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7-19

父さんは応接室の中を見て、驚いた顔をしている花嶺辰治と玲子夫人を一瞥したあと。「大した用事じゃなさそうだから、いいよね」……堂々と言い放ったよ。しかも笑顔で……笑顔で毒を吐くからこの人は怖い。父さんにとっては軽口のつもりなのだろうが、言われた側はたまったものではないだろう。実際、花嶺辰治の顔がぴくりと引きつった。けれど父さんは全く気にしていない。気づいていて、なお気にしていない。桐谷家の人間は基本的に身内に甘いが、身内を傷つける相手にはとことん冷たい。「桔梗ちゃん、ちょっといいかな?」呼び出したのは俺ではなく桔梗……もしかして菓子のおねだりか?それも父さんらしいが……いまはちょっと、そういうタイミングではない。おねだりならタイミングを見てもらいたい。いや、父さんにタイミングという概念を期待するほうが間違いか。「少し失礼します」桔梗は花嶺辰治たちに軽く頭を下げてから、父さんに呼ばれるまま廊下へ出ていく。その後ろ姿を見て花嶺辰治の目が揺れた。惜しいものを逃したとでも言いたげな目だった。……その視線だけで腹が立つ。桔梗は物ではない。便利に使える駒でも、都合よく尻拭いしてくれる存在でもない。俺の大切な妻だ―――世界で一番大切な女だ。その背中を、これ以上あんな目で見るなと本気で思う。.「私が選んでいいのですか?」「桔梗ちゃんにはその資格があるでしょう?」「そう……でしょうか」廊下から聞こえてきた会話に、何をしているのか気になって俺も出る。すると父さんがなぜか得意げに紙を広げていた。「……なにしているんだ?」父さんの手にある紙を見て俺は眉を寄せた。そこに描かれていたのは、ある意味で日本人なら誰でも知っている図形。「あれ、あみだくじを知らないの?」「知っているに決まっているだろ」問題はそこじゃない。なぜこの状況であみだくじが出てくる。「悪いね。今回は桔梗ちゃんに選んでほしいんだ。蓮司は次回にね」なんで俺が選びたがっていると思っているんだ?しかも“次回”ってなんだ、定期開催する気か?「いや、全く構わないから」「そう? 桔梗ちゃん、気を取り直して選んで。どこがいい?」桔梗は困ったように笑いながら、それでも律儀に紙を覗き込む。「また誠司とお出かけですか?」そう言いながら右端を指差した。父さんは「ありがとう」と満
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7-20

「乃蒼、ごめんなさい」「大丈夫だよ、気にしないで」応接室に戻った桔梗は真っ先に花岡乃蒼へ頭を下げた。謝罪の相手は花岡乃蒼だけで他の二人―――花嶺辰治と玲子夫人には一瞥すらくれない。その態度は静かだったが、だからこそ明確だった。『もうあなたたちに気を遣う気はありません』と桔梗は態度で示した。流石に花嶺辰治もそれを理解したらしい。「き、桔梗、お前は……っ」声を荒げかけた瞬間、俺が視線を向ける。たったそれだけで花嶺辰治は口を噤んだ。……この程度で怯むなら最初から怒鳴るな。桔梗はずっとこういう空気の中にいたのだな。怒鳴られる。威圧される。機嫌を損ねないように空気を読み続け、“従順”であることを求められてきた。花嶺辰治にとって桔梗は“自分に逆らわない存在”なのだろう。自分の都合のために存在する、娘というより便利な手足。人格のある人間としてではなく“使う側”から見た道具に近い存在。本人にその自覚があるかは知らないが、俺にはそう見える。だから桔梗が自分を優先しないだけで不機嫌になる。だから、自分から切り捨てたくせに困ったら当然のように利用できると思っている。でも―――。「私はもう花嶺家とは関係ありません。縁を切ったのは、他ならぬ花嶺さんではありませんか」桔梗の声は淡々としていた。怒りも悲しみもなく、本当にどうでもいい相手に向けるような淡々とした声音。面倒臭い営業電話を断るときのほうがまだ感情が乗っているんじゃないかと思うほど乾いていた。……こんな声で桔梗に対応されたら、俺なら立ち直れない。胸の奥を素手で抉られる気分になるだろう。だが花嶺辰治は違った。「それがどうした。いまは本当に大変なんだ」……タフな神経しているな。俺は心底感心した。ここまで露骨に拒絶されてもなお“それがどうした”で自分の希望を貫こうとする。この空気を読まない精神力はある意味才能だ。「大変、ですか」桔梗が頷いたが、その相槌には理解も共感もなかった。ただ会話を進めるためだけの義務感の塊みたいな返事だった。花嶺辰治の顔が赤くなる。怒りを堪えたせいか、それとも自分が軽んじられているとようやく理解したのか。「会社の者が毎日毎日、何人も何人も家に来て、玲子がその対応をできていない」「会社にいれば、社長を探して社員が家にまで来ませんよ?」桔梗が即答した。そもそも、
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7-21

桔梗はまだ完全には吹っ切れていない。花嶺家を切り捨てれば、あいつらを視界から追い出せばそれで終わり――にはならないのだろう。幼い頃から刷り込まれたものはそんな簡単には消えない。家族という言葉に傷つけられてきたくせに、桔梗はその言葉を完全に憎み切れない。祖父母や母親との記憶がそこにあるからだ。だからこそ余計に腹が立つ。花嶺辰治はその桔梗の優しさに甘えている。桔梗なら最後には折れる。桔梗なら自分を見捨てない。そんな甘ったれた期待がこいつの言葉の端々から滲み出ていた。「花嶺家など……潰れてしまえばいい」俺が吐き捨てると花嶺辰治の顔色が変わった。青ざめるというより、信じられないものを見る顔だ。花嶺家は桔梗の実家だからか、自分が桔梗の父親であるからかは分からないが、自分がそんな言葉を向けられる立場だと思っていなかったようだ。「蓮司さん、あなたはっ……!」玲子夫人が声を荒げるが、その声には迫力がない。怯えているのが分かる。いまさらだが、ようやく俺たちが救うどころか潰そうとしていることを理解したようだ。「俺が何ですか?」静かに問い返すと玲子夫人は息を呑み、花嶺辰治も口を開けたまま固まっている。……なんだ、その顔は。お前たちが被害者みたいな顔をするな、被害者は桔梗だ。「あなたたちは、桔梗に何をしてきた?」二人は答えない。「自分たちに尽くすのは当然と、家族だからって無償で桔梗を搾取した。時間も、労力も、感情も、全部を桔梗から奪い続けた」桔梗は料理が好きだと思うが、それは“作りたい相手のために作る”から好きなのだと思う。好きな人に美味しいと言ってほしい。喜ぶ顔が見たい。そういう感情で動けるから好きになる。それだから、花嶺家では違っただろう。要求され、命じられ、当然のように消費された。感謝すらなく一方的に搾取された。「桔梗が倒れても、熱を出しても、あなたたちは使い続けたんでしょう」花嶺辰治の肩が跳ねた。「違うなら違うと言ってみろ」言えるわけがない。花嶺家を辞めた家政婦たちから聞いた話は胸糞が悪くなるものばかりだった。体調を崩した桔梗に玲子夫人がパーティー料理を作らせたこと。花嶺辰治が深夜に酒のつまみを要求し、歩きで桔梗に買い出しをさせたこと。「……桔梗は嫌がりませんでした」花嶺辰治が絞り出すように言ったその瞬間、頭の中で何かが切れ
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7-22

  『玲子さん。今度は私を誰に売る気ですか?』想像もしていない一言だった。「桔梗っ!」まさか、桔梗が自分からあの夜のことを口にするとは思わなかった。玲子夫人の顔を見ただけで呼吸を乱して震えていた桔梗。その話題だけは、まだ桔梗の傷口そのものだと思っていた。俺は咄嗟に桔梗の肩を抱き寄せる。桔梗の身体は冷えていたが、その目は逃げていない。怯えているのに玲子夫人を真っ直ぐ見ている。長年飲み込み続けた毒をとうとう吐き出す覚悟を決めたように。.「な、何を言っているの……」玲子夫人の声が狼狽で震える。隠していたものを暴かれた人間によくある反応だ。「誤解よ。私は、そんなつもりじゃ―――」「では、どういうつもりだったんですか?」桔梗の声は硬く、静かだった。静かすぎて逆に胸が痛む。「あの夜……」桔梗が視線を花嶺辰治に向ける。俺も見て、花嶺辰治が桔梗が何のことを言っているのか分かっていないことを理解する。「錦野さんとの婚約を破棄した夜、桜子が酔ったからホテルに来るように言ったのは玲子さんでした」桔梗は花嶺辰治をしっかりと見る。「私は遊び歩いてなどいません。私はあの夜、次の日の仕事で使う資料をまとめておくようにあなたに言われていました。自分で仕事をするようになったのですから、毎夜私が遊び歩く時間の余裕などなかったのはご理解いただけているはずです」「それが終われば……」「私は朝の四時には食事の支度を始めていました」淡々と桔梗が事実を告げる。「あなたは『飯』といえばすぐに料理が出てきたと思っただけでしょうが、食事には準備が必要なのに、五分も待たせれば『遅い』と文句を仰る。品数が少なければ文句を言うくせに、ご飯を食事を並べ始めてやはり今日はパンの気分と仰るのもよくあること。それにも対応しなければいけない。朝食の準備は本当にとても大変でした」……こいつら。「あなたが信じようと信じまいと別に構いません。ただ、私は玲子さんがなぜあのようなことをしたのか気になっていたのです」桔梗は玲子夫人に視線を移す。「私のことが気に入らないにしても、男性を待ち伏せさせて襲わせるのはやりすぎなのでは?」「……何のことだか」「白洲典正さん」白洲の名前に、玲子夫人の口の動きが止まる。血の気が引いたように顔が青くなったのは、『心当たりがある』と自分の罪を認めたような
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7-23

「勘違いしないでくださいね。大学の件では俺はあなたに感謝しています。おかげで俺は桔梗に会えたのですから」花岡乃蒼の言葉に、桔梗が花岡乃蒼を見た。花岡乃蒼も桔梗を見る。その瞬間、二人の目の奥にいまこの場にはない『当時』が浮かんだことが分かった。花岡乃蒼と過ごした時間はきっと『良いもの』だったのだろう。二人とも少しだけ懐かしそうに笑っている。それは温かな記憶を共有する者同士の顔だった。……良かった。花岡乃蒼から彼がゲイだと聞いていて良かった。もし知らなかったら俺はこの空気に耐えられなかったと思う。互いを理解し合っている二人の距離感。言葉がなくても通じるような空気。……親友、か。簡単に言えばそうなのだろうが、桔梗に向けられる花岡乃蒼の視線は柔らかく、その柔らかさに違和感がある。桔梗もまた花岡乃蒼にだけ見せる表情がある。これは俺の強引な推察だが花岡乃蒼は本人が言うゲイではなく……もしかしたら、トランスジェンダーなのかもしれない。それだと消える違和感がいくつもある。花岡乃蒼の内面が女性なら、桔梗に向けるのは女性同士の友愛で、パートナーに向けるのは女としての愛情……なのかもしれない。同性愛者だとか異性愛者だとかには結構敏感なほうだと自負していたけれど、花岡乃蒼のことは分からない。だから桔梗と仲の良さに、今も少しだけモヤッと嫉妬してしまう。桔梗が祖母さんのところの家政婦をしていた時なんて、俺は「蓮司様」なのに花岡乃蒼は愛称で呼ばれていてめちゃくちゃ嫉妬していたからな。トランスジェンダーかどうか……それを確かめようとは思っていない。確かめれば、俺は安心することができるだろう。もし彼女が女性として桔梗に寄り添っているのだと分かれば、男女になることはないと安心できる。でも、それは俺が楽になるだけだ。桔梗たちには何の得もないし、下手したら俺は友人の秘密に土足で踏み込む無神経な男として軽蔑される。……やめよう。桔梗に嫌われたくない。それに本当に花岡乃蒼がトランスジェンダーならば、その隠し方は徹底している。ゲイであることを隠していると言っていたが、花岡乃蒼のパートナーはあっさりと俺にゲイだと見破られた。俺に性的な目を向けたからだ。しかし、花岡乃蒼にそのような油断は一切ない。俺をはじめとして、桔梗とパートナー以外には完全にその視線はフラットだ。……
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7-24 side桔梗

玲子さんが私を見るその目に宿る憎悪は隠そうとしても隠しきれない。焼け焦げた鉄みたいにどす黒く粘ついていて、視線を向けられるだけで肌が泡立つような感覚になる。私があの目を怖いと思ってしまうのは『あの夜』があるからだ。あの夜の真実を知っても体に記憶がこびりついていて、思い出すだけで喉の奥が詰まって肺が冷えていくようだ。忘れたいのに忘れられない。意識の奥底に沈めたつもりでも、ふとした瞬間に引きずり出される―――あのとき感じた恐怖、屈辱、吐き気、その全て。そして……そんな私が蓮司さんを苦しめる。私が過去に囚われるたび蓮司さんまで傷つく。玲子さんが消えたところで『あの夜』そのものが消えるわけじゃない。記憶は消えないし、なによりも『あの夜』に妊娠した誠司がいる。でも、減る。玲子さんを見るたびに抉られる過去の記憶。ここで玲子さんを排除すれば『あの夜』のことを思い出すことは確実に減る。それに――ううん。綺麗な言葉で誤魔化すのはやめよう。玲子さんが私を憎むように、私も玲子さんを憎んでいる。心の底から。私から家族を奪う存在。初めは父。父に認められたかった、父に必要とされたかった。褒められたかった。振り向いてほしかった。玲子さんは私の願いを知った上で、笑いながら私を排除した。でももう父に対しては何もない。愛情も期待もとっくに捨てた。あの人に娘として愛されたいなんて願いはもう灰になって消えている。でも玲子さんへの憎しみだけはどうしても消えない。だって蓮司さんを、私を迎え入れてくれたあの温かな『家族』を傷つけている。言葉で罵るだけでは足りない。一発引っ叩いた程度では一瞬胸がすくだけで終わってしまう。そんな生ぬるいものじゃ足りない。地獄に突き落としたい。全部奪って、這いつくばらせて。誰にも助けてもらえず、絶望の中で泣けばいい、苦しめばいいと思っている。……こんな私を、蓮司さんはどう思うだろう。復讐みたいな真似をする女を―――軽蔑するだろうか。知られたくない。愛しい人だからこそ、こんな醜い感情を見せたくない。なのに、胸のどこかで思ってしまう。蓮司さんになら、って。  『頼む。俺の傍にいてくれ』あの低く掠れた声を思い出す。必死に私を抱き締めて、まるで置いていかれることを恐れるみたいに言った「傍にいて」。あの声を思
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7-25

「お母様や私が玲子さんと桜子を歓迎できないことを責められる筋合いはありません。不貞行為をしたのはあなた自身。政略結婚なのだから愛人を歓迎しろというのはただの我侭ですよ」父の顔が怒りで赤くなる。その怒りの現れる早さから自覚があったのだろうなと思う。「明美は玲子に嫉妬を……」「嫉妬は恋情があってこそ起きるもの。お母様は常識的に嫌悪しただけで、そこに嫉妬はありません。お母様はあなたを愛していなかったし、あなたの愛など欲してもいませんでした」そもそも愛人が妻と同じステージに上がることがおかしい。百歩譲って妻の存在を知らなかったならまだしも、妻がいると知っていて関係を持ったのだから嫉妬ができる立場ではないのだ。愛人である玲子が考えるべきは父のことだけ。父の恋情を満たしつつ、「奥さんと別れて」と父に言えばいい。母に対して「旦那さんと別れて」と言うのはおかしな話。 「それは、私が言ったから……」……きっと、この人の辞書には『政略』という言葉が存在しないのだろう。愛されることを当然だと思っている男はどこまでも滑稽だ。「あなたが、自分を愛するなと言ったから? 愛する者がいると言ったから?」「そ、そうだ」「その認識が間違っています。なぜ、お母様があなたを愛する前提なんですか」父の顔が固まる。考えてもいなかったという顔は面白いが私は続けた。「お母様は言っていました。政略だから仕方なく嫁いだだけだと」花嶺辰治はぽかんとしている。本当に分かっていなかったのね。お母様に愛されていたと、本気で思っていたのだ。「お母様は花嶺家に嫁として求められた。だから嫁としての務めを果たしただけです。あなたを支え、花嶺家を整え、私を産んだ。ただそれだけ。義務です。そこに愛などありません」お母様は私を愛してくれた。ただ母親だからという理由だった気はしている。確かめる方法はもうないけれど、母親だから娘である私を慈しんでくれたと思う。でもそれがお母様の愛だった。.「あの女は私を支えてなどいない。私が自分で……」「それなら、なぜ花嶺家はこの体たらくなのですか?」父の声が詰まる。「それは、私の調子が……」「十年も不調なのですか?」「ずっと不調ではない! 少し前までは、我が家に心配など何もなかった!」「玲子さんが支えてくれたから?」「そうだ」「それなら
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7-26

私が再生したのは、あの夜私のスマホにかかってきた電話の音声データ。静まり返った室内に流れた機械越しの声は生々しいほど鮮明で、空気をじわりと冷やしていく。あの夜のことを私は忘れたことがない。 忘れられるわけがない。 人生を壊された夜だ。 私から平穏を奪った夜。音声を録音したのはそれを予期したわけではない。家族からの命令はいつだって突然で、こちらがどんな状況にあるかなど一切考えない。朝令暮改の見本みたいな人たちだったから、昨日言ったことを今日には否定することもある。一方的に命じ、必要なことだけを早口でまくし立てると返事を待たずに切ってしまう。質問は許されない。確認も許されず、聞き返せば「聞き返すなんて生意気」で終わる。それがあの人たちの価値観だったから、私や花嶺家で働いていた家政婦の女性たちは指示を録音するようになっていた。証拠とかではなくただのメモ書き代わり。証拠というのは相手が聞く耳を持ってこそ効果があるもので、それがない人たちには証拠も役に立たない。この音声はスマホの自動録音設定によって録音されていただけ。この音声を保存しておいた理由については自分でもよくわからない。いつか花嶺家を脅す材料に使えると考えた悪意だったのかもしれない。.『……◯月◯日、午後十時五分』無機質な機械音声が流れる。それだけで、この録音が“あの日”のものだと証明してくれる。「なんだ、これは……玲子、お前は、私と柾くんに、桔梗はいつもの夜遊びだって……」父の声が揺れる。“いつもの夜遊び”―――その言葉に思わず笑いそうになった。この人も、柾さんも、本気でそんなことを信じていたわけじゃない。 信じるはずがない。 私にそんな暇がないことを彼らはよく知っていたのだから。特に父は家のことを押しつけ、雑務を押しつけ、都合の悪いことを全部処理させていた。それでいて、夜遊びをする時間があるなんて思うはずがない。ただ、都合が良かったのだ。“男遊びをする娘”ということにしておけば、私に何を押しつけても罪悪感を抱かなくて済むから。そして柾さんにとっても都合が良かった。桜子との関係を正当化できる。「桔梗がふしだらだから、自分も仕方なかった」―――そんな言い訳が成立すると思っていたから。結局、全部、自分たちのため。私の人格も尊厳も、彼らにとっては関係ないのだ。「こ
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7-27

「それよりも、玲子さんに聞きたいことがあります」私が静かに口を開くと重苦しい空気がさらに張り詰めた。玲子さんの肩がほんのわずかに揺れる。「……なに?」作ったような平静な声。けれど、その目の奥には焦りが滲んでいた。私はその顔を真っ直ぐ見つめた。逃がさないように。誤魔化させないように。「なんで、そんなに私を憎むんですか?」嫌う、ではない。そんな生易しい感情じゃない。玲子さんは私を憎んでいる、ずっと前から。「……憎んで、なんて……そんな……」「嘘です」間髪入れずに切り捨てると、玲子さんの表情が引き攣った。「……何の根拠があって、そう言うのかしら?」「あなたの私を見る目ですよ」私はゆっくりと言葉を重ねる。「あなたの目、私を嫌っている目じゃない。憎んでいる目だわ」玲子さんの瞳が揺れた。取り繕った動揺ではなく、本当に動揺している。しかも、絶対に見抜かれないと思っていた本心を暴かれた人間の顔をしている。「なんで……」玲子さんの口から掠れた声が漏れて、私は少しだけ笑った。自嘲に近い笑みだと自覚している。「私には分かります」胸の奥がじわりと、黒く、醜い感情で熱を持つ。「なぜなら、私もあなたを憎んでいるから」室内の空気が凍りついた気がした。父の息を呑む音が聞こえるたけれど、私は止まらなかった。「いまの玲子さんの目、私が鏡を見るみたいです」追い打ちをかけるように言えば、玲子さんがギョッと目を見開いた。まるで信じられないものを見る顔だった。……不思議。なぜ、自分はやり返されないと思っていたのだろう。自分が誰かを憎み、傷つけ、踏みつけても、相手は黙って耐え続けると本気で思っていたのかしら。「あなたが……?」玲子さんの震える声に私は静かに頷いた。「何年も何年も、能力も時間も搾取され続ければ誰だって憎みますよ」思い出すだけで胃が重くなる。高校生の頃から、朝早く起きて家のことをして、学校に行って、帰ればまた家事。花嶺家の体裁を整えるために働いて、それでも感謝なんてされたことは一度もない。やって当然で、出来なければ責められる。失敗すれば無能扱いで、成功すれば褒められるのは玲子さんと桜子。私はただの便利な使用人みたいなものだった。「高校生の頃からですよ?」自分で口にして可笑しくなる。世間的に多感と言われる時
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7-28

「花嶺辰治を“理想の男”に見せかけたのは、私の母だった」静かに言った私の声に、玲子さんの表情が強張る。「それに気づいて、あなたは母を憎んだ。……いえ、正確には、自分の失敗を母のせいにしたんでしょうね」私は玲子さんを見据えた。この人の性格は嫌というほど知っている。分かるくらい長い間そばにいた。躓いて大勢の前で転びそうになったとき、体調管理を怠って大規模パーティーの日に風邪を引いたとき、 使用人への指示を間違えて恥をかいたとき、いつだって同じだった ――桔梗さんのせいよ。玲子さんは全部私のせいにした。理不尽だと思っていたけれど、言い返せなかった。言い返したところで、どうせ私が悪者にされるだけだったから。だから飲み込んだ。悔しくても、苦しくても、「申し訳ありません」と頭を下げた。けれど今は違う―――やっと言い返せる。虎の威を借るキツネだと言われてもいい、やり返したい。「あなたは、母に向けられない憎しみ……いいえ、八つ当たりを、私に向けたんです」玲子さんの眉がぴくりと動く。私は構わず続けた。「プライドの高い玲子さんは自分の失敗を認められなかった。だから母みたいに花嶺辰治を“理想の男”に仕立て上げようとした」お母様はすごい人だった。花嶺家の細かな問題を整理し、無駄を省き、この父が気持ちよく仕事をできるように環境を整えていた。父はそれを自分の能力だと勘違いしていたのだろう。 周囲もまた「花嶺辰治は優秀だ」と評価した。お母様は常に陰に徹し、それを誇示しなかった。.「玲子さんはそれを真似しようとした」私は冷たく言い切る。「自分の隣に並ぶ男が、実は凡人だったなんて認められなかったから」「……っ」玲子さんの唇が歪んだ―――図星みたい。「母のように支えられれば、“さすが花嶺辰治の妻”と賞賛されると思った。でも現実は違った」お母様がいなくなったあと花嶺家は目に見えて崩れ始めた。取引先との関係は悪化し、使用人は辞め、家の中は荒れていった。父は苛立つばかりで何一つ立て直せない。そこで初めて玲子さんは気づいたに違いない――― “花嶺辰治”という男が評価されていたの、お母様がいたからだと。でも認められなかった。だから他人のせいにした。「花嶺辰治を理想化できない苛立ちを私にぶつけた。私は丁度良かった。前妻の娘。花岡辰治の愛情をかけ
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