靴箱の前にしゃがみ込み、紐を結びながら、自分の声が少し硬くなっているのを自覚していた。「四葉商事の野上さんと…少し飲みに行くことになりまして」土曜の夕方の玄関は、いつもより少しだけ冷たい空気を含んでいる。庫裏の台所からは味噌汁の匂いが流れてきて、廊下の先からは祖母の咳払いがかすかに聞こえた。玄関の土間に降り、スニーカーを履く。足袋ではない靴の感触が、まだ身体から浮いている。襖の向こうで衣擦れの音がして、泰然が姿を現した。普段着の上に袈裟を重ねてはいないが、背筋の伸びかたはいつもと変わらない。「野上さんと」泰然は繰り返し、少しだけ顎を上げた。「一周忌の折の。部長さんの会社の方だな」「はい。あの…寄付の件や、今後のこともありますし。今日は、その…食事などをしながら、少し」言い訳のような言葉が、自然と語尾に付け足される。「そうか」泰然は、玄関の框に片手を置いたまま、少しだけ目を細めた。「あの青年か。真面目そうだった」葬儀のときから、一貫してそう評している。僧侶としての眼で人を見る父の言葉は、褒め言葉であり、同時に慎重な評価でもある。「寺とのご縁も、大切にしなければならん」「はい」返事をしながら、その「ご縁」がどの程度までを含んでいるのか、量りかねていた。玄関先に立っていると、台所から千草の声が飛んできた。「隆寛、ごはんはどうするの」「…遅くなりそうなので、外で済ませます」土間から声を張ると、鍋の蓋が動く音と一緒に、千草の「そう」の一言が返ってきた。少しして、彼女が廊下の角から顔を出す。エプロン姿のまま、手には菜箸。味噌の香りと、煮物の甘い匂いがまとわりついてくる。「浩人さんと、飲みに行くの」「はい」今度は名前を出した。初めて寺に来た日から、もう何度か顔を合わせている。葬儀、一周忌、その後の相談。千草にとっても「四葉商事
Last Updated : 2026-01-27 Read more