All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 91 - Chapter 100

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4-26

涙で滲んだ視界の奥で、ほどかれた絹の帯が静かに床へ落ちていくのが見えた。その動きはやけにゆっくりで、現実というよりも水の中で何かが沈んでいくような、曖昧で遠い光景に感じられる。自分の身体の一部が、音もなく切り離されていく―――そんな錯覚すら覚えた。男の手が迷いなく腰紐へと伸び、結び目を解く。わずかに開いた前合わせの隙間から、冷たい空気が忍び込むように肌へ触れた瞬間、背筋に細い電流のようなものが走った。……なに?ぞくり、と震えたその感覚は、寒さとはまるで違う。むしろ内側からじわじわと広がってくる異様な熱と混ざり合い、説明のつかない違和感がある。……体が、おかしい。なに、これ。心臓がうるさい。早鐘のように打ち続け、胸の奥から何かを押し上げてくる。呼吸がうまくできない。空気は喉の奥で粘つくように絡みつき、吸うたびに頭がぼんやりしてくる。頭はぼんやりするけれど、体の感覚は妙に敏感になっている。さっきまでただの布だったはずの襦袢が、肌に触れるたびに過剰な刺激へと変わる。「んっ」思わず漏れた声に、自分で驚いた。確かに自分の喉から出たはずなのに、その響きはまるで他人のもののように遠く、耳の奥で歪んで反響する。「やだっ」そう言ったはずなのに、言葉は弱く、意味を持たないまま空気に溶けていく。解けた髪が首筋に触れる。そのわずかな接触が、神経を直接撫でられたかのように鋭く響き、背中を跳ねさせる。くすぐったさとは違う、逃げ場のない刺激。思考がまとまらない。何かがおかしいと分かっているのに、それを止める手段がどこにもない。空気そのものが重く、湿り気を帯びて肌にまとわりつく。自分の身体が、自分のものではなくなっていくような感覚。それは恐怖よりも、もっとこう、喪失……失われていく感じ。境界が崩れていく感じ。自分という輪郭が曖昧になり、どこからが自分でどこからが外なのか分からなくなる。「薬が効いてきただけだ、怖がることはない」男の声は穏やかで、まるで当然の現象を説明しているかのようだった。その言葉を理解した瞬間、胃の奥が氷のように冷たくなる。これは自分の変化ではない。でも、この男によって変えられている。私の意志とは無関係に、おそらくこの男の望むように……いやだ、気持ち悪い。皮膚の上を撫でる空気さえ、ぬめりを持った異物のように感じられ、触れられるたびに拒絶と
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4-27

苦しい。喉の奥が焼けつくように締めつけられ、空気がうまく入ってこない。肺が求めているはずの酸素が、まるで見えない膜に遮られているかのように届かない。反射的に身体が跳ね、その拍子に自分のうめき声が耳に入り、そこでようやく意識が現実に引き戻された。何が起きているのか分からない。思考はまだ霧の中にあるのに、身体だけが先に限界を迎えている気が……。「ぐうっ……」胃の奥から強烈な圧がせり上がってきて、私は堪えきれずにえづいた。口内に残っていた重たい異物感が一気に崩れ、喉を通って液体が逆流する。「げぇっ……ぐっ、げっ……」吐き出したそれが床に落ちる音は、生々しいほどにはっきりと耳に残った。視界の端に広がるその光景を認識した瞬間、強烈な羞恥が胸を突き刺す。しかしそれ以上に、身体がまるで自分のものではないように制御を失っていることへの恐怖が勝った。再び込み上げてくるものを必死に押し留めようとするが、喉は勝手に開こうとし、呼吸は乱れ、力の入らない指先が虚しく震えるだけだった。「我慢してはいけない、吐きなさい」落ち着いた声が耳に届く。先ほどの男とは明らかに違う響き。低く、抑えられていて、どこか現実に繋ぎ止めてくれるような温度を持っている。だが、その違いを理解する余裕もなく、私は本能的な恐怖に突き動かされていた。「はな……っ!」目の前に差し出された腕を思い切り押しのけ、後退るように距離を取る。着物の前を掴み、乱れた合わせをどうにか閉じようとするが、指はうまく動かず、布は頼りなくずれるばかりだ。呼吸が荒く、視界が揺れる。ようやく焦点が合った先にいたのは、見知らぬ男だった。さっきの男ではない。それだけは分かる。だが、それ以上が分からない。ここはどこで、どうして自分はこんな状態にあるのか。記憶は断片的で、繋がらない。「落ち着くんだ。まずは胃の中のものを出す」男は私の混乱など意に介さず、静かに距離を詰めてくる。その動きに無駄はなく、まるで最初からやるべきことが決まっているかのようだった。次の瞬間、後頭部を支えられ、反射的に身体が強張る。もう一方の手が口元へ伸びた瞬間、恐怖が限界を超えた。私は咄嗟にその指に噛みついた。「痛っ」短い声とともに手が引かれる。しかしそのわずかな抵抗は状況を変えるには足りなかった。すぐに身体は腕の中へと引き寄せられ、逃げ場を失う
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4-28

やがて廊下の向こうが騒がしくなり、複数の足音が近づいてくる。襖が勢いよく開かれ、「桔梗さん!」という声が飛び込んできた。お婆様の声だった。その顔が私を見た瞬間に強張り、血の気が引いていくのがはっきりと分かる。「だ、誰がこんなことを……」震える声で周囲を見回し、その視線が奥に倒れている白州の姿を捉えた。「し、死んで……」「生きていますよ」冷静な声がそれを遮る。私を助けてくれた男だった。そのときになってようやく、お婆様は彼の存在に気づいたらしく、驚きに目を見開いた。「石川さん……?」その名前が自然に出たことに、私はかすかな驚きを覚える。「随分久しぶりね」二人の間に一瞬だけ過去の繋がりが浮かび上がる。「そうですか、石川さんが。この子を助けていただいて、ありがとうございます」深く頭を下げるお婆様に、男―――石川さんは短く首を振った。「いえ、間に合ってよかった」そして私へと視線を向ける。「こちらは……」「蓮司のお嫁さんなの。花嶺家の桔梗さんよ」その言葉を聞いた瞬間、石川さんの顔が変わった。正確には目が、私ではないものを見た。「……明美さん、の?」小さく呟かれた名前に、胸の奥が強く反応した。「花嶺……いえ、西園寺明美ならば、私の母で……す?」突然、呼吸が浅くなった。視界が揺れ、周囲の声が遠のいていく気がして、その代わりに、身体の奥からじわじわとした熱が再び広がり始めた。さっきまで冷えていたはずの手が、内側から熱を帯びていく。「うそ……また……?」押さえ込んだはずの感覚が、ゆっくりと蘇ってくる。「やはり、まだ残っているようですね」石川さんの声は静かだった。「石川さん、一体何が……?」お婆様の問いに、彼は淡々と答えた。「性的興奮を誘発する薬物を摂取させられた可能性が高いです」その言葉の意味が理解されるまで、わずかな時間が必要だった。「せい、てき……?」現実が急に遠のくような感覚。自分の身体でありながら、自分の意思とは無関係に変化していくあの反応が、静かに、しかし確実に戻ってきているのを感じていた。.胸の奥がざわついている。熱はまだ消えないどころか、時間が経つほどに内側から滲み出てくるように広がっていく。呼吸は浅く、吸っても吸っても足りない。酸素ではなく別の何かを欲しているような感覚だけが残り、思考がまとまらな
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4-29

懇願しても、身体にまとわりついた熱は引かなかった。むしろ「何をやめてほしいのか」という問いそのものが意識の奥に入り込み、そこへ意識が集中するほどに、かえって身体が熱を帯びていく。違う、これは私が望んでいるものではない。そう否定しようとすればするほど、身体はまるで反発するかのように別の方向へ傾き、意志とは無関係な反応を返してくる。羞恥が理性を削り、削られた理性がさらに羞恥を増幅させる―――終わりの見えない悪循環。これは薬のせいだと分かっているのに、「感じている」という事実だけが消えずに残り続けることが、何よりも苦しかった。支配されているような感覚。自分の身体が、自分の命令を聞かないという感覚。生理のときのように、内側から何かがあふれ出してくるような感覚があり、それに引きずられるように現実の輪郭が曖昧になっていく。みっともない、恥ずかしい、やめてほしい。どうやって?どうすれば止められるの?思考はまとまらず、ただ助けを求める感情だけが膨れ上がっていく。みっともなくてもいい、恥ずかしくてもいいから、助けてほしい―――そう思った瞬間だった。「桔梗!」その声が、空気を裂くように響いた。……蓮司さん。耳に届いた瞬間、胸の奥に強く安堵が広がる。それと同時に、世界の温度が変わった気がした。まとわりついていた熱の膜が一枚剥がれ、外側の空気が流れ込んでくる。「……蓮司さん?」揺れる視界の中で必死にその姿を探す。ぼやけているのに、不思議とはっきり分かる。あそこにいる。近づいてくる気配を感じた瞬間、胸の奥がほどけていく。泣きたいと思ったときには、もう視界は滲んでいた。「大丈夫か? 水、飲むか?」その問いに頷いた途端、冷たいペットボトルが手に触れた。水―――そう思った瞬間、さきほど無理やり何かを飲まされた記憶が蘇り、手が動かなくなる。欲しいのに、怖くて受け取れない。そんな私の手に、蓮司さんがそっとボトルを押しつけ、その上から手を重ねた。冷たい感触と、彼の手の温もり。その差が一気に意識を現実へ引き戻す。導かれるように口に運ばれた水は、乾ききった喉に染み渡るように流れ込んだ。うまく飲み込めずにこぼれた水が顎を伝い、首筋を濡らしていく。それでも構わなかった。今はただ、この冷たさに縋りたかった。身体の奥に残っていた熱が、水に押し流されるように少しずつ遠ざかっ
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4-30

キスを、している。柔らかい接触と、確かな温度。それだけが、確かに現実としてそこにあった。触れているのは唇だけのはずなのに、その一点から波紋のように何かが広がっていく。息が重なり、距離が曖昧になり、境界線が少しずつ溶けていく。「愛してる」耳元で囁かれたその言葉は、さっきまで混乱と恐怖で埋め尽くされていた心の隙間に、ゆっくりと染み込んでいく。「愛しているよ……だから、このまま……」その続きが何を意味するのか、完全に理解する前に、意識の奥がぐらりと揺れた。告白の余韻に浸る余裕などない。むしろ、その言葉を引き金にするかのように、体の内側に残っていた熱が再び目を覚まし始める。「蓮司さん……」「……ああ」しっかりと抱き留めてくれる腕の強さに安心するのに、その安心が別の感覚を呼び起こしてしまうことが恐ろしかった。「………て」かすれた声が落ちてきた。何かと耳を寄せる。「知らないままで……」遠くなる声の意味を捉えきれないまま、その言葉だけが引っかかる。知らないままで、とは何を指しているのか。問い返す余裕もないまま、再び世界の輪郭がぼやけていく。「蓮司さ……んぅっ」呼びかけた声は途中で溶け、意識はまた曖昧な場所へ引き込まれていった。気づけば、すぐ近くに彼の顔があった。「……桔梗」名前を呼ばれる。その声に引き戻されるように視線を向けると、思っていたよりもずっと近い距離に整った顔立ちがある。美形だと、ぼんやり思う。「桔梗、しっかりしろ。……立てるか?」頷こうとして、自分の足の感覚が曖昧であることに気づいた。床に触れているはずなのに、実感がない。「あ……」膝に力が入らず、体が傾ぐ。「……っと」すぐに支えられる腕。その太さと温もりに縋るように掴むと、それだけで体の奥がざわめいた。「あ……」自分でも理解できない反応に戸惑う。「蓮司、さ……」呼びかけた先で、彼の表情が一瞬歪んだ。何かを耐えるような、苦しそうな顔。その変化に胸が締めつけられる。「……あ」不意に、太腿の内側を何かが伝う感覚があった。違和感に意識を向けた瞬間、羞恥が一気に押し寄せる。「やだ……」知られたくない。こんな状態を見られたくない。「桔梗っ」離れようとするが、足は言うことを聞かない。抱き留める腕の力が少し強くなる。「危な……っ」その声に含まれる焦りが伝わる
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4-31※

下着が脇へとずらされると、その無防備さに不安になる。そこだけ冷たく感じる空気。どんな状態なのか、想像するだけで羞恥心が限界まで振り切れる。「んあっ」これ……どうして……。何かに……彼の手に、触れられている。肌に触れられたときもそうだった、他人に触られる感触は自分のときとは違う。そわそわしてしまうような、くすぐったいような。神経がむき出しになったみたいに、彼の手の温もりが熱いほどに感じて、少し触れただけでも全身が震えてしまう。そして、恥ずかしいと思う気持ちとは裏腹に、彼の手の温度や指の肌の感触を、自分の脳に焼きつけるみたいに、学び取ってしまった。でも、ここは、これまでと違う。自分でも、どこか気恥ずかしくて最低限しか触れないのに場所を、触られている。最低限なんてレベルではなく、形をなぞるように、探るように、彼の指が動く。見たこともなく、正しく認識したこともない領域が、彼の手によって“認識されている”という違和感は、恥ずかしさという単語では追いつかないほどさっきまでと桁違いの混乱をつれてきた。さっきまで体の中で私をそわそわさせていた柔らかなものが、熱をもって硬くなって全身を巡る。指先も、足先も、私が意識する前に勝手に動いている。はしたなく上がる、自分のものとは思えない卑猥な声。まるで見せつけるように跳ね、媚を売るようにくねる身体。どれをとっても恥ずかしく、またこの恥ずかしさが熱になって全身を巡る。これだけでも耐えられないのに―――。「ん……よく濡れている」……これ。自分の置かれた状況を、はしたない姿を、実況するように、言葉で表現される。恥ずかしくて、どうにかなってしまいそう。「やっ……」やめてほしい、本当に―――でも、やめないで。そんな矛盾な気持ち。恥ずかしいけれど、安心する。何も分からないから怖いのだけど、言葉に籠る褒めるような響きが『それでいい』と怖い気持ちを宥めてくれる。いい匂いだとか、肌の感触を気持ちいいとか、はしたない声を可愛いとか。匂いや触感。「甘い、な」それに味を…………え、味?「……え」何の、と思って彼を見て、深く後悔した―――すごく色っぽい。寛げた襟元から見える鎖骨。長い首に浮かぶ筋。逆上せたような熱を孕んだ目でこちらを見つめながら、長い指を紅い舌で舐める様子は、ただ怖いもの見たさで目が離せないだけの、直視し
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4-32※

「体はどうだ?」彼の声は落ち着いているが、どこか観察するような鋭さがあった。「全身が痺れて……ふわふわ、します……」自分でもうまく説明できない。夢み心地というには生々しく現実的で、でも嘘みたいな現実感のない状況。ぞわぞわ、そわそわと擬音語が頭を支配する。「それは、まあ……聞きたかったのは、薬のほうなのだが……」ようやく意識が現実へ戻る。そう言えば、意識はふわふわして熱はあるけれど、あの気味の悪い熱はもうない。「……あの薬、は……」「警察に渡してあるが……石川先生の見立てが恐らく正しいだろう……気分は?」「……大丈夫です」全身が変な感じではあるけれど、体調として見れば吐き気や痛みはない。でも。思考は途切れないのに、頭のどこかが発熱時のようにぼんやりしている不安定さに、何とも言えない不安がある。「この手のものに薬はないそうだ」「それなら……」「……さっきのように気をやって、やり過ごすしかない……」そんな……。「いつ、まで……?」「……分からない」.「あああっ!」声があがる。体が跳ねる。  『さっきのように気をやって』気をやるの意味を理解した―――多分、イクということ。  『イって』触れられている間、何度もその言葉が囁かれている。もう体は条件反射のように、「イって」と言われてイっている―――私だけ。汗を吸って湿る襦袢の上で裸を晒し、はしたなく脚を広げて、彼から与えられる快感を享受している。多少服装は乱れているけれど、それはしがみついた私のせいで。いつもより険しい目をして、荒い呼吸を繰り返してはいるものの、彼はほとんどいつも通り。  『助けて』最初に私が願った通り、私を助けてくれる。あの気味の悪い感覚を、追い払ってくれる。イクたびに安心できる。でも―――寂しさが募る。身体が触れるから、彼の身体がどうなっているかは分かる。目も呼吸も……。  『性的衝動を増幅させる』彼も性的衝動を増幅させているのならば、性的衝動を増幅させている私と同じはずなのに……。「き、きょう……?」熱く煮立たされ、ドロドロに溶けた羞恥心。恥ずかしい気持ちがないいまは、ただ彼への気持ちだけが増幅されている。性的衝動はそれを押し上げる。好きだという気持ちが熱を産み、熱さに藻掻き、彼を求めている。でも、彼は冷静だ。男性として女性を前に性
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4-33※

「他の男……って?」思ってもみないことを言われて、体の感覚も忘れて問い返してしまった。「……いま、名前を……」「名……」……心当たりがない。心当たりもなにも彼の名前しか言っていない気が……言って?  『蓮司さんっ』頭に浮かぶ自分の、卑猥とも言えるはしたない声に顔が熱くなる。恥ずかし過ぎて―――羞恥を煽るようなことをした彼に八つ当たりしたい気持ちになって、目の前の胸を叩いた。思いきり。「き、桔梗?」……後悔している。なんで叩いたりしたのか。まるで何か言いたいことがあると言っているようなもの。そしてそれは―――はしたない声で彼の名前を呼んだことがは恥ずかしいということ。言えるわけがない。「……桔梗?」彼が何度も呼ばれたけれど、恥ずかしいこと故に言葉にできない。子どもっぽいと自覚しつつも聞かない振りをしていたけれど―――いまの音は何か違った。「あ……う、んっ!」ずるりとわずかに引き抜かれたものが勢い良く押し込まれ、痺れがまだある体に抽挿が始まる。体中の熱が煽られ、「桔梗」と耳元で囁く声が神経を削る。「……強情だな」言えるわけもなく、身をよじって襦袢を握り締める。「男の嫉妬を煽っていいことはないぞ?」……え?「……嫉妬?」問い掛けに対する答えは、奥まで押し込まれる強さだった。声があがる。「惚れた女を抱いている最中に他の男の名を呼ばれれば嫉妬もする……いや、それどころか苛立たしい」「え……」信じられない思いで見返せば、動きが止まり苦笑が返ってくる。「俺が嫉妬しない男だとでも?」「違っ……」違わないけれど、いま重要なのはそれではない。「……惚れ?」……返ってきたのは、『何を言っているんだ』と言わんばかりの呆れ顔。呆れられた。「俺の告白を忘れたのか?」「……こく、はく……」「好きだ。愛している。この言葉が告白でないなら、何が告白だ」「……あ、はい……」胸を張るように『告白』だと説明されると、羞恥心とか喜び以前に、戸惑いしかない。「なぜ納得しない? 俺は何かを間違えたか?」間違えたというより……。「嘘、かと……」沈黙―――そして、深いため息。「この状況で嘘を言う理由が分からない」「……同情して、言ってくれたのだと……抱いて、くれたのも……」「待った。違う。『くれた』じゃない。そんな同情や、義務感で抱いてい
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4-34 side蓮司

「……気を失ったか」かくっと音を立てて首をもたげた身体から離れ、大きく息を吐く。規則的に上下する背中を見れば呼吸は安定している……どうやら眠ったらしい。少なくとも桔梗の命に関わる状態ではないと判断すると、ようやく身体から力が抜けた。「それにしても、たちの悪い薬だ」寝室の惨状に苦笑する。リビングのソファで一度抱いて落ち着いたあと移動してきて、ここでの二回目はゆっくり始まったはず。それなのにホテルスタッフによって整えられていた室内は秩序を失い、あちこちに情事の爪痕が生々しく残っている。いつの間にか落ちていた布団を取り、ベッドの上に戻して一息ついたが、空気そのものが熱を帯びているようだったため、熱がぶり返しそうになり急いで吐き出した。俺自身は薬を摂取していないというのに……そうなると、質が悪いのは、桔梗か?桔梗はベッドの上に四肢を投げ出すように、力なく横たわっている。白い肌は熱を帯び、淡く赤みを残している。疲労と緊張が同時に抜け落ちたような、奇妙な静けさがそこにあった。その姿は守られるべき存在であると同時に、目を逸らしがたいほどの現実でもある。「ん……」微かな身動ぎした彼女の脚がわずかに開き、そこに残る痕跡が視界に入る。見てはならないものではないが、身を落ち着けなくてはいけないこのタイミングで凝視するものではない。視線を逸らすが、見えてしまった事実が海馬にこびりつく。純粋で無垢だと感じていた存在が見せた女の生々しい一面は意外でもあるし、魅力的なのだから当然だとも思う。「危ないな……」ただ、これが俺に対してだけ魅力的と言うならば問題はない。でも、実際はどうだ。祖母さんと美術展に出かけただけでこうだ。彼女の存在が悪いわけではない。ただ。彼女の存在は、ただそこにいるだけで周囲の認識を揺らすことは事実。かく言う俺も、自分を理性的な人間だと思っていた。状況を判断し、冷静に必要な行動だけを選び取れる人間だと思っていた。しかし、先ほどの一連の流れを思い返せば、その認識は揺らぐ。桔梗を前にすると制御できていたはずの感情が揺れる。惚れているのだから感情が揺らされても問題はないと言いたいが、そうはいかない。彼女を抱いて満たされた感覚とは別に達成感がある。惚れた女を抱けたことへの達成感なら良かったが、もっと歪んでいる。彼女の中に俺を刻んで手に入れた
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4-35

「白州典正」見れば見るほど、薄気味悪い男だ。本性を知らなければ、礼儀正しく洗練された文化人――そう評されることに何の違和感も抱かないだろう。整えられた髪、計算されたように柔らかい微笑、無駄のない身なり。そのすべてが“成功した美術商”という肩書きに相応しい。しかしその外装の下に潜むものを知った今では、その笑みすら貼り付けられた仮面にしか見えず、薄気味悪さだけが際立つ。この男に関する情報はすでに花岡乃蒼から与えられていたが、武司が今回用意してきた資料の内容量はその比ではない。情報の密度が違う。網羅性も、裏取りの精度も、まるで別次元。抜けがないというより、抜けを許さない執念が感じられる。「しかし……」桐谷の人脈だけでは到底辿り着けない領域にまで手が伸びている。「あの方々か」武司に手を貸したのは、桐谷家での茶会をきっかけに桔梗のファンになった『御贔屓俱楽部』の面々だろう。文化界ネットワークの情報網は桐谷が属する経済界のネットワークと大きく異なる。かつての俺は彼ら芸術家グループを、各分野の愛好家の集まりとしか思っていなかったが、こうしてみると実態は情報の交差点だ。俺は経歴と金の情報を探るくらいで、俺の情報の集め方が糸を辿るようなものなら、彼らのそれはくず拾いだ。情報の断片を拾い集め、あちこちで繋ぎ合わせて、大きな図を作り上げる。その結果がこの資料、多方面からアプローチされた白洲典正を丸裸にせんとばかりの情報だ。ページをめくるたびに、奥歯が痛くなる。意識しないと嚙み砕いてしまいそうだ。白州典正は若い頃、ヨーロッパを中心に遊学していた。名門・白州家の後ろ盾を持つ彼にとって、現地での活動はさほど困難ではなかった。パリに構えた画廊「フルール・フェリーヌ」は、日本画、とりわけ美人画や花鳥画を扱う店として一定の評価を得ていたという。モンマルトルの歴史的な地区に位置し、芸術家や収集家が行き交う場所としては申し分ない立地。東洋趣味に傾倒する富裕層にとって、その店は“本物”に触れられる貴重な場だったのだろう。やがて店は「メゾン・フェリーチェ」と愛称で呼ばれるようになった。顧客層も安定したその頃、一部の界隈では別の名―――「サロン・シャット」と揶揄されるようになる。「猫の店……」柔らかく、気まぐれで、時に残酷な存在として「猫」。その比喩は皮肉に満
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