ログイン「私は……」どのくらいか、長さの分からない時間がたって、目の前の桔梗の唇が動いた。「蓮司さんに選んでほしかった」「……俺、に?」選んで、ほしかった?桔梗を?それは、もちろん……。「仕方がないでもいいから、蓮司さんの傍にいたかった。ずっと……好きだった、と思う……多分」……え?―― 女性が次に行くのは、早いぞ。武司の言葉が呪いのように俺の頭に響いた。 「過去形? それに、”多分”?」「え……だって、好きだって思ったけれど、それでいいのか分からなかったし」「なんだ、その分からないって」先程までの気まずさはどこに行ったのか。俺は桔梗の肩を掴んで、桔梗に尋ねていた。 「だって……誰かを、好きになったことが……ない、んだもん」「え……」……なんだ、それ。なんで、そんな……拗ねた口調?”だもん”って……エグッ。 「桔梗……」「分からないっ! だって、蓮司さんには凛花さんがいたから、結婚するって。不倫は、あの父親を見ていたから絶対に、する奴は最低だと思っていたから……」桔梗の目が、苛立たし気な感情を灯した。初めて見る桔梗の表情に、捕らわれる。「結婚するなら、諦められた」桔梗が、俺の胸を拳で叩く。じれったそうに、感情の出口を探すように。
「お帰り、蓮司」家に帰ったら、和美祖母さんがいた。ここは桐谷家だから和美祖母さんのほうが客人のはずだが、和美祖母さんの「おかえり」は妙にしっくりくる。多分、和美祖母さんは俺たち全員の”家”なのだろう。そして、和美祖母さんと同じ雰囲気を桔梗は持っている。俺が帰りたくなる家。 「うん、ちゃんと”男”の顔になったわ」満足気な和美祖母さんの顔に、俺はようやく腑に落ちた。「武司を焚きつけたのは、祖母さん?」和美祖母さんが”どうして分かったの”という顔をするから……。「武司の言葉にしては……なんか、悟りに入ってた」「あらあら」俺が茶化して答えると、和美祖母さんはおかしそうに笑った。「祖母さん」「なに?」「愛の告白って、やっぱりバラの花束が必要かな?」「それよりも、勢いでしょう。桔梗さん、さっき台所にいたわよ」「それは分かる。いい匂いがしてる。この家、桔梗以外は全員呪い持ちだから」この家で、この時間、桔梗以外が料理することはない。 * 台所が見えるところまでいくと、中にいる桔梗が見えた。和美祖母さんに頼まれたのだろうか、それとも動画配信のための試作なのか、キッチンからは甘い匂いが漂っている。桔梗は白いエプロンをつけて、俺に背を向けている。腰でリボンの形に結ばれた紐が、揺れる。熱いカップに息を吹きかける、そんな桔梗の横顔は、何か悩んでいるようで、物憂げだ。 桔梗を驚かせないように、少し足音を大きくする。乱暴な足音になると怖がらせてしまうかもしれないから、そんなことを考えていたら歩き方が分からなくなって、格好悪いけれど行進のようになってしまった。「蓮司さん、お帰りなさい」
「いま、嫌だと思っただろう」「当たり前だろう」「当たり前って……これだから自分から告白したことのないモテ男はっ!」「……は?」「告白してフラれたくないなんて、そんな気持ち、世の中の男女はみんな経験してんだよっ!」それは……。「武司もか?」俺の質問に、武司がくわっと目をむいた。……間違えた。 「当たり前だろ! 俺の場合、もっと悪いぞ。フラれるときは大体”武司君も、悪くなんだけどぉ、蓮司君のほうがいいの”だよ。それでも蓮司の傍にいる俺、馬鹿じゃないか」「いや、そう言うな。武司がいてくれていつも助かっている」「ああ、もう、この流れだよ」武司がぴしゃっと自分の額に手を当てて、上を仰ぎみる。……武司、何があった?妙に情緒不安定じゃないか? 「お前、何もわかってないな」「……多分」「お前、ちゃんと恋愛小説読んだのか? ここは俺が”大丈夫だよ、桔梗さんも蓮司のこと好きだよ”みたいな感じで励ますところだろ」「ああ、まあ、そうだな……その台詞、無責任すぎないか?」「無責任だよ。大体、真面目に考えていない。うだうだしているのに苛立つから早く決着つけてこいって背中をどついているだけだから」「そのあとは? 心配とか?」「テレビの前で、ポテトチップスを食いながらドラマを鑑賞しているような感じだな。うまくいけばお祝いで、フラれたら慰めるための準備期間」おいっ! 「蓮司のことだからさ、どうせ、桔梗さんは俺のことを嫌ってるとか、仕方がないから今の生活を受け入れているとか、そんなことを考えているんだろ?」「長い付き合いは、伊達じゃ
桔梗が全ての記憶を思い出してから、ぎこちない日々を過ごしている。桔梗が、何もなかったことにすることを選択したことは、あのとき桔梗の顔を見てすぐに分かった。桔梗にとっては、そうせざるを得ない状況だったのだろう。 俺たちの間には、誠司がいる。全てが分かる前から、桔梗が自分を暴行したのが俺だと知る前から、桔梗は子どもを産むこと選択していた。その理由は、分からない。俺に分かるのは、桔梗が全てを分かったときには、堕胎できる時期をとうに過ぎていた。妊娠中の桔梗に、覚えていないあの夜のすべてを明かして、またショックを与えるわけにはいかなかった?仕方がなかった?桔梗を、騙しているわけではない?桔梗を、守りたかった?子どもを、守りたかった? ああ、違う。俺は、ただ、桔梗が欲しかったんだ。全てを忘れている、あのときが、千載一遇のチャンスだったから。桔梗が、思い出したら、俺は桔梗に軽蔑され、嫌悪される。当たり前だろう。俺は、彼女に恐怖を与え、彼女を穢した男だ。だから、桔梗が何も覚えていないことをいいことに、桔梗を法的に俺の妻にした。桔梗が、好きだったから。俺の妻にすれば、桔梗が俺を愛すると思ったのだろうか。それは、今となっては分からない。でも、何も知らないまま俺を愛してくれた桔梗を俺は抱いて、桔梗を妊娠させた。いや、違うな。桔梗は、そういう女じゃない。俺に抱かれたとか、俺に妊娠させられたとか、桔梗は「騙された」と思うことはあっても、妊娠に関して自分を被害者とすることはないだろう。今度は、無理やり抱かれたわけではないと、桔梗なら考えるはずだ。何も知らなかったとはいえ、俺の誘いに乗り、ときには俺を誘い、だから妊娠したと、自分にも責任はあると桔梗なら考えるだろう。責任。それで、子を産ませるべきだろうか
蓮司さんたちとの、「新たな関係」を私は望んでいない。私は、蓮司さんの妻でいたい。この家族の一員でいたい。 トラウマ、みたいのはある。あの夜のことを思い出して、また暗闇が駄目になった。真っ暗な中にいると、ただ怖いと感じる。あれは蓮司さんだったんだと思っても、「それはそれ」と脳が判断してしまっているように、蓮司さんだから大丈夫にはどうしてもならない。暗闇という条件下で湧き上がる恐怖心はまだいい。問題は、突然湧き上がるとき。視線を変えて、目に入った蓮司さんの手に「怖い」と感じたり。ぼんやりしているところを蓮司さんに声をかけられて体を震わせたり。 私が恐怖心を見せるたび、蓮司さんは「すまない」という。あの夜の人は蓮司さんなんだけど、うまく言えないけれど私の中で蓮司さんだけど蓮司さんじゃない人で、とにかく蓮司さんが怖いというわけではない。でもそれが、うまく言えなくて。手間取っている間に、蓮司さんは離れていってしまう。それを引き留めて、うまく説明ができればいいんだけど、引き留めてしまっているということが私を焦らせて、私は焦りのあまり本当のことを打ち明けそうになる。暴行された、妊娠させられた、責任取ってと、吉川凛花さんから蓮司さんを奪おうとしたんだって。私はこんな汚い人間なんだって。だから、怖いのは蓮司さんじゃない。怖いのは、悪魔のような自分自身なんだって。でも、それは知られたくないから、結局何もうまく言えずに、蓮司さんが立ち去るのを見ているだけになる。エゴの塊だ、私は。新たな関係を望まず、これまで通りでいたいのは、蓮司さんを誰にもとられたくないという私のエゴ。罪悪感のある限り、蓮司さんは私の傍にいてくれるって、最低のエゴ。 そして事態は私の思
「……朝だ」朝の光が当たって光るカーテンを見たあと、ごろりと体を転がして部屋の中を見る。桐谷家にきた当初に暮らしていた、私の部屋。妊娠が分かってからも、三ヶ月。この間、ずっと私は夫婦の部屋ではなく、自分の部屋で寝起きしている。蓮司さんが「体をゆっくり休めたほうがいいから」と自室で眠るようになった。夫婦の部屋だと残されたという感覚があって、「大きな寝具を一人で使うのは勿体ない」とか「大きな洗濯物は大変」とか言って、私はこの部屋で眠るようになった。 廊下から、パタパタと軽い足音。誠司が来たみたい。「パーパ、こっちー」「誠司、ママはまだ寝てるから」「だいじょーぶ」起こしたって怒られないって確信に満ちた誠司の声に思わず口が緩む。 「ママ、おはよう。おきてー……おきてるー!」起こしにきたところで、私が起きていることに誠司は喜んで駆け寄ってくる。足元は覚束ないが、ひやひやする感じはなくなった。成長している、と思う。「あーちゃん、おはよう」なるほど、この子に挨拶したかったのか。それで起こしにきたというわけか。もにゅっとお腹の中が動く感じがする。「おきてるー?」誠司は私のお腹をジッと見るけれど、残念ながらまだ外からは分からないだろう。「起きてるみたいよ」「そーなのねー」……誰の口真似だろう。違和感のある喜び方だけど、誠司は嬉しそうに笑って私のお腹をポンポンッと叩く。私や蓮司さんの真似をした挨拶のつもりだろうけれど、二歳児の力くらいで赤ちゃんに何かあるわけないと分かっていても、ちょっとハラハラしてしまう。 「誠司、桔梗のお腹を叩くのはやめなさい。赤ちゃんが吃驚するぞ」