All Chapters of 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年: Chapter 61 - Chapter 70

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61.寺務所の机を挟んだ嘘

「……こんばんは、副住職」そう言って浩人は、わずかに頭を下げた。玄関の外灯に照らされたその顔は、雨粒を受けて濡れている。額から落ちる雫が頬を伝い、顎からぽたりと石段に落ちた。肩口まで濃く濡れたコートの生地が、夜の冷えをそのまま吸い込んでいるようだった。隆寛は、胸の奥で固くなった何かを押し隠しながら、小さく会釈する。「こんばんは。こんな雨の中を…お疲れさまです」自分の声が、思った以上に静かだったことに、内心でわずかに安堵する。僧衣の裾を揺らしながら一歩前へ出て、庇の下まで浩人を招き入れた。石段を上がった浩人の靴から、水がこぼれた。革の匂いと雨の冷気が混じり合って、狭い玄関に立ち込める。隆寛は、その匂いの向こうに、微かに覚えのある香りを感じ取った。以前と同じ、淡い香水の匂い。香港へ行く前の、狭いワンルームの空気の中にも漂っていた香りだ。「コート、お預かりします。濡れたままですと冷えてしまいますから」そう言って両手を差し出す。浩人は一瞬だけ遠慮するように眉を寄せ、それから無言でコートを脱いだ。ずしり、と重さが腕にかかる。水を含んだ布は想像以上に重く、指先に冷たさを伝えてきた。抱え込んだ瞬間、濡れた生地の匂いの奥から、体温の残り香がふっと立ち上る。かつて、同じコートを自分の部屋の椅子に掛け、乾かした夜があった。試験前で二人とも徹夜続きで、コートを乾かすことすら面倒になり、結局そのままベッドに倒れ込んだのだ。思い出を振り払うように、隆寛はコートハンガーへ向き直った。木製のハンガーに丁寧に掛け、雫が落ちる裾にタオルを軽く当てて水気を切る。「どうぞ、お上がりください」振り返って声をかけると、浩人は既に靴を脱ぎ終え、揃えて端に置いていた。履き慣れた革靴の形さえ、目に馴染んでいる自分がいる。廊下に一歩足を踏み入れると、板張りの床が二人分の足音を受け止めた。外の雨音が、少し遠くなる。それでも、屋根を叩く水の音は絶えず耳に届き続けている。「寺務所でよろしいですか。…お話とは、
last updateLast Updated : 2026-01-17
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62.山門まで歩けない二人

言い切ったあと、自分の声が、思っていたより大きく響いたように感じた。寺務所の空気が、わずかに重くなる。窓の外では雨が強まり、ガラスに当たる音が一段と粗くなった。蛍光灯の白い光が、机の上の紙の縁を冷たく照らしている。「…そうか」浩人が、低く呟いた。その声には、怒鳴り声のような激しさはない。ただ、深く沈んだ重さがあった。机の上に置かれた彼の手が、ひとつ握られては開き、落ち着きなく指の関節を鳴らす。隆寛は、その音を聞きながら、机の端を軽く撫でるように指を滑らせた。木の表面のわずかなささくれが、皮膚に引っかかる。この部屋に長く留まっていてはいけない。頭のどこかで、そう告げる声がした。ここは寺務所であり、客に用件を伝え、確認を取るための場所だ。この空間を、これ以上別の何かで満たしてしまうべきではない。「…遅くなってしまいましたね」自分の声を意識して落ち着かせながら、隆寛は立ち上がった。椅子の脚が板の床を擦る音が、やけに大きく耳に響く。「そろそろ、お見送りを…」浩人も、少し遅れて椅子を引いた。背もたれから離れた身体が、立ち上がるときにわずかに前に傾く。その動きひとつで、長身さが改めて目に入る。彼が立ち上がると、部屋が狭くなった気がする。机を挟んでいるはずなのに、距離がうまく測れない。寺務所の戸を開けると、廊下の薄暗がりが広がっていた。昼間よりも灯りを落としているため、天井の蛍光灯はところどころしか点いていない。遠くから雨音が流れ込み、板張りの床に二人分の影が伸びる。廊下に出た瞬間、空気の温度がわずかに下がった。寺務所の中よりも、外気に近い冷たさが肌を撫でる。僧衣の布越しにも、その変化が分かる。「こちらへ」隆寛は、いつものように先に歩き出した。足袋の裏が床に触れるたび、軽い音が響く。後ろからもう一つ、少し重めの足音が追ってくる。靴下越しの革靴の感触が、板を通じて伝わってくるような錯覚。言葉を交わさないまま、数歩を進む。寺務所から玄関までは、それほど長
last updateLast Updated : 2026-01-18
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63.雨音の奥で触れ合う唇

「もう、お帰りください」言葉を口にした瞬間、自分の声が、雨の音よりもはっきりと耳に残った。土間と廊下の境目に立つ隆寛と、庇の下に半歩出た浩人。そのあいだに、見えない線が引かれたような気がする。その線を越えないための言葉が、今、口から出たはずだった。帰ってほしい。そう言わなければならない。これ以上ここにいるのは危ういから。僧侶としての自分が保てなくなるから。けれど、それは本心の全部ではない。そのことも、よく分かっていた。言葉を吐き出したあとの一瞬、雨音だけが周囲を満たした。庇の端から落ちる水が、石段に細かな輪を描いて跳ねる。その連続音が、心臓の鼓動と重なる。浩人は、その場で動かなかった。玄関の戸に背を預けるように立ち、濡れたコートのない肩で、夜の冷気を受けている。顔には何の表情も浮かんでいないように見えた。ただ、暗がりの中で瞳だけが外灯の光を拾い、小さな光点を宿していた。返事がない。頷きも、足音も、背を向ける気配も。早く帰ってほしい、と頭のどこかが急き立てる。ここでこのまま固まっていれば、言葉が崩れる。線が、曖昧になる。「失礼します」そう告げて、隆寛は一歩、下がろうとした。廊下側へ、寺の内側へ。その瞬間だった。腕を掴まれた。僧衣の袖越しに、熱が食い込んでくる。思いのほか強い力だった。「…っ」間抜けな声が、喉の奥から零れた。掴まれたのは、僧衣の中でも露出している前腕のあたりだ。布の上からでも、指の形が分かる。細く冷えた空気の中で、その手だけがやけに熱い。予想していなかった場所から、火がついたようだった。「離してくださ…」言い終える前に、視界が動いた。引き寄せられたのだと気づくより早く、庇の下の空気が近づく。外灯の光が、一瞬視界の端で揺れた。雨の匂いと、濡れた土の匂いが強くなる。胸が何か硬いものにぶつかる。浩人の身体だと認識するより先に、別の感触が唇に触れた。
last updateLast Updated : 2026-01-19
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64.耳に触れるたび、敬語が崩れる

額を押しつけ合ったまま、しばらく二人は動かなかった。雨音だけが途切れずに降り注いでいる。庇の先から落ちる水の筋が、石段に当たって細かな飛沫をあげる。その規則的な音が、胸の中で乱れている鼓動とは別のリズムで続いていた。浩人の息は、まだ近い。吐くたびに、湿った温かい空気が頬や唇のあたりをかすめる。さっきまで重なっていた場所が、そこにあった熱の記憶をじんじんと残している。隆寛は、額をぶつけられている感覚から目を逸らすように、まぶたを軽く閉じた。ここは寺の玄関だ。外灯の下、庇の下。土間と石段の境目。外から見れば、誰にでも見える場所。雨の音に紛れているとはいえ、家の中の気配もまだ完全には消えていない。僧侶として、こんな場所で、こんなふうにしていること自体がおかしい。そう頭では分かっている。それなのに、身体はその事実を、思ったほど重大事として受け取ってくれない。むしろ、額に当たる骨の硬さと、その奥にある体温の存在を、どうしようもなく確かめ直していた。「……離して、ください」ようやく声を絞り出すと、浩人の指先がわずかに動いた。掴まれていた腕から力が抜け、その代わりに、首の後ろに回っていた手が軽く押してきた。突き放すのではなく、柱のほうへ誘導するような力のかけ方だった。背中に、固い感触が当たる。庇を支える柱だと気づくより早く、その冷たさと硬さが僧衣越しに伝わる。自分の身体が、逃げ場を失って固定されていく。浩人の片手は、後頭部に添えられたままだった。剃髪した頭の丸みに沿って、指先がゆっくりと動く。それは、さっきのような戸惑いを含んだ手つきではなかった。掴む先を探るというよりも、丸い形を確かめてなぞるような動き。指の腹が、剃った髪の短いざらつきを拾うたび、頭皮の神経が細かく震える。髪があった頃と、まるで違う感覚だ。以前は、髪の根元を掴まれるたび、頭皮の下からぞわりとした震えが走った。引かれる力と、くしゃりと乱される音。そうしたものが官能と結びついていた。今は、音がない。
last updateLast Updated : 2026-01-20
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65.雨のあとの、眠れない夜

雨は、まだやまなかった。庇の下、外灯の白い光の輪の中で、耳を舐められ、名前を呼んでしまったばかりの隆寛は、自分の足が震えていることにようやく気づいた。柱に預けた背中から、じわじわと力が抜けていく。さきほどまでそこで支えていた「僧侶としての自分」という何かが、静かに剥がれ落ちていく感覚があった。額を外されると、冷えた夜気が一気に顔を撫でた。雨に濡れた空気の匂いと、土の湿り気。その中に、浩人の呼吸と、かすかな香水の残り香が混ざる。「…ここじゃ、駄目だな」低い声が耳の近くで落ちた。何が駄目なのか、説明されなくても分かる。ここは寺の玄関先だ。山門の庇の下。昼間は檀家が行き来し、朝には新聞が届き、近所の子どもたちが走り抜ける、誰にでも開かれた場所。その場所で、耳を舐められ、名前を呼び、膝が震えている自分がいる。「野上さ…」言いかけた言葉は、手首を掴まれた感触にかき消された。さっき腕を掴まれたときよりも、少しだけ柔らかい力だった。乱暴に引っ張るのではなく、支えるように、導くように握られる。「立てるか」問われて、ようやく自分がどれだけ力を失っているかを自覚する。足先はしびれたように感覚が薄く、膝には頼りなさしかない。僧衣の裾にしみ込んだ雨の重みもあって、一人で歩き出せる自信はなかった。「…大丈夫、です」口ではそう言ったが、言葉と裏腹に、膝がわずかに折れかける。柱と、浩人の手と、足元の石だけが、かろうじて身体を支えていた。「大丈夫そうに見えない」短く返される。そのまま身を翻した浩人が、半ば抱きかかえるように隆寛の身体を支えた。肩に回された腕が、僧衣の上からしっかりと重みを受け止める。「車、そこだ」庇の向こう、暗がりの中に停められたヘッドライトの影が見える。雨に濡れたアスファルトが、外灯の光をぼんやりと弾いていた。行ってはいけない、と頭のどこかが叫ぶ。寺を夜中に離れるなど、幼
last updateLast Updated : 2026-01-21
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66.髪のない頭に、昔の手つき

洗濯機の蓋を閉める音がして、少ししてから、フローリングを踏む足音が近づいてきた。隆寛はソファの端で、掌を膝の上に置いたまま、指を組んだりほどいたりしていた。濡れた僧衣の感触が消えたせいか、借り物のTシャツが妙に頼りなく感じられる。布地は柔らかいのに、肩から胸元にかけて、何も隠せていないような心許なさがあった。「回しといた。朝には乾くだろ」視線を上げると、浩人がリビングの入り口に立っていた。さっきまで見慣れていたスーツ姿ではない。白いTシャツにスウェットパンツというラフな服装は、葬儀場でも寺でも一度も見たことのない姿だ。肩の力が抜けている分、逆に身体の線がはっきりと立ち上がって見える。「ありがとうございます」そう返す声に、わずかに敬語が残る。外では、まだ雨が降っている。カーテンの向こう側で、窓ガラスを叩く音がときどき大きくなり、小さくなる。部屋の中の灯りは穏やかで、外の冷たさを遮っていた。「頭、まだ濡れてるだろ」そう言って、浩人はソファの背に掛けていたタオルを手に取った。「自分で…」断りかけた言葉より先に、タオルが頭の上からふわりと落ちてくる。視界が暗くなり、綿の匂いと洗剤の香りに包まれる。頭皮に、布越しの掌の感触が乗った。「じっとしてろ」低い声がすぐ近くで響く。髪を拭かれるときのように、ぐしゃぐしゃと乱暴に掴まれる痛みはない。その代わり、頭そのものを包み込むような動きだった。丸い形に沿って、タオルごと優しく撫でるように水気を吸い取っていく。剃ってからの一年余り、修行先でも寺でも、自分でしか触れてこなかった場所だ。他人の手で、しかもこの男の手で包まれるのは初めてだった。布の下で、目を閉じる。頭皮の神経が、細かく敏感になる。タオル越しに伝わる指の力加減が、そのまま心臓に響いてくるようだった。「前は、もっと時間かかったのにな」タオルを動かしながら、浩人がぽつりと言う。「乾かすの」大学時代の光景が、頭の中に蘇
last updateLast Updated : 2026-01-22
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67.週末だけの合意

目を開けたとき、最初に目に入ったのは、天井ではなかった。カーテンの隙間からこぼれる、薄い灰色の光。夜の濃さが抜けきらない朝の光は、白でも青でもなく、どこか曖昧な色をしていた。細く開いた隙間から差し込んだその線が、壁と天井の角に淡い帯を作っている。布団の中は、ほんのりと温かい。シーツはところどころ皺になり、肌に貼り付いている。昨夜の汗が完全に引ききっていないのだろう。わずかに湿った布地に、石鹸と、互いの身体の匂いが混ざっている。耳の奥に、かすかな音が届いた。シャワーの音だと気づくまで、少し時間がかかった。浴室のほうから、誰かが水を流す音。一定のリズムで落ちる水の音が、扉越しに柔らかく伝わってくる。部屋の外、キッチンのあたりからは、何かが小さくぶつかる音や、食器の擦れ合う音も聞こえた。誰かが、もう起きている。自分ではない誰かが、家の中で動いている音。寺ではいつも、それは母の足音や、父の咳払いだった。朝の台所で鍋を置く音、湯のみを揃える音。本堂から響く鐘の音。それらが「一日の始まり」を告げていた。今聞いているのは、まったく別の生活音だ。食器棚の扉が開く音。マグカップを置く音。電気ケトルのスイッチが入る小さなカチリという音。そのひとつひとつが、この部屋の主の生活を形作っている。もう一度目を閉じると、まぶたの裏に昨夜の断片が浮かんできた。汗ばむ肌の感触。肩に落ちた唇。耳の裏をなぞる舌。呼吸を分け合うようなキス。名前を呼ばれ、呼び返した響き。身体のどこかがじわりと熱を帯びるのを、自覚する。同時に、別の重さが胸のあたりに沈んだ。寺では、もう朝勤行が終わっている時間だ。本堂の扉を開ける音。住職である父の唱える経の声。檀家の誰かが、早めに線香を供えに来ているかもしれない。自分は、そこにいない。「…起きてたか」低い声がした。目を開けると、さっきまですぐ隣にいたはずの浩人が、ベッドから少し離れたところに立っていた。Tシャツ
last updateLast Updated : 2026-01-23
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68.ふたりだけの小さな週末

土曜日の夕方、慶林寺の山門には、いつも同じ車が停まるようになった。最初の週末は、小雨だった。一周忌の片づけを終え、最後の檀家を山門まで見送る。合掌し、頭を下げ、見送る背中が角を曲がって見えなくなったところで、ようやく息をついた。庫裏に戻る廊下の途中で、ポケットの中のスマホが震える。「着いた。山門の前」短い文字列。胸の奥が一瞬だけ跳ねたあと、すぐに現実が追いつく。父は本堂で書き物をし、母は台所で夕飯の支度をしているはずだ。祖母は、自室でテレビをつけている頃だろう。僧衣のまま、山門を出て車に乗る。それが、本当に許されることなのか。少し考えてから、結局その週は、僧衣のまま出ることにした。私服に着替えるという発想自体が、まだ身体に馴染んでいなかった。書院の隅に置いたスマホを一度だけ見て、深呼吸をしてから、山門へ続く廊下に足を向ける。白い廊下の窓の外は、細い雨が降っていた。石畳の上に水の輪が重なっている。山門の外、道路側には、ヘッドライトを消した車が一台、静かに止まっていた。山門をくぐると、運転席から見慣れた姿が降りてくる。「お疲れ」そう言って笑う顔は、スーツではなく、ラフなシャツ姿だった。商社マンではなく、一人の男として週末を迎えた顔。「…檀家さん、もう帰ったか」「さっき」答えながら、足元の石段に目を落とす。「父たちも、そろそろ夕飯だと思う」「じゃあ、行くか」短い言葉のあと、助手席側のドアが開けられる。僧衣の裾が雨を含んで少し重い。足袋の白が濡れないよう、石段を一段ずつ確かめながら降りる。その間、山門の木枠の向こうに見える庫裏の明かりが、視界の端で揺れた。それでも、足は止まらなかった。僧衣のまま助手席に乗り込み、ドアを閉める。外の雨音が遠のき、代わりに車内の静けさが耳に満ちた。「僧衣のまま連れ出すとか、なんか悪いことしてる感じだな」運転席で浩人が笑う。
last updateLast Updated : 2026-01-24
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69.香港で誰も愛せなかった夜

窓ガラスが、時おり、小さく震えた。風の音は、雨よりも静かで、深い。ビルの角を回り込んでくる冷たい空気が、どこかでうなりながら、ガラスとサッシを叩いている。カーテンは半分ほど閉められていて、その隙間から、隣のマンションの灯りがぼんやり差し込んでいた。スタンドライトは、一番弱い明るさに絞ってある。部屋全体が、淡い橙の膜に包まれているようだった。ベッドの中は、外の風とは別世界の温度だった。シャワーも食事も済ませて、もう何時間か前に一度互いの身体を求め合って、今はただ並んで横たわっているだけだ。シーツはところどころ湿っていて、その上から掛けた布団が、二人分の体温をゆっくりと溜め込んでいる。隆寛は、横向きになっていた。片頬を枕に乗せ、腕を胸の前で軽く折り曲げる。すぐ目の前には、浩人の肩と喉元がある。浅く上下する呼吸のリズムが、布団越しに伝わってきた。「…風、強いな」天井を見ながら、浩人がぼそりと言った。「さっきコンビニ行ったとき、外、めちゃくちゃ寒かった」「この辺り、風通りがいいのか」「ビル風ってやつだろ」他愛もない会話だ。寺の廊下で交わす天気の話と、特別変わらない。けれど、その声が枕越しにこんなに近く響く夜は、寺にはない。「向こうも、こうだったか」ふと、口が勝手に動いた。「香港」横になったまま、聞いてしまっていた。浩人の喉が、少しだけ動く。「風?」「風でも…空気でも、なんでも」自分でも曖昧な問いだと思う。香港の空気など、行ったこともないのに。ニュースやガイドブックで見たことのある、高層ビルとネオンと、人の多さ。その断片が頭の中で混ざっていただけだ。「空気は、重かったな」しばらくの沈黙のあと、浩人が答えた。「湿気もあるし。人も車も多いし。ごちゃごちゃしてて、匂いもきついし」「きつい匂い」「香辛料とか、油とか、海の匂いとか。…あと、排気ガ
last updateLast Updated : 2026-01-25
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70.週末に空く一席

土曜の夕方の匂いは、いつも決まっていた。台所から漂ってくるだしの香り。昆布と鰹が混ざった柔らかい匂いに、味噌の気配と、今夜は焼き魚だろうか、脂の甘い匂いが重なっている。廊下を歩くたび、畳と板のきしむ音が小さくついてくる。障子の向こうで、母の千草が菜箸を動かす音がする。鍋の蓋がカタリと鳴るたびに、寺の一日がゆっくりと夜に傾いていくのを感じた。隆寛は、自室の襖を静かに閉めた。畳の上には、小さなリュックがひとつ置いてある。中には、着替えと、数回分の下着と、最低限の洗面道具。僧侶として修行に出るときほど大げさではないが、それでも「どこかへ行く」という具体的な準備を感じさせる荷物だった。目の前には、箪笥の引き戸が半分開いている。中には、数少ない私服。地味な色合いのシャツや、目立たないジーンズ。大学時代に一緒に選びに行った服は、もうとっくに処分してしまった。僧衣の裾が、膝のあたりで静かに揺れた。着替えるか、このまま出るか。どちらにしても、山門の外では、彼が待っている。袖口を指先でつまみながら、しばらく考える。私服に着替えて出ていく自分の姿を想像すると、どこか「寺から完全に離れる」ような後ろめたさがあった。僧衣のままであれば、まだぎりぎり寺と自分が一本の線でつながっているような気がする。どちらを選んでも、自分に言い訳をすることになるのだろう。結局、その日、彼は私服に着替えることにした。シンプルな黒いパーカーに、ジーンズ。そのような格好をしていると、どこにでもいる20代の若者と変わらない。剃髪した頭以外は。畳に置いたリュックを手に取り、肩にかける。腰のあたりで、透明ピアスの存在を意識しないように、耳から手を離した。襖を開けると、廊下には夕方の光が細く伸びていた。障子越しの明かりが、板の間に長方形をいくつも作っている。その上を一歩ずつ踏みしめながら、庫裏のほうへ向かった。台所の入口で足を止める。「母さん」呼ぶと、千草が振り返った。エプロンをつけたまま、手には菜箸。湯気の向こうで、いつもの、少しだけ笑
last updateLast Updated : 2026-01-26
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