「……こんばんは、副住職」そう言って浩人は、わずかに頭を下げた。玄関の外灯に照らされたその顔は、雨粒を受けて濡れている。額から落ちる雫が頬を伝い、顎からぽたりと石段に落ちた。肩口まで濃く濡れたコートの生地が、夜の冷えをそのまま吸い込んでいるようだった。隆寛は、胸の奥で固くなった何かを押し隠しながら、小さく会釈する。「こんばんは。こんな雨の中を…お疲れさまです」自分の声が、思った以上に静かだったことに、内心でわずかに安堵する。僧衣の裾を揺らしながら一歩前へ出て、庇の下まで浩人を招き入れた。石段を上がった浩人の靴から、水がこぼれた。革の匂いと雨の冷気が混じり合って、狭い玄関に立ち込める。隆寛は、その匂いの向こうに、微かに覚えのある香りを感じ取った。以前と同じ、淡い香水の匂い。香港へ行く前の、狭いワンルームの空気の中にも漂っていた香りだ。「コート、お預かりします。濡れたままですと冷えてしまいますから」そう言って両手を差し出す。浩人は一瞬だけ遠慮するように眉を寄せ、それから無言でコートを脱いだ。ずしり、と重さが腕にかかる。水を含んだ布は想像以上に重く、指先に冷たさを伝えてきた。抱え込んだ瞬間、濡れた生地の匂いの奥から、体温の残り香がふっと立ち上る。かつて、同じコートを自分の部屋の椅子に掛け、乾かした夜があった。試験前で二人とも徹夜続きで、コートを乾かすことすら面倒になり、結局そのままベッドに倒れ込んだのだ。思い出を振り払うように、隆寛はコートハンガーへ向き直った。木製のハンガーに丁寧に掛け、雫が落ちる裾にタオルを軽く当てて水気を切る。「どうぞ、お上がりください」振り返って声をかけると、浩人は既に靴を脱ぎ終え、揃えて端に置いていた。履き慣れた革靴の形さえ、目に馴染んでいる自分がいる。廊下に一歩足を踏み入れると、板張りの床が二人分の足音を受け止めた。外の雨音が、少し遠くなる。それでも、屋根を叩く水の音は絶えず耳に届き続けている。「寺務所でよろしいですか。…お話とは、
Last Updated : 2026-01-17 Read more