All Chapters of 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年: Chapter 71 - Chapter 80

87 Chapters

71.『野上さんと飲みに』という方便

靴箱の前にしゃがみ込み、紐を結びながら、自分の声が少し硬くなっているのを自覚していた。「四葉商事の野上さんと…少し飲みに行くことになりまして」土曜の夕方の玄関は、いつもより少しだけ冷たい空気を含んでいる。庫裏の台所からは味噌汁の匂いが流れてきて、廊下の先からは祖母の咳払いがかすかに聞こえた。玄関の土間に降り、スニーカーを履く。足袋ではない靴の感触が、まだ身体から浮いている。襖の向こうで衣擦れの音がして、泰然が姿を現した。普段着の上に袈裟を重ねてはいないが、背筋の伸びかたはいつもと変わらない。「野上さんと」泰然は繰り返し、少しだけ顎を上げた。「一周忌の折の。部長さんの会社の方だな」「はい。あの…寄付の件や、今後のこともありますし。今日は、その…食事などをしながら、少し」言い訳のような言葉が、自然と語尾に付け足される。「そうか」泰然は、玄関の框に片手を置いたまま、少しだけ目を細めた。「あの青年か。真面目そうだった」葬儀のときから、一貫してそう評している。僧侶としての眼で人を見る父の言葉は、褒め言葉であり、同時に慎重な評価でもある。「寺とのご縁も、大切にしなければならん」「はい」返事をしながら、その「ご縁」がどの程度までを含んでいるのか、量りかねていた。玄関先に立っていると、台所から千草の声が飛んできた。「隆寛、ごはんはどうするの」「…遅くなりそうなので、外で済ませます」土間から声を張ると、鍋の蓋が動く音と一緒に、千草の「そう」の一言が返ってきた。少しして、彼女が廊下の角から顔を出す。エプロン姿のまま、手には菜箸。味噌の香りと、煮物の甘い匂いがまとわりついてくる。「浩人さんと、飲みに行くの」「はい」今度は名前を出した。初めて寺に来た日から、もう何度か顔を合わせている。葬儀、一周忌、その後の相談。千草にとっても「四葉商事
last updateLast Updated : 2026-01-27
Read more

72.境内で交わる三つの視線

剪定ばさみの刃が、枝を噛む音がした。ぱつん、と小気味よい音が、静かな境内に小さく響く。切り落とされた枝からは、青い匂いが立ち上っていた。まだ冷たい空気の中で、その匂いだけが春を先取りしている。土曜の午後。日が傾き始めた境内には、長い影が伸びている。千草は、腰を少し曲げて、低く伸びた枝に手を伸ばした。剪定ばさみを握る手には、家事でついた細かな傷がいくつもある。枝を一つ切り、足元に落とす。乾いた土に、小さな葉が散る。「…んしょ」軽く腰を伸ばし、背筋を伸ばす。本当なら、これも隆寛がやるべき仕事だ。だが、最近の土曜の夕方は、彼の姿が境内にない。「外の空気も、吸わなきゃね」誰に言うでもなく、ひとりごとのように呟いてから、はさみを持ち直す。剪定を手伝うのは嫌いではなかった。枝を整理してやるたび、木が少し呼吸しやすくなる気がする。寺も、人も、少しずつ形を整えてやらなければ、いつの間にか重さに潰れてしまう。風が、山門のほうから吹き抜けてきた。首もとに当たる風は、まだ冬の名残を含んでいて冷たい。カーディガンの襟を片手で引き寄せながら、何気なく視線を山門へ向けた。そのときだった。山門の外で、車のエンジン音が、一度だけ小さく鳴って止まった。耳が、自然とそちらへ向く。何度も聞いたことのある音だった。境内に響く車の音は限られている。檀家の車、葬儀社の車、配達の軽トラック。そのどれとも違う、少し低めの、よく整備されたエンジンの響き。剪定ばさみを持ったまま、千草は山門のほうへ少し歩み寄った。山門の木枠の陰から、背の高い男が姿を現す。濃紺のコートに、落ち着いた色のマフラー。冬の終わりの街に馴染むような服装だが、その立ち姿には会社帰りの疲れではなく、どこか「これから向かう場所」のための緊張がまとわりついていた。野上浩人。一周忌の法要で何度か顔を合わせ、庫裏で茶を出した相手。名刺を受け取り、会社の話を聞き、笑顔の奥にある責任感の影を見た。山門の敷居を、
last updateLast Updated : 2026-01-28
Read more

73.母の胸にかかる二つの天秤

蛇口をひねると、水が細く流れ出た。ステンレスのシンクに当たる水音が、庫裏の静けさの中でやけに大きく響く。夜も更けて、寺のあちこちから聞こえていた生活音は、もうほとんど消えていた。祖母は夕食のあと、「若い者はいいわねえ」といつもの調子で笑い、早々に自室へ引き上げていった。泰然も、茶を一杯飲むと「少し経本を見る」と書院へ籠もった。庫裏の灯りだけが、寺の中でぽつりと取り残されたように灯っている。千草は、スポンジを手に取り、茶碗を一枚ずつ洗っていた。三つだけの茶碗。自分の分と、泰然の分と、祖母の分。いつの間にか、その数が当たり前のようになってしまっている。昔は四つ、もっと前は五つ並んでいたことが、遠い記憶のように感じられた。湯気の立つ水に手を浸すと、指の節に少ししみる。洗剤の匂いと、味噌汁の残り香が混ざって、鼻の奥にまとわりついた。「若い者は、いいわねえ」さっき祖母が笑いながら言った言葉が、頭の片隅で反芻される。「泊まりで出かけるなんて、今のうちよ」「ばあちゃん」隆寛が、玄関で靴を履きながら苦笑していた。「大したところじゃないから」「どこでもいいのよ」祖母は、ちゃぶ台の向こうで茶碗を持ち上げながら言った。「楽しいんでしょう?」その問いに、隆寛は答えなかった。代わりに、ほんの一瞬だけ笑って、それから「行ってきます」と頭を下げて山門へ向かった。その背中を見送るときの、自分の胸の中の感触が、まだ生々しく残っている。スポンジを動かす手が、ふと止まった。茶碗の縁についた米粒を、指先で丁寧に落としていく。そのささやかな作業が、妙に尊いもののように感じられる。今日はまた、隆寛が泊まりで出かけた日だった。最初の頃は「終電までには戻る」と言っていたのが、いつの間にか「状況によっては泊まるかもしれません」と変わっていった。最近は、泊まりになる晩のほうが多い。「浩人さんと、飲みに行く」。そう説明されるのも、耳に馴
last updateLast Updated : 2026-01-29
Read more

74.誰にも言えない相談

午後の光が、寺務所の障子越しに白くにじんでいた。机の上には、檀家の名簿と、月参りの日程を書き込んだノート。半分まで減ったボールペンのインクが、ところどころかすれた線を描いている。千草は、最後の一件を書き終えると、ペンをそっと置いた。「…一段落、ね」小さく呟く。書き物の合間に煎れていたお茶は、いつの間にかぬるくなっていた。湯飲みを手に取り、少しだけ口をつける。渋みが舌の奥に広がる。障子の外からは、風の音と、遠くで子どもが騒ぐ声が微かに聞こえていた。平日の午後の慶林寺は、法事のない限り穏やかだ。朝の勤行と掃除、来客の対応が一段落すると、庫裏や寺務所にはゆったりした時間が流れる。机の端には、圭信から届いた年賀状が、まだ片づけずに置いてある。妙徳寺の山門と、本堂の写真。穏やかな顔で笑う圭信の横に、袈裟姿の若い僧が写っている。「お坊さんも、いろいろねえ」年明けに祖母がそう言って笑ったのを思い出す。電話機の横には、今月の行事予定表が貼られている。盆や彼岸のような大きな行事はまだ先だが、細々とした法要の予定が、日付の欄に書き込まれていた。受話器に目をやる。圭信に、相談してみようか。昨夜、台所でふと浮かんだ考えが、今も胸の中に残っていた。息子のこと。寺のこと。そのどちらも奥深く関わる話を、誰かに聞いてほしい。泰然には、まだ言えない。隆寛本人には、もっと言えない。ならば、誰に。圭信の顔が、頭の中に浮かんだ。あの人なら。そう思った瞬間、寺務所の静けさを破るように、電話が鳴った。「…」一度、ベルが鳴る。二度。三度目が鳴る前に、千草は受話器を取っていた。「はい。慶林寺でございます」自分の声が、少しだけ硬くなっているのが分かる。『お世話になります。妙徳寺の香坂です』柔らかな男の声が、受話器の向こうから聞こえた。「あら、
last updateLast Updated : 2026-01-30
Read more

75.胸の内を灯にさらす夜

食卓の上の皿から、湯気がうすく立ちのぼっていた。味噌汁の香りと、煮物の甘じょっぱい匂いが、まだ庫裏に残っている。夜の冷えが障子の向こうからじわじわと忍び込んでくる中で、そのぬるい湯気だけが、ここが家の中であることを主張していた。祖母が「ごちそうさま」と笑って茶碗を置き、千草がそれを受け取って流しへ運ぶ。泰然は、ちゃぶ台の端に箸を揃え、静かに手を合わせた。祖母は早々に立ち上がり、腰をさすりながら廊下のほうへ歩いていく。「先に、お布団に入ってますよ」そう言い残して去っていく背中を見送りながら、千草はふと、ちゃぶ台の上に並んだ茶碗の数を数えた。三つ。今夜もまた、一つ分、席が空いている。「隆寛、今夜は戻らんのだな」ちゃぶ台から湯飲みを手に取った泰然が、そんなことを呟いた。「ええ。さっき、寺務所に顔を出したときに言っていました」千草は、流しに茶碗を重ねながら答えた。「今夜は戻れないかもしれませんって」水を張ったボウルに茶碗を沈めると、少し白く濁った水面に蛍光灯の光が揺れた。スポンジを手に取った千草は、茶碗の縁をなぞりながら、喉の奥にひっかかった言葉をどう出そうかと考えていた。毎週末、ではない。けれど、月に二度、三度。土曜の夜になると、「外に出ます」と小さなバッグを持って廊下を歩いていく息子の背中を、もう見慣れてしまった自分がいる。最初は、「たまには息抜きも必要よ」と祖母が笑っていた。泰然も、「同じ顔ぶれの中ばかりではな」と穏やかに言っていた。それが、いつの間にか「いつものこと」になっている。千草は、茶碗についた米粒を指で落としながら、心の中で小さく息を整えた。今、言わなければ。いつまでも、自分一人の胸の中に抱えておける話ではない。流しの水音を少し弱めて、千草は振り返った。泰然は、湯飲みを手にしたまま、ちゃぶ台のところに座っている。湯気の向こうの横顔には、疲れと静けさが同居していた。「泰然さん」
last updateLast Updated : 2026-01-31
Read more

76.“血”か“志”か、書院の対話

玄関の呼び鈴が鳴ったとき、台所にはまだ昼食の片づけの名残が少しだけ残っていた。千草は、まな板の上に置いたままだったネギをふきんで覆い、手を拭いてから廊下へ出た。障子越しに差し込む光は白っぽく、冬と春のあいだを行き来するような、頼りない明るさだった。「はい」玄関の戸を引くと、外の風が細く吹き込んできた。境内の砂利をわずかに巻き上げたような匂いが、鼻先をかすめる。山門からまっすぐ続く石畳の先、土間に一歩踏み入れたところに、香坂圭信が立っていた。薄い灰色の袈裟の上に濃紺の道中着を羽織り、手には小さな紙袋を提げている。「ご無沙汰しております」圭信が、穏やかに頭を下げた。「急に伺ってしまって」「とんでもないです。お寒いなか、ようこそ」千草は戸を大きく開け、手を差し伸べるような気持ちで言った。「どうぞ、お上がりください。泰然さんも書院でお待ちしてます」土間に上がる圭信の足元から、外の冷えが少しだけ庫裏へ連れ込まれる。靴を揃える仕草も、袈裟の裾を払う手つきも、長年僧侶として生きてきた人間の、無駄のない動きだった。廊下を歩きながら、千草はふと、圭信の背中を見た。妙徳寺の住職として、何十年も檀家と寺を支えてきた背中。その少し後ろで、同じように年を重ねてきた自分の夫が、今、書院で何を考えて座っているのか。襖の向こうに、それぞれの寺の時間が交差しようとしているのを、千草は感じていた。「こちらへ」書院の障子の前で声をかける。「圭信さんがお見えです」「どうぞ」中から泰然の声がした。障子を開けると、畳敷きの部屋に低い卓が置かれ、その向こうに泰然が座っていた。背後の床の間には、季節の花を活けた花瓶と、ささやかな掛け軸。障子越しに、冬枯れの庭木の影が薄く映っている。「お邪魔します」圭信が、座布団の前で改めて一礼した。「お忙しいところ、時間をいただいて」「よく来てくれました」泰然が、静かに頭を下げる。
last updateLast Updated : 2026-02-01
Read more

77.『結婚しなくていい』

庫裏に戻る廊下は、夜になると少し長く感じる。寺務所の蛍光灯を消し、戸を引き閉めたあと、隆寛は暗くなった廊下に足を踏み出した。板張りの床は、昼間より冷たく、靴下越しにもひやりとした感触が伝わってくる。襖の隙間から漏れる灯りが、ところどころに島のように浮かんでいる。その明かりをひとつひとつ通り過ぎるたびに、夜の匂いが濃くなっていく気がした。外はかなり冷え込んできている。障子越しに感じる空気が、薄く張り詰めている。祖母の部屋の前を通ると、襖の向こうから、かすかないびきが聞こえた。もう寝ているらしい。いつものことだ、と確認するように耳を澄ませてから、さらに進む。庫裏の居間に近づくと、話し声は聞こえないが、灯りと気配だけがそこにあるのが分かった。夕食のときと同じ照明。ちゃぶ台の向こうに、きっと父と母が座っている。喉の奥で、息がひとつ詰まった。夕食のあと、寺務所で帳簿を整理しているあいだ、なんとなく胸のどこかがそわそわして落ち着かなかった。父と母の視線が、いつもより少し長く自分の背中を追っていた気がして。「失礼します」敷居のところで声をかけて襖を開けると、やはり予想した通りの光景が広がっていた。ちゃぶ台を挟んで、泰然と千草が向かい合って座っている。卓の上には、湯飲みが二つと、すでに火を落とした卓上コンロ。鍋は片づけられているが、まだ鍋料理の出汁の匂いが空気の中に薄く残っていた。「おかえり」先に声をかけたのは千草だった。「帳簿、終わった?」「はい。明日の法事の分まで、確認しました」自分の声が、いつもよりわずかに硬いのを、隆寛は自覚した。泰然が、ゆっくりとこちらを見る。その目つきに責める気配はない。ただ、いつもより「何かを言おうとしている」重さがあった。「隆寛」名前を呼ばれ、背筋に自然と力が入った。「はい」「少し、話がある」予想していた言葉だった。耳の奥で、鼓動がひとつ大きく響く。「…分かりました」
last updateLast Updated : 2026-02-02
Read more

78.「誰かを想っている」と言うまで

襖が、音を立てずに閉まった。ちゃぶ台から身を起こし、膝で畳を進んで、敷居をまたいだところまで来てから、隆寛は、ふと足を止めた。廊下は、さっきより暗く見えた。庫裏の灯りが背中で途切れ、前には、つけていない照明と、障子越しのぼんやりした外の明るさしかない。夜の冷気が、隙間風のように足首を撫でていく。喉の奥までせり上がってきた言葉を、いったん飲み込んだはずだった。飲み込んだのに、胸の中で、まだざわざわと暴れていた。熱を持ったまま、内側から喉をこじ開けようとしている。このまま自室に戻れば、きっと夜半まで眠れない。布団に入っても、さっきの父の言葉と母の顔が、何度も浮かんでは消えるだろう。結局、戻ってきて、同じ場所に座り直したくなるのが、想像できてしまった。それなら。足が、自然と方向を変えた。「…父さん」襖を、少しだけ開けて、顔を覗かせる。ちゃぶ台の向こうで、泰然と千草が、まだ同じ姿勢で座っていた。どちらも湯飲みに手を伸ばしていない。さっきまでの会話の続きのまま、時間だけが止まっていたような空気。「もうひとつだけ」自分の声が、少し掠れている。「話しても、いいですか」泰然が、ほとんど瞬きをすることなく、こちらを見た。「入りなさい」短い言葉だったが、拒絶の気配はなかった。千草が、少しだけ身を起こして、座布団を手前に引き寄せる。さっきまで自分が座っていた場所が、また空いている。隆寛は、その空白に戻るようにして、畳に膝をついた。座った瞬間、膝の下の冷たさが、さっきより鮮明に感じられる。電球の光が、三人を包んでいる。外からの音は、ほとんど聞こえない。遠くで風が吹いているかどうかも、障子越しには分からない。聞こえるのは、自分の鼓動と、父と母の呼吸だけ。「さっき」隆寛は、膝の上で指を組んだ。指先が、汗で少し湿っている。「父さんに、言われて」喉が再び乾く。唾を飲み込む音が、自分にも
last updateLast Updated : 2026-02-03
Read more

79.寺はお前を奪わない

夜景は、窓ガラスの向こうで静かに瞬いていた。都心から少し外れたこのマンションでも、高速道路の赤いテールランプと、ビルの窓の明かりは途切れない。ガラス一枚隔てた向こうは、終わる気配のない世界の時間で、その手前の狭い部屋だけが、別の速度で流れていた。ソファの背にもたれ、隆寛は、ぬるくなりかけたグラスを両手で包んだ。琥珀色の液体の匂いは薄く、代わりに、さっきまで部屋を満たしていた汗とシャワーと柔軟剤が混じった匂いが、鼻の奥に残っている。バスルームからは、もう水音は聞こえない。タオルで髪を拭く音もしない。「寒くねえか」キッチンとの境目あたりから、浩人の声がした。「大丈夫」振り返ると、Tシャツ一枚にスウェットといういつもの部屋着姿の浩人が、マグカップを片手にこちらを見ていた。濡れた髪はもうほとんど乾いている。その代わり、首筋から胸元にかけての皮膚に、シャワーの蒸気が残した赤みと、自分の指が残したかもしれないわずかな跡が見えた。視線がそこに吸い寄せられてしまうのを自覚して、慌ててグラスに目を落とす。「お前、氷、もう溶けてんぞ」浩人が、ソファの肘掛けをまたいで座り、隣に身体を預けてきた。ソファのクッションがきしむ。体温が、すぐ横からじわりと伝わる。「…すぐ飲む」「飲めよ。せっかく買ってきたんだし」口調はいつも通りだ。けれど、さっきまでベッドの上で絡み合っていた身体の記憶が、生々しく皮膚に残っているせいか、一つひとつの言葉に、別の重さが乗って聞こえる。汗の乾ききっていないTシャツが、自分の裸の腕と触れ合う。布越しの熱と、その向こうにある筋肉の硬さ。耳のあたりで、浩人の呼吸が静かに上下している。さっきまで、もっと荒く、もっと近くで、聞いていた呼吸。それを思い出すと、喉の奥で熱がうずく。けれど、それとは別の熱が、胸の中心に横たわったまま、重みを増しているのも分かる。父の言葉。母の手の温度。「寺のことは、父さんたちが考える」「お前は、お前の生き方を考えな
last updateLast Updated : 2026-02-04
Read more

80.同じテーブルで引き直す境界線

湯気はとうに消えて、テーブルの上には温度を失った皿と、透明なプラスチックの容器だけが残っていた。コンビニのロゴが入ったそれは、さっきまで揚げ物と煮物を並べていた証拠だ。揚げ物の油が染みた薄い紙ナプキンから、まだわずかに塩と脂の匂いが漂っている。味噌汁代わりのインスタントスープのカップは、底に少しだけぬるい汁を残していた。間接照明だけが点いた部屋の中は、電球色の光で柔らかく塗りつぶされている。窓の向こうには黒いガラスに映る室内と、ところどころに浮かぶビルの明かり。遠くを車が走る音が、ときどき薄く聞こえてきた。隆寛は、テーブルの端に置いたグラスを指先で回した。氷はほとんど溶け、うすくなった液体が、ガラスの内側をゆっくりと滑る。「…なあ」ソファにだらしなく腰を落としたまま、浩人が天井を見上げて言った。「どうした」隆寛は、グラスを持ち上げ、唇を湿らせる程度に口をつけた。アルコールはほとんど抜けていて、舌に残るのは薄い甘さと苦味だけだ。「この部屋さ」浩人は、頭の後ろで腕を組んだまま、視線だけを横に動かす。「もう一部屋あったら楽だよな」「楽?」聞き返すと、ふっと横顔が笑った。「お前の服とか、経本とかさ。全部突っ込める部屋」「物置じゃないか」「物置兼お前の部屋」「それ、俺が物扱いされてないか」「違う違う」浩人は、腕をほどき、上半身を起こした。Tシャツの裾が少しめくれて、さっき風呂上がりに付いた水滴の名残が、まだうっすら肌に光っている。「言いたいのは、まあ…」一度言葉を切り、目をそらす。「あれだ。お前が完全にここに住んでたら、って話」テーブルの上の空き容器に、視線が落ちる。さっきまで二人で箸を伸ばしていた、からっぽの器。片付けるのが面倒で、そのままにしてしまった痕跡。そういう怠さも含めて、「一緒に暮らす」ということなのだろう。理解はできるのに、胸の奥で何かが固くなる。
last updateLast Updated : 2026-02-05
Read more
PREV
1
...
456789
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status