうして結婚式当日になった。ピンクの薔薇が会場を埋め尽くし、まばゆい照明が夢のような光景を作りだしていた。そんな中、挙式が行われているチャペルには多くの人が集まり、会場も満席だった。涼太は客への挨拶に追われていたが、その顔は意気揚々とした喜びにあふれていた。友人たちは次々に祝福の言葉をかけ、彼が愛する女性と結ばれたことを祝った。その途中で、涼太は会場をぐるりと見回したが、明日香の姿はどこにもなかった。すると、友人の一人が胸を叩いて言った。「涼太、俺たちが見てるから大丈夫だ。明日香さんのことを心配しないで!きっと今頃、どこかに隠れて泣いてるんだろう?」それを聞いて、涼太は皮肉っぽく口角を上げた。「明日香は最近、聞き分けが悪いんだ。俺が甘やかしすぎたせいで、すっかり図に乗ってる。少し頭を冷やさせてやった方がいい。そうしなきゃ、自分の過ちに気づかないだろうからな!」それにしても、今日の明日香は不気味なほど静かだった。いつものように騒ぐこともなく、まるで別人だ。一方で、純白のドレスを纏った霞は、地上に降りた天使のように美しく、誰もが目を奪われた。男たちは口々に囃し立てた。「霞、あなたは本当に美しいな!」「愛する二人はついに結ばれるは本当にめでたいよ!」そう言われて霞は何気ない様子で尋ねた。「あの、明日香さんは来ていないの?」そして、彼女は少し寂しそうな顔をした。「私、明日香さんにも祝福してほしかったな!」男たちは肩をすくめる。「来ない方がいいって。せっかくの空気が台無しになるか
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第10話

一方で、結婚式が終わると、涼太は霞を連れて海外へハネムーンに向かった。霞が「N国でオーロラを見たい」と言うので、涼太はすぐさまチケットを手配した。だが、かつて明日香が同じことをねだった時、彼は、「仕事が忙しい」と言い訳して断っていた。何度もがっかりさせられた明日香は、いつしかそんな願いを口にしなくなっていた。N国に着いたのは、ちょうどオーロラが見ごろの時期だった。霞は分厚いダウンコートを着込み、マフラーをぐるぐる巻きにして外に出た。そんな雪の中に立った彼女は、うれしそうに目を細めて笑っていた。そしてオーロラによって夜空に色とりどりの光が広がり、まるで巨大なパレットをひっくり返したようだ。その光が雪に反射して、北国の小さな町を昼間のように照らしていたのだった。涼太は写真を何枚か撮って、旅の記録に残した。明日香があんなに行きたがっていたのも頷ける。確かに素晴らしい景色だ。N国で3日ほど過ごすと、涼太は「もう帰国しよう」と言い出した。そして、彼は初めて霞に嘘をついた。「会社で重要なプロジェクトがあるから、どうしても戻らないといけないんだ」そう言われ、霞は明らかに落ち込んだ顔を見せた。「私とのんびり過ごすって約束したじゃない。仕事なんて、ちょっとくらい後回しにできないの?」実はこの頃、涼太はなぜか妙な胸騒ぎを感じていたが、時差ボケのせいだと思い込んだ。だから、彼は霞にせがまれて深く考えずに答えた。「わかった。仕事はひとまず置いて、君とゆっくり過ごそう」悲しむ霞を見ていられなかったから、涼太は帰国の話を飲み込んだのだ。7日間のハネムーンは、予定がぎっしりと詰め込まれた。彼らは満開の桜の下でキスをして、浜辺を歩き、異国の水の都へも足を運んだ。帰国したのは、それから1週間後のことだ。涼太は会社には顔を出さず、郊外にある別荘へと直行した。だが、別荘の中はもぬけの殻で、不安になるほど静まり返っている。涼太は鼻で笑った。「明日香のやつ、いい年して家出ごっことはな」そう言って彼に焦りはまったくなかった。「あいつは俺を愛してるんだ、本気でいなくなるわけがない」彼は明日香はただのすねて家を出ただけ。数日もすれば帰ってくるだろう、と高を括っていたのだ。しかし数日が過ぎても、明日香からの連絡は
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