LOGIN新しく通されたリングが軽く揺れた。
耳たぶに残る熱と鈍い痛みが、じんじんと脈打つみたいに存在を主張してくる。隆寛は、小さく息を吐いた。
胸の奥に溜め込んでいた緊張が、ようやく出口を見つけたように抜けていく。耳元をかすめる自分の呼気がやけに熱く感じられ、視界の端がふわりとにじんだ。「……ふー……」
声にならない吐息が漏れる。
肩から力が抜け、背中がわずかにベッドの縁へ預けられた。浩人は、その変化をすぐ目の前で見ていた。
ピアッサーを机の端に置き、指先についた微かな赤をティッシュで拭いながら、視線だけは隆寛から離せなかった。卓上灯の光が斜めから差し込み、新しく開いた耳たぶを照らす。
うっすら赤く腫れた皮膚と、そこに嵌めたシルバーのリング。さっきまでなかったものが、もう当たり前のようにそこに居座っている。自分のものにした、という感覚が、喉の奥で静かに熱を持った。
隆寛が、ゆっくりと顔を傾ける。
横顔が光のほうに向き、そのラインが浮き上がる。長いまつげの影が頬に落ち、薄く開いた唇からまた小さな息が漏れた。「……変な感じ」
ようやくこぼれた言葉は、疲労と高揚が混ざったような弱さを含んでいた。
浩人は、短く息を吸う。
「痛むか」
問いかけた声は、自分で思った以上に低く落ちていた。
隆寛は、少し考えるように瞬きをしてから、小さく頷いた。
「痛い……けど」
そこで言葉が途切れる。
途切れたあとの沈黙に、別の意味がにじんでいた。けど、嫌じゃない。
そう続けられることを、浩人はなぜか確信してしまった。
指先が勝手に動いた。
リングのすぐ下、耳たぶの少し赤くなった部分へ、人差し指がそっと伸びる。「っ……」
触れた瞬間、隆寛の肩がびくりと跳ね
レポートの山が机の端に積まれ、浩人の部屋には紙の擦れる乾いた音と、夕方の光がゆっくりと伸びていた。窓の外では沈みかけた陽が淡い橙を散らし、街のざわめきが遠くに薄れていく。静けさはあるが、完全な無音ではない。冷蔵庫のモーターが低く唸り、エアコンが息を潜めるように風を送り出す。その些細な音の中に、二人の呼吸が混ざり合っていた。浩人は筆記用具を指先で転がしながらプリントに視線を落とし、隣に座る隆寛の横顔を盗み見る。光に透けた睫毛の影が頬に降り、長い指先が淡々と資料の行を追っている。口元は真面目な線を保っているのに、ほんの少しだけ、どこか緩んで見えた。さっき、玄関で軽く唇を触れた余韻が残っているのを、浩人は薄々感じていた。隆寛がページをめくる。紙が空気を切る小さな音とともに、沈黙がまた一段深くなる。喉を鳴らし、浩人は手元のペンを置く。「なあ」声をかけた瞬間、隆寛が横目でゆっくり振り向く。その動きだけで胸が軽く跳ねるような感覚が走る。光が揺れ、隆寛の瞳に夕日の欠片が映った。「ちょっとだけ、いいか」隆寛の眉が緩く動いた。問いの形をしているのに拒絶がまったくなく、むしろ待っていたと言わんばかりの柔らかさがあった。浩人はその反応に呆れるほど弱いと自覚しながら、指先でそっと隆寛の顎を持ち上げた。わずかに触れただけで、隆寛の呼吸が浅くなる。唇が触れ合うと、静かな部屋に微かな音が沈んだ。軽いキスのはずだった。だが触れた瞬間、隆寛がほんのわずかに目を閉じ、浩人の指に頬を預けてくる。その温度が、浩人の中の何かを簡単に壊す。唇を離した後も、隆寛はゆっくりと目を開けるだけで何の言葉も発さない。問いかけのようで、許しのようでもある沈黙。浩人は息を吐き、少し笑った。「すぐ触りたくなるんだよ、お前」隆寛は驚いたように瞬きし、それから視線を落とした。照れ隠しのように紙を整えようとするが、その指先がわずかに震えている。「……課題、終わらなくなるぞ」掠れた声が落ちる。責めているわけではない。むしろ、もっとしてもいいと言っているように聞こえてしまう。浩人の胸の奥がひどく熱くなる。
朝の光は、カーテンの隙間から細くこぼれ、床に淡い帯をつくっていた。冬に向かう前の、まだやわらかい陽射しだった。ワンルームの狭さは、その光を窮屈に跳ね返しながらも、どこか安心できる密度を持っている。隆寛は、シーツに頬を押しつけたまま、ゆっくりと目を開けた。枕に残った微かな匂いは、何度も嗅いだことのあるものだ。洗剤の残り香と、乾いた空気と、浩人の肌の匂いが混ざった、ここにしかない匂い。天井が見える。見慣れた白い板と、蛍光灯の細長い影。ここは自分の部屋じゃない、という認識はある。けれど、その事実に焦ることもなくなっていた。視線を横に向けると、空になったマグカップが机の端に置かれているのが見えた。昨日の夜、課題をやりながら飲んだコーヒーの名残りだ。その隣には、自分の教科書とノートが積み上がっている。ページの端には、浩人の字で書き込まれたメモが混ざっていた。布団の隙間から腕を伸ばし、枕元を探る。指先に、柔らかい布の感触が触れた。昨夜脱いだ自分のパーカーだった。タグの部分が、こちら側に向いている。袖をつまんだまま、隆寛はぼんやりと考える。これも、何日目か分からない「置きっぱなし」の一つだ。最初に置いていったのは、替えのシャツだった。徹夜明けにそのまま大学へ行くのがしんどくて、一枚だけ「忘れて」行った。翌週、取りに来るつもりだったのに、結局そのままになった。その次は、スウェットの下。それから、靴下の予備が一足。歯ブラシは二本立てておくほうが自然になった。机の端には、自分用のマグカップが増えた。一つ一つは些細なものだ。ここが自分の部屋ではないという前提を崩すほどの重さはない。けれど、気づけばこの空間のどこを見ても、自分のものが視界に入るようになっていた。忘れていった、というより、置いていかれてたものたち。布団から上半身を起こすと、肩にかけた毛布がずり落ちた。ひやりとした空気が肌に触れ、隆寛は無意識に腕をさする。キッチンのほうから、音がした。湯を沸かす
夜明け前の気配は、窓の隙間からゆっくりと部屋に滲み込んでいた。薄いカーテン越しの光にはまだ色がなく、青とも灰ともつかない淡さで、乱れたベッドの縁をかろうじて縁取っているだけだった。卓上灯は消されていて、しばらく前まで二人の肌を照らしていた光はもうない。残っているのは、熱と、浅い呼吸と、夜の余韻だけだった。シーツはぐしゃぐしゃに寄れている。その皺の中に、さっきまでの動きが刻み込まれているように見えた。隆寛は、仰向けになりきれず、浩人の胸にもたれるような体勢になっていた。片方の頬が、浩人の裸の胸板に触れている。肌の下でゆっくりと刻まれる鼓動を、耳の奥で聞いていた。耳たぶが、じくじくと痛んだ。そこだけ異様に鮮明で、そこだけが夜の中で覚醒している。新しく通されたシルバーのリングが微かに触れ合うたび、チリ、と小さな電流みたいな痛みが走る。その痛みが、先ほどの選択を何度でも思い出させた。刻まれた証。その言葉が、頭の奥で静かに浮かんでは沈んだ。胸の奥は、満たされていた。自分の輪郭がやっとどこかに定着したような、そんな感覚。見失いそうだったものに、今夜、はっきりと境界線が引かれた。その境界が、浩人の腕の中にある。それが、怖かった。満たされているのに、怖い。失うことを考えた瞬間、呼吸が苦しくなる。浩人の腕が、隆寛の背中にしっかりと回っていた。逃がすつもりのない、拒絶を許さない、そんな強さ。けれど締めつけるほどではない。むしろ、ここから落ちていかないように支えるみたいな力加減だった。汗のにじんだ肌と肌が、ところどころまだ離れずにくっついている。胸のあたり、脇腹、太ももの側面。触れている部分すべてに、ぬるい熱が残っている。どこまでが自分の体温で、どこからが浩人の体温なのか、もう分からなかった。隆寛は、浅く息を吸った。空気が冷たくて、喉の奥だけ少しひやりとする。吐く息は、浩人の胸元に当たって、跳
新しく通されたリングが軽く揺れた。耳たぶに残る熱と鈍い痛みが、じんじんと脈打つみたいに存在を主張してくる。隆寛は、小さく息を吐いた。胸の奥に溜め込んでいた緊張が、ようやく出口を見つけたように抜けていく。耳元をかすめる自分の呼気がやけに熱く感じられ、視界の端がふわりとにじんだ。「……ふー……」声にならない吐息が漏れる。肩から力が抜け、背中がわずかにベッドの縁へ預けられた。浩人は、その変化をすぐ目の前で見ていた。ピアッサーを机の端に置き、指先についた微かな赤をティッシュで拭いながら、視線だけは隆寛から離せなかった。卓上灯の光が斜めから差し込み、新しく開いた耳たぶを照らす。うっすら赤く腫れた皮膚と、そこに嵌めたシルバーのリング。さっきまでなかったものが、もう当たり前のようにそこに居座っている。自分のものにした、という感覚が、喉の奥で静かに熱を持った。隆寛が、ゆっくりと顔を傾ける。横顔が光のほうに向き、そのラインが浮き上がる。長いまつげの影が頬に落ち、薄く開いた唇からまた小さな息が漏れた。「……変な感じ」ようやくこぼれた言葉は、疲労と高揚が混ざったような弱さを含んでいた。浩人は、短く息を吸う。「痛むか」問いかけた声は、自分で思った以上に低く落ちていた。隆寛は、少し考えるように瞬きをしてから、小さく頷いた。「痛い……けど」そこで言葉が途切れる。途切れたあとの沈黙に、別の意味がにじんでいた。けど、嫌じゃない。そう続けられることを、浩人はなぜか確信してしまった。指先が勝手に動いた。リングのすぐ下、耳たぶの少し赤くなった部分へ、人差し指がそっと伸びる。「っ……」触れた瞬間、隆寛の肩がびくりと跳ね
深夜の空気は、課題を提出し終えたあとの気の抜けた静けさで満たされていた。張りつめていた緊張がすっと抜けるその瞬間は、毎回どこか宙に浮いたような感覚を伴う。けれど今夜は、それ以上の何かが二人のあいだに漂っていた。卓上灯だけがついたままの部屋は、薄い光と濃い影を交互に刻んでいる。缶コーヒーの空き缶がベッド脇の机に二本並び、深夜までの作業の痕跡がそのまま残っていた。隆寛は、背筋を伸ばしたあと、軽く首を回した。緊張が解けた身体には、疲労のぬるい重さが残っている。浩人は机に寄りかかるようにして座り、息をゆっくり吐いた。深夜の空気が、わずかに肌を冷やす。その時だった。隆寛の視線が、浩人の左耳に向いた。黒髪の間からのぞく、小さな黒いリングピアス。いつもさりげなく揺れていて、隆寛にとっては“浩人そのもの”のような象徴だった。視線がそこに吸い寄せられたことを自覚する頃には、もう口が動いていた。「……耳、開けてみたい」言った瞬間、隆寛自身が驚いた。声は静かで、深夜の空気に吸い込まれるような弱さだった。浩人は、動きを止めた。数秒間、返事が来ない。沈黙が、影のように二人のあいだに落ちる。やがて、「……は?」短い声。しかし、その声には抑えきれない熱が滲んでいた。隆寛は視線を外さず、ゆっくり繰り返した。「耳、開けたい」浩人の喉が小さく動いた。卓上灯に照らされた横顔が、僅かに揺れた影の中で固まったように見えた。「……みはら、お前」言葉が続かない。それほど意外だった。それでも、数秒後に漏れた言葉は低く、深く、どこか支配する響きを持っていた。「任せろ」強く言ったわけではないのに、胸が震えるほどの確信があった。
卓上灯の光は、夜が深まるほどに鋭さを増していく。狭いワンルームの空気は、昼間とは違う濃度を帯びていた。湿ってもいないのに重く、冷えてもいないのに背筋にひやりとしたものが落ちる。深夜特有の静けさが、二人の呼吸を際立たせていた。隆寛は、ベッドの端で、かすかに前へ傾いでいた。先ほど浩人が触れた髪は、まだその触感を残しているように見える。頬にかかった黒髪が影を落とし、その影が呼吸に合わせて揺れるたび、静寂はゆっくり色を変えた。紙をめくる音が途切れた。代わりに聞こえたのは、隆寛の深い、少し乱れた息。浩人は、視線を落とした。髪の先、頬の線、その奥の耳へと。黒髪の隙間から見え隠れしていたその部分が、ふとした動きで露わになった。髪をかきあげたのは、隆寛自身だった。眠気を払うように指を額へ滑らせた。その一瞬の動作で、隠されていた耳が光の中に浮かび上がった。その形を捉えた瞬間、浩人の心臓が音を立てた。隆寛の耳は、小さく整っていて、透明な光の粒を含んだように白かった。柔らかい赤みを帯びた耳介のカーブが、卓上灯の光に反射してゆらりと輝く。その光景は、たった一秒の出来事だった。だが浩人には、もっと長く見えた。喉から、小さな音が漏れた。「……っ」自分のものとは思えないほど低く、熱の混ざった音。隆寛には届かなかったかもしれない。でも、空気がその震えを確かに拾っていた。耳が露わになるだけで、こんなにも心臓が揺れるのか。その事実に、浩人自身が驚いていた。隆寛は、髪をかきあげた姿勢のまま固まっていた。息の出入りが、先ほどよりも浅くなる。胸の上下が微かに速くなる。気づいている。見られていることを。髪の影から現れたその耳が、深夜の白光を受けて静かに震えていた。隆寛の緊張と戸惑いが、皮膚越しに伝わるようだった。浩人はゆっく